現実には、落ちてなどいなかった。
 私は柔らかなベッドに横たわり、あちらの世界を繋ぐ端末を頭からすっぽり被って眠っていた。瞳は情報を収集するためにずっと開かれたままで、酷く乾いていた。
 真っ暗だ。痛む目を何度か瞬かせても、風景は全く変わらなかった。光が入らない。動かない。
「滝夜叉丸!」
 まぶしい! 暗闇が突然白く変化した。蛍光灯の強烈な光が世界を支配していると思った。
 白光は次第に波長の変化を見せ、ゆっくりと視界が色づいていく。ああ、端末を外されたのだ。
「おはよう」
 ベッドの上から覗き込んでいるのは、七松先輩だった。手に端末のヘルメット型端子を抱えている。あれが、あちらの世界と私を繋ぐ機械だった。今は動かない。
 私は自宅の端末でログインしていた。だからここは私の部屋だ。なぜ七松先輩がここにいるのだろう。以前合い鍵を渡した記憶はある。
「七松先輩……いつから、こちらに来ていたのですか」
「強制ログアウトの直ぐ後だ。回線が破壊されてしまったから、戻るに戻れなくなったから。そうだ、滝夜叉丸!」
「うわっ」
 起きあがった私の背中を、バンと強く叩いた。
「今度はお前の勝ちだ。してやられた」
 からからと笑う。心から賞賛して下さっているようだった。
「と、当然、の結果、です」
 声を何とか絞り出したものの、さっきの衝撃で、肺が潰れるかと思うぐらい痛い。相変わらずの馬鹿力だ。この腕力が仮想の中では無力であることが有り難かったと、今更ながら思った。
「いくら、七松先輩と言えども、才覚と知恵の溢れる私にかかっては、当然、全くもって当然勝てるはずがありません」
「うん、その通りだ」
 先輩の態度は驚くほどキッパリとしていて潔かった。
「では、以降は、1-ハについては」それが一番の問題だった。
「手出ししない」太陽のように明るく笑っている。「それはみんな判ってるよ。全員見事に討ち取られてしまったんだ、素直に引き下がるのが兵の道理ってもんだ」
 見事、というか最後の最後は裏技を使ったようなものだった。しかし勝てば官軍、である。それにあの人物に連絡を取る事を考えたのは、この私なのだ。つまり私の手柄と言って差し支えないだろう。
 だがそれにしても、
「つわもの、ですか」
 つわもの、強者或いは兵と書く。七松先輩の場合はどちらのつもりで言ったのだろうか。
 そんな細かい事が気になったのは、最近よく昔の事を思い出すからだ。私は五年前までは存在した兵隊達の姿を思い出して、少しばかり嫌な気分になっていた。それはわざわざ思い出したい事でもないが、七松先輩もその頃は少年兵として戦闘に参加していたのだった。
 嫌な記憶だ。それにしても五年も経過しているというのに、最近になって頭を過ぎる事が多くなった。
「それより滝夜叉丸、そろそろ立て」
 手を取れとばかりに差し出された手。ぎょっとした。同じ手を見た事がある。
 終戦直前だ。俯いて並ぶ人々の中に幼い私はいた。それは最早消えるしか道のない民族の行進だった。その死の縦列の横に座り、無言でじっと見ていた七松先輩は、不意に立ち上がって列に割り込み私の手を取った。その手と同じだ。
 私はその手に救われた。だが同時に、あの日は強烈な悪夢として残っている。
「どうした?」
 顔つきは、あの頃よりもずっと大人びていた。五年の歳月が過ぎているのだ。もちろん、そう、もちろんあの時とは違う。それなのにどうして今になって思い出す?
 目と咽の渇きが、ぎしぎしと軋むような痛みに感じられた。長時間のログインと集中が、身体と精神を疲れさせているのだろう。
 私は一度ぎゅっと目を瞑り、唾をぐっと飲み込んだ。そうすると現実が強力な引力でもって私を引き戻してくれた。
 目の前にいる七松先輩は、あの頃とずいぶん変わっている。
「何でもありません。長くログインしすぎたので、少しめまいがするだけです」
 私は果敢にも冷静を取り戻した。
「そうか、それなら尚更身体を動かした方がいい」
「判っています。手を……」
「ほら」
 再び七松先輩が手を差し出してくれた。私はその手を取って立ち上がった。

「滝夜叉丸!」
 掴み掛からんばかりの勢いで綾部が飛び込んできた。勢いよく開かれたドアの蝶番が壊れたとか、結果無断侵入であるとかそういうのは、顔面蒼白の彼にとって大した問題ではないらしい。
「端末を――」
「動かない。何が起こったのだ」
 こんなに慌てた綾部は今まで全く見た事がない。酷く取り乱していつもは動かない表情を狂おしく歪め、まるで何も見えていないかのように首部を振っている。
 私の声は聞こえていないのか。
「やっぱり、やっぱり!」
 沈黙した機械にもたれかかって、頭をうなだれた。
「何故そう慌てている? 勝負はこの私の華麗なる活躍のおかげで、見事に」
「どうして端末は動かない?」
 顔を上げ、私を睨んだ。
 その表情に息が詰まる。七松先輩が息を呑んだ音が聞こえた。
「喜八郎、お前顔色が悪いぞ」
 空寒くなるほど、綾部は顔色を失っていた。いつもと変わらない綾部喜八郎の顔面、常と同じ物体であるはずなのに、眼球は落ち窪んで肌は透き通るほどに白く、殆どの場合に置いて赤みを帯び瑞々しい筈の唇は色を失い、震えている。日本画に描かれる幽霊のようだ。
「僕のことはどうでもいいから。ねえ、どうして端末は動かない? もしかして、あの衝撃でネットが破壊されたとか」
「まさか」
「僕がログインしていた端末も動かなくなった。田村の所も壊れてた。どこにいっても、ログイン出来なくなってる」
 私は端末を改めて見た。完全に沈黙しているその箱は、こうなっては存在する意味すらない。綾部の予測は絶対にハズレだ。あちらの世界が壊れたなど、それでは私たちが今まで走り回ったのは完全なる無駄、それどころか最悪の結果を招いた事になる。
 そんな事は考えたくない。きっとこいつはこいつで壊れてしまっただけだ。
 私がおそるおそる端末を操作していると(勿論何の反応も返ってこない)、七松先輩が指を顎に当てて「ふむ」とインテリぶって唸った。似合いませんよ、先輩。
「それって俺がTAMURAっていうやつから食らった攻撃と同じだ」
「七松先輩、どういう事ですか?」
「アカウントの個体識別の情報が破壊されちゃっただけだと思う。つまりね、みんな結構知らないけどログインの時にどこのだれだか判るように目の何とかっていう部分の形状が記録されてんの。その記録が壊れたら、エラーになってログイン出来ないんだよ」
「そんなの、一体誰が」
 ネットの存続について希望を感じた綾部は、僅かに生気を取り戻したらしい。血の気の戻ってきた頬は今度は上気した色に変わっていた。
 七松先輩の言う個人識別の話については初耳だが、それよりも問題は何故それが起こったかだ。
「最後の介入者だな」
 それについては心当たりがあった。あの黒い人影。システム管理者に近い土井半助或いは山田伝蔵という人物だ。あの場でそういった大技が使えたのは、彼らしかいない。
 だがアカウント破壊の強烈な衝撃は、発生していなかった。恐らく私が考えるに、七松先輩が言う様にアカウントが破壊されたのではなく、システム側で制限を設けられたのだ。それは管理者権限を利用すれば容易いことだろう。
「でもアカウント無くても閲覧だけなら、伊作のところでできるよ。あいつ奥にそれ専用の端末置いてるから」
「閲覧専用のブラウザなら、僕も持っています。それも動きませんでした」
「それってさっきまでログインしてたのと同じ回線使ってたんじゃないのか? 伊作とかは別なところからログインしてたから、多分店のは使えるよ」
「それなら」綾部の顔色は完全に回復していた。
「滝夜叉丸、場所教えて」
「伊作さんの店のか」
「他に何所がある?」
 綾部は有無を言わさず、見かけによらず強い力で私を部屋から引きずり出した。

 再び崩れかけのビル。しみったれた白と灰の遺跡。伊作さんは家無しだ。このビルは居住区からはみ出された廃墟で、そこを不法占拠して暮らしている。あまつさえ商売もしている。別段珍しい行為でもない。伊作さんの他にも何人もがそのビルで生活している。それで普通だ。
 いつか風化して朽ち果てそうにも見えるが、それも大した問題でもないのだろう。崩れたなら別な場所に行けばいいと誰もが言う。戦後、土地を切り売りするのは既にナンセンスになった。人が思いあまって数を減らしすぎたせいで、地球は再び広くなった。だが土地が有れば生きていけるかというと、そうではない。
 何が必要か? 綾部はビルを見上げて、静かに口を開いた。
「僕にはあの人が必要なのに……」
 口を一文字に結び、泣きそうな目で三階のガラス窓を見つめた。
 ここに連れてくる間、私が少しでも歩みを遅めようものならばすぐに「早く」とせっついた割に、ビルが見えた辺りから綾部は毒を食らったかのように動きが緩慢になった。そしていよいよビルの前に立つと、綾部の身体は精神的に全く硬直した。
 三階の窓は他の階よりもずっと清潔に磨き上げられ(とはいっても、別の窓も所々ひび割れている以外はまともである)、曇りガラスの奥には人の気配が優しく映り込んでいた。茶髪の人物はきっと伊作さんだ。
「どうした、行くのか行かないのか」
 痺れを切らして急かすと、綾部は切なげにこちらを見た。
「前に、兵助さんのことは話したっけ」
 やはり泣きそうな顔をしている。
「いいや。話したくなさそうにしていたではないか」
「そうだったっけ」
「少なくとも、私にはそう見えた」
 じっと私の目を見つめる。喜八郎が何を考えているのかわからない。それはいつもの事だが、今は判らない事が妙に不安だった。喜八郎が不安そうにこちらを見ているからだ。落ちていく感情は伝染する。
「滝夜叉丸!」
 頭上から声が聞こえた。重い空気を破る助け船かとすら思える。三階の窓が開いていた。
「伊作さん」手を振り返すと、
「小平太から連絡受けてるから! 早く、上がっておいで!」
 地面に這い蹲る私たちに届けるように、伊作さんは大きく叫んだ。離れているのに、私たちの空気を察してくれたのだろうか?
「優しい人だ」
 綾部の言うとおりだった。

「兵助さんって、すごく子どもの頃はずっと一緒にいた。五年前まで親が食品研究の会社をやってたんだけど、その子会社の豆腐屋の息子で、それで懇意にしてもらっていた」
「そうか」相鎚を打ったものの、相手がそれを待っていたのでは無い事ぐらい判っていた。
「親が仕事に行っている間に来てくれたりしてた。もちろん、兵助さん自身が進んでやってたんじゃなくて、うちの親が命令してたんだろうけど」
 そういう話をしながら、コンクリートが打ち放しにされた階段を上った。階段には窓もなく、空調施設もない。不快そのものの階段は六回折り返すまで続く。
 時々後ろを振り返り、喜八郎がちゃんと着いてきているのかを確認していたが、どうやら何かの決心を付けたらしく、その足取りは先程までと打って変わってしっかりしていた。複雑そうな表情はそのままだが。
 やがて木製のプレートに<OPEN>の手書き文字が掛かったドアが現れた。それに辿り着くまで、長い旅路だったように思う。恐らくそれを感じているのは私よりも喜八郎の方が切実で、未だ複雑な感情のために悲しいぐらい無表情になった彼には、絶望的なほど三階までの距離は長かった。或いは希望的な意味合いもあったかも知れない。
 とにかく店のドアを前にした時の綾部の顔と言ったら、まあ言ってしまえばいつも通りポカンとした顔ではあったわけだが、その奥に何とも言えない思い詰めた空気を漂わせていた。
 彼は回避したかったのだと、後になってから思う。本当にずっと後になってから理解した。今ですら手遅れだが、その時はもう全て回避不能だった。
 私たちのどちらもドアノブに手を掛けようとしなかったので、訝しく思ったのだろう伊作さんが先んじて招き入れてくれた。
「待ってたよ」と言うのは伊作さんだけではなく、TATIBANAを初めとして、さっきまで仮想で小競り合いをしていたメンバーが揃っていた。七松先輩もいる。どうしてか先回りたらしい。私たちがのんびりしすぎていただけかもしれない。
 綾部の顔を見たTATIBANA、立花仙蔵と名乗ったその男は、諸々の説明は後回しで良いとして、綾部に端末を譲った。

