人魚の骨拾い 002

毒が濁り命と銘を打つ

 人魚の正体には諸説有るが、よく言われるのがオオサンショウウオやデュゴン、マナティである。どれもずんぐりとした体型のほ乳類で、川や海に生息している。デュゴンなどは子に乳を与える様子が人間ソックリであるから、遠目に見れば足一本のまるまる太った女に見えるのだろう。他に、リュウグウノツカイなる深海魚も人魚の正体だと言われるが、髪が生えている以外には見間違える要素が殆ど無いので、要するに見間違えた船乗りがよっぽど情に飢えていたという事だろう。
 世界最初の人魚目撃禄は「アイルランド王国年代記」に登場する。「半身は乙女の姿、下半身は魚の尾、手に水掻きがあった」との事から、やはり男衆のみの長い船旅に疲れた船乗りが、海の生物に幻影を見たというのがそのオチだろう。
 日本の場合、近世西洋の影響を受けるまでは「人魚」といえば手足の生えた人面魚という不可解な生物のことである。これは中国の影響を受けているのが明らかで、「山海経」や「三才図会」にその原型が見られる。ちなみにこれらの書物に掲載された「人魚」とは明らかにオオサンショウウオだ。
 もう一つ、人魚の正体として考えられるのは「人魚体」である。奇形の一種だ。
 両足が二つに分かれず膝と爪先が後ろを向いている。母御の腹の中で相当早い時期に発育が止まったもので、生きて産まれることはない。
 その赤子の遺骸は全く、人魚のように見えるのである。

 板戸に耳をくっつけていた網問と間切が、立て付けの隙間から順番に中を覘き、顔を真っ青にした。
「あれ、人魚の子供?」
「わからねぇ、ちょっと遠すぎる」
 だがもう一度覘いて確認するほどの勇気はないらしい。
「気持ち悪いなぁ。一体、何であんな物積んでいるんだろう?」
「水夫の立場じゃ、立ち入った話は聞けないしよ、だいたいあの様子、秘密も秘密って感じだな」
 そこで、誰かが廊下を歩いてくる気配がした。二人は慌てて足音を消し、逃げるように立ち去った。
「気になるね。孔雀島の、人魚かぁ。ほんとかな?」
「おれは実際に見たんだ」
 などと言い合いながら、暇を持てあました水夫連中の所へ戻っていった。

