人魚の骨拾い 005

巡り巡って因果を結び

 島が燃えている。中心に丸い山を据えた緑の小島に、凄まじ勢いで火が暴れていた。裾の家屋を崩しながら。
 いつの間に火がついたのか。遠くに見える孔雀島は小さくなっていたが、それでも騒ぎが起これば多少の異常は感じただろう。にも関わらず船上の鬼蜘蛛丸達は全く気がつかなかった。
 微かな女達の悲鳴が風に乗っている。手慣れた賊の仕業に違いなかった。
 直ぐに孔雀島の者達も異変に気がついた。彼らが背後の故郷を振り返ると、すでにあらかた崩れ落ちた無惨な島がある。皆が叫声を上げた。
 海の一部分が赤い。自身の放つ灯りで暗い空が明るく照らし出され、孔雀島はその惨劇の輪郭をはっきりと表していた。孔雀石そのもののような美しい緑の山は、裾から伸びる火の手に為す術もない。逃げまどう人間の小さい影が幾つも海に落ちていく。
 さらに、彼らの船団の後ろの方から別種の悲鳴が上がった。だが宵の暗がりに紛れ、一体何が起こっているのか判らない。細い月の弱い光では、船団を駆ける複数の影の正体はわからなかった。
「どういう事だ?」
 突然の出来事に、唖然として鬼蜘蛛丸は混乱する的の船団を見つめた。
「喧嘩じゃぁないですか。仲が悪いと当人達が言ってましたし」
「それにしては大がかりだ」
 知ったことではない、とでも言いたげに義丸は肩を竦めた。
「早いとこ引いてしまいましょう。相手はどちらも礼儀のない海賊みたいですからね」
「ま、まちぃ」ぶるぶる震えながら老人が叫んだ。
 誰もが叫び惑っている中、その老人だけはじっと鬼蜘蛛丸を睨み付けた。震えているのは怒りからだろうか、それとも恐怖なのだろうか。しかし頭領の意地は、こぶしをしっかと握りしめながら気丈な態度を崩さなかった。
「謀ったんな!」
 どこからそんな力が湧いてくるのかと思うような叫びだった。血走った目が、島を燃やす業火よりも激しく燃えている。その気迫に、その場にいた誰もが動けなくなった。大慌てで後ろの船に飛び移ろうとしていた、残る一人の若者も、鬼蜘蛛丸達も。
「そんなに憎いのか、そんなにそんなに」
「は?」
 叫び声は向かい合う鬼蜘蛛丸らを素通りし、黒く波打つ海全体へ渦巻くように響き渡った。だが、突如叫びだした老人の言葉は、鬼蜘蛛丸たちには不可解なものだった。
 ただ細い老人の身体を融かす勢いで、憎悪の焔が彼の腹の中で狂ったように燃えている。
「化け物を化け物と言って何が悪い」
 この追いつめられた老人は誰に訴えているわけでもなく叫んでいる。その姿は、罪状を突きつけられ、必死に言い逃れている囚人のように見えた。
「あぁ、ああ、やっぱり化け物だ。確かに打ち殺したのに、平気な顔で泳いどる」
 孔雀島、銘獨島周辺の人魚の話。骨を拾う女。二つの島で何が起こったのか。鬼蜘蛛丸は頭のなかがさーっと冷え、何かが判ったような気がした。
「毒島の化け物め。あんたらの言い分なんぞ何の意味がある。化け物が生まれるんは毒島が呪われとるからや。わしらは関係ない、なんも知らん! 仕方なかろうよ、わしらも化け物にはなりとうない!」
 彼の叫ぶ罪状は彼一人のものではなく、恐らく孔雀島の島民全てのものなのだろう。頭領である彼は島民を代表し、孤立無援ながら必死に逃げ道を探している。積み重ねた罪に命乞いをしているのだ。それはこの死に損ないに残された使命なのかもしれない。
「今までも同じようにしとったんに、たった一人女殺したぐらいでぇ。化け物産んだ女殺したぐらいで」
 老人の狂気は次第に増大し、天を仰ぎながら叫ぶ声は金切り声に変わっていった。細い月よりも鋭く、暗闇の悲鳴と騒音を切り裂くように。
 幾人もの悲鳴が、近づいてくる。何者かが船の上を飛び回る、その足音が聞こえてくる。
 孔雀島の島民を襲う海賊が、喚声を上げている。
 老人の後ろで身体を震わせていた若者が、近づく悲鳴に怯え、海に飛び込んで逃げようとした。
 そのとき、
 ずん
 と鈍い音が鬼蜘蛛丸の耳にも届いた。
 何の音か、側で聞いた老人には直ぐ判っただろう。船上にばったりと倒れる若者の身体。老人の落ち窪んだ目が驚愕に大きく見開かれた時、死体の胸から吹き出した血飛沫が彼の半身を濡らした。