 伊作さんはネット上での行動について何度も謝ったり、落ち込んでいるように見えなくもない喜八郎を励ましたりしながら、私と喜八郎を店の奥へと案内した。以前来た時に入った、狭い生活スペースを通り過ぎたその先だ。先日見た際は気がつかなかったが、生きているのか死んでいるのか判らない機械が大量に積まれた先に横に開きっぱなしの扉があった。部屋の突き当たりの空間が、堆く積まれたジャンクのバリケードに防御され、混沌とした静けさを滞らせている。
 バリケードの側面に張り付いている扉は、よく見ると複雑な配線盤だった。奥の部屋へ何かを導いている。
 部屋の入り口で、伊作さんが蛍光灯のスイッチを入れた。窓のない、真っ暗だった部屋が、乾いた光りで照らされる。
「汚いところだけど、どうぞ」
 伊作さんが私たちを部屋に招き入れた。
 確かにその部屋は埃っぽかった。だが使われていない部屋だというわけでもないようだ。掃除は行き届いているし、機材も健常に動作しているらしい。だのに埃っぽいような気がしたのは、追いつめられた雰囲気がその部屋にあったからだろう。
 私たちが追いつめられているわけではない。
 奥に据えられたシンプルだが不思議な形の端末――それは、床に置かれた三十センチ四方ぐらいのカラフルな一枚のパネルだった――はまるで宝石のように磨き上げられ、今し方電源を入れられた起動サインの光りがチカチカと表面を走っている。その光りがコンクリートの天井に移る。
 別に美しくはなかった。コンクリートの灰に、蛍光色のグリーンやピンクの取り合わせ。安っぽい光りのパフォーマンス。喪失した時代の遺物だが、こういうのは腐るほどある。物ばかりは腐るほど残っているのだ。
「使い方は判る?」
「いいえ」
 どうしてだか、綾部は天井の光に目を奪われていた。もういい加減言及するのにも飽きたが、綾部喜八郎は人と(特に私と)感性が全く違うのだ。
「その光が珍しいの?」
「いいえ。使い方を教えて下さい」
 伊作さんが肩を竦めた。普通の人間の当然の反応だ。
 配線盤のコードを何本か操作したのち、伊作さんは端末の前へ来た。その頃には端末は起動を完了し、<Agent of River>という赤と白で構成された立体文字を端末の上に浮遊させていた。
「これ、珍しい型の端末なんだよ。嘗ての<AOR>社が戦前最後に発表した立体ホログラムディスプレイと、それに適した鮮明な映像情報を送受信できる専用回路」
 少し誇らしげに話す伊作さんは、浮かんだ<Agent of River>の文字に手を翳した。掌で文字がちょん切られ、それより上の半分が消失する。
「デリケートな機械だから注意して扱ってね」
 綾部は聞いているのかいないのか、小さく頷いた。そして私の服の裾を引っ張ったかと思うと、自分は端末の前に立ち、私をその喜八郎の横に待機させた。もちろん、綾部は特に何も言わない。だがその綾部の手が私の上着の裾を離そうとしなかった事と、思い詰めた横顔から、そうしろと言っているのだと判った。
 低いうなり声を上げながら緩慢に動作する端末の先には、たった今の私はあまり興味がなかった。それよりも、伊作さん達の方が気になる。何かしらの操作を終えた伊作さんは再び扉――配線盤の方へ引き返し、少し離れて私たちを見ていた。
 未だ彼らが何を意図していたのか、はっきり聞いたわけではない。七松先輩の事を信頼するとして、さしあたっての敵意は無いと考えてはいる。
 それにしても、それにしてもだ。判らない事が多すぎる。その不安定な現状は、つまるところ不安に繋がる。田村の方も連れてこなかった事を多少後悔した。それにユキとトモミ。あの二人は何かを知っているだろうし、田村も伊作さん達を探らせるには(そういう小間使い的な用途には)全く向いていないというわけではない。それに喜八郎に連れ出されて後先考えずに飛び出すよりも、先に確認する事が幾つでも有ったはずだ。
 今更それを考えても仕方がないのに、どうしてそういう事をうだうだと思案しているのだろう、私は?
 考え込んでいたのは一瞬だった。はっきりと活動の目的を認識した端末が、その立体再生能力で新しい世界を眼前に広げ出す。コンクリートの灰色は次第に鮮やかな緑に変化し、蛍光灯の白色は柔らかな自然光へと変異操作されていく。
「すごいな」私は思わず呟いた。
 狭い部屋の一角は、ものの十数秒で草原へと移り変わった。

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