嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』 004

 奴は確かに適応性が高い。あんなことがあった直後なのに、普通に学校に登校してきてる。
 斎藤タカ丸だ。
 おれは結局、体育は見学になった。みんな走幅跳とかして楽しそう。
 あれって楽しいものなんですか?
 少なくとも一人で運動場の隅に座ってるよりは楽しそうかも。
「サボりですか」
「お前もな」
 こいつは、ちゃんと制服を着込んでいる上で、授業は受けずにふらふらしている。一つ年上のはず。学年は下になるのか? 茶髪で、実に軽そうな見た目。
 それが、運動場の背後の崖から突然現れた。
 崖を降りるとちょっとした森。まさかここにも死体が? なんて妄想も、別に大した飛躍でもないだろう。だって昨日、おれはまさに森の中の死体を見つけたわけだから。もちろん細かく言うと嘘だ。
「おれはサボりじゃありません」
「サボってるだろ、人生」
「違います不可抗力です」
「違わないよ。早く帰れ」
「ひどいなー」
 ちょっと振り返って見ると、崖と運動場を隔てるフェンスに、タカ丸はぴったり額をくっつけて喋っていた。崖の途中から突き出た岩の上に膝立ちして、顔だけ運動場の上に出している。遠目に見たら生首だな。
 カラフルな植物の緑とフェンスとおれの影で、授業中の人々からはよく見えないだろうけど。多分おそらく。見えたらほんとに生首騒動だ。
 ニュースによると最近はそういった事件が多発してるそうなので。
 まあ、そもそも授業中の人々は、見学してる生徒なんかに大した興味は持っていない。
「せっかくおれがこうして来てあげたのに」
「頼んでないよ」
「冷たいなー。へーすけくん、おれは君の力になろうと思ってだね」
「学校の裏で何をしてた?」
「調査中でした」
「何の」
「うへっへっへ」
「なんだよ」
「おれはへーすけくんの知らない事をですね」
「気持ち悪いな」
「死体や誘拐犯よりましだよ」
 口の中で含み笑い。くっくっく、と殺し切れない笑い声が、奴の俯いた頭の下から聞こえた。
「で、誘拐犯の手掛かりを探してたんだろ。何でそこなんだよ」
「ほらほら、木を隠すなら森って言うじゃない」
「誰が何の目的で木を隠すんだ」
「はあ? へーすけくん、これは例え話だよ。別に隠すのは木じゃなくてもいいんだよ?」
「……なんで森の中にいたんだ」
「だからー、木を隠すには森の中だから」
 会話が成立しないのは、こいつが馬鹿だからか? おれが馬鹿だからか? 両方?
「死体の山はもうあるわけだからさ」
 また、俯いて少し笑った。笑うときに、視線をそらす癖らしい。視線をそらすのは、隠し事があるから、かな。
「楽しそうだな」
「楽しいねえ、自由っていいよね」
 ニコニコ笑いながら、まあかなり皮肉たっぷりだ。
「いいな、授業」
「見学ですけどね」
「いいないいな」
 すると、ふと押し黙ってしまった。
 きっとこいつは授業中の人々を眺めている。おれはタカ丸の方をまともに見ないので(見ると生首と喋っているのがクラスメイトにばれるので)、推測だけど。
「ねえ、へーすけくん」
「なんだ」
「どうしてブルマは衰退してしまったのかな」
 やっと喋ったかと思ったらそれかよ。
 しかしこいつの目線の先に何があるのか、よくわかる。なぜならおれも大体同じ部分を凝視しているわけであって。
 黒い短パンと肌色の境目の辺り。もちろん女子の。
「一つの時代が終わったんだよ。これはこれで悪くないし」
「おれが小学校の頃まではブルマだったんだよ」
「へー」
「さてはへーすけくんは生ブルマ女子を見たことがないんだね。かわいそうにかわいそうに。おれは常々へーすけくんはかわいそうな人生を送っていて気の毒だと思っているけど、これが一番かわいそうだなあ」
「気の毒に思うなら変わってみるか?」
「うへへへ」
