04 逃走開始

 仮想は極限まで単純化され、別世界として産み落とされた。
 過去の話、現実は物が多すぎた。仕方なく多くの物を情報として変換していった。最も土地を占めてしまう存在である人間自らの存在を残して、人が生きていく最低限の衣食住のみを賄うように世界は調整されていった。
 それでも命は増え続けた。
 所で、何所の国でも、何所の土地でも、人が一生を過ごす間に虐殺の現場つまり戦争或いは紛争を身近に経験しないでいられたという歴史はない。
 私達の世代もまた然り。
 増え続けた命は一度刈り取られる必要にかられた。それは今となっては理に適った虐殺だった。誰の痛みも、理論的に無視するのなら。滅びの運命よりは、犠牲の元の生存の方が善として選ばれるのだろうか。
 内乱――地球規模の内乱が起こったのは、五年前だ。一年ぐらい続いたその混乱が収まった後には、世界は命の他に多くを失っていた。
 残ったのは、無線機能と自己修復機能が逞しく発達し、大規模な空襲に遭っても生存し続け生き残っていた、仮想。
 仮想には内乱前に詰められた多くの情報が、生き続けていた。
 そして現実は空虚となった。

 私は今日も学校に行かなかった。学校といっても多くの物は消失した、ただの子ども達の溜まり場だった。将来のためにさまざまな情報を与えるのが教育なのだとしたら、現実の教えよりも仮想の中の方がよっぽど多くが得られる。
 誰もが、数を減らし生き残った者の誰もが、そのように考えるのだから、ますます学校など現実の機関は虚しさを増している。五年間、荒野の世界は吹きすさぶ冷たい風に風蝕され続けている。
 だが今私の隣を歩く二人は、その荒野の中を嬉々として歩み続ける奇特な娘達だった。
「どこまで行くんですか?」
 最初に疑問を口に出したのはユキの方だった。私達は待ち合わせした居住区から、もう二十分程歩き通しだ。細々した人の喧噪を得た町並みが遥か後方となりつつある。
 あまりに遠くに行くので、さらにその向かう先があの<鴻上区>だと感づいたからだろう、ユキの表情に不安が見え隠れする。
「嫌なのだったら別に来なくても構いはしないぞ。その代わりTATIBANAの情報も無しだ」
 トモミが眉を寄せ、私の方へ視線を向けた。
「もう、TATIBANAとかじゃなくて、ここまで来たら引き返せないでしょ。行くわよ」
「でもあっちって鴻上区じゃない?」
「そうだ。綾部はあちらに住んでいるからな」
「えぇっ?」
 信じられない、とでも言いたげに、二人とも目を丸くした。無理もない。
 鴻上区は、五年前には裕福な土地持ちが住む地区だった。今では廃墟。内乱の際に最も人死にを出した地区の一つ。
 そしてその時の傷跡は未だ多く残っている。屍が多すぎた。埋葬する土地すら狭いこの現実には得られないのだから。
 それから十分も歩かない内に、粉っぽい廃墟の街が見えてきた。
 人以外の生き物が、植物のない廃墟を細々と徘徊する。道無き道を形作るのは、今はもう何者かも判らぬ人骨の山だ。埋葬されない理由は、土地がない事もあるが、それより最早混乱が終わった頃には何者なのかも判らなくなってしまっていたからだった。
「きゃあ!」
 二人どちらともなく叫び声を上げた。指さす先に、骨塚を漁る人影が埃に浮かんでうっすらと見える。
 人影は一つサレコウベを拾って、ゆったりした動きでこちらを向いた。埃が晴れる。
「やあ、滝夜叉丸。じゃじゃ馬ならしは順調かい?」
「ちっとも笑えん冗談だ」
 それどころかドクロ片手に薄ら笑う姿は不気味だった。
「僕に笑いのセンスは元々備わっていないからね。所でどちら様?」
「ユキとトモミだ。ネット上で会っただろう」
「あ、覚えてる。でも顔を覚えるのは苦手だから」
 大して気にした風もなく、形だけ肩を竦めた。年下の娘二人が驚き恐怖している事など気にも止めていないらしかった。
 常の通りの綾部だ。
「何の用か、ここで聞いてもいい?」
「それより家に招待して欲しい」
「へえ」
 また肩を竦める。パッと視線を周囲に巡らせ、私の考えの及ばない何かを確認した。
「ね、この人は君に似ているよ」
 サレコウベを、トモミの顔に突きつけた。可哀想に彼女はヒッと息を呑んで顔を引きつらせる。
「骨だけじゃ、人相まで判らんぞ」
「そう、僕は何となく判るようになってきた」
「似てる、かしら」
 トモミがおそるおそる手を伸ばし、サレコウベを受け取った。
「恐くないの?」
「死んでるわ」
 じっと見つめる。何か、嫌な、記憶だ。
「判んない。似てる気もするけど、やっぱり知らない人だと思う」
 サレコウベは再び綾部の手に戻される。綾部はそのサレコウベをじっと見つめた後、ヒビの入った額に軽く接吻した。
「滝夜叉丸」
 ぼうっとしていた私を、綾部が引き戻す。
 常の表情、つまり何を考えているのかよく判らない表情で、綾部はたおやかにに真っ直ぐ現実を見ていた。
 両手でサレコウベを持ち上げ、頬に寄せる。
「これって永遠だと思わない?」
 判らなかった。私はその問いについて、考えたくなかった。

