人魚の骨拾い 004
荒海
とうとう風が止まったまま夕暮れが訪れた。
「不味いな」
帆を見上げて鬼蜘蛛丸が呟いた。真っ赤な夕焼けの中に二つの島がある。ゆっくりと沈む日は孔雀島の山縁を縁取り、島そのものを赤く染めた。
夕焼けが移り込む水面は、本来の緑色と混じってどす黒い濁り色になる。何所に目を向けても、何となく壮絶な光景だった。
甲板に見張りの水夫が数人並ぶ。中には網問と間切の姿もあった。昼間見た妖怪の死骸を思い出してか、その二人はじっと水面に目を向けている。何かを恐れているようである。
人魚か。鬼蜘蛛丸も船室に置いてある死体の事を思い出す。すると夕焼けの残り火を反射してぬらりぬらり光る波間から、濡れた長い髪を身体に巻き付けた女が、今にも現れそうだった。女は青白く痩せた顔をしている。目は落ち窪んで、酷い絶望と壮絶な怒りのために恐ろしい形相。そしてその身体は不気味にも青黒い鱗に覆われ、下半身は生々しい魚の尾となっている。間切が孔雀島で見たのはそういう女だったらしい。
耳元で白骨の打ち鳴らされる音が聞こえた気がした。それは恐らく白くて脆い、魚か人間か判らないような細い骨だ。その骨があるのは――。
「鬼蜘蛛丸さん!」
最後尾の物見楼の上から呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、東南風がするすると梯子を降りながら肩越しに、
「あれ、見えますか」
と後方を指差しながら言った。指差した先で孔雀島が夕日に赤く沈んでいる。海流と僅かな風で流されているうちに、だいぶん遠く離れてしまった島は、海の上の小さな影であった。だがよく見るとその影の手前に、ちらちらと小さな光りが揺れている。
「私も上に行く」
鬼蜘蛛丸が返答すると、東南風は頷き、梯子を素早く引き返した。その後ろを鬼蜘蛛丸が追う。
上に登って見ると、確かに海の上に無数の光りが揺れている。しかもそれはこちらへ向かってきているようである。
「孔雀島の連中ですね」
東南風が言った。僅かな夕日の残り火で、その光は幾つもの小舟の上で掲げられている灯りだと鬼蜘蛛丸にも判った。孔雀島の港から一直線にこちらへ船を走らせている。乗っている人間の顔までは見えないが、何とは無しに穏やかでない。
「何のつもりだ?」
鬼蜘蛛丸が小さく呟く。風のない黒い海に浮かぶ十数隻の小舟、その上に揺れる小さな松明、良くないことが起こると勘と経験が警告した。
「義丸!」殆ど飛び降りるようにして梯子を下りながら、甲板で武器を整備していた背中に叫んだ。
「へえ」
「物見は出るか?」
「勿論です」
鬼蜘蛛丸は頷き、くるりと振り返って向かってくる船団を指差した。
「ありゃ一体、なんですか?」
「判らんから先に出るんだ」
「へえ、武器は必要ですかねぇ」
話している間にも、怪しげな船団は静かに近づいてくる。だんだん日が落ちて辺りは暗くなっていくが、そのぶん近づいてくる松明の灯りが海を赤くした。
次第にその物々しい様子がはっきりと見えてきた。
「数人必要だな。急げ」
「へい」
船内は俄に騒がしくなった。水夫が武具を抱え、船首の鬼蜘蛛丸の元へ駆けてくる。人を集めていた義丸は直ぐに戻った。航と間切、それと見張りをしていた東南風が後ろに控える。
更にその影で重と舳丸が刀を背にしゃがんでいた。
「このぐらいでいいですか?」
鬼蜘蛛丸は頷く代わりに、既に降ろしてあった物見船にひらりと飛び乗った。
あっという間に船は漕ぎ出された。鬼蜘蛛丸が指示を出してから船員達は目まぐるしく動き回り、船が出るまで或いは百を数えるよりも早かったかもしれない。
鬼蜘蛛丸らを乗せた物見船は一直線に炎揺らめく船の群れへ走った。背後の本船は先程までの騒ぎを忘れたかのように息を潜め、小さな船の上で漕ぎ手の規則正しいかけ声が控えめに鳴る。
近づいてくる船団は不気味に静かで、俯くように暗くなり始めた空と海の間で赤い火ばかりが無数に揺れている。よく見ると彼らは殆ど船を漕いでいない。
「止まれ!」
鬼蜘蛛丸が声を張っていった。水夫は手を静かに止め、そして向かってくる船団もゆっくりと止まった。暗い夕暮れ、両者は計ったようにやっと顔が見える距離で向き合う。
先頭の船には若い男が二人と、見覚えのある老人が立っていた。老人は松明を持っていない。両側に控える二人が持つ松明で、老人の顔は左右だけ不気味に照らされていた。顔の真ん中は穴が空いたように暗い。
松明とは別に、彼らは武器を持っている。敵意は明らかだが理由が判らない。鬼蜘蛛丸はできるだけ穏便に声を掛けた。
「孔雀島の方々とお見受けするが、これは一体どういう事で?」
「どうもこうもないわ! よくも約束を違えたな!」
両側の男が叫ぶ。
「約束というと、積み荷のことでしょうか? 当初の通り、堺の港で受け渡す手はずですが」
「人魚はどうした!」
「人魚?」
あの水子のことだろうか? あれは、さっきも見たが確かに船室に置いてあった。どうした、などと言われる筋合いはない。
「よくも、よくも……」