 若者の手にしていた松明が船に落ちる。
「やばいな」
 それまでじっと老人の狂気を見つめていた義丸たちは、静かに呟いた鬼蜘蛛丸の声で解放された。指示は無かったが、皆が船を本船へ戻そうと動き出した。
 若者を殺したのは敵か味方か、彼らには判別つかぬ。敵の敵は見方と言うが、今目の前で行われた圧倒的戦力の差による虐殺が、自分たちの身に降りかからないとも限らない。孔雀島の船団を木っ端微塵としながら、荒々しい一隻の船が真っ直ぐこちらへ来ているのも見えた。恐らく義丸が言っていた通り銘獨島の海賊だ。精鋭を乗せてきたとは言えども、こんな小さな船で単独接触するのは流石に避けたい。
 櫂が水面を揺らす。揺るい波が現れ、その最初の一波が一間も進まないうちに、目を見開いたままの最後の生き残りが、「待て」と叫んだ。恐らく叫ぼうと試みた。
 だが再び肉を貫く鈍い音が響き渡る。
「ぎゃっ」と小さな悲鳴が聞こえた。
 断末魔だった。
 離れ出した船からは、何が起こっているのか朧気にしか見えない。だがその短い悲鳴を残して、頭を貫かれた老人は立ったままに死んだのだった。落ちた松明が船をゆっくりと燃やし始め、その灯りで長い銛が彼の頭を貫いているのが鬼蜘蛛丸にも僅か見えた。
 鬼蜘蛛丸たちを乗せた小舟は静かに走る――本船へ戻るのに、そう時間は掛からない。その間、誰も口を開かなかった。

 死体二つ転がった小舟に、飛び乗った者がいる。ひらりと軽い身のこなしだった。松明から移ったじりじり燃える火が丁度良く灯りとなり、返り血を浴びた男の姿を映し出した。
 彼が手元を手繰るような仕草をすると、若者と老人の身体に刺さったままの銛が何かに引っ張られて傾いた。揺れる炎の影で、銛と男の手を繋ぐ細い糸が時折見える。二つの銛を投げたのは彼だったのだ。
 その端正な顔立ちの男は、尖った視線を走って行く敵の船に向ける。色白で、どちらかというと線の細い風体からは、とてもこの虐殺の担い手には見えなかった。整った眉にきゅっと閉じられた口元、きれいに剃り上げられた月代はどこか上品で、高貴な人間のようですらある。
 そうでありながら、彼は返り血に浸った黒い着物を纏っている。彼の激しい怒りの色を示す視線が何を思っているのか、重には与り知らぬことだったが、僅か、昼間に見たものと同じに何かを憂いているようにも見えた。
「重!」
 鬼蜘蛛丸たちの船を追って、先を泳いでいた舳丸が呼ぶ。しかし、水面からちらりとその男の顔を見てしまった重はそのまま引き返した。
 燃える小舟に飛び乗ったのは、昼に重を救ったあの若侍だった。昼と同じように刀は持っていないが、べっとりと血のついた二本の銛を手にしている。思い詰めた表情が物語るのは、一体何なのか。
 舳丸が制止する声も耳には入らなかった。あっというまに火のついた小舟まで泳ぎ切ると、水中から突然飛び上がるような恰好で船に飛び乗った。
 波間で泳ぐ者に気がついていたのだろうか、突如として海から現れた重と対峙しても、男は驚きもしなかった。静かに、相変わらず鋭い目で兵庫水軍の本船を睨んでいる。
 無言。
 若侍の背後では炎が暴れ、さらにその揺れる大気の向こうに迫ってくる大船が見えた。
 大船といっても、寂れた銘獨島の海賊船だ。大きさは鬼蜘蛛丸達が乗ってきた船には遠く及ばないし、随分と古びている。荒っぽさと腕っ節を誇る潔さは無く、ひたすら粗野な印象を受ける船だった。船の上からはこの無惨な勝利を喜ぶ喚き声が聞こえる。
 だが、重と対峙する男の耳には入らない。海賊船の先頭に数人が現れ、若侍に向かって口々に何かを喚いた。いっぺんに叫ぶ上、酷く不明瞭な発音をする者も多く、重には一体何を言っているのか判らない。
 その時、風に煽られた炎が俄に猛り、背後の大船までも明るく照らした。
 重はあっと息を呑む。船の縁に現れた男達の顔。重の知るところに寄れば、彼らは妖怪の類に違いなかった。
 灯りは直ぐに小さくなり、妖怪達の姿は暗く隠れてしまう。だがその影の中で、彼らのうち数人が怯えるように船の縁に隠れたのが見えた。逆に、手にした小さな松明で自らの顔を照らす者もいた。弱い光でははっきりと見ることはできないが、その男は犬のように深く裂けた口から舌をだらんと垂らしていた。
