輪廻曝獣 003
分岐点 →視点変更 きり丸
停車。溢れる水のように、乗客がホームへ流れ出す。満員だった車内には、数えるほどの乗客しか残っていない。クーラーの風がきり丸と友海の頬を撫でる。
「ふう。涼しい」
「満員電車って暑いよな……」
きり丸と友海は一両目のドア付近に立っている。先程の停車で彼ら以外の乗客は全て下車してしまった。座席も全て空いている。
「友海ちゃん、座ろうぜ」
「あと二駅よ?」
「さっきまでの満員状態で疲れちまったんだよ」
二人だけの車内で、きり丸は他者に気兼ねすることなく座席に倒れ込んだ。
「ちょっときり丸、行儀悪い」
「誰も乗ってねえからいいじゃん」
「駄目よ。次の駅で乗ってくるかも知れないでしょ」
「へいへい」
座席二つを占領して寝ころんでいたきり丸は、渋々といった感じで座席から立った。
「普通に座ってていいじゃない」
「オレだけ座ってるのって、何か落ち着かないよ」
「しょうがないわね」
友海がきり丸の隣に回り込み、座席に腰を下ろす。
「座らないの?」
「え? あ、いや、そういうつもりじゃ」
またきり丸が同じ席に座ると、友海と二人並んで座ることになる。広い車内で二人っきり、隣に並んで座る状況を想像して、きりまるはしどろもどろになった。
「何気にしてるのよ。別に隣が嫌なら好きなとこ座ればいいでしょ。沢山席は空いてるわよ」
「ああもう、いいよ」
きり丸は口を尖らせてもごもごと小さな声で不平を呟きながら、しかし友海の横にぎこちなく腰を下ろした。
「悪かったわね、隣があたしで」
「いや、そういうワケじゃないけどよ」
「そう? あたしはきり丸より立花先輩とかのほうがいいなー」
「げっ、高等部のあの青白い先輩かよ。趣味悪ィな」
「青白いって失礼でしょ。色白で王子様みたいじゃない」
「けーっ。王子様だってよ」
「ちょっと、大声で笑いすぎ」
「いいじゃん、他に誰も乗ってないし」
「車掌さんに迷惑よ」
一両目の車両の先頭から、車掌室が見える。ガラスで仕切られているため、彼らの声が聞こえているかどうかは定かではないが。
「ま、たまにはきり丸と二人で帰るのもいいわ」
「あーあ、今日が委員会じゃなくて、乱太郎たちが塾じゃなけりゃ一緒に帰ってたのに」
「そうね。いつもみんなと帰ってるから、二人だけだとちょっと寂しいわね」
「しかも委員会で遅くなったから、満員電車のラッシュに巻き込まれたしな!」
「委員会は仕方ないわよ」
ガタンガタン、と音を立てて電車は走る。そろそろ次の駅である。
「次は〜」
車内アナウンスが始まった。
「お、ヨシ。あと一駅」
「次」そこで、ぷつんと切れた。
「え?」
「つ」
「あれ」
「ぎは」
「ちょっと、アナウンス変じゃない?」
「つ、ぎ、は」
「車掌さん?」
アナウンスが正常に流れないまま、停車するはずの駅を通過していってしまう。
「何だ一体どうなってるんだ?」
「きり丸! ちょっと、外!」
友海が目の前の窓を指差す。深い青の夜空が流れていく外の風景が、その瞬間、赤いインクを滲ませたように真っ赤に変色した。
「えっ!?」
指差した友海も驚いて目を見張る。
「空が、赤くなった!?」
「嘘、なにこれ。夢、じゃ、ないわよね」
「あっ! 友海ちゃん、車掌さんが消えた!」
「何言ってるの!? あ……」
友海がきり丸に促されて、車掌室を見る。絶句。
電車は止まらない。
「なんで!?」
二人を取り囲む、明らかなる異変。天井に取り付けられたクーラーの風が、車両の中の空気をかき回す。肌をぬらりと嘗めあげるような生温い風の舌先。腐った肉の匂いが、する。
きり丸と友海は知らずの内に、お互いの手を握りあい、キョロキョロと忙しなく辺りを見回した。この気味の悪い幻の中で、藻掻くように。
「あ」
出し抜けに、友海が目を見開く。隣の車両へと続く戸を凝視している。
連なる車両の中は、二人が見える範囲では無人。
だのに、友海はそこに何を見た?
「おい、何だよ、何があるってんだよ」
「来る」
「誰が」
「わかんない。知らない人」
「向こうの車両から? 助かったぜ、他に人がいるなら」
「だめ!」
友海が、左手で掴んだきり丸の手を、強く引いた。
途端に、きり丸の脳裏に電撃が走った。目に見えている風景とは違う、眩しく輪郭の鋭いイメージが、頭に浮かんだのだ。友海がきり丸の手を強く握った瞬間に。
二人だった。車両の中を走る、そっくり同じ顔をした二人の青年。きり丸たちの通う学校の高等部の制服を着ている。
走ってくる。二人の青年はきり丸と友海に向かって、車両を次々と移動してくる。
それはこの異変の中の救いではない。何故なら、友海がきり丸に見せたイメージにははっきりと現れていたからだ。
彼らの凶器のような眼。狩人の目。
きり丸と友海を目指して、走ってくる。
もう、隣の車両に。
勢いよく、車両接続部の扉が開いた。
「見つけた」
きり丸と友海の背筋に戦慄が走る。先に現れた方は言葉と共に右の唇を持ち上げてにやりと笑い、後に続く方は眉尻を下げて困ったように無言で笑った。
立ち竦む幼い二人。走り続ける電車は、窓から流れていく街を覗かせていた。薄ら暗い空は赤く、真黒な月が街を見下ろしている。
「な、何だよ、アンタ等」
きり丸が友海を庇うように前に出た。足が震えている。何者か判らない、その二人が怖いのではない。この怪異に怖気を感じているのだ。自らの精神も、傍らの少女の精神も飲み込んでいきそうな、世界の変調に。
「別に、何でも」
「名乗るのは、不味いかな」
現れた二人は、この異変には既に慣れているようであった。すでに取り込まれた者ということなのか――。
「君たちは知らされてないグループみたいだな」
「何が?」
きり丸は答えながら、加熱する脳のオーヴァードライブ・プロセッサーへありったけの情報を流し込んでいた。友海と繋いだ手から、次々と新しい風景が流れ込んでいくのだ。隣の車両の風景、この電車の走る線路を遥か上空から見下ろした光景、もうすぐ電車が通り過ぎる生き物の影のない橋の入り口、目の前に立つ不気味な二人の背中。見えない筈の風景が、見える。そして脳は廻転する、二進数の原始の演算で、与えられた情報から、不定の未来を結んでいく。
「まあ、どっちにしろ一緒だけどね」
片方はあまり気乗りしないような物言いで、しかしすっと前に出て、右腕を前に突き出した。
何も持っていない。手の甲を上に、指を伸ばして、己の視線と人差し指と中指、きり丸の額を一直線に結んだ。
車両一つ分の距離。
「ためらうなよ。僕がやろうか?」
言われた方が、瞬きを、した。
きり丸が走る!
友海も手を引かれ、同じように走り、手近な座席の上に飛び乗った。
そして二人の動き出した瞬間、その瞬間から誰かの心臓が一つ打っただけのような間を開けて、車両の中に耳を劈くような轟音が響いた。
きり丸と友海の鼓膜を強烈に揺らす。肌に熱い記憶を焼き付ける。目を逸らすことも叶わなかった二人の眼球の表面に、奴の伸ばした指から走った鋭い閃光が映り込んだ。
雷だ。この狭い車両の中に、雷光が走ったのだ。
走った雷撃は車掌室の壁にぶち当たり、弾けた。車掌室の壁は破裂し、その縁は金属と塗装が黒く爛れ熔けている。
「おいおい、電気を避けるってどんな能力だよ」
能力。室内に走った雷光と、きり丸、友海の脳に起こった有り得るはずのない怪異。なるほどそれは能力なのだろう。疑う余裕などない。
「まぐれかな。もう一発――」
と、再び片方が手の平をきり丸と友海へと向けた。
だが、判っていた。彼、いや彼らが次にそう動くことは。
きり丸の脳は廻転する。最も生存率の高い未来をはじき出す。
きり丸は再び友海と共に走り出した。座席からひらりと飛び降り、そして真っ直ぐ敵に向かって!
意表を付かれた片割れは伸ばした腕の照準を揺らして、向かってくる二人に改めて合わせようと逡巡する。障害物もない車両の中を、ただ真っ直ぐに走ってくる相手だ。照準を合わせるのは困難ではない。だが、迷う。迷う。迷う。
きり丸には答えが出ていた。この片割れには、迷いがある。
そしてもう一人が、同じように手の平をきり丸と友海に向かって伸ばす。
しかし友海には見えていた。この速度でここまで来られたなら、一歩前に出た片割れの背中でできた彼の視覚に、入ってしまえることを。
「うぉぉぉぉッ!」
きり丸と友海は肩を並べ、敵に向かってそのまま体当たりをしかけた。
暴発!
耳を劈く爆発音、あまりにも目映い閃光、神経を通過する高熱。
四人は諸共もつれ込むように倒れたが、しかし青年二人の雷光は照準を大幅に揺らしながら発射されたのだ。目標を失い車両内を暴走するコンマ数秒間の高エネルギー。天井を焼き座席を削り取り、窓のガラスを飴のように融かした。
「クソッ、こんなガキに!」
床から身を起こした片割れが、舌打ちをして再び手の平を前に突き出した。
だが、既にきり丸と友海はそこにはいない。
いや、二人はきり丸の猛烈に廻転する脳がはじき出した最も安全な可能性を選択していたのだ。
弾けた雷の尻尾を追うように車内を跳ね、小柄な二人は熔けた窓の隙間から、外へ。
走り続ける電車が河川の上を通過した。
連続的に続く車両の騒音が空虚に響く赤い夜のしじま、少年と少女が水面へ落ちた音が後ろに取り残される。
「逃がしたか」
苦虫を噛み潰したように片方が吐き捨てる。追撃を行おうとした方である。
「ヤバイなあ。あの子たち、一体何の能力だろ」
もう一人も立ち上がり、服についた埃を軽くたたき落とす。
「攻撃は体当たりだけだったな。つっても身体能力は普通。物理的な攻撃力は無いと見た」
「でも僕の雷撃を避けた」
「そこが判らんな。雷のスピードを超える能力ってことか? でもそうなると身体能力の平凡さに説明がつかない」
「単純に速度だけ出るとか。そうなると結構厄介だそ。僕の電気は兵助でもギリギリかわせるかってぐらいだったのに、見た感じ結構余裕で避けてただろ。一筋縄じゃいかないかも」
「実際、取り逃がしたしな」
また、舌打ちをした。
「どうしよう? 落ちた場所は大体判るから、追いかけようか。でもあの二人だけじゃなくて仲間と合流してるかもしれないし……うーん、でも知らされてないっぽかったから、それはないかな」
「追いかけよう。さっきの感じなら、あの二人が使える能力は今のところ速度だけだ。どっちの能力かは判らないけど、もう片方が能力に気がついたら先が読めない」
「でもこっちの攻撃も避けられるし……」
「早いだけなら手数と頭でなんとかなる」
まだ悩み続ける片割れに、一人は急かすように肩を叩いた。
「雷蔵」
「うん」深く瞬きをした。「しょうがないよね。ごめん三郎」
「臆したら負けだ」
「わかってる。負けたらこっちが死ぬ。後戻りはできない」
「立ち止まるのも危険」
「そうだね。よし、取り合えず先ずは電車を止めるか」
雷蔵は扉の吹き飛んだ車掌室に向かって歩き出した。