向かい合う船団の中から声が上がった。押しつぶすような怨みがましい呻り声だ。何を言っているのか、聞き取れない。その声は耳をザワザワと撫で、徐々に大きくなっていく。それは直ぐにわーっと駆け上がって大音声になり、波の音さえ聞こえなくなった。
大群の虫が飛び回る羽音のようだ。聞き取れない無数の呻り声が海の上をうねりる。
あまりの気持ちの悪さに、兵庫水軍豪の者たちでさえ船の上で後じさりしていた。
しかしそれは突然、
「やめや」
という老人の命令で止まった。奇妙なことに、老人はぼそりと呟いただけだったにも関わらず。船上をうごめいていた呻り声が、全く奇麗に消え失せた。
「あんたら、人魚のことを口外したね」
相変わらずねちっこい陰気な声だ。
「私たちは出航してから他の船とは接触しておりませんし、下の者にも話してはおりませんが」
「とぼけないで答えてくれんか。あんたらのとこの、若いのが、あの盗人どもと話をしよったろう」
「盗人?」
「銘獨島の連中さ。よくここいらを通る船を襲っているんだよ。もちろんわしらも被害におうとる。海賊同士、仲の良いこっちゃなあ」
銘獨島の辺りで賊が出ているとは風の噂に聞いていた。しかし大々的な被害は今まで無く、近隣の領主が平定のために使者を出した後は表立った動きは無かった筈だ。
「やはり余所者を信用したんが悪かったね。あれは返してもらおうかい」
「そう仰るのであれば」
鬼蜘蛛丸が怪訝に頷くと、老人は
「いひ、ひひ、ひひひひ」
と歪んだ顔で笑った。それが横から照らす松明で赤く照らされ、それは腹の中でめらめらと燃える炎が顔を解かしているように見えた。
「どうも、因縁が有るらしいですねぇ」
義丸が背後でぼそりと呟いた。確かに老人の顔は憎しみで歪んでいる。恐らく銘獨島との確執があるのだろう。巻き込まれてしまったのだ。若いのが話をしていた、というのが何だか判らないが、とんだとばっちりだ。
しかし、事を荒立てることもない。もともと厄介な代物だったのだ。
「今、取って来ましょう」
鬼蜘蛛丸が水夫に向かって後退の指示を出した。一人が櫂を持ち上げ、それに他の水夫も習う。船が揺れた。
「まちぃや」射すような声だった。「何を返してくれるんか。まさか箱だけとは言いなさんなよ」
鬼蜘蛛丸はまじまじと老人の顔を見た。明らかにこちらを盗人と侮蔑した態度である。
不快だ。
「きちんと中身も併せてお返ししますよ」
一刻も早く彼らから離れたかった。腹の中が沸々茹だる気持ちがする。水夫たちに目配せし、船を引こうとする。しかし、
「やっぱり海賊なんぞ信用ならんなぁ。おい」
やはり射すような声。それを合図に、控えていた若者の一人が松明を落とした。同時にその手の平から黒い礫の様なものがごうと音を立てて飛んできた。
狭い船上では、狙われた鬼蜘蛛丸は飛び退くことも出来ない。あわや顔面を砕くかと思われたそれは、既の所で飛び出した義丸の握った刀にたたき落とされた。
刀に巻き取られた鎖が、びいんと張って二つの船を繋いだ。
「予想通り、ですね」
鬼蜘蛛丸は苦い顔で頷いた。
義丸は巻き付けた鎖を素早く手に握り、ありったけの力を込めて引っ張る。鉄のぎりぎり軋む音が鼓膜を微かに振るわせる。
敵の船上の松明が素早く揺れた。もう一人の若者が鎖の上に飛び乗ったのだ。ぎょっとして、義丸は引いていた手を緩めた。しかしそれよりも早く鎖を蹴り飛び上がり、片手に松明を手にしたまま身軽にこちらの船上へ飛び込んできた。
一間ほどの距離を跳びきるつもりらしい。片手で構えた刀を頭上へ振り上げた。ちらちら揺れる松明が若者の決死の形相を浮かび上がらせる。
対する義丸は、刀に巻き付いた鎖が再び強く引かれ、前方へ体勢を崩されてしまった。
その頭上へ、全体重をかけた一撃が襲いかかる。
浅い夜暗に一閃が煌めいた。黒いしぶきが二つの船の間で吹き出すのが、はっきりと見て取れた。
ざぶんと音を立て、水面へ落とされる。僅か残った力で波間を藻掻いたかと思いきや、あっと言う間に沈んでしまった。水中で藻掻く哀れな音と泡が残るばかり。しかしそれも直ぐに消えてしまった。
その水中から、ゆったりと顔を上げた者がいる。舳丸だ。
水面から高々と手を突き上げる。その手に掲げられた若者の首は血の吹き出すままであった。
果たして討ち取られたのはかの若者の方だったのである。刀が振り下ろされんとした瞬間、水練の舳丸が水中から飛び出し、その胴を横から斬りつけたのだ。
二つの船の間には胴が浮かび上がる。舳丸は首を元の船上へ投げてよこした。
首は船の手前へぼちゃんと音を立てて沈んでしまう。船上に残るもう一人の若者は唖然とその軌道を目で追っていた。他の船の者もほぼ同じ反応だった。
先頭の船に乗っていたのだから、彼が一番か二番の腕利きだったのだろう。それがこの一瞬の攻防で簡単に首を取られてしまっては、意気消沈してしまうのは致し方がない。
ただ一人、先頭の船で老人が憎悪に燃えた瞳を光らせていた。だが他の者が戦意を喪失している以上、最早どうしようもないだろう。
「引き上げるぞ」
吐き捨てるように鬼蜘蛛丸が告げる。そして再び船が動き出そうとした時、水夫の航が「あっ」と声を上げた。