 風が回ってこない。この時代の船は不便な代物で、外海の航海の際は、風を待って十数日も立ち往生することも多かった。
 瀬戸内なら海流があるため、小さな船ならばまだ何とかなる。まして今回訪れたのは海図の点で表されるような小さな島だ。巨大な軍船で来るわけにもいかず、小早という殆ど装甲のない船にわざわざ帆を取り付けてやってきた。
 小早はその名の通り小さく早い船で、普通のこの時代の船と同じく櫓でもって人力エネルギーで走行する。そのための水夫だ。風はさほど重要ではない。
 だが今は船頭の四郎の命令で、風を待って停泊している。わざわざ帆を立ててきたのにも理由があって、外海に出る警戒もあるのだが、それよりも人の問題だった。
 人間の。つまり水軍の櫓に対して不服申し立てする者がいたのだ。
 話は少々遡るが、今回兵庫水軍が孔雀島を訪れたのは、何ら後ろめたい理由があるでもなく島の鉱山で産出される孔雀石の運搬のためだった。孔雀石は、英名でマラカイトと呼ばれる緑色の柔らかい鉱石で、日本画に使用する岩絵の具の原料ともなる。この時代でそうした使い方はなされていなかったが、とにかく高級品である。通常は大切丁重に、孔雀島の船乗り達が堺の港まで運搬していた。
 ところが今年に入ってからの台風で、船が全滅したという。そこで代わりに、ということで信用のある兵庫水軍に白羽の矢が立った。
 運搬するのが高級品であれば、報酬も当然高くなる。意気揚々と船を出したのだが、その時少々不思議な条件を出された。
 孔雀島周辺の特定の地点で、決して櫓を漕ぐなというのである。こんな条件は全く予想外で、一体何のつもりだろうとお頭兵庫第三協栄丸と四人の重役は頭を捻ったが、相手は複雑な海流であるのでその方が良いのだ、と言うので訝しがりながらも了解した。
 そのため代わりに帆を張り、小舟での出航であるというのに重役の四郎と鬼蜘蛛丸が乗り込んだ。乗せてきた水夫を初めとする水主も精鋭ばかりである。
「大仰なことになりましたねェ。ちょっと何か、ただならぬ感じがするじゃぁないですか」
 船出の前日、停泊している帆を取り付けられた小早を見上げて義丸が言った。その時鬼蜘蛛丸は陸酔いに参っていたため聞き流していたのだが、果たして実際ただならぬ予感は当たっていたのだ。
 島で押しつけられた、尸だ。
 宝石を受け取りに行って、よもや死体を掴まされるとは夢にも思わない。というと嘘になってしまう。名だたる豪族兵庫水軍、外海に赴けば近海をうろつく倭寇と呼ばれる法無しの海賊共と、一戦交える事もある。
 倭寇と兵庫水軍とでは戦法が全く違う。このころ最新の火薬技術を取り入れた兵庫水軍の戦法はユニークで、大抵の倭寇は近づく事も出来ずに蹴散らされる。だがひとたび倭寇に船を寄せられると、見る見るうちに縄がかかる。上ってくる戦闘員を一人でも乗せてしまうともう終わりで、残らず虐殺されてしまうという。どちらが勝利を収めようと、逃げ場のない海の上の特性上、数多くの死体が海の藻屑と消えるのは避けられない。
 そういう意味では、死体を掴むという可能性は最初から考慮の上である。荒くれの海の相手を生業とする海の男達だ、大抵のことには恐れ知らず。
 だがまさか怪物の赤子はよくよく見ない。その上縁起を担ぐ水軍の性質上、妖怪話は一種の真実だった。
 厳めしい顔ッ面の島民に赤い箱を渡された時は、鬼蜘蛛丸、由良四郎の二人だけだった。後ろは小さな港であり、そこに彼らの自慢の船が停泊してある。積み荷を終えて皆が乗り込んだ後に、頭二人が捕まった。
 皆一様ににこにこと笑っていた。だが不自然に凍り付いたような視線だけが、ぞくっとするような印象を与えた。そういう目をした島民が、後から後から出てくる。先頭に立った老人は誰よりも人当たりの良さそうな笑顔を浮かべていたが、やはり目だけ、ぬっとりと陰気に燃えていた。
「ついでにお願いしたいことがあるんだけどね」
「へぇ?」
「大したことじゃないんだよ」
 そう言う間にも、どこに潜んでいたのか、住民がわらわらと出てきて二人を取り囲む。皆同じようににたにた笑っているのがまた気持ちが悪い。
 そして、これをどこどこの大名に届けるように、と言って真っ赤な箱を突き出した。
 流れ出した女の経血で染めたかのようなどよんとした赤。
 ぎょっとして、由良四郎も返答に詰まった。だがそれも意に介さず、老人は口の端をにぃぃ、と吊り上げて笑った。
「この辺の海には人魚がいるんだよ。気をつけてな。はっはっは」
 愛想笑いのつもりだったのだろうか。皺だらけの顔を口がぱっさりと切り裂いたように見えた。真っ赤な口内が覘いて、あたかもどす黒い血があふれ出しそうだ。老人が笑い声を上げると、住人達も示し合わせたかのように笑い始めた。
「あっはっはっは」
「うふう、ふふ、うふふ」
 男も女も、みんな笑う。地獄の入り口かとも思える。あまりの光景に、さしもの鬼蜘蛛丸の陸酔いも一瞬にして回復した。酔い以上の不快感を感じたのである。由良四郎の方も、暫く打ち付けられたかのように身動きが取れなくなってしまった。
 そうしてまるで催眠にでも掛かったかのように、二人は予定外の積み荷を認めてしまった。

 狭い船室ではむさっくるしい下っ端の水主や水練の者たちが暇を持てあましていた。出港の許可が船頭から出ないのだ。海上ではなにもすることがない。娯楽の類は誰かが持ち込んだ賽子ぐらいしかない。それも乗船中は賭け事を禁止されているので、振ったところですぐに飽きる。
「張り合いがねぇよな」
 重が賽子を一つ、明後日の方向に投げ飛ばした。横になっていた舳丸の耳元に落ちて、軋む床に転がり落ちて乾いた音を立てた。舳丸が目を覚まし、何度か瞬きをする。眠気に曇ったままの目で天井をちろりと見ると、重が座ったまま膝で枕元へやって来た。
「網問と間切の話、ほんとかな」
「さぁ……」
 殆ど寝言で呟いて、また目を閉じた。船が揺れる。睡眠に陥る一瞬の思考の揺れだったかもしれない。
「恐い?」
「知らねえよ」
「おれは恐くない」
「なら騒ぐな……」
 暇つぶしに付き合う気はないらしい。重はふん、と鼻を鳴らしてそれ以上絡むのは止めた。
「東南風ぃ、風はどうだった?」
「静かだ。暫く立ち往生するしかないな」
「そうかぁ」
 重はふと考え込んだかと思うと、俄に立ち上がった。
「どこへ行く」東南風が声をかけた。
「暇だから潜って何か捕ってくる」
「腹の空く時間帯でもないが」
「食えない魚が彷徨いてるって話だからさ」
 思い立ったが吉、とばかりに重は素早く船室から駆け出した。
「海流が激しいぞぉ」
 東南風の声に合わせるように、船がぐらんと揺れた。だが既に甲板へと駆け上がってしまった重の返事はなかった。
「大丈夫かな」
「どうした?」
「重が泳いでくるってよ」
「化け物がいるって話だのに、むちゃくちゃだ」
 待機していた水主達が口々に噂を始めた。船頭室から網問と間切が持ち帰った恐ろしい妖怪の話は、既に皆の知るところだ。だから幾ら暇だからといって、今泳ぎに出るという重の行動の無謀さは誰でも知っている。
「食われるんじゃないか」とか、
「変なものを連れて帰ってくる方が厄介だ」
 とか、薄ら寒いような、現実とも非現実とも判断が付かないような怪談話が船室に波を打つ。するといつのまにやら網問と間切の二人が、ちょっと前と同じように皆の中心に座って、仕入れたばかりの情報に尾ひれをつけつつ話をし始めた。
「鬼蜘蛛丸さんの話では、人魚に見つかると海に引きずり込まれるらしい」
「凄い別嬪さんなんだってよ。重、ほんとに危ないかもな」
「でもお前らが見た赤ん坊の人魚は、死んでたんだよな?」
「カラカラに乾涸らびて、木乃伊みたいになってた。でも妖怪って死ぬのかな」
「おいおい、まさか生き返ってこの船で……とか」
 恐ろしや恐ろしやと言いながらも、皆聞き入ってしまう。恐ろしい物見たさというやつだろうか。だとすると、駆けていった重にとやかく言う事は出来ない。天真爛漫な重が人魚を恐い物と認識していたかどうかは定かではないが。
「人魚より、恐ろしいものがあるだろ」
 一人輪から離れて横たわっていた舳丸がむっくりと起きあがった。