 だらしなく、というか曖昧な笑い方だ。笑ってるんだか単に呼吸してるだけなんだか、わからない。
 本当は笑っていないのかもしれない。
 きっと顔を見ても、どっちだかわからない。
「ブルマを知らないような人生かぁ」
「そしておれはブルマを知っている人生を送る」
「ははは。一緒だよ一緒。おれが君でも、君がおれでも、同じにしてくれるよ、へーすけくんは」
「おれはお前みたいに他人のために動いたりしないよ」
「それは完璧な嘘」
 即答。
「あ、それでは」
「ん?」
「調査再会してきます。結果は後ほどご連絡」
 そして奴は、立ち止まっていた崖を器用に降りていった。それを肩越しになんとなく眺めていた。
 崖はそこそこの鬱蒼具合で木と草に覆われている。したがって制服に木の枝とか葉っぱとか土とかゴミがどんどんまとわりついていく。当然来た時からそうだったわけだが、さらに森の中に逆戻りしていくので、悪化の一途。
 土まみれになっているだろう制服の膝のあたりが気になる。正確に言うとクリーニング代が気になる。あとクリーニング屋の人に怪しまれるだろうってことが気になる。リスクが嫌いだ。それはおれの制服なのだから、もう少し気を使って行動して欲しい。
「あっ」
 地面にたどり着く寸前で、また引き返してきた。さっき足を載せていた岩に、こんどは両手で捕まって、そこで止まった。
 さっきまでより下の方で声が聴こえる。生首事件は隠匿された。
「あのさあ、電話ありがとう」
「利便性を測っただけです」
「わかってるよ。だからありがとう。あのさ、メールしていい?」
「無理。メールは物的証拠になる」
「えー」
「おれ以外にならいいよ」
「あ、なるほど。じゃ、電話するよ」
「電話も履歴が残るから」
「他の友達との電話の履歴に適度に挟めばいいんでしょ。わかってるって。ほら、木を隠すなら森ってやつ」
 こいつはわかっていないような口ぶりで、ちゃんとわかっていることを言う奴、ということが今日わかった。
「ああ、やっぱりメールするよ。どうでもいい内容でね」
「それは単純にめんどくさい」
「薄情者めぇ」
 捨て台詞。下の方に消えていった。
 で、授業が終わるより前に、すごくどうでもいい内容のメールが来た。行動が早過ぎる。
『彼女できたよ×』最後の記号はふざけたアニメーションの顔。
 嘘だと知っていてもなんか腹が立つ。
 ちゃんと女子の足の写メを添付している中途半端な完成度もうざい。何で足だけなんだよ。誰の足だ。廊下に立つ制服のスカート以下。盗撮か?
 知ってるよこれは盗撮じゃない。
 爆発しろ顔。
 森の中で一生懸命どうでもいいメールを作成している姿を想像したら笑えた。

三、嘘つきは窃盗罪のA-B-C

 ぼくは、あーちゃんと手をつなぎ、暗い部屋でじっと座っている。夜が来るのを待っている。
 ぼくはこの暗い部屋が好きだ。ずっとぼくはここにいたし、これから先も、ずっとそうだ。たぶん。
 一度外に出たときに、それはもうひどい目にあった。だからぼくはもう外には出たくない。
 ここにはあーちゃんもいる。いなくなる時もあるけど、いるときもある。
 あーちゃんは、小さな手でぼくの手をとり、弱い力で握ってくれる。ぼくはその暖かさだけで充分に満たされるので、他に何ものぞみはしない。
 だけど、あーちゃんにとってはそれは十分じゃないらしい。
 いつかここから出られるよ、一緒に逃げよう、と言うけど。
 でもどうせ出て行ったってぼくにはもう何もない。だからきっと、またひどい目にあうんだ。
 ぼくは息を潜めて、閉めきった黒い窓の隙間から入ってくる、光を睨んでいる。

 あの頃の事。
 おれはヒーローになりたかった。でも、なれなかった。ずっと一緒だったあの子を見捨てて一人で逃げ出して、そしてそれがおれの決定的な破綻となったのだ。
 別に、自分で自分が壊れているとは思っていないけど。しかし医学的に言えば壊れているらしいので、客観的事実としてはちゃんと壊れている。
