人魚の骨拾い 006

緑の海の下で

 水面は未だ赤く燃えているが、沈み行く先には灯りが無かった。ただひたすら真黒な海の底へ、重は身動き取れずに沈んでゆく。いつもならこの程度の暗がりは平気なのに。見上げる先に動かせない手足が伸び、さらに上では真っ赤な灯りが凋んでいく。
 どうして動けないのだろう。そういえば昼間にも溺れたが、それとは少し違うらしい。あの時は強烈に死を意識していた。今はそれがない。苦しくないのは同じだが、死んでいく感覚が全くないのだ。
 きっと、今は死ぬ時ではないのだ。ぼんやり暗い海の中で、不思議な感覚に陥った。夜明けに夢を見ているような。そうか、これは夢か。
 思うと少し目の前が明るくなった。ほんの少しだけ、視線の先にあるものの輪郭が判るぐらいに。
 海は緑色だった。高価な孔雀石の濃色を詰めたような色。それに遥か上の細い月が、脆弱な光を僅かに差し込んでいる。もう炎の影は無い。燃え尽きた船の破片が、重の上へほろほろと落ちてきた。
 その中に青銅の鎖があった。あの若侍に一撃の下殺された若者が手にしていたものだ。鎖の先についた分銅が、真っ直ぐの軌道を描いて重の額目掛けて落ちてくる。
 危ないと思って鎖を手で掴むと、それは白い骨だった。確かに分銅と見えたのは、節くれ立った細い骨に変わった。
 やがて幾つも白い破片は落ちてくる。この小さな破片は、さっき殺された者達の骨ではない。生まれたばかりに殺された、幼い子供のものだ。
 重は一本の骨を手に掴んだまま、海の底へ潜り始めた。降ってくる骨は、底の何処かへ集まっている。
 底へ底へと潜っていくと、次第に目が慣れて、辺りが良く見えるようになってきた。普通なら底へ潜るほど暗くなっていくはずなのに、今は逆に僅かばかり底の方が明るいような気がする。
 しかしそれも不審には思えなかった。そういえばいつの間にか身体は自由に動いている。
 破片の落ちる先、海底の白い砂の上にしゃがみ込んだ人影が見える。長い黒髪を後ろに垂らし、真白な帷子を着た女だ。女は一つ一つと数えながら落ちている骨を拾っている。骨拾う女。だが下半身は魚ではなく、帷子の裾から白い足が二本見えている。
 海の中でしゃがみ込むなど出来るはずがない。いっそう現実味が薄れ、恐怖も生まれなかった。声を掛ける気にすらなってくる。
 しかし、海の中で、人魚に聞こえるように声を出すことが出来るだろうか?
「どうかなさいましたか」
 試しに言ってみると、口の縁から幾つかの水泡が現れはしたが、思ったよりもきれいに発音することが出来た。女にも聞こえたはずである。
 女は骨を拾う手を止め、立ち上がってこちらを見た。
 落ち窪んだ両目と透き通るような青い頬。口元は薄ら笑っていたが、それがいっそう壮絶だ。しかし恐くはない。
 彼女が重を見上げる眼は悲壮感に満ちていた。それは無き我が子の墓に供える花を摘んでいる母の侘びしさ。両手いっぱいの白い骨は、彼女の子のものなのか。
「みつからないのです」
 女が言った。
「こども、探してるんですね」
「はい。きっと私と一緒に沈められたと、思ったのに」
 彼女が両手をさっと広げた。小さな破片は粉々になりながら、海流に乗って散る。白い骨は光っているようにも見え、海の底は満天の星空のようになった。
 女がすうっと音も立てずに泳ぎだす。両足をぴったりとくっつけた泳法は、なるほど人魚のようだ。間切が見たのは彼女なのか。だとしたら彼も夢を見ていたのか?