 綾部は手にした抜け殻をそっと近くの骨塚の上に置いた。ポケットから小さな黄色い花を取り出し、何者かも判らない相手に花と祈りを少しだけ捧げて墓とした。
「今日は他に客が来てる」
 短く言って、私たちを一瞥して指先で道の先を示した。ついてこいと言うのだ。
 私は戸惑う二人の娘を引き連れて、彼の後ろを辿った。
「あの、あの人が本当にAYABEですか?」
 小声でユキが訊ねる。私は声を出さずに頷く。何も悪い事を言っているわけでもないのだが、そうしたい気持ちもわからないでもない。私も最初に綾部と出会ったときは、やつに侵しがたい領域を感じた。
 今は、ある意味私たちと変わらぬ人間だと判っているのだが。
「いつもああなんですね」とトモミが低い声で言った。
 そうだ。綾部はいつでも日がな一日何かを探して荒野を歩き回っているか、豆腐を作っているかのどちらかだ。
 何でそんな事ばかりしているのか、私は訊ねた事はない。それこそ彼の侵しがたい領域なのだと思う。どちらの行動を取っているにしても、綾部は呆れ返る程に真剣で上の空だ。
「田村は?」
「ネットで見張りだ」
 綾部は振り返りもせずに話した。
「ネットといえばさ、滝夜叉丸はTATIBANAに接触した?」
 私は少し驚いた。何故知っている?
 だが何となく聞き返す気にはなれなかった。綾部が知っているのも、至極当然のことのように思えたからだ。綾部なら、そうであってもおかしくないと。
「そのTATIBANAが来てるよ。あと、NANAM」
「七松?」
「知り合いだってね。僕も今日になって初めて知った」
「ああ、別に言ってなかったからな」
 そうか、七松先輩がいるのか。
 久しく学校にも行っていないために、酷く懐かしく思える。勿論原因はそれだけじゃなく、先ほどの綾部の行動で五年前の事を思い出したからだろうが。
 あまり会いたくないと思った。会ったなら会ったで嬉しいのだろうけど。会わずに済むというのなら会わずにいたい。
 綾部の家は小高い丘の上にある。鴻上区の中でも高級地であったらしいその朽ち果てた豪邸は、綾部が離れがたいと思うほど何かがあるようには思えなかった。
 丘を登る階段の途中に、花が植えられていた。
「お花が好きなんですか?」ユキが言った。
「それ、お墓だから。お墓には花を供えるって、昔の風習」
「知らなかった……」
 綾部はちょっと屈んで、茂りつつある植物を二本選んで短く茎を折った。一方は先端に小さな白い花が咲き、一方は大きな濃い緑の葉がついている。葉と花弁の裏に引っ付いた虫を軽く払ってから、驚いているユキとトモミにそれぞれ緑と白を髪飾り代わりに刺して与えた。
「これって何の花ですか?」
「大豆。実が採れるんだ」
「優しいじゃないか」
 そうは言ったものの、私はさほど意外とも思わなかった。よく判らないことをするのが綾部だ。
「お墓は親兄弟のためだし、普通の事だと思うけど」
 咬み合わない答えを返した綾部はくるりと振り返った。珍しいことに、いやもしかしたら常の事かも知れないが、表情に多少悲しみが見えていた。
 屋敷の入り口は度重なる補強の後で一杯だった。家全体、何度も壊れそうになっては補強する事の繰り返しになっているのだが。
 そのドアが、綾部が手を掛ける前に勢い良く開いた。ミシミシ、とまた壊れた音が聞こえて不安を誘う。綾部が落胆しているのが判った。
「あやべ! どこまで行った! 終わったよ!」
 バカでかい声は聞き覚えのある、七松先輩だ。その声の大きさでさらに家が傾いたんじゃないだろうか。
「ここにいます」ため息と共に綾部が答えた。
 七松先輩は綾部の様子を全く気にしていない。それどころか私の顔を一瞥して、異常に上機嫌になった。
「壊れたの全部直しといたから!」
「ついでにドアも直して頂けませんか」
「あれ?」
「相変わらず莫迦だな」
 後ろから続いて出来たのは、かのTATIBANAだった。私の顔を見て、にやりと笑う。
「綾部、修理は完璧だ。ドアを直してから帰るよ」
 綾部は肩を竦めて、私たちに早く部屋に入るようにと急かした。