 誘拐された小学生の男女は、暗い部屋に閉じ込められた。
 その始まりがどんなふうだったか、覚えている。
 おれは、小学校からの帰り道、一人で田んぼの畦道を歩いていた。おれの家は住宅街の中にあったけど、学校から住宅街の間には広い田んぼが広がっている場所があった。
 非常に見通しのいい場所だった。
 今考えてみると、そんな見通しのいい場所でどうやって犯人が小学生のガキの頭を鈍器で殴りつけ誘拐することに成功したのか、よくわからない。
 確かにその日は平日の昼間で、いつもよりも人影は少なかったとは思う。
 陰惨な事件なんて起こるとは誰も予想できないような、空が広くて青い晴れの日、おれは学校を抜けだして、勝手に家に帰ろうとしていた。
 その行いが間違いだったのか正しかったのか、と考えてみると、もしかしたら正しかったのかもしれない。
 もしも。もしもで考えると、もしも犯人がその日の誘拐に失敗していたら、あーちゃんは今もあの部屋に監禁されていたかもしれない。だから。
 おれは何の前触れもなく、背後から頭を殴りつけられた。骨と金属が、楽器のように高らかに鳴り、脳みその中ではお椀状の頭蓋骨が音叉のように共鳴し純音を長時間鳴らし続けた。鳴っている間じゅう、おれは気絶していた。
 ただ歩いていただけで背後から頭を殴られるなんて経験、普通に生活していたらありえないと思う。事件後発覚したことだけど、その時の凶器は金属バットだった。骨の柔らかい小学生が、よく死ななかったと思う。
 気がつくと暗く狭い部屋の中だった。
 獣の体臭のような、鼻を突く匂いがした。
 ひどい頭痛が続いていた。
 ぐったりと横たわったおれは、自分がどうやら縛られて身動きが取れないことに気がついて、その意味のわからない状況を飲み込む前に、視線の先に女の子が居ることを急に認識した。
 壁に背をもたれて座っている。両手を後ろに回している。その時は知らなかったけど、彼女は後ろ手に手錠を嵌められていた。薄いノースリーブのワンピースを着ていた。
 鉄格子のはまった窓が、女の子の頭の上にあった。窓は開いていた。深い藍色の空に、星が光っていた。風が吹き込んで、部屋の中の異臭を引っ掻き回した。
 俯いた顔、落ち窪んだ両目に影が落ちて、青白いその子は幽霊のように見えた。
 ふと、その子は顔を上げた。
 垢と埃と体液で薄汚れた顔が、おれを見つめた。痣だらけの顔で瞬きをした。でも、何も言わなかった。何も感じていないような、顔をしていた。
 また風が吹いた。女の子の長い髪と汚れた服がヒラヒラと揺れ動いた。そしてまた鼻を取り外したくなるような異臭がやってきた。それで、おれはその異臭はその子から出ているのだと理解した。
 それと同時に、自分もこのような目に合うんだ、と不快な予測を抱いた。
 それはあーちゃんだった。おれより少し前に行方不明になっていた、同じ小学校の友達だった。

 変な体勢で寝たから体中が痛い。主に筋肉が痛い。この間までの病室の堅いベッドも、大の字になって寝れるという意味では、本当にありがたいものだったんだなあ、とか実感する。
 雨戸を閉め切った部屋でも、朝になったのが何となく判るのが不思議だ。空気が変わる感じ。簡単に言うと、慣れという経験値による感覚。閉めきった部屋に閉じ込められた記憶から形成されたもの。子供の頃に身につけた感覚は、一生抜けないって言いますよね。
 ソファの背を這い上がるようにして起き上がり、壁にかかった時計を見て朝を堪能する。丸い文字盤に蛍光塗料の塗られた緑色の針が三本、鬼ごっこをしている。
 六時。二時間半しか寝てない。
 昨日の深夜の事件のことを考えると、しかたないか。
 あーちゃんの寝息がかすかに聞こえてくることに安心を覚えた。
 これから、やることがたくさんある。ひとまず蛍光灯を付けると部屋が白々しく明るくなり、床に泥が散っているのを見て、まずは掃除かなと思った。雑巾あるかな?
