人魚の骨拾い 003

揺られる木の葉

 ゆらゆら拠ん所なくたゆたう感覚が何とも不思議な心地だった。視界が太陽の中のように真っ白い。目を開けているのか閉じているのか判らないが、時折虹色の切片が横切っていくのはまるで夢の中の光景。しかし極楽浄土に辿り着いたにしては、酒も女も何もない。これはいけないな、行く場所を間違えたか……とぼんやり考えていると、細波の鳴き声が聞こえてきた。
 はて、死してなお海の側にいられるのだろうか。いやいや、そうでない。どうやら助かったのだ。
 眩む目を庇うように掌を顔に乗せてみると、サッと視界が暗くなった。ゆっくり瞼を持ち上げると、自分のちょっと赤らんだ手が見えた。
 指の隙間から陽の強烈な白が見える。遮るものの無い海上で頼り無く浮かぶ小舟に、お天道様は目一杯の陽光を打ち付けていた。日は真上。こうなると多少暑すぎるようにも感じられた。
 側に人の気配がする。
「おうい」
 大声で呼ばわってみるが、返事がない。耳に届くのは波の音ばかりである。確かに人の気配はするのだが、あまりに反応がなく不気味を通り越して不思議だ。

 溺れた疲れからか起きあがるのも億劫な身体を、えいやと奮い立たせて起きあがると、景色が滑らかに流れて、真っ青な空から緑の島が二つ顔を出す。小舟が怯えるように揺れた。
 島の周りには海鳥が旋回し、雲が流れている。あまりにものどかな風景で、重は思わず船で聴いた妖怪騒動も、あまつさえ自分が溺れていたことさえも忘れてしまった。
 そののどかな風景にはめ込まれたかのような、きちんとした身なりの男が目の前に座っている。重が起きあがったのも気に掛けず、じっと二つの島を見つめている。剃り上げられた月代が青々とした、まだ若い色男だ。年期の入った小舟の上に正座し、腕組みをしてじっと黙っている姿にどことなく風情があり、荒くれの海にはあまりにも似付かわしくない。何やら物憂げに眉を顰め遠くを見やる横顔は端正だった。
「あの」
 重が控えめに声を掛けると、男は一呼吸置いて振り返った。
「助けて頂いてありがとうございます」
 深く頭を垂れる。頭を伏せていても、相手がこちらに視線を向けているのはわかるが、幾ら待てど何も返さない。仕方なく顔をのそりと上げると、男はまた視線を明後日の方向に向けた。
 相手は唖なのだろうか、と重が考えていると、男は顎をしゃくって視線を促した。
 重の後ろに、黒く尖った小早船が近づいていた。あっと声を上げると、男は微かに頷いた。
「濁り命の毒を吸ってはいけない」
 低い声で男が言った。見た目通り、すっきりと通った声だが暗い。
「海賊の一味か」
「はい。水練の重と申します」
「水練?」
「泳ぎ手です。さっきは溺れたりしてみっともない所をお見せしてしまったんですが……」
 誤魔化し笑いをする重を見やり、男はきゅっと眉を顰めた。
「この辺りの海には孔雀の毒がある。泳ぐと命が濁ってしまうぞ」
「はあ」
 迷信めいた話だ。曖昧に頷くと、男の顔が更に険しくなった。腰に刀こそないものの、見たところそれなりの腕前ではありそうだ。
「それはそうと、助けて頂いたのに名前も知らないではお礼も出来ません」雲行きを見て話題を変えた。「失礼ですが、このへんの島民ではないようですね」

「地位も名も失った、ただの武士だ」
「戦ですか」
「いや、もっと恐ろしいものだ」
 背後に船が近づいてくる。いなくなってしまった重を追いかけて走ってくれているのだろうが、どうしてか重本人はこの場所を離れがたいと思った。
 この物憂げな青年の持つ、何とも言えない暗い部分が、二つの島が見える小舟の上に呪縛のようなものをかけている。
「恐ろしいもの?」
 聞き返さずにはいられなかった。
 男は一文字に結んだ口を僅かに開き、薄く呼吸を繰り返してから下唇を噛んだ。隙間から白い歯が見えた。
 それから男は、このぴいんと張りつめた空気を綱渡りするように、ゆっくりと口を開いた。
「人魚、ここいらの妖怪よ」
 怒りと悲しみの入り交じった表情で男が呟いた時に、重ははっとして息を飲んだ。その人魚は赤子ではなかったか? 問いかけが咽の奧に引っかかって、飲み込むのに難儀した。
 そんな重の姿に、男は何かしら感じるところがあったらしい。片方の眉だけを憎々しげにぴくり動かし、突然饒舌に喋り始めた。
「女の姿をしているとか莫迦げた話をする輩もいるが、そんなものは誰かの吐いた嘘だ。いやそれこそ幻だ。人魚などという妖怪は精神の病んだ連中にしか見えんのだ。これを幻と言わずして何という」
 まるで腹の中の汚いものを吐き出すかのように、濁りきった物言いでつらつらと捲し立てる。さっきまでは上品に見えた男の顔が、いまではそれこそ鬼のように恐ろしい形相となっていた。
「おれから全てを奪った妖怪というのは、女の人魚でもなければ赤子の人魚でもない」
 重は益々驚いて目を見開き、じいっと男の顔に見入った。鬼の形相だが、しかしそれは怒りに燃えたまっとうな男の顔に違いなかった。
「きゃつらは海と生きる魚でなく、地を敬う人でもない。人魚などと呼び恐れるなんぞお笑いぐさだ。あれは海の毒で命が濁ったのだ。全く汚れきった悪辣な連中だ」
 全ての嫌悪を吐露するように、男は淀みなくも濁りきった感情をつらつらと捲し立てる。
 だがその話を聞くにつれ、重は段々と哀れに感じるようになってきた。人魚の正体が何なのかさっぱり見当はつかない。しかし目の前の青年が不幸な事件に遭遇し、多くのものを奪われたのだという事は、想像に難くない。口を吐いて出るのは恨み言だが、それは深い怒りと悲しみが変質したものだと知っている。
「おーい、生きてるかぁ!」
 近くで誰かの声がした。助けの船が随分と近くにいる。続いて数人が口々に何やかやと叫んでいるのが聞こえた。それで重は元より、男の方も何かの呪縛から解放されたかのように、はっとして視線をお互いに交わした。正しく言えば、二人とも相手の向こう側を見ていた。蒼穹を走る黒い海賊船と、蒼海に浮かぶ緑の二子島。
 妙に日の光が眩しい。
 重は深々と手をつき礼をすると、くるりと後ろを振り向いて海に飛び込んだ。
「水を飲んではならぬ!」
 水中で男が叫ぶのを聞いた。その通り、重は一度も呼吸を取らず一呼吸で小早まで泳ぎ切った。

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