ラビリンス・ヒーロー 021

 驚いた。TAMURAが開いた戸から、人が飛び込んできたからだ。
「ん? ここはどこだ?」
 飛び込んできたその人物はキョロキョロと当たりを見回し、私を発見した所で、
「あ!!」
 と大きく叫んで、くるりと後ろに向き直り、また出て行こうとした。
「いや、ちょっと待てい!」
 あわてて後を追う私。ついてくるキンゴ。傍観するTAMURA。
 廊下に飛び出した三之助は、その細長い空間を真っ直ぐ走っていく。私は途中で後を追う事ができず、立ち止まった。
「どうしたんですか?!」キンゴが私を追い抜き態に、問う。
「ここに大穴が空いているはずなのだ」
 今は真新しい校舎の映像に覆われて、見えないが。
「そんな」
 等とやり取りをしている間にも、三之助は駆けて行く。
 この廊下に開いていた大穴、覚えている。三階から一階まで開いた、奈落のような大穴だ。落ちれば命は無い。だからといって先程のように、窓の外から辿るという悠長な暇は無い。
「ぼくたちで捕まえてくるから、TAKIはそこで待っていろ」
 後から来たTAMURAにそう告げられた。ムカッと来る。この素晴らしい私を役立たず扱いの上、命令とは何事だ。
「五感が同期されているとはいえ、ここはネット上だからな。お前よりぼくの方が動きは上だ」
「何を言うか! ここがネット上だろうと現実だろうと、私の方が貴様よりずっと優れているに決まっている! 見ていろ」
 私は廊下を逆走し始めた。穴の大きさ、位置、確かに覚えている。助走を付けて飛べば、飛び越えられるはず。
 ここが夢でも幻でも、私は私だ。何にも惑わされない。私の知っていること、記憶していること、考えることが正しい世界のすべて。
 十メートルほど後退した後、私は再び逃げていく三之助の背中に向かって走り出した。その距離は大きく離れてしまったが、私の足にかかれば追いつくのは時間の問題だ。
 その前に真実の奈落を飛び越えねばならぬ。
 私は走る。全速力だ。猛烈なスピード。
「危ない!」
 キンゴが警報のように叫んだ。私は目には見えない穴の、縁の僅か一センチ前を踏み切った。私の記憶は、無論正確だ。
 高く飛ぶ。私は瞬きをした。閉じた一瞬に、現実の崩壊した校舎の質量が、目の裏に映った。
 覚えている。戦争で全て失った私が、子供として生きることを許される唯一の場所。ここで友を得、知識を得る。五年だ。五年もの間、通い詰めた壊れた学校。だから私は覚えている。
 着地。見えない砂埃が舞った。穴の縁ギリギリに、私は足をついた。
 だが! 風景が斜めに崩れる!
「TAKI!」
「TAKIさん!」
 南無三、着地のエネルギーで、奈落の縁が崩れたのだ。

「掴まれ!」
 投げ出された、手。すり抜ける。間に合うはずもないのだ、遠くまで駆けて行っていた三之助が、如何に物理法則を無視した俊足で引き返してこようと。
 三之助の伸ばした手からすり抜けた私の手は、崩れた穴の縁を辛うじて掴んだ。
 映像の床に私は埋もれて、彼らの視界には私の手だけが残った。
 床の断面図はデータに無いらしい。私の目の前には無の闇が広がっている。
「大丈夫か?」
 TAMURAの声だけが聞こえた。
「一旦、このまま一階に下りる」
 私は二回の天井からぶら下がっていることになる。ここから一階までは、そう大した高さではない。きちんと着地できれば、ダメージも受けないだろう。穴の下に有るはずの瓦礫は、記憶が確かなら廊下の通行に邪魔だから誰かが撤去してしまっているはず。
「三之助、そこに居るのか?」
 上は見えない。だが、私が最後に見た三階の廊下の風景には、落ちる私の手を掴もうと猛烈なスピードで駆け戻ってきた三之助が、居た。
「お、おう」
 五年前に聞いた声だ。間違いなく次屋三之助である。
「もう、逃げるなよ」
 三之助が頷いたかどうかは知らぬ。見えぬのだから知りようがない。
 だが私はヤツが逃げないことを信じて、穴の縁に掴まっていた手を離した。
 落下する。自由落下。現実の空気の流れが、私の髪を靡かせた。目に見えているのは、架空の風景の断面図だ。データの存在する二階の廊下の風景、データの存在しない無の床の断面図、そしてまたデータの存在する一階の廊下の風景が、私の目の前を流れた。
 着地。つま先から柔軟に、膝を折って衝撃を吸収。うむ、成功だ。
 階段を駆け下りてくる複数の足音が聞こえた。私は階段の位置まで廊下を進む。
「TAKIさん、大丈夫でしたか?!」
 先頭を切って降りてきたのは、キンゴだった。後にTAMURA達が続く。
「無論だ。この素晴らしい私にとって、あの程度の高さなど何の問題にもならぬ」
「あれだけ大見得を切っておいて」
「飛んだ距離は計算通りだった。床が崩壊したのは、単なるアクシデントだ」
「ぼくならあんな失敗はしないな」
「ふん、どうだか」
 相変わらず小憎たらしい。一々相手をしていては、疲れてしまうな。
 今はTAMURAなどを相手にしている場合ではないのである。問題は、
「三之助」
 もう、逃げていなかった。
「ひさしぶり、だよな……」
 三之助は階段の踊り場に立ち止まり、私たちを見下ろしていた。その距離、警戒が推し量られる。
「何故、私から逃げるのだ」
 これまで行方不明であった、次屋三之助と神崎左門。だが本当は、行方不明だったのではないのではないか? 三之助は、私を見て、逃げた。
 そう、彼らは自ら姿を眩ましていたのではないだろうか?