 その後に朝食を作って、着替えを準備して、あーちゃんを起こして、シャワーでも浴びてもらって、着替えて、御飯食べて、学校。
 手順を考えながら、同時進行で床を拭くのだ。雑巾は洗面所の棚の中にあった。洗面所に行ったついでに顔も洗った。素早く。
 何しろあーちゃんが起きる時間まで、三十分の猶予しかなかった。起きてくる前までにご飯と着替えの準備ぐらい終えて、「朝だよ、僕のあーちゃん」とかやってみたいとか、思いついちゃったりしてさ。
 完璧主義も過ぎるんじゃない、とはたまに言われる。それ以上に、おせっかいだよねって言われる。しかしそんな自分も嫌いじゃないんで。
 次は朝食の準備。手持ちの食料は何一つ無いので、勝手にこの家の冷蔵庫の中身を使うことにする。
 おれの予想に反して、あーちゃん一人暮らしの冷蔵庫の中には、結構な量の食べ物が入っていた。そもそも一人暮らしなのに、家族用の大型冷蔵庫があるのも不思議で、この些細な不思議の中に事件のヒントが……なんて考えてみたけど、とりあえず中身全てを漁ってみた結果、人肉のようなものは入っていなかったので安心している次第だ。
 昨日バラしてた死体の一部が入ってたりしたら嫌だなって思ってさ。
 杞憂でよかった。まあ、加工してあったら判んないんだけどね、肉。
 朝ごはん用には、パンと卵とベーコンを盗用することとした。このベーコンは多分人肉ではない。なぜならスーパーでよく売ってる小分けの真空パックに入ってるから。裏にも原材料豚肉って書いてあるし。
 ところで、料理をするのが今朝が生まれて初めてだというのは絶対誰にも内緒の話にしておきたい。
 単に今までは機会がなかっただけです。できないってわけじゃない。
 トースターの使い方はトースターに書いてあるし、バターでも準備しとけばいいんだろうし、目玉焼きの作り方ぐらいテレビとかで見たことあるし、ベーコンも焼けば食えるってことぐらい当然知ってるし、そもそも食ったことならいくらでも有るわけですし。自分で言うのもなんだけど、かなり器用な方なので、料理ぐらい。
 と思ったけど、パンは焦げた。
 焦げた部分はおれが食べればいいんでしょ。些細なことだ。それ以外は立派な見栄え。目玉焼きは崩壊したけど。そういう見た目のメニューもあるから別にいいんだよ。白身と黄身が分離気味のスクランブルエッグ。
 うまく取り繕った二枚の皿をソファー前のテーブルに準備して、時間だ。六時半。
 浮かれきった足取りであーちゃんの泥だらけのベッドに向かった。これは××のつもりで、おれは既に心底トリックスター気取りなのだ。
「朝だよ」
 そう言ってベッドを覗き込んだ。
 イメージとしては、洋画の主人公の男。ジャンルはアクションとかミステリーとか。事件が起こる前の穏やかな朝、朝の準備を終えて上機嫌で妻と子供を起こしに向かう優男。統計的に、悲鳴の数分前の話。
 現状としては、事件は起こった後だけど。
「だれ?」
 泥だらけのベッドの中で、あーちゃんが大きな目で瞬きをした。起きてたんだ。いつの間にか。どうやら、あーちゃんは目覚まし時計とか必要ないタイプみたい。
「おはよう、あーちゃん」
「あっ」
 眠そうだった目が、ぱっと明るく光った。
「へーくん!」
「うん」
 おれは努めて冷静に、頭の中で苦労して組み立てた脚本を読み上げた。バカバカしい行為だと笑われるかもしれないが、これが現状の××を守るのに大切なことだった。
「どうしてここにいるんですか?」
 目をぱちぱちさせている所を見ると、どうやらあーちゃんは現状が不思議でしょうがないらしい。
 何でだ? 記憶の整合性がないのか?