 そういえば、この夢の正体は一体何なのだろう。考えてみると判らないことばかりだ。思考に薄らぼんやりとした靄が掛かる。
 隣へ泳ぎ上がってきた女の白い腕が、すっと伸びてきて、その骨と皮ばかりの薄い手の平で重の口はそっとふさがれた。もともと海の中、呼吸は止まっているのだから苦しくはない。しかし何なのだろう、女の顔は長い髪がうねって覆い隠し、何を見ているのか判らない女をぼんやり見つめていると、彼女の白い身体に石で打たれたような痣が所々浮かび上がってきた。
 あっと驚いて目を見開いた時には、女の身体は全身が打たれて腫れた跡だらけにはり、見る影もないほどぶくぶく膨れていた。驚きのあまり、手を当てられた口元から、ごぼっと大量の酸素が盛れる。苦しい。
 とうとう彼女の身体は腐り始めた。合わせた二本の足が熔けてくっつき、魚の尾のような一本になる。
 だがそれもつかの間、腐った肉は直ぐに落ち、あっという間に骸骨だけが残された。
 口元に当てられた細い骨が離れない。しかしそれよりも、いつの間にか酸素の無い苦しさが戻っていた。すっかり忘れてしまっていた間も変わらず身体は酸素を求めていたようで、溜まっていた苦痛が一気に脳へと流れ込んだ心地だった。
 藻掻いて海面を目指す体力さえ既に無い。緑色の靄が重の目に映り、意識は朦朧とか細くなっていく。
 殆ど気を失いかけた重の耳元に、髑髏が近づいた。
「孔雀石の溶けた水は飲んではいけない。濁った命が生まれてしまうよ」
 カタカタ歯を打ち鳴らしながら、囁いた。
 重はその時に、視界に現れた緑の靄が自分の意識の濁りなどではなく、海へ流れてきた孔雀石による濁りなのだと気がついた。


 悲鳴が耳に木霊して、目が覚めた。自分が叫んだのかと思い、何故水中で叫ぶことが出来たのかと混乱した。慌てて喉元へ手の平を当ててみるが、どうやら咽へ流れ込んでくるのは海水ではなく酸素のようだ。
 また悲鳴が鳴る。部屋の外かららしい。
 眠っていた布団をはねのけ、立とうとすると、疲弊した身体が悲鳴を上げた。
「だいじょうぶ?」
 見ると部屋の隅に、青ざめた顔の網問が膝を抱えて座っていた。彼の足下には奇妙な赤い小箱がある。箱を封印する標縄には深い緑の玉が結い付けられ、重はまたぐらりと視界が揺れる気がした。
「外は、どうなってるんだ?」
「銘獨島の海賊が襲ってきたんだよ。積み荷を引き渡せって」
「積み荷って、孔雀石か」
 知らない、と網問は首を振った。
「連中の顔、重は見た?」
「顔?」
 重は聞き返した後に、さっき銘獨の海賊船に乗る男達の顔を見たことを思い出した。それに、悲壮な目をした若侍の叫びと人魚の言葉。
「化け物だった」
 いいや化け物などどこにも居ない。彼らは人間だ。しかし化け物と呼ばれ打ち殺され、銘獨島へ移ったのは孔雀島から命辛々逃げ出した者達だ。そしてその化け物は、孔雀石の溶けた水を飲むと生まれるのだ。
 二島へ使者として送られた若侍は、その事実を知ってしまったのだ。そして何らかの理由でこの呪われた海から離れられずにいる。
 善意或いは正義感の導くままに?