「話すと長くなる」
 三之助は階段を一段一段ゆっくりと踏みしめるように降りながら、私に近付いた。
「おれは確かにアンタから逃げていた。アンタだけじゃない、現実におれを知っている人間全てから」
「何故だ?」
 三之助がTAMURAの真横に来た時、TAMURAは三之助に問い掛けた。三之助はTAMURAに振り返り、すっと手を差し出した。
 握手を求める形である。
「ん、ああ?」
 握手を求められて、反射的にTAMURAはその手を握りかえした。
 友好の証――なんどではない。すぐに三之助は手を離した。
 そして私の前にまで来ると、同じように手を差し伸べた。
 この意味は、直感でわかった。だが同時に、私はそれを認めてはいけないと悟った。
「証拠は必要ない」
 私は三之助の手を握り返すことも、振り払うこともしなかった。
 この手を握りかえせたなら、三之助が現実にあることを私は知ることが出来るだろう。だがその証拠は今は必要ないのだ。私にとって、世界にとって、この次屋三之助という存在がどのようなものなのか知るまでは。
 三之助は私が拒否したことに些か驚いた様子だったが、一度強く目を瞑った後、頷いて手を引いた。
「記憶喪失も、左門を守るために吐いた嘘だ」
「つまり記憶を失っているのは、田村と左門だけということだな」
「ああ」三之助が頷く。「記憶喪失の左門を守るために、おれも記憶喪失ということにして左門と行動を共にしていた。記憶を取り戻す手がかりから、左門を遠ざけるために」
 その結果、彼らは迷走することになった、か。
「何故と聞くのも、悲しいな」
「悲しいだと?」
「判らんか、TAMURA。恐らくだが、左門はお前と同じだよ」
「ワイヤードゴースト」
「そうだ」
「だが知らないんだ。理解していない、五年前に自分が本体と切りはなされた瞬間に、強いショックを受けて記憶の一部分が失われたらしい。だから自分がAIであることを理解出来ず、人間だと信じ込んでいる。おれは左門を守るために、なんて言ったが本当はどうしていいか未だに判らない。単に記憶を取り戻しただけでは、記憶喪失になった時のショックまで蘇るかもしれない。どうしたらショックを与えずに左門が自分の存在を理解できるようになるのか。五年かかっても、判らなかった。その間ずっと、作兵衛や孫兵たちの力を借りて、真実のおれと左門を知っている人間から逃げ続けていただけだ」
 残酷な話だ。左門という少年は、自分が何なのか、どこに居るのかさえ判らないままでいるのだ。だがこれは既視感。
「無くした記憶は取り戻せる」
 TAMURAが言った。或いは残酷な言葉だったやもしれぬ。

