輪廻曝獣 006

 偶然だった。この道を選んだのも、彼女とすれ違ったのも、何となく声をかけようかなと思ったのも。
 しかし急ぎ足の彼女が振り返ったのは、作為だった。
「あ、しんべヱくん」
 急いでるんだ、ごめんね。と答えた彼女も、どこかにあっただろう。
 一瞬の短い間に、振り返るべきかどうか、彼女は考えた。結論は拮抗した。そして彼女がこの時において選んだ選択は、立ち止まることだった。
 もしも何か、例えば少し強い風が吹いたとか、しんべヱの声がもう少し小さかったらとか、些細なことでも今と違う状況がこの世界にあったなら、彼女の出した結論は変わっていたかもしれない。フラクタル状に二つに枝分かれしていく無数のパラレルワールドのどこかに。
 いや、今はその外側の話は、考えないでおこう。
 ともかく彼女は足を止めて、振り向いた。
「どうしたの、蒼子ちゃん。そんなに急いじゃって」
「え? 急いでたかな」
「急いでなかった?」
「急いでないかなー」
 蒼子は、一度通り過ぎたしんべヱが同じ所まで来るのを待って、並んで歩き出した。ゆっくり。確かに、さっきまでの彼女は急いでいた。
「しんべヱくん一人? めずらしいね」
「うん。乱太郎は塾、きり丸は塾だってさ」
「あー……そっか。そういうこともあるんだね」
「たまにはね」
「いつも一緒にいるイメージ、ある」
 へへへ、としんべヱは何となく照れくさく笑った。
 蒼子は、しんべヱらの通う中学校の一つ上の生徒で、彼らの幼馴染で仲のいい有希、友海の友人だ。したがってしばしば顔を合わせるし、一緒に遊ぶこともある。結構、気の合う相手だった。
「しんべヱ、これから家に帰るだけ?」
「うん。寄り道とかしないんだ。妹が心配するから。僕の方がお兄さんなのに、怒られちゃう」
「あ、カメ子ちゃんかぁ。しっかりしてそうだもんね」
「あれ? カメ子に会ったことある?」
「あるよーえっと」
 蒼子は、そこでちょっと考えてから、
「いつだっけ、思い出せない。いつか会ったことあるんだけどな」
 と言って、アハハと笑った。
 他愛のない会話だ。しんべヱはさっきまでのなんとも言えない寂しさ、を忘れてしまっていた。
 蒼子の方も、いったい自分が何を企んで立ち止まったのか、それは非常に虚しいような気がしてきてきた。
「もう暗くなりそう。早く帰った方がいいね」
 彼女はそこまで言って、しんべヱが何の疑問もない様子で頷いたのを確認した。
「そうだね」
 それで、もういいかと思った。
 振り返ろうと思った選択、特に意味はなかったらしい。
 肩透かしのような気もしたが、同時に安心もあった。やっぱり、今まで通りで、しんべヱは別と考えていいらしい。
「じゃあね」
「あ、待って」
 しんべヱが、また呼び止めた。
 目的は果たしたと、また急いでどこかに行こうとする彼女を。
「どうしたの?」
 また目の前から、誰かがいなくなる。そう思うと、しんべヱの腹の中で、俄に自己主張を始める「孤独」。
「あのさ、もし知ってたらでいいんだけど」
「うん」
「僕ね、女の子を探してるんだ。蒼子ちゃんの知り合いにいるかもと思って……」
「どんな子?」
「僕は……」
 口ごもって、一生懸命、彼女のことを思い出そうと、した。
「ほっぺたが丸くて、目もまんまるで、小さくて、のんびりしてて、ちょっと舌っ足らずに喋ってて」
「名前とかは?」
「僕はおシゲちゃんって呼んでた」
「おシゲちゃん」
 蒼子は目を見張って、しんべヱの顔を見下ろしていた。記憶にすがって必死になっているしんべヱは、それに気が付かない。
 静かに揺れる炎のような光が、蒼子の瞳に宿っていた。
「それは、誰?」
「ずっと前に一緒に遊んでた子なの」
「そっか」
 蒼子は息を飲んで、ぎゅっと拳を握りしめた。シリアスな瞳で、じっとしんべヱを見つめる。
 思索をめぐらす、間。数秒を数える短い時間。
 やがて、ふっと息を吐いて、小声で彼女は「できないなぁ」と呟いた。しんべヱには、その意味がわからなかった。
「知り合いには、いないかな。ごめんね」
「ううん、いいよ」
 シリアスな自分の声、彼女の目、重苦しい雰囲気に、しんべヱ今さらながらびっくりした。慌てて、両手を振ってごまかした。
「蒼子ちゃんはどこか行くの? 荷物多いけど」
 努めて明るく、言う。スイッチを切り替えたように、蒼子はぱっと明るく笑って答えた。
「これ?」
 蒼子は背負った竹刀袋に、肩越しの視線を向けた。
「実はさ、剣道始めたんだ。最近ね」
「へえええ知らなかった! カッコイイ!」
「でしょ! 自分でもちょっと良いなって思っててさあ」
 蒼子は得意げに、その場でクルッと回ってみせた。黒い竹刀袋は、下部に小さな花が赤い糸で無数に刺繍されている。それが彼女の黒いセーラー服によく映える。赤の濃い夕暮れの中で、しんべヱの目には彼女が何故だかノスタルジックに見えた。
「いつからやってるの?」
「うーん……五年ぐらい? 三年ぐらいかな?」
「ん?」
 ちょっと、違和感がある答だった。もし世界の事象が一枚の紙に書き出されているのなら、それを遡って、矛盾の箇所をすぐに探し出すことができただろうが。
「これから稽古?」
「あ、いや、うん、今日は違うかな。今日はね、食べ歩き」
「えーっ! いいなー」
「へへへ。でも、しんべヱくんは家に帰るんでしょ」
「僕も行きたいなあ。でもカメ子がいるし……」
「残念。またの機会にね」
 そして彼女は急に走りだした。どんどん走って行って、しんべヱの視界で彼女の姿は小さくなっていく。
 途中で彼女は、また振り返った。
「早く帰りなよー!」
 大きな声で、そう叫んで、またすぐ踵を返して走りだした。
 しんべヱは手を大きく振って答えた。

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