 網問が木箱の孔雀石を指で弾いた。そういえば、箱の中に入っているものを、網問と間切は見たと言っていた。
「その箱……」
 そもそも何でこんなものを、孔雀島の人々は極秘に島の外へ出そうととしていたのか。それまでやっていたのと同じように、海に流してしまえばよかっただろうに。
 多分、これは攻撃的な切り札だったのだ。今後孔雀石の利益に目が眩んだ者達が襲ってこないよう、得体の知れないものの恐怖を周囲に知らしめるため。そして、あの使者が真実を島外へ漏らしてしまわなよう、姑息な脅しでもあったのだろう。そうまでして、利益が止まる事を恐れているのだ。
 重は恐る恐ると箱の封印を解いた。話は聞いていたが、自分の目で中身を見たわけではない。蓋にかけた手が震えているのは恐怖のためか、それとも怒りのためか、重本人にも判らない。意を決して一気に蓋を取った。
「うわっ」と二人同時に顔を背けた。
 箱の中にはやはり人魚の水子。
「やっぱりそうだ」と重が呟く。
「何が?」
「さっき海の中で、こどもを探してる女の人に会ったんだ。夢だったのかどうか、わかんないんだけど」
 網問がぎょっとした風に目を見開く。
「人魚、舳丸と一緒におれも見た……」
「やっぱり!」
 仮に人魚がいたとしても、重の記憶では彼女は海の底、深くにいたのだ。この暗い夜、幾ら火を焚いても海の底がはっきりと見えるはずがない。また潜水が得意な舳丸はともかく、深く泳げない網問が水中を確かに見える筈もない。だから二人が見たというのは、人魚以外の別なものだ。恐らく、女の死体か何か。それは重が夢の中で見たものとも違う。
 だがそんなことは関係無かった。ともかく重も網問も、人魚とこの水子に同じ予測を立てたのだ。
「この箱、勝手に持ち出したのか?」
「いいや、敵が積み荷を狙ってるから、一部を船の方々に移動させたんだ。その時に、判りにくい場所に隠しましょうか、って鬼蜘蛛丸さんに頼んだ」
「じゃ、これはお前が持ってていいんだな」
「うん」
 重はふーっと息をつき、苦悶の表情を浮かべる木乃伊に視線を落とした。
「なあ、この赤ん坊にだって、やっぱりお父とお母がいたんだよな」

 粗方、決着はついていた。重が部屋を飛び出し、甲板を見回した時には、銘獨島の衆で立っている者はもう殆ど居ない。
 孔雀島との戦闘は、彼らが完全に意表を付いた形だったからこそ、あれほど呆気なく勝利を納めることができたのであって、本来戦闘集団の兵庫水軍が身構えて居る所へ田舎海賊が刃を立てても、力の差は歴然であった。
 この小早船へ飛び込んできた者は、殆どが一太刀で切り捨てられ、海に落ちた。
 中には、その妖怪じみた風貌に恐れを成す水軍の者もいないではなかったが、戦闘前の海賊船頭領が行った宣言は結果として見事に彼らの怖気を払拭させていた。望み通りではあったのだろうが、結果は無惨である。
 海賊船の頭領は、重が闇に垣間見たあの犬顔の男だった。
 その男も今は這う這うの体、高らかに「我らは孔雀討伐の義勇軍である」と名乗った頬まで大きく割れた口も血まみれで、とどめの一撃を待たずとも命長らえることは出来ないことが一目見て判る。
 彼らの攻撃は、殆ど自殺行為であった。だが、兵庫水軍の戦力を知らぬ愚かしさが彼らにそうさせたのではなく、やはり何としてでも積み荷を奪い取らなければならない事情があったのだ。
「孔雀石こそ我らの仇である」と、長身の頭領は言った。その石が掘り出される限り、毒を含んだ水が海に流れ出し、彼らのような人間が産まれるのだという。そのため、孔雀島の住民は自分達以外がこの海域に入ることを激しく嫌っていた。船の行き来で、毒の流れ出した海流が変わることを恐れていたのだ。櫓を漕ぐことを禁止していたのはそのためだった。
 彼らの語る内容は、俄に信じられない話ではあったが、確かに眼前に存在する妖怪の海賊達、そして彼らの滅ぼした孔雀島の住民の最期を思い浮かべると、確かに一つ結びつく点がある。そして、この辺りに出没するという人魚。それは目の前の男達と同じく、毒のために異形として生まれた者なのか。
