輪廻曝獣 005
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二人はどちらからともなく立ち上がった。じっとり濡れた全身を、なにやら生ぬるい風が舐める。不快な感覚に冷たい汗が吹き出した気がしたが、この状態では判別がつかない。
握りあったままの手に、友海がくっと力を込めた。きり丸の意識に浮かび上がる映像。それは今彼自身の眼球が像なす映像と同時に、しかし破綻なくはっきりと“見える”のであった。それは記憶の中の風景を思い起こす感覚に似ていた。
「探してる」
二人は同時に、呟いた。なにしろ同じ風景を見ているのだ。
「どうやってあの電車から降りたんだ?」
「わかんない……見てればよかった」
「過去とか見れないわけ?」
「無理そう」
友海は苦しげに答えた。ほんの少しでも時を巻き戻して見ることができたなら、どれほど役立つことか――あまりに空想的な欲望だろうか? いや、すでに彼らの前には、荒唐無稽の事実がズラリと並べられている。無理もない思考。
「ここ、すぐ見つかる」
きり丸が囁いた。彼の、つい先ほど天から与えられたその超計算力から弾き出された答だったが、しかしそのぐらいは友海にも既に察しがついている。
二人の脳には、あの電車が煙を上げて停止している遠景を背に、二人の追っ手が線路の上を走っているのが見える。やがて先ほどの橋が見えてくる。
「急ぎましょ」
二人は手を繋いだまま、河岸の葦を掻き分けて、前へ進み始めた。
「川は危ないよね」
「電気通すしな」
「こっちも動きづらいし」
「でも広い所だと、あいつら電気使うっぽいからなー。あー! どうしよう!」
「あんまり騒がないでよ。ねえ、頼りにしてるんだから」
「えっ?」
きり丸は目をぎょっと、丸く見開いて、友海を振り返った。いつの間にかきり丸が先導して歩く形になっていたのだ。
「なに? そんなに驚くこと、ないじゃない」
「あ、いやー、なんか、珍しいなーと」
「そう?」
そんなこと言われたの、初めてだ、と、言いかけた言葉を頭の隅に追いやった。大した言葉でもなく、ごく自然な返答だったのだから、いつもの調子で言えば良かったのに、どうしてか上手く口が動かなかった。
言えなかった代わりに、きり丸は一瞬気まずそうに友海から視線を僅かに剃らして、背後の赤い夜空を眺めた。
だけどそんなこと――きり丸の僅かな焦り、そんな些細なこと、友海は気がついただろうか?
「だって素敵じゃない? 私は遠くが見える。きり丸は未来が見える」
「未来?」
「さっき見えてたんでしょ。あの雷を避けたとき」
きり丸ははっとしたように目を瞬かせ、トモミと、それから周囲の世界を見回した。少し前の日常から、奇妙にねじ曲がった現実。その中に、やはり自分も、立っているのだった。
「未来がわかるっていうか」
「うん」
二人は河原の草むらを抜け、コンクリートの階段を登り車道に出た。誰もいない、しんと静まり返った、住宅街が、二人の眼前に広がっていた。家々の壁が、不気味な城壁のようであり、全て、敵であるかのように思えた。
「あれ」
きり丸が振り返って、河の方を指差した。ほんの少し前まで二人が濡れて蹲っていた、背の高い葦の茂み。
「あっ」
トモミが声を上げた数秒後、そこにぽっと赤い灯りが上がった。
葦の背に隠されて肉眼では見えないが、その影に、あの凶悪なる二人が潜んでいることが、トモミには見ることができた。
「あいつら、全部焼き払うつもりだ」
次第に膨らむ炎を、素早く駆け込んだ路地の隙間から眺めている。炎が膨らむにつれ、その中にある二つの人影がちらちらと揺らぐのが確認できるようになってきた。しかし距離があるため、やはり肉眼ではその人影が何を行っているのかまでは見ることができない。見る必要など、無いのだが。
「行こう」
「うん」
「目は剃らすなよ」
「判ってるわ。でも、前のことは、ちゃんときり丸が見ててよ」
「トーゼンだぜ」
背後で超高熱の放電を繰り返す追手を控えたまま、二人は、暗い住宅街を、歩き始めた。
僕の大切なあの子がいない。
それに気がついたのは、いつだっただろう。随分前から、心の中で、そんな風に唱えていた。小さな声で、唱えていた。
誰かに聞かせるためじゃない。ただ頭の中の奥の、他になんにもない狭部分で、自分がぽつぽつと唱えているのを、感じていた。
いつからか? ずっと長い間。ずっとずっと長い間。昔から……どのくらいか判らないほどの昔から。
そんな風に、頭の奥に染み付いた寂しさ、後悔を抱いたまま、また彼は、生まれてきた。
もう最初の生から五百の年月を数えた。もっともっと……。日が昇り、月が昇り、絶望的な朝と夜をもっともっと……在り続けた。
しかしながら今夜の黒く赤い月夜、彼は忽然と姿を消すのである。不在の少女を追ってか? 何者かの手にかかったのか? 或いは……自動的なる時の流れに飲み込まれたのか?
今夜だ。
無限に繰り返す黒き月の始まりの一夜目。
彼はその日、一人だった。いつもなら親友の二人と下校している時間帯だったが、あいにく二人ともが塾や学校の委員会やらとかで、一緒でなかった。彼は仕方なしに、わずかに寂しく思いながらも、しかし珍しいことでもなかったので、ごく当たり前に一人帰路につくことにした。
家に帰れば父と妹が待っているわけだし、一人の帰宅がそれほど寂しいわけでもない。
それに、彼は生まれたときにはすでに頭の中に正体不明の寂しさを抱いていたのだから、慣れたものだ。
その寂しさというのは……既に述べた通りだが、もう少し詳しく説明するならば、あるはずのものが、ない、と、そんな風な感覚である。
隣にならんでいるはずの彼女が……ある日忽然と姿を消し、今になってようやく戻ってこないと知った……そんな風だ。
勿論、今の生、彼女が隣に並んでいたことは一度もない。彼自身ものことは百も承知だ。
しかしそのように感じるのだから、致し方がない。
夕暮れの遠ざかっていく赤い太陽を眺めながら、ぼんやり、そんなことを考えていた。意味のない妄想だと思っていた。
当たり前の夕方だった。
異変が目前に迫っているとは、彼はまだ……この物語の登場人物の誰もが、知らないでいた。
一つ、先に断っておかなければならない。
今から始まる滑稽な見世物の、その始まりのかけ違えたボタン……それは彼の責任ではない。
始まはもう五百年も昔のことだ。或いはもっと昔だったのかもしれない。そして起きた悲劇に、彼は他の被害者同様に巻き込まれたに過ぎない。
そして今から始まる無限の悲劇は、その始まりこそ、彼の日常の延長からだったが……彼の行いによるものだったが……しかしそれは全くの不幸な偶然が重なったため、それだけなのだ。
いくつもの偶然が、幾万回、幾億回の輪廻の間で、並んでしまった。今回は、その不幸な一致にぶち当たってしまっただけなのだ。
斯くして、物語の始まり。