 入った直ぐ、昔はエントランスホールだった場所が短い通路として残り、その先にギリギリで生活出来る空間が形成された部屋があった。とは言っても、通常の家よりも広めである事には変わりはない。ドア一枚が台所とリビングを仕切っており、歪な形である事を除いては、古来からある一人暮らし用の箱とさほど変わらない作りだ。
 そのドアの向こう台所から、いつものように豆腐の匂いがした。
「凄い匂いがする」
「豆腐だよ。日本の伝統料理。食べる?」
 いつもここに来るとそればかりだ。豆腐なんて、無理矢理合成された栄養剤が主食の現代となっては高級品も良いところだ。
 ちょっと待っててと断って、五分も立たぬ内に小さな皿を三つ、崩れかけた白い塊を乗せて出てきた。
「いただきます」
 手を合わせて久しぶりのまともな食べ物に感謝する。
 その間、綾部は修理されたという機械類について独自に点検をしていた。
 綾部の家にある端末達は、私が所持する物や伊作さんの店に置いてある物と特に変わりはない。強いて言うなら五年より前に作られた機械類が多いということ、それに加えて高級品ばかりだという事だろう。でなければこう何年も使い続けることはできまい。
「あ、あった」
 特に興味も無さそうに機械を弄くり回していた綾部が、手のひらの上に乗る程度の小さい箱を取り出した。
「何だ、それは」
「盗聴器だと思う」
「ここは無線が届かないのだろう? 何の意味がある」
 地域的な特性で、鴻上区は無線ではなく地中深くに実線のラインを引いて通信施設を整えてあった。その代わりに無線が完全に遮断されるように――プライバシーという、貧乏人には存在しない権利を守るため――地域全体に強力な電波妨害が施されてある。崩壊した後もそれは変わらない。それどころか、綾部自身が一人で勝手に強化を進めてある。
「後で取りに来るつもりだったんじゃないの。これ録音のみのタイプだよ」
 箱の蓋を無理矢理こじ開けると、確かに小型のマイクとテープ状の記録媒体、それとタイマーが入っていた。特定の時間帯だけ記録する仕組みになっているのだろう。
 やはり食わせ者だ。TATIBANAもそうだが、七松先輩の方も。
「一つだけか」
「幾つも置く必要性は感じないよ。これ返してきて」言って私の手に箱を置いた。
「何故私が」
「もう食べ終わったみたいだから」
 そういう問題か? と疑問に思ったが、台所に引っ込んで自分の分の豆腐を皿に盛ってきた綾部はもう聞く耳持たなかった。

 ドアは修復が完了していた。もう二人の姿がない。外に出ると、丘の階段を下りる背中が見えた。暑い、日が高く昇ってきた。
「七松先輩!」
 私が声を掛けると、二人とも振り返ったが、TATIBANAの方は一瞬つまらなそうに笑ったあとにさっさと行ってしまった。
 急ぎ足で七松先輩のいる上から一つめの踊り場へ駆け下りる。
「お返しします」
「何だ、見つかっちゃったか」
「何のつもりですか?」
「仙ちゃんが置いたんだよ。1-ハの事だろ、俺はあんまり興味ないな」
 何とも言えない豪快な笑い方をして、七松先輩が僕の手から箱を奪った。
「ネットってそんなに楽しい?」
 ふと私の目を真っ直ぐ見た。
 久しぶりの挨拶も無しに、久しぶりに思い出が蘇る。五年前もこんな顔をしていた。八つの頃の事だから、はっきり覚えているわけではないが。
「学校行ってないよな」
「はい」
「滝夜叉丸もいないとつまんないよ。っていっても殆ど他の誰も居ないけど。みんなそんなに嘘が好きなのかな? 確かに嘘は恐くないけどさ、結局何にもならないじゃん。なあ、滝夜叉丸は俺が忠告したこと覚えてる?」
 私は身を引く。銃口について思い出していた。
「最後に頼れるのは現実の自分だけだって、言っただろ」
 ドン。
 肩を強く叩かれた。身を引いたのも意味がない、今は何所にもいない大型の野生の獣よろしく、恐ろしく素早く攻撃的な動きだった。私の背後に階段。風景がくるりと反転した。
 落ちる。

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