 それが孔雀石の生み出す利益の為だとしたら、あまりに悲惨である。
 しかしそうは言っても積み荷をやすやすと渡すわけにはいかない。容易い人情で揺れ動くような船ではないのだ。水軍の者達にとって、積み荷は命以上に重要な物であり、例え無情と思われても堅固な航海こそが彼らの誇りである。そのため、積み荷を奪おうとする者に対する兵庫水軍の攻撃は、常に苛烈を極めた。
 今既に戦意のあるものは居ない。朽ち木のような海賊船の上に残った者は怯え、降参の白旗を翻している。
 戦陣を切って暴れ回っていた義丸が頭領に向かって刀を向けると、彼は最後の力を振り絞って自ら海へと飛び込んだ。黒い水面に渦が現れ、飲み込まれていく。男は両手を真っ直ぐに天へ向けて伸ばし、祈るように手の平を合わせた。瞬く間に海に飲み込まれた後には、小さなあぶくが幾つも現れる。
「まだやるのかい」
 最期を見届けた義丸が海賊船へ向かって言った。返答は無い。
「せめてお仲間の亡骸を奪い返そうってぇ奴はいないのかね」
 幾つも転がる死体を眺めながら呟く義丸に、鬼蜘蛛丸は眉を顰めた。鬼蜘蛛丸としては、これ以上戦闘を続ける気は毛頭ない。こちらにも犠牲がないわけではないし、第一気持ちの良い戦いではなかった。
「そちらが引くのなら、追いはしません。これ以上戦う意味がない」
 鬼蜘蛛丸の呼びかけと同時に、海賊船が僅かに動いた。生存者の意志は決まったのか、ゆっくりと二つの島の方角へ方向転換している。
 これで終わりか、と水軍の者たちが胸を撫で下ろした所で、海賊船の縁に一つの影が現れた。
 箱を抱えた網問と共に物影に隠れていた重が、あっと小さな声を上げた。
 他の海賊達が島の土民らしい粗野な態をしているのと違い、その男はぴんと張った肩衣を着込み、二折の髷を結った武士然とした身なりをしていた。
 その男は、先程燃える小舟に飛び乗った時と同じ身軽さで、ひらりと飛び上がり、兵庫水軍所属の小早船甲板へ飛び乗った。
 船上は月と松明の薄明かり、潮と血と火の混じった匂い、足下に転がる無骨ななきがら、海賊船の上で身なりを正したらしい若侍の容貌は、不釣り合いで異様だ。
 元来正義感は強と見える整った眉がぐるりと周囲を見渡すと、水軍の者は僅かに怯んだ。
「お侍さん、その紋が本物なら、あんたは銘獨島に送られた使者の一人だね。こんな田舎に留まってるってぇことは、何やら事情がおありと察しますが、既に決着は付いてますぜ」
 伺うような義丸の問いかけに、男は眉一つ動かさずに答えた。
「私の大切な宝一粒が孔雀島の連中に奪われた。帰るに帰れぬ。それが巡り巡ってお前らの手に渡っていると聞いた」
「宝?」
「この世に二つとないものだ。私は奪い返さねばならぬ」
 言い終わるか判らぬ前に、男の右手が素早くひらめいた。
 丸腰と見えた男の袖口から抜き出した幅一寸、長さ八寸の細い銛が音もなく宙を滑り、義丸の右肩に突き立った。
「うっ」と呻いて義丸はのけぞり、握っていた刀を落とした。
 それを合図に甲板に潜んでいた水軍の者が一斉に飛びかかる。一番の手練が避けることも出来ずに銛を受けたことで、皆頭に血が上っていた。
 男の左袖からもう一本の銛が煌めく。一人の胸に突き立ったかと思うと、いつのまにか手元に戻されていた右の銛でもう一人打たれる。銛は細い糸で彼の両手と繋がれており、忍者の使う縄標のように振り回したり、手繰り寄せたりしながら大勢と戦うことができる代物だった。
 だが細い糸は、この闇夜では殆ど見ることが出来ない。彼が紐の付いた投げ銛を扱っていることを知っているのは、重だけだった。その他の者には、男が袖口に幾本もの銛を隠し持っているようにしか見えないだろう。
 飛び出して絡繰りを教えるべきか、重は一人迷った。早くしなければ仲間が多く負傷する。だが侍の方に味方したい人情が現れているのも事実。その上、船上では非戦闘員である彼が戦いの最中に飛び込むことは禁止事項であるという、兵庫水軍内での規定もあった。横にいる網問も水夫であるため、同様である。
