人魚の骨拾い 001
骨拾う女
人魚が出るそうである。真っ青な顔をして、網問が報告してきた。
「人魚って言うと、半分人間で半分魚の化け物の事か」
「なら魚人でもいいなァ。で、魚人っていうのは、何か悪さをするのかい」
鬼蜘蛛丸は真面目腐った顔で問い返した。そこに義丸が茶々を入れる。船室の壁に四角くくりぬかれた窓から、日が沈んでいく茜の海が見えた。
「おれが見たんじゃないです。さっき、擦れ違った船の漕ぎ手たちが噂してたんです。骨拾いの人魚が出るぞ、と」
「骨拾い。これはまた、聞いた事のない話だな」
眩く光る茜色の海へ視線を投げて、ふうん、と鬼蜘蛛丸は頷いた。
人魚の伝説といえば、ここ兵庫が始まりだ。「日本書紀」に「秋七月に、摂津国に漁父有りて、罟を堀江に沈けり。物有りて罟に入る。其の形児の如し。魚にも非ず、人にも非ず、名けむ所を知らず。」という記述がある。「また、二十七年の夏四月の己亥の朔王寅に、近江国言さく、「蒲生河に物有り。其の形ひと如し」とまうす」との部分もある。つまり7世紀の推古天皇の時代のことだ。
その後「嘉元記」や「廣大和本草」にて八世紀から十世紀辺りの人魚伝説が登場する。中世になると、人魚が現れるのは不吉な出来事とされるようになった。
「お前、人魚ってのはどんな姿をしているかは聞いたか?」
「判らなかったです」
「判らない?」
「難しい言葉で、よく判りませんでした」
「ああ、そうか」網問は流れ子で、拾われた時には言葉もままならなかったのだった。「でも人魚って言うのは聞いたんだな?」
「はい」
この頃の船乗りの間では化け物話もある種の真実だ。鬼蜘蛛丸は「判った、気をつけよう」と返事をして網問を追い返した。
「外国じゃあね、人魚っていうとセイレンって名前で、美しい女の姿をしているそうですよ。そっちなら是非出てきて貰いたいなァ。清廉なるセイレン、っていうね」
「その話なら私も聞いた事がある。清廉どころか、美しい歌声で海に引きずり込んで食う化け物らしいぞ。海の底で息を詰められながら夫婦になるのがいいのか?」
「そりゃ恐い。真綿を準備しておかないと」
義丸は態とらしく体を震わせて、耳をふさぐ真似をした。「意地汚い女に捕まる事ほど、恐ろしい事はありません」
意地汚い女に捕まった経験が無かったため、鬼蜘蛛丸は曖昧に笑って返した。
「しかし、どこから話が洩れたんでしょうねぇ」
「さっき孔雀島から出る時に隣の島の船と擦れ違っただろう。近場だから、知っていてもおかしくない」船室の隅に重要そうに置かれた木箱に目をやった。「あれは、あの船は銘獨島の陰気な連中だった」
鬼蜘蛛丸は船の上だというのに、気分が悪そうに口元に手を当てた。孔雀島での出来事を思い出したのだ。
しかし上の者がそうして不快そうにしているというのに、義丸は全く気にも止めず、呑気な様子でぽん、と自分の手と手をたたき合わせた。
「はあ、なるほど。擦れ違った船の漕ぎ手ね」
「何だ?」
「いやね、網問のやつ日本語がまだ怪しいなと思いましてね。「擦れ違った船の漕ぎ手」って、うちの船の漕ぎ手と擦れ違って聴いた話なんだと最初思ったもんで。だから何だというわけではないですが」
「内の噂か外の噂か、大問題だ」
「それもそうですね。今回は外の噂って事ですが、だからって内と関係ない事でもないですし」
義丸は鬼蜘蛛丸の視線の先にある木箱に人差し指を突きつけた。真っ赤に染められたばかりらしく染料と木の香りの立ち上る真新しい物品で、立派なしめ縄で封をされている。縄には緑の孔雀石が飾りに付けられており、箱本体にも孔雀石から作られた緑の染料で模様が描かれていた。酷く崩されてはいるが、梵字(悉曇文字)に間違いない。
当然鬼蜘蛛丸を初めとする兵庫水軍の乗員の中に梵字を読める者はいなかったが、そのおどろおどろしい意味は見れば何となく判る。中身を一度見たのならば尚更だった。
