輪廻曝獣 002

分岐点 →逃げる

 有希のなよやかな手が乱太郎の首にひしと巻き付いた。有希は齢十四の少女、乱太郎よりも一つ年上とはいえ、体は細く軽い。
 生温い夜風が乱太郎と有希の肌を焦らすように撫でる。暑くもないのに乱太郎の額から汗が雫と垂れるのは、対峙する二人の青年に気圧されているからか。何者かは判らないが、有希を抱いた不利的状態ではまともに戦えまい。
 じりじりと乱太郎は後じさっている。が、伊作と留三郎も静かに乱太郎達へ近付き、間を計っている。
 公園は四十メートル四方。黒い月光を拝する伊作と留三郎の背後はフェンスに覆われ、その右手側には先程の公衆便所が誰知らぬ顔で茫然と立っている。
 乱太郎の背後は彼と同じくらいの背丈の植え込みである。左斜め五メートルほど後ろの植え込みの隙間に、道路へ降りる階段がある。だが狭い。階段の幅は三メートルほどである。
 乱太郎の右手側はマンションの壁、左側は民家だ。
 どちらにしろ退くには左しか無い。乱太郎は意を決して、地を蹴った。
「お見通しだッ! シィッ」
 留三郎の手から、銀のナイフが飛沫のように飛ぶ。乱太郎の踏んだ地面を後追う様に突き刺さる。
「てんで中っちゃいないじゃないか」
「うるせえな、そう言うんだったらお前も働けッ」
「僕はトラップ型なのさァ」
 言い争う彼らを尻目に、乱太郎は勢いに任せて民家の塀へ飛び上がった。
 途端、目の前に弾ける薄灰色のシャボン。接触する程近くまで近寄らないと見えなかった薄い色をした大小複数のシャボン玉は、乱太郎と有希の触れた側からパンパンパンと音を立てて弾けまくった。
 慌てて吸った呼吸に混じる、僅かに苦い毒の味。
「公園で仕留めると決めたからには、逃がさない」
 伊作が余裕たっぷりに言った。乱太郎は指先から脳髄まで走る電撃のような痺れに討ち取られ、ぐらりと背中から地面に倒れ落ちる。痺れた腕から有希がすり抜けてしまいそうになり、乱太郎は歯を食いしばって両腕で堅く彼女を抱き留めた。
「よォし、でかした伊作!」
「現金だね、留三郎」
 留三郎が走り寄ってくる。痺れて固まった乱太郎の腕の中で、有希は必死に首を動かして敵を睨んだ。
「あっ」
 留三郎の、左手の指が全て無い。有希が驚きの声を上げた。さっきまではあったはずだ。無ければ、最初に彼を見た時から気がつくだろう。あるはずの物が無いというのは、それだけで充分目立つものだ。
 では彼の指は何所へ?
 有希を抱いて走り出した乱太郎を追って、投げられたナイフは五本。その一本は民家の塀から転がり落ちた乱太郎の右手近く、ちょうど手を伸ばして届きそうな位置に転がっていた。鐔のない人差し指程の長さのナイフは、人の指を横から見たシルエットと同じ形をしている。まさかこれが。
「さ、お前等もうゲームオーバーだ。悪く思うな」
 地面に転がる二人の頭上で、留三郎が暗く笑った。鈍く光る、長い刃渡りの刃物をちらつかせている。先程投げたナイフよりも、明らかに殺傷力は上。
 乱太郎と有希は伊作の毒で痺れて碌に動けない。万事休すか。
「毒なんか」
 敗北目前、恐ろしさと悔しさで有希はボロボロと涙を溢しながら喘いだ。
「どっか、行っちゃってよぉ」
 刃物が風を切る。
 だが、風の軽い体はその凶刃を紙一重でかわしていた。
 留三郎が刃物を振り下ろす速度よりも早く、毒の痺れから解放された乱太郎が飛び上がったのだ。有希を抱いたまま、素早く空中で一回転し、立ち上がり留三郎の懐へ滑り込む。留三郎の切っ先が、コンマ数秒前まで乱太郎と有希の首のあった辺りの地面を引っ掻いた。
 伊作の痺れ薬で動きを封じられたのでは無かったのか? 留三郎の意識が僅かに混濁する。隙が生まれる。
 乱太郎の有希を抱いていない片方の手に、銀に光る細いナイフが光っていた。
「しまっ……」
 た、まで言えなかった。ナイフを手にした乱太郎が、有希を庇ったまま至近距離で突進してきたのだ。
 当て身と呼べるほど型の整ったものではなかった。が、握ったナイフが留三郎の心の蔵の辺りへ、猛烈な速度でめり込み、そしてそのまま数メートル後方へ弾き飛ばされた。
 乱太郎の手元に、刺した傷口から溢れた血が僅かに飛び散る。
「乱太郎! ほ、ほんとに刺しちゃったの?」
 乱太郎が肩で息をする。一瞬の攻防に、乱太郎の血液は煮え湯のように熱く滾り、暴れるように体中を駆けめぐっていた。脈が早くなる。破裂せんばかりに心臓が高鳴る。抱かれたままの有希の耳に、その音が煩いほど聞こえていた。
「違う」
 呼吸の合間で喘ぐように、乱太郎が答える。殺したのか? この混沌とした異常事態の中、己は自分と彼女を守るために、もののはずみで殺人という大罪を犯したのか?
「違う……」
 手に、刺した感触が残っていた。
「おい、留三郎」
 転がって動かない留三郎とも、乱太郎達とも離れた場所で、伊作が言った。
「違うって、どういうこと?」
「肉の感触じゃなかった」
「え?」
 刺した相手の返り血が滲む乱太郎の手を、有希がまじまじと見た。微かに震えている。心臓の拍よりも細かく。
 ありえない事態が起こっている。さっきまでは普通の生活だったはずだ。それなのに今は、一体何の切っ掛けがあったのか判らないが、夜空が赤く変色した瞬間から、自分達は命を狙われている。その上、自分達に襲いかかってくる彼らは、人ならざる能力を持っているらしい。いや、彼らだけではなく、自分達も――。
「茶番だよ。それともホントにこんな子供に殺されちゃった?」
「まさか」
 確かに乱太郎のナイフに心臓を突き刺された筈の留三郎が、何でもないように立ち上がった。右手に振りかざしていたはずの刃物が消えている。あの巨大な刃物は何だったのか? さらに、服にまとわりついた土を払う左手に、いつの間にか指が戻っている。いや、人差し指が無い。左胸に刺さっている。
「俺にナイフは利かない。何故なら――」胸からナイフがぽろりと落ちた。
「ストップ。留三郎、ベラベラと手の内を明かさない」
「いや、知っても俺の能力は攻略不可能だ。俺の体細胞武器化能力、O<オー>はな」
 留三郎は地面に落ちた己の指を拾い上げ、左手に接続し直した。指先が良く尖った鉄の輝きを湛えている。それは人体でありながら、武器へと変貌していたのだ。
「O?」
「ふっふっふ、格好いいだろう、少年。俺は体細胞をあらゆる武器・防具に変化させることができる。つまり心臓の細胞を鋼に変えることも可能なわけだ。ちなみにOはオートメーションのOだ」
「いや、オートメーションならAでしょ」
「ちょっ、有希ちゃん、言っちゃ不味いよ」
「え? 何だって?」
「だから、オートメーションの綴りはA、U、T、O、M、A、T、I、O、N。頭文字ならOじゃなくてAでしょ?」
「なっ何でお前等みたいなお子様がそんな難しい英単語知ってるんだ」
「普通に中二なら塾とかで習うし」
「有希ちゃん、それ以上は……」
「伊作ぅ! お前は知ってたのか!?」
「ん、まあ……」
「何で教えてくれなかったんだ!?」
「や、なんていうか……馬鹿なのかなって思って」
「能力の名前、自分で考えたんですね」
「しかも間違ってるって! 超はっずかしー!」
「全員そろって遠い目をするな! 薄ら笑うな! ええい、とにかく! 俺のOは無敵だ!」
 言うなり、留三郎の左手の肘から先が落ちた。
 乱太郎が弾みで背後に飛び下がる。同時に、低い銃声が鳴り響いた。乱太郎の足下の地面に、拳大の弾痕が黒々と開いた。火薬の濃い匂い。
「公園の周囲には、さっきの毒がくまなく仕掛けてある。君たちの回復が思いの外早かったのには驚いたけど」
「だが一瞬でも止まれば、この銃の的になるのに充分だ」
 留三郎の左手の肘から先に、不気味に黒い銃口が開いている。本来白い骨が臨いている筈の位置から、黒い鉄の銃身が伸びているのだ。その銃の威力は、今の一発目の弾痕の大きさから察せられる。中れば、致命傷。
「さあ、公園の中を逃げ回って的になるか」
「それともどこかに毒の包囲の抜け穴があることを期待して、外に逃げてみる?」
 乱太郎は眼球だけを動かして、周囲を慎重に観察した。逃げ道はない? いや、乱太郎には既に算段があった。
 この短い間の攻防で、己の能力がどのようなものなのか、粗方把握することができたのだ。
「有希ちゃん、しっかり掴まってて」
「え?」
 その二人の声だけが、公園の中に残った。
 二人の姿形は風に吹き消された如く消滅し。
「消えた!?」
「どこだッ」
 伊作と留三郎が慌てて辺りを見回す。
「いない――どこにも。逃げ道は塞いだ筈なのに」
「透明化か!?」
「いや、待て留三郎。一カ所あった……一カ所だけ抜け道が」
「上か!」
 二人が空を仰ぎ見た。そう、空高くに、旋風のような鋭い一陣の風が吹き上がっていたのである!
「クソッ! 逃がすか!」
 留三郎の左手が空に向かって何度も銃声を鳴らす。公園の西側、十数階建てのマンションの壁を、乱太郎の足は垂直に駆け上がる。その耳元へ銃弾の熱が迫る。だが乱太郎の速度は、げに恐ろしきことに、追いついた銃弾を横目で見た瞬間更に勢いを増し、その足が強烈に蹴りつけた跡が、窓もないただ一面のマンションの壁に穴ぼこを残した。
 追っての鉄の塊に大差をつけ、空気の震えるよりも早く、乱太郎はマンションの屋上まで飛び上がった。
「ハハ、なんだありゃ。弾丸より早いなんて、どう対処すりゃいいんだよ。なあ、伊作」
「……超速度か。今まで見たなかでトップクラスのヤバさだな」
 五十メートル近く下で、二人の会話が遠く聞こえる。目の前に真っ赤な夜が果てしなく広がり、眼下には生命の感じられない死んだ街の煌めく夜景が望んでいる。
「このまま安全な所へ逃げよう」
「うん」
「落ちないように、しっかり掴まってて」
 高い空に不気味な生温い風が吹き荒れている。有希は縋るように乱太郎の首へと回した腕の力を強めた。

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