 ふと顔を上げると、男の乗ってきた海賊船は既にもう遠く離れ、島へと向かって走り出している。
 見捨てられたのだ。或いは、それは捨て身で単身乗り込んできた彼自身の意向だったのかもしれない。どちらが本当なのか、重には知る術もない。
 だが重にとってはどちらも同じ、孤独に戦い続ける男の姿に、胸を締め付けられるような痛みを感じた。男は重にとって命の恩人であるが、ほんの一瞬、言葉を交わしただけの相手だ。
 しかしこの船上で、彼の燃え上がる悲しみを見たのは、重一人だけ。
 どんなに彼が腕利きだろうと多勢に無勢、船の先頭へ追いつめられた所で、重は矢も盾もたまらなくなって、隠れていた物影から飛び出した。
 ちょうど、高く振り上げられた刀が二つめの三日月のように煌めいた。細く強い輝きに、その下の戦いは押しつぶされたような闇が眩くて見えない。
 肩を庇いながら武器を握る義丸が、飛び出してきた重に気がついた。何かを叫ぶ。聞き取れない。
 重の口も何かを叫ぼうと喘いだが、何を叫べば良いのか判らず、荒い呼吸が通り過ぎるばかりだった。ただ両足は懸命に船を蹴っている。
 しかし僅かな月光、か細く揺れる松明の光、足下に転がる亡骸を避けながら走るには、あまりにも不安だった。ぐにゃりと柔らかいものに躓く。前のめりに倒れこもうという時、闇の先が晴れた。
 突如、重は真昼の太陽が月と入れ替わったかのように感じた。きれいに開けた視界のその先に、血の滲んだ着物を纏った侍の姿が見えた。驚き、目を大きく見開いた男は、死体に足を取られ転倒する重に向かって手を伸ばした。かつん、と銛を落とした音が鳴る。
 それは殆ど自動的に行われた動作だった。
 何も言うことは出来ない。
 二つめの月が、弧を描いて落ちてくる。
 それは鬼蜘蛛丸の一撃だった。頭上高く振り上げられた刀で、肩から袈裟懸けに打ち下ろされる。
 鈍い音がして、男は後ろにのけぞった。そこへ追い打ちの突きが胴へ吸い込まれる。
 上体を仰け反らせたかと思うと、青年はあっというまに船から転落した。
 重は船体へ強かに身体を打ち付けたが、痛む余裕もない。すぐに立ち上がって船の先頭へ駆け寄った。下を覗き込むと、闇の中で確かに藻掻く水音が聞こえる。
 重は反射的に海へ飛び込もうとして、船の縁へ飛び上がった。だが後ろから伸びてきた鬼蜘蛛丸の手で船の上へ引き戻される。
「網問!」
 重は懸命に叫んだ。すぐに後ろから走ってきたらしい網問が姿を現した。重に遅れて、網問も既に走り出していたのだ。
「何を」
 と言いかけた鬼蜘蛛丸を振り切って、重は網問が抱えていた木箱を奪い取った。
 真っ赤な木箱に結い付けられた緑の石。その封印を力任せに引っ張り、勢いよく海面へ投げ飛ばした。
 緩んだ縄の間から、箱が滑り落ちる。空中でその箱は中身をまき散らしながら四散した。赤く四角い影が二つ、ひらひら舞うのは緑色に染められた藁、縄に結わえた孔雀石、そして小さな亡骸。
 乾涸らびた水子の落ちる先に、父が両手を広げて待っている。
「淋之助!」
 海の渦に飲まれながら、男が叫んだ。
 重は身を乗り出して海面を見つめるが、真っ暗で何も見えない。幾つも水音が鳴り続けるが、それは水面に赤子が落ちる音か、父が藻掻き続ける両手の音か。
 後ろから鬼蜘蛛丸が松明を照らした。ぼんやりとした光が海を赤くした。だが既に、水面に残っていたのは赤い木箱と薄汚い藁だけだった。そこに男の姿はない。
 幾つもの気泡が水面へ現れては消える。
 我が子を抱いて沈む男は、海の下でどんな光景を見ているのだろう。暗闇の水底で、人魚に出会った夢を思い出す。僅かに照らされた海の下で、重が昼間に見たように、びいどろのような美しい海を、彼も見つめているのだろうか。
 天へ向かって昇る幾つもの白い泡は、命の玉だ。やがてその数は少なくなり、ついには、一つも現れなくなった。

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