 重は見開いた目を妖怪蠢く闇の向こうから逸らすことができない。そもそも海に関わる者の多くは化け物の類が大の苦手だが、重の中に湧き上がったのは単純な恐怖だけはなく、後悔や憐憫が綯い交ぜになったものだった。
「毒が命を濁らせた」
 真っ直ぐに重を見つめ、侍は言った。抑揚がなく、物語を読んでいるかのような声だ。
 火が彼の顔を明るく照らし出している。妖怪の容を見たがばかりの重には、その端正な顔は壮絶に感じられた。
 だから、動けない。重の足下にも今に、火がその舌を伸ばしてくるだろう。
「なぜ、お侍様はこのような事を」
 重がこの所業を許し難い悪事であると考えているわけではない。彼も戦場を幾つも生きのびてきている。さっきは舳丸が動いたが、彼も敵の首を取ったことぐらいある。
 だのにこのような言葉が口を吐いて出てきたのは、この若侍に何か不思議な魅力を感じたからだった。いや魅力などと言っては語弊が生じるかもしれない。重が感じたのは、昼間に感じたものと同じ、後ろ暗い面持ちが持つ呪縛のようなもの。
 男の要望は如何にも武家出身の若者であり、これといって特異な点はない。整った顔立ちではあるが、得に珍しい顔でもない。年齢も重と同じくらいだろう。こんな所で出会ったのでなければ、至極真っ当な人間としか感じられないに違いない。その真っ当な人間が、何故このような怨恨を抱く上になったのか。
 今は口を閉ざした老人の言葉を思い出せば、彼自身についての事情はおおよそ想像は付くものの、それは重には受け入れがたかった。自分と同じぐらいの年齢で、真っ当に見える人間が、どうしてこれほど深いところまで潜ってしまえるのかと不安に思った。
 鬱々とした解答しか得られないだろうと判っていても、不安を覚えた時点で、重は彼に問いかけなければならなかった。
 若侍の足下へ、火がゆっくりと燃え広がった。熱いはずだが、彼は対して意に介した様子もなく、ゆったりとした動作で重の方へ一歩前へ進んだ。重の目を見返したままで。
「私は、大名家から孔雀島と銘獨島への使者である」
 予想だにしない返答だった。揺れる灯りでははっきりと見ることは出来ないが、このきちんとした身なりの若侍が羽織った黒い小袖には確かに紋が描かれている。
 銘獨島の海賊へどこかの大名が討伐隊を出したとは重も知るとおりであったが、もう数年前に平定は果たされたはずだ。少なくともこの辺り一帯の交通の不便は解消された。
「化け物の正体は何だと思う。私は見たのだ」静かに男は続ける。
 今も船は燃え続け、その熱さのためか、重はびっしょりと汗を掻いていた。火の粉が飛び散っては風に流される。
「私は見た。孔雀の毒が命を濁らせたのだ」
 ぼっと火が上がり、辺りは夕暮れ時に還ったような茜色に染まった。
「おおい、早く逃げろお!」
 海賊の船から声が上がった。そのよく通る明瞭な声は、重の見間違いでなければ、さっきの犬顔の男の叫びだった。
 若侍が背後の船を仰ぎ見た。船からは梯子が垂らされる。
 きっと船へ戻るのだ。まだ答えは有耶無耶にされたままだというのに。
 引き留めようとして進み出たが、炎が拒む。燃えた小舟は脆く、焼け焦げた舟板がみしみしと軋む悲鳴を上げた。重の踏んだ場所から船が崩れる。男との間に広がった火の壁が、最後の力とばかりに煌と燃え上がった。
 赤い陽炎の向こうに歪む幾つもの顔を見る。
「化け物などどこにもおらぬ!」
 振り返った若侍が叫んだ。明るい海の上、化け物と呼ばれる人々が乗る襤褸の海賊船がある。
「人間だったのだ! だのに打ち殺された。命辛々隣の島へ逃げ出した者共もまた、確かに人間だった」
 海賊船からわっと喚く声が聞こえた。泣き声ではなく、恨み声に相違ない。
「これは生きのびるための仇討ちだ」
 強い叫びが重の耳に届いた。同時に、小舟の崩壊。
 燃える木っ端と共に海へ沈む。じゅっと火が叫んで水に溶けるが、存外、海は冷たかった。

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