「ぼくが記憶を取り戻せたのは、ネット上にあった記憶のバックアップと強い外的ショックのためだ。そのショックに類するものを起こせば、記憶は戻るはずだ」
 ここでちょっと整理しておこう。記憶喪失患者の記憶を戻すのに必要なのは、長い休養と偶然のタイミング。寝て起きれば戻るケースもあるし、催眠療法で想起を促すこともある。要するに記憶喪失とはその名称とは裏腹に、完全に記憶を喪失しているわけではなく、潜在的にはきちんと記憶しているのだ。
 さてしかし、これは人間のケースだ。TAMURAや左門のような、AIではどうだろう。失われた記憶はデータの海から消え去っているのだろうか?
 判らない。だが、TAMURAの記憶は戻っている。これはヤツの言うバックアップの存在を裏付けている。だがTAMURAはこれまで一つも過去の事を語っていないので、本当なのかどうか、これまた定かではないが。
 もう一つ整理しよう。記憶喪失になっているのは、田村と左門である。だがこの左門は何らかのショックで発生したワイヤードゴーストで、本体の方の行方は知れぬ。だがとにかく、私たちが探していた左門はワイヤードゴーストの左門で間違いない。
 その左門の記憶を取り戻すため、作兵衛たちはゲーム「ラビリンス・ヒーロー」を作成した。だがこれは虚実であった。真実は、SOWシステムを稼働させるため、の方であろう。数多くのワイヤードゴーストを発生させることで、左門という存在を人々の中に埋没させようとの考えもあったのかもしれぬ。連中の話を聞く限り、記憶喪失の左門少年に対し、皆些か過保護である。
 では現実と瓜二つの風景は? やはり記憶を呼び戻すための装置、それに加え左門や三之助の隠れ蓑であったのだろう。
 以上私の推測を交えて事態を整理したが、さて果たして私がこの哀れな三之助や左門少年に何ができようか。そもそも今日ここに来たのは、田村が左門に会いたいと言ったからだ。しかしヤツは怖じ気づいて校舎の外。
 うむ? 左門はどこに居るのか?
「左門はどこにいるんだ? ぼくならきっと、彼の記憶を取り戻せる」
「何か考えがあるのか?」
「ああ。ぼくは思い出したんだ。左門と最後にかわした約束を」
「あいやちょいと待て。TAMURA、お前が左門に会ってどうする。田村が左門に会いたいと言っていたのだぞ」
「は? あ、ぼくの本体の方か。心配しなくても、左門に会うのはきっとぼくの本体だ」
 きっと? 何だか知らぬが、悪い予感がするぞ。
「そもそもぼくがここに来たのは、左門に会うためじゃない。ぼくの本体にもう一度会うためだ」
「会って、どうする」
 会うも会わぬも本人等の自由だが、しかしTAMURAの言動にただならぬものを感じる。妙に、清々しい態度を取るというか、うむむ、何と言えば良いのかわからないが。
「言っただろ? 強いショックを与えたら、記憶が戻るかも知れないんだ」
「会うだけでは、前と同じく昏睡するだけではないか」
「前とは状況が違う。お互いの存在を知ってるし、何よりショックは自分が目の前にいるってだけじゃない。システム側からも起こしてもらうんだ」
「システム側からと、言うと」
「鈍いな。天才滝夜叉丸様だろ? ぼくの今のアカウント情報は、本体とはちょっと違うように変更されてるってのは作兵衛から聞いたろう。それを本体と全く同じに戻す。そうするとシステムが膨大なエラーを吐き出すから」
「そんな、そんなことをしたら僕はTAMURAさんを攻撃しなきゃいけなくなります!」
 キンゴが悲鳴を上げた。
「お前が消えてしまうぞ!」
 キンゴだけではない。システムは不正なアカウントを消去しようと攻撃を仕掛けるだろう。ワイヤードゴースト発生の際の事象としても、確認済みだ。
 TAMURAと田村は攻撃を受ける。本体の田村は、いい。肉体があるのだから、仮想の攻撃など大した意味もない。だがAIのTAMURAは?
 不正なバグとして、消去されてしまうのでは?
「多分な」
 TAMURAは少し笑い、私たちから視線を逸らした。
「そんな事は許さんぞ」
「……消えるんじゃない。元に戻るんだ。ぼくは過去を抱えてしまった。だけど未来がない。ぼくの本体は過去を持っていないけど未来がある。ぼくは過去だけを抱えて生きてはいけない。だから、元に戻る。一つになるって言った方が判りやすいかな」
「確実に記憶が戻るという算段もない」
「ぼくは確信している。一度経験済みだからな」
 言い出したら聞かない。だが、私は止めたい。いくら数日前に出会ったばかりのAIでも、TAMURAは知らぬ仲ではない。消えていくことをそう易々と認められるものか。
「駄目だ! それに、お前は左門の記憶を取り戻してやるのだろう!」
「それは記憶を取り戻したぼくがやってくれる」
 TAMURAは踵を返し、廊下を歩み出した。私は慌てて後を追う。
「待て!」
 手を、伸ばした。羽交い締めにしてでも、留めようと思った。
 だが、すり抜ける。肉体のある私がゴーストに触れようとすることは、無意味であった。

落乱 目次

index