「気味の悪いモン、預かっちゃいましたね」
言ったあとで苦笑し、突き立てた人差し指が箱に振れる直前で引っ込めた。流石に気味が悪くなったらしく、その人差し指の先に汚れが無いか確認するように用心深くじいっと見つめた。
「我慢しよう、陸に着いたら直ぐに御祓い箱だ」
「文字通り御祓いして頂かないと、呪われそうで恐いですよ」
もちろん鬼蜘蛛丸はそのつもりで言っていた。
本当はすぐに収集家の大名に届ける手はずになっているのだが、それよりも先に不浄を洗い落とさないと気味が悪い。不浄の塊であるこの箱の中身もそうだが、こうして一室の中で既に一刻半ほど同じ空気に晒されている自分たちの身に不浄が乗り移っていそうだった。
そんなところに寄りにも寄って、網問の「骨拾いの人魚」という報告だ。普通ならそんな根拠のない、デマとも何とも判断の付かない話は大問題としては扱わない。思慮深いのも危険なのだ。
しかし今はこの赤箱の事がある。関連させて考えない方が不可能だった。報告してきた網問が積み荷の中身を知らされていない下の者だというのが、さらにこの二つの話の気味の悪さに拍車を掛けた。
さらにこの時代では、人魚の出現は不吉な出来事の前触れとされていた。二人が不気味な妄想に一瞬取り付かれたのも致し方がない。
その時、縄に括り付けられた大玉の孔雀石がぬらりと光った。船室の扉が開いて、赤い夕日が差し込んだのだ。緑石と茜日が合わさって濁った色に輝いた。
「呪いがあるとすれば、もう既に始まっているのではないかな」
船室に入ってきたのは由良四郎だった。凪のため、船が止まった。船頭の四郎は暫く休憩となる。
「どういうことですかい」
義丸が訝しく問うと、四郎は笑った。化け物を恐れる若い船乗りが、微笑ましく思えたのだ。四郎は二人より一回り年がある。その分、多くの事故や突拍子もない事件の体験がある。化け物騒ぎももう何度目か、という所である。
「間切は既に見たそうだよ。骨を拾う人魚」
でっぷりとした顎を撫でながら言った。義丸と鬼蜘蛛丸はちょっと言葉を失った。
「足は魚のように一本だけでばたばたと泳ぎ、浮き上がっては髪を振り乱して泣き叫ぶ」
四郎は淡々と続けた。
「そういう女が、孔雀島の港にいたそうだ。あんまり海の深いところまですいすいと泳いでいくもんで、幻でも見たかと思って誰にも言わないでいたらしいが、網問が人魚、人魚と騒ぐので臆病と思いながらもつい口にしてしまったんだと」
「孔雀島の方ですか」
「そうらしい。鬼蜘蛛丸さん、丁度あんたがあれを受け取って、船に乗り込んだ頃だそうだ」
「すると、鬼蜘蛛丸さんは気付かなかったんですか」
「そう言うな。陸酔いが酷かったんだ」
鬼蜘蛛丸は情けない様子で眉を八の字に曲げた。
「でもなあ、鬼蜘蛛さん。結果的には良かったんじゃないかね。だってあの島の者から早々に解放されたわけだし、こいつは良い値が付きそうじゃないか」
「そうですかねェ。わたしにはちょっとそうは思えませんよ。何しろ中身が……」
「荷物にケチを付けるわけにはいかんだろう。慣れだ、こんなもんは見慣れれば大したことはない」
そう言って四郎は赤箱を手に取った。
げっと義丸が後じさった。
「水死体より可愛いもんじゃないか」
「乾涸らびた水子なんか可愛いわけがないでしょう! それに、その子は足が無い」
鬼蜘蛛丸は海の上だというのに、明らかに青ざめて叫んだ。
箱は島より持ち出された際には堅く封印されていたが、好奇心に負けた義丸と鬼蜘蛛丸は一度その箱を開けている。四郎が標縄の一旦を引っ張ると、緩い封印が簡単にほどけ、孔雀石が落ちた。船室の床に当たってカチンと音がした。
「うっ」と義丸が戻ってきた胃液と唾を飲み込んだ。
箱には緑色に染められた藁が敷き詰められている。その藁に囲まれて、一本足の赤子の木乃伊が納められていた。