ラビリンス・ヒーロー 022
空虚である。私の腹の中は、極限の空腹にも似た空虚に襲われた。
悲しいか? 私は黙って私に訊ねた。涙など出ない。
寂しいか? 不自然に発生した友人の消失。
憤っているのか? 止められない私。
「三之助」
「何だ?」
「左門の居場所を知っているのだな」
「もちろん」
「会ってみたくなった。案内してくれ」
左門は、私にとっては赤の他人である。会った所で何が起ころうか。しかし私はここから遠く離れたかった。遠く離れねばならなかった。キンゴの手を引く。
「行くだろう?」
「はい」
キンゴも、TAMURAから遠く離れていたかった。理由は言わずもがな。この世界のエラーの従僕として、二人の田村に攻撃を仕掛けるのは忍びない。
「判った。こっちだ」
三之助は階段の上を指さし、示した。先導して歩き出す。私は一度目を瞑り、現実の映像を頭に浮かべてから、後をつけた。
「TAMURAはああ言っていたが、決心はついたのか?」
何か話でもしていないと、空虚な腹が悲鳴を上げそうだった。
「左門の、記憶のことか」
「そうだ。TAMURAの試みが成功して、田村に記憶が戻ったとすると、ヤツは左門との約束とやらを果たそうとするらしい」
「全て予測だ。これから何が起こるか、何一つわかりゃしない」
「私は全てシナリオ通りに行くと思うよ。そうでなければ存在を賭けて演じ始めたTAMURAがただの間抜けになってしまう。ま、元から間抜けじゃあるがな……」
「そうなのか? おