輪廻曝獣 001

一、黒月照らす

 風も、熱も、光も、匂いも、音も、全て奪われた。その代わりに与えられたのは、傷口から吹き出したばかりの生温い血を頭から浴びせかけられたかのような不快な感触だった。空気が澱んで、生温い風が少年と少女の頬を舐め回した。
 空が赤い。血のように赤い。そこに真黒い月が、空に大きな穴を開いたかのように居座っている。黒いのに目映い。夜闇の赤に照らされた街は、全ての住人が死滅したかのように静かだった。
 突然の変異に驚き立ち尽くしていた少年は、はっと隣の少女の存在を思い出し、彼女の手を握ろうとした。
 背筋を、脳髄を濡れた舌で嘗められるような怖気が少年の感覚を支配している。しかしそれでも、咄嗟に彼女を守らねばと思ったのだ。
 だが、少し遅かった。二人が歩いていた住宅街に人工的に開かれた隙間、狭い公園、その縁の茂みから、病的に白い腕が突如伸びてきた。
 手は最も近くに居た人間、少女の顔を口を片手で塞ぎ、片手で動けぬよう両腕を押さえ、茂みに引きずり込んだ。
「有希ちゃん!」
 少年が叫んだ声は、赤い夜に吸い込まれた。
 何故、このような怪異が起こっているのか。彼ら二人はただ日常のままに、一緒に通っている塾から帰宅する途中だった。夏休み前の講習期間、帰宅の時間は夜の九時になってしまう。すっかり闇に飲まれた街を、弱い街灯の明かりを頼りに歩いている最中。
 何の因果が今この真っ赤な幕を開いたのか。誰も知らぬ。ただ時計が針をかちりと鳴らしたが如く、それは自然と決まっていた事象のように、夜は赤く変色した。
 肌を嘗めるような弱い風が吹いている。酷く熱いが、ぞくりとするほど寒い。ただひたすらに空は赤く光る。獣の檻のような生臭い匂いが漂っている。自分の心臓の音が煩かった。
 少年は突然の出来事に、頭を酷く混乱させた。自らの身に何が起こっているのか、全く理解する事ができない。
 だが一つ確かなことがある。
 ついさっきまで隣に居た少女が、何者かに連れ攫われたことだ。
 少年の頭は未だ混乱の中に在りながらも、本能が彼の体を動かした。少女が連れ攫われた公園へ、その縁を囲む背の低い木々の茂みを飛び越えて、慌てて踏み込んだ。
 黒い月が仄明るく照らす土臭い公園。四本の街灯が公園の四方で弱く光っている。微かに揺れるブランコ、腐りかけたベンチ、色の禿げた鉄棒、殆どが影の中。
 その暗い公園の中で、白く自ら光を放っているコンクリートの塊があった。
 蛍光灯がジジ、ジジ、と音を立てながら付いたり消えたり。埃まみれの如何にも汚らしい公衆便所。少年の飛び込んだ側からは、男子便所の入り口しか見えない。その明かり射す臭い軒下で、男女が一組、縺れ合っていた。
 黄色い電灯の下に見える、少女の方は確かに今し方まで少年の隣にいた音羽有希。
「ひっ」
 肌の白い青年に押さえつけられ、恐怖に顔を歪める。両手両足をばたつかせて逃れようとするが、存外力のあるらしい青年を押しのけることができない。ポニーテールに結んである有希の髪が、乱れる。
 青年は口元を吊り上げて笑い、逃げられない少女の唇に己の口を近づけ、
「ち、近付くなあああ変態いいい!」
 有希が空を切り裂かんばかりに叫んだ。すると一体何が起こったのか、青年はぎょっと顔を凍り付かせ、跳ねるように有希の体から飛び退いた。
「乱太郎!」
 泣きそうな有希の声が公園を走る。青年はすぐに我に返ったように舌打ちし、再び有希の体を押さえつけようと手を伸ばすが。
 少年が地を蹴った。一瞬の閃光の如く、過ぎ去った後には空気との摩擦による焦げた匂いすら残して、有希と青年の間へ走り込んだ。便所の床に転がされていた有希を抱き、再び元居た場所まで戻るのに、秒と数える間もない。
「な、なんだ、あいつ」
 得物を奪われた青年は、目の当たりにした少年の信じがたい身体能力に驚きの声をあげる。
 少年は少女を抱いたまま、公園の影の中で敵と思わしき青年を睨んだ。肌の色は異常に白いが、その他不審な点などない高校生ぐらいの茶髪の青年だ。人間の異常性など、必ずしも見た目に現れるわけでは無いが――。
「乱太郎、ごめん、ありがとう」
 余程怖かったのか、気の強い彼女のまなじりに涙が浮かんでいた。
「ううん。助けるの遅くなって、ごめん」
 猪名寺乱太郎は、有希を抱き上げたその手に更に強く力を込めた。
「おい伊作ー、終わったかー? なんかもう一人のガキが消え……」
 乱太郎達から離れた側の公園の入り口に、第一場もう一人の登場人物が、まるで異常何ぞ感じていないかのように、ひょっこりと現れた。
 公園の影で乱太郎と有希は緊張を走らせる。その姿を目にして、現れた青年は言葉を止めた。
「いるじゃねえか。っていうか伊作、女一人相手に失敗かよ」
「煩いな留三郎。お前がそっちの少年を先に足止めでもできてりゃ、上手く行ってたさ」
「どうかな。お前運悪いからな」
 有希を攫ったのが伊作、後から現れたのが留三郎。どちらも同じ年の頃と見える。赤く焼ける夜空の下、異常の最中にあって正常に呼吸をしている二人の青年は、今までの経緯から判断して、敵!
 切れ長の目の留三郎が、立ち竦む乱太郎と有希を長めながら、いつの間にか手にしていたナイフを手慰みに揺らしていた。切っ先の点が銀と赤に煌めく。いや、あれは、彼の指そのものか?
 殺意がある。乱太郎は己の脳髄を冷たく痺れさすような殺意を感じていた。恐らく相手二人も同じであろう。
 敵だ!
 だが有希を抱えたまま、自分は戦えるか?

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