「昨日一緒に住もうって言っただろ」
「昨日? 夜中?」
「夜中? 違うな、学校から帰る途中」
「いいえ夜中に」
「夜中?」
 こっちの話と噛み合わない。夜中のこと、の方が彼女には重要事項か。
 夜中っていうとあの死体遺棄事件。それがへーくんとの運命の再開より?
「喧嘩しました」
「あ」
 あ、話が繋がった。
「しましたよね? 喧嘩で嫌いになりませんでしたか?」
「喧嘩っていうのか、あれ」
 深夜の人気の無い森の中、死体を間に挟んで殴り合ったというような、そういう感じのあれ。
 再開したへーくんと喧嘩して、それでなおおれがあーちゃんの所に戻ってきてるのが不思議ってことか。
 確かに激しい喧嘩だった。喧嘩っていうか一方的にあーちゃんがへーくんの命を奪おうとしたよね。へーくんも悪かったけど。
 それって喧嘩の範疇かなあ?
「もしやノーカンですか」
「あれは数には入らないかな……多分」
「よかった!」
 あーちゃんは泥だらけの顔とほつれた髪のまま、幼い表情でニコニコ笑った。
 幼いんだ。
 あの頃からもう十年経って、おれも彼女も、それからそれ以外も全て同じように成長している。ずっと入院してたおれの精神年齢はどうだか判断が難しい所だが、あーちゃんはきちんと中で見た目も中身も十年分の経験を積んでいるはずなのに。
 幼い。ちょっと支離滅裂な電波な言動は、要するに理屈の形成されてない子供のすること。
 へーくん、の前だとこうなるみたい。事件当時のまま。
 いや、事件以前のまま、かな。
 幼い振る舞いは、すごく可愛い。あーちゃんは美人さんだし、頼ってくれてるみたいで嬉しいし。
 でも悲しい。
 同時に頭の中に湧いた感覚は、つまりお可哀想にってことだ。
 ニコニコの無邪気な笑顔が目の前に現れて、一瞬のうちに頭の中でわっと湧き上がった記憶、暗い部屋の中の薄暗い思い出、犯人から暴力を振るわれる彼女の姿。泣くのも喚くのにも疲れきった汚れた横顔。昔のこと。
 自分も同じ目に遭ったはずなのに、それで他人の彼女ばかりお可哀想になどと思うってことはつまり愛してるってことだろう。夏目漱石がなんか言ってた。他人の言葉。
「起こして下さい」
 ベッドから両手を突き上げて、そんなことを言う。
「はいはい」
「だっこして起こして下さい」
「はいはい。朝ごはんできてるから、早くシャワーでも浴びてきなさい」
「はいは一回!」
 今笑えるのなら、それでいいのにな、と思う。壊れてても。
 こんな調子で、ベッドから下ろして洗面所へ送り出すまでちょっと時間がかかってしまった。

 一人残されて、覚めていく朝食をぼーっと眺めてふと気づく。
 着替え、準備してなかった。
 着替え。
 今着てるのは泥だらけの緑色ジャージ。泥だけなら結構だけど、泥以外が付着している可能性もあるジャージ。
 シャワーを浴びた後、それをまた着用することになると。まずいのではないかと。
 だって浴室ではあーちゃんがシャワーを浴びているわけですよ。全裸で。
 もちろん浴室の手前には脱衣所がありますよ。脱衣所と浴室は半透明のプラスチックが填め込まれたドアがありますね。
 脱衣所に着替えを置きに行くとします。
 すると全裸のシルエットが見える! 半透明プラスチックの向こうに思わせぶり湯けむりモザイクに隠された少女の全裸!
 普通に考えてドア越しには見えないけど。
 見えないけど、見えないとしても、肌色のこう、あの形は見える。
 おれはかなりマジメに悩んだ。ふざけてはいない。純情ぶってるわけでもない。見れるものなら見たいと思う気持ちと倫理観とその他いくつか存在する前提の苦悶。
 だってさ。彼女は女の子だよね?
 女の子だよね?
 うっかりアクシデントでエロゲみたいなイベントが起こっちゃったらどうするの?