 秋空の気温はもう低まってきているが、陽光があるから泳ぐには申し分ない。
 凪の空は雲一つなく広がっていた。甲板に立つと、遠くに二つ連なる島が見える。
 孔雀島と銘獨島だ。孔雀島は島の中央に濃い緑を纏った山がそびえ立ち、海岸沿いには民家が並んでいる。停泊している船が波間に揺れているが、こんな良い天気だというのに人影はない。
 銘獨島はどちらかというと平たい感じの島で、どうしてか海岸沿いよりも中央部の方に村を形成している。同じように港として使われているらしい小さな入り江に船が幾つか浮かんでいる。だがそれも孔雀島よりも一回り小さく、数も少ないような感じがする。どうも立派な孔雀島に、銘獨島がくっついて何とか生息している、といった印象がある。
(どちらにしても、陰気な所だ)
 こんなに良い天気なのだから、戸外に出て漁なり何なりすればいいものを。人魚とやらを恐れているのだろうか。
 弱い風を受けながら、波の機嫌を伺っていると、銘獨島の方に人影を見た。
 遠くてはっきりとは判らないが、男が一人森の裾から出てきて、小舟に乗り込んでいる。一人漕ぎ出した船はゆらゆらと意志もなく漂っているように見える。
(一体何だろう? あいつは銘獨の人間なんだろうか)
 一瞬のためらいもなく、重は波間に飛び込んだ。

 甲板から水面までは結構な距離がある。そして木っ端のような彼の身体など容易く流してしまいそうな、強い海流が支配する区域が近くにあった。だがそれが全く恐ろしくないのは、彼が透明な海に強く息づく命の鼓動を感じるからだろう。
 全身を水に包まれて生物としての熱を奪われる。だのに何故か、海が持つ比類無い力が肌からしみ通ってくるような気がする。
 一度深くに落ちた身体を浮かべて、波間から重の頭が覘いた。
 遠くに木の葉のように小さな船が見える。相変わらず頼り無げに浮かんでいる。重は両手を水中で真っ直ぐに伸ばした。あの船の方角へ、勢いよく泳ぎ出す。
 泳ぎに優れた水練の一、重はあっという間に小舟との距離を縮めていく。
 有る程度近づいた所で少し潜り、感づかれないように遠回りをする。
 何となく、近づいてはいけないような気がしていた。禁忌的な薄ら寒い感じではなく、見知らぬ人間の行動を監視してしまった後ろめたさから。近づいて気がついたが、船乗りの男は随分と深刻そうな顔をしていた。
 重が小舟の真下へ辿り着いても、頭上の船底はただゆらゆらと揺れるばかりであった。漁を始める気配もなし、いよいよもって不審だ。やはりどうしても気になる。
 また少し離れて様子を見ようかと、来た方と逆に泳ぎだしたその時だ。
 頭を横殴りにされたかのような、強い衝撃を受けた。痛いと思う間もなく、あっと思った時にはすでに視界が一変していた。
 青と緑の光の中を、白く輝く玉が幾つも飛んでゆく。重を閉じこめたびいどろのような世界は、ずっと遠くから強烈な光が差し込み、玉が現れるたびにちらちらと揺れては光った。
 美しかった。見慣れた筈の下から見上げる青と緑の水面は、どうしてか胸が痛くなるほどに美しかった。
 蓄えていた酸素が口から溢れ出しているのにも関わらず、不思議と苦しくない。透明なあぶくが光る水面に登るのを見つめていると、息のできない苦しみは感じなかった。
 さっき自分を殴ったのは突然発生した渦だったのだろう。もう遠くへ行ってしまったのか、もう姿はない。そのために、目に見えるのは美しいものばかりだった。
 このまま溺れて死んでしまうのかと思うと、情けない気が少しだけした。天下の兵庫水軍、水練の者がおぼれ死にとは。しかしいつかはそういう死に方をしたのだろう。今でなくとも。
 ごぼっと大きな泡が飛び出した。酷く疲れる。もうそろそろ目を瞑る頃合か。
 海の美しい情景が名残惜しかったが、身体の奥の方で目を瞑れと言っているのに逆らえない。
 最後に見たのがこの美しい海なら本望だ、と思いながらゆっくり目を閉じた。
 その最後の視界に、木の葉のように頼り無げに揺れる小舟の影が映っていた。櫂が射し降ろされる。
 それに手を伸ばしていたのは、無意識だった。

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