男が腕をすっと上に上げ、握った糸を回し始めた。風を切る音が草原を走り、糸の先の刃は今や微かな影としか見えない。
「TAKI、任せた」
「は?」AYABEが私の肩をぽんと叩いた。
そしてさっと私の横をすり抜け、今私たちと対峙するTYOUJIから身を遠ざける。トラワカのみを連れ、まるで蚊帳の外であるかのように私たちを見やった。
「……よそ見を」
刃が私に向かって飛んだ。それを後ろへ飛んで交わす。
と、そこに、
「タカ丸さんは裏切るし、それにいきなり消えるなんて!」
「もう逃がすかよ……おぉ!?」
飛び込んできた二人が、凄い勢いでTYOUJIへと激突した。
「長次? 何やってんの」
「そ…は……こっちの……!」
縺れ合って共倒れしたISAKUさん達にしばし面食らう。私たちが何者かの手助けによって逃げ延びたのを追ってきたのだろうが、それにしてもこの広い草原の中、ピンポイントで味方にぶつかるとは。唖然とするしかない。
いや、だが今はそれどころではない。
さっきサンジロウに発動準備をさせていたプログラム。今なら使える!
「サンジロウ!」
「拘束します!」
小さな札のようなものを、サンジロウの小さな手が三つ投げた。それら一つ一つにシステムへ異常に働きかけるプログラムが記されていた。貼り付けたオブジェクトを移動不可能にしてしまうのだ。
「エラー! エラー! エラー!」
紳士的にもプログラムは警告音を三つ丁重に鳴らした後、三人を完全に拘束した。
もっと言うとそのプログラムはオブジェクトの触覚点、接点を消し去ってしまう機能を有し、立ち上がろうにも重力に反発する力を地面に向ける事も出来ず、腕をふるおうが何も掴む事は出来なくなる。
要するに目には見えるが存在しない物体となってしまうのだ。
「文次郎、長次、無事か? 僕は全く動けないんだけど」
「右に同じだ」
「まあ……」
動けない三人が音声のみを行使する。最早戦意は感じられなかった。
「それにしてもこれはまた、凄いな。世界の摂理を無視してない?」
あきれ顔でISAKUさんが言う。
目に見えるが存在しない、だが意識はある。つまり幽霊のような状態なのだ。酷くあやふやで、定義無く、嘘の嘘。現実からも仮想からもはじき出された状態だ。
「僕らがそもそもそうなので」
サンジロウが苦笑いで答えた。
「てめえの所為だ」
「何でだよ」
「てめえが先導したから長次にぶつかったんじゃねぇか! 何所まで不運なんだよ!」
「うるさい。本を正せば僕が戦闘は苦手だって知ってた癖にサポートを頼んだ文次郎が悪いんだ。ねえ長次、どうするの? 僕はもう降参でいいんだけど」
「ふざけるな! まだ仙蔵が残ってんだろうが。それにこんなガキどもに負けるわけにはいかん!」
「…目的が……」
「だってこんなせこい方法で名前売らなくったっていいじゃないか。だいたいさ、文次郎は動けもしないのにこれからどうするっていうんだよ」
「仙蔵がいるだろうが」
「助けに来るかなぁ。来ないと思うけど。ねえ」
「そうですね、来ないと思いますよ」
「AYABEめ何を敵の会話に加わっているのだ。だがもし来たところで、この戦闘の天才である私がいるからには」
「あ、やっぱり来たみたい」
私の話を遮って(或いは元より聞いていなかったのかもしれないが)AYABEが地平を指さした。
その先に確かにログインを示す揺らぎが見える。TATIBANAが体制を立て直して再び現れたのだ。
「次の手を」
「無駄な心配」
とりつく島もない。どうしても呆然と何も考えていないようにしか見えないのだが、彼なり既に手を打ってあるのだろう。
二秒程、ログインに時間が掛かった。それだけで、TATIBANAの身に何かしら異常が起きているのだと予測が付く。
やはり全く無駄な心配であった。
「AYABE、謀ったな」TATIBANAが身動きの取れぬ状態で憮然と言った。
現れた瞬間には既に網が掛かっていた。
「今に始まった事でもないです。それにしても直ぐログインしてくれてよかった」
再びログインしてくるのにさほど時間が掛からなかったという事は、再び同じ端末を使用しているか、或いは近くに予備を準備していたかのどちらかだ。どちらにしても先にログイン情報が僅かばかりでも解析しているのだから、再び現れる際に前兆を読むのは容易だ。
そして相手の存在の詳細が判るのなら、ログインした瞬間に罠を発動させればいい。情報を読んで的確に縄を掛ける事が出来る。
かくしてTATIBANAは仮想に現れたかと思ったら、自身が行動を起こすよりも早くAYABEに捕獲されてしまっていたのである。
「これで僕の勝ちですよね」
「ふむ、まあそうなるな。小平太は回線を破壊されて来れないようだし。それにしても」声は些か悔しそうではあった。「まさか裏切られるとは思わなかったぞ」
TATIBANAが不意に空に視線を向けた。と思うとすぐに、
「すいません」
驚いた事に、何もないところから突然タカ丸さんが出現した。いつものような曖昧な笑みを浮かべているが、覇気が無い。
なぜ店の売り子である彼がここに? よもや、
「さっき私たちを導いたのは」
「うん、おれです。役に立った? でも何か、両方騙したみたいになっちゃって」
申し訳なさそうに頭を掻いた。
「僕らの方が信用無かったのかな。外に出すって、結構本気で考えてたんだけど」
「外に?」
「タカ丸さんのAIをコピーして、人型のロボットに搭載するっていう案。最近はだれもやらない方法だから、胡散臭かった?」
「いや、ISAKUさん達を疑ったわけじゃないんです。外の世界にも出たかった」
そういえば、タカ丸さんはリアルの話を聞きたがった。遠くを見るような目で、自分が現れた空を見上げる。
この空には果てがある。何所までも続いていきそうな真っ青で美しい空だが、そう遠くない先には壁があるのだ。左右前後の広がりも同じ。広大ではあるが、だが端は進入不可能の壁で囲われた世界だ。
私ははっとした。今までどうして気がつかなかったのか、私たちはこの仮想の世界にいる限り、閉じこめられているのだ。
タカ丸さんはそれに気がついていた。だから外に出たいと願っていたのだ。
だからISAKUさん達のその案を聞いて、あちらに協力していたのだろう。
「でもやっぱり無理だと思って、外に出るっていうの。嘘のまんまじゃ現実に馴染めなさそうだし。それにおれってこの子達と一緒だから、ホント言うとちょっと迷ったけど、やっぱりこっちの味方」
ふにゃりと笑って、足下にいたサンジロウ達を指さした。