 うっかりでもそういうイベント起こしちゃうのは、正しくないことではないでしょうか。
 あと多分怒られる。先輩から怒られる。むしろ申し訳ないような気もする。
 ほんとにおれはマジメ系だと思う。そうは見えないと言われそうだけど。
 一、二分間は立ち尽くしたまま悩んだ。そしてよくよく考えると、悩めば悩むほど状況は悪化すると気がついた。
 さっと行ってぱっと置いてくればいいじゃないか。
 もたもたしてたら、ちょうどシャワーを浴び終えた全裸の彼女と鉢合わせ! みたいなね。イベントが起こるのは間違いない。急ぐのが最善。
 考えがまとまれば、行動は早いのがおれの長所の一つ。普通かな。
 素早くクローゼットから制服と下着を取り出し、いや下着が無いと着替えができないからですね、などと言い訳を精神世界で行いながら廊下に出た。
 全裸を目撃するのと勝手に下着を持ち出すののどちらが重罪だろうか。パンツとブラジャーね。全国の女性の皆さん、どう思います?
 回答などいらないのだ。次のイベントでおれの頭はフリーズし、くだらない疑問や罪悪感と言い訳の一つ二つはあっという間に取るに足らないものになった。
「あ、へーくん」
 リビングのドアを開けたら、全裸のあーちゃんが突っ立ってた。
「ちょうどよかった」
 と、笑ってた。
 当たり前にむき出しの顔、首、肩、腕、胸、胴、××、太腿、膝、足首、足の指先、爪先、焦茶色のフローリングに擦り動く小さい足の指。モザイク無し。
 不可抗力!
 これは完全なる不可抗力だ!
 目線の先に彼女の顔が、顔はさっきまでと全く同じで、だけどおれより身長の低い彼女の顔を見るためには少し下に視線を向けないといけないということは首より下の全裸部分が否が応でも目に入るということなんですよ。
 顔から続く白い肌がひとつなぎに体全体を覆っている、骨と筋肉の浮いた肩の鎖骨のそれより下はちょっと十八禁行きの可能性があるので秘密なんですけど遠まわしに言うと膨らみとくびれと毛と膨らみが形が鮮明な映像で肌色。
 肌色すぎる!
 こんなに視界が肌色で覆われたのはかつてない経験だった……。それも女の子の明るい肌の色。
「大変ですよ」
「なにが!?」
 あーちゃんは掴みかからんばかりの勢いで(全裸で)おれに詰め寄り、真剣な顔でキッとおれを見上げた。
「家の中に知らない人がいます」
「へっ?」
「泥棒さんです」
 だからって全裸で? いやなおさら全裸で?
「泥棒? どこに?」
「いました」
 断言、そしてますます詰め寄ってくる。
 どうしよう。肌色の塊との距離が縮まっていく。おれと彼女の間にあるのはもはや彼女の制服と下着だけである。それはおれが胸に抱えているものだ。つまり抱えている手が腕が腕が押し付けられる。
 落ち着け。興奮してる場合じゃない興奮してる場合じゃない。冷やせよ頭と××××××。
 彼女が何の話をしてるか考えてみろ! なによりまずいのは、彼女の格好なんかじゃない。
 会話に集中しなければならない。うまく語るんだ、嘘を。ごまかしの嘘を。
 泥棒がいるって言った。侵入者、侵入者。今この家の中の侵入者。昨日の深夜、おれは家中の鍵を開けて、閉めた。確認した。家中を確認した。朝も、起きて、おれは家の中を掃除という名目の元うろつき回った。一人で。
 だから今この家の中の侵入者は一人。
 在ってはいけない人間。
 それっておれしかいないみたいだ。
「昨日の夜、戸締りちゃんとしてただろ?」
「覚えてません」
「おれがしといたよ」
「でも誰か入ってきています」
 まずいなあ。何か、何かが不振なんだろう。おれの何かの行動が、あーちゃんの異常のセンサーに引っかかった。行動の痕跡、どれかが、彼女にとってのへーくんと結びつかないらしい。恐らく。
「大丈夫だよ、誰もいない。心配なら、家の中見てまわろう」
「え?」
「何なら、あーちゃんがシャワーを浴びてる間に確認してくるから」
 きょとんと、見上げてくる二つの目。少し茶色がかった眼球がぬるりと光る。それは急に近づいた。背伸び分の十センチ。
 濡れた臓器の表面、波打つ血管が詳細に見える。ゼロ距離で触れるぐらい。
「誰が」
 答えを期待されていない疑問形。
「誰が勝手に見ていいって言いました?」
 湿った呼気がおれの唇にぶつかった。
 冷えた声に反して、生々しく温い。
 唇はゆっくりと震えて言葉を繰り返す。
「誰が勝手に家の中を見ていいって言いましたか?」
 瞬きしない、目、二つ。
 見ている。
 警告?
 笑ってもいない、怒ってもいない、無表情なその顔。赤の他人の中に一人在る時のような顔。
 気付かれた。侵入者の、存在の、違和感の、正体。
 いや、気付かれていた? 痕跡に? おれが泥棒のように漁ったのは、冷蔵庫の中身だけじゃない。
 彼女が白痴でないことに今更思い知った。白痴であったら犯罪なんか上手くやれるわけ無いんだけど。
「まだ、見てないよ……」
 と、弱々しく嘘をつく。
「嘘つき」
「嘘じゃない」
 と、嘘をつく。
 それ以上の嘘を重ねても、どうにも動けないのは判っている。判ってるんだけど――もしももう一度、問い詰められたら、また嘘をつくだろう。隠蔽に嘘は付物。
 今やおれの手にあるのは嘘しか無い。
「嘘つき。黙っていれば、嘘にもならなかったのに」
 あーちゃんはそんなことを、過去形で言った。
 黙秘権の行使、ね。しかしそれも確固たる証拠を突き付けられれば、儘ならない。
 儘ならないのだ。
 前後不覚の数秒間の沈黙が過ぎた。これはおれの黙秘じゃない。証拠を前に絶句してるだけ。
 多分あーちゃんは判ってるんだろう。
 急に口元を吊り上げ、笑った。
「まあ、いいです。許してあげます」
 口元に浮かべだ笑みに目元が付いていくまでタイムラグがあった。意図のある笑い方。
 そしてストン、と背伸びを解除した。
 今はもう目も口も笑っている。ついさっきの、ベッドの中と同じ……。
「私は心が広いです。へーくんを信用します。ね?」
 ニコニコ。元通り。ゆっくり時間をかけた無表情からの氷解が、警告の駄目押しのように感じられる。冷や汗が出た。
 おれは恐らく強張ったままの顔で、改めて彼女を頭の上から足先まで見下ろした。
 ……全裸だった。
 ああそうだった、あーちゃんは全裸だった……。
 どうしよう。なんか困難状態は解決してない。
 弁解、おれは完全にあーちゃんが全裸というのを忘れていました。見ないようにしていたのに思わず全部改めて舐め回すように見てしまったのは意図的な行為ではありません。
 誤解です。
「そうだ。それと着替えを忘れました」
 そんな普通な感じで言われても。
「へーくん、服ください」
「え、あ、うん」
 しどろもどろに頷くおれの手から、あーちゃんは制服を少し強引にもぎ取った。
 くるりと踵を返して、廊下をタタタと走っていく。
 ……おしりが見えるけど見えない。
 へーくんに見られるのは別に良いってことなのかなあ。
 廊下の突き当りを曲がる。その先が洗面所。そこで、あーちゃんは足を止めた。廊下は電灯を一つも付けていない。昨日確認した時点では、別に電球が切れているとかそういう訳ではなかった。単に暗いほうが好きなんだろう。
 確かに真っ暗な中で、彼女の体は白く光って見えるほど、綺麗だ。
 おれが見ているのを知っていて、いたずらっぽく笑う。
「別にそんなに一から十までお世話していただかなくても大丈夫ですよ?」
 ごもっとも。ついさっき、それを実感したばかりだった。
 おれは曖昧に笑い、何となく手を振って答えた。

 さて、どうしておれの家探しがバレたのか。そして家の中の何が彼女の逆鱗なのか?
 とりあえず彼女に対して、おれの個人的メモ(脳内)。
 青髭公。
 あの一連の事件、件の児童連続誘拐事件で未だに行方不明のままの被害者少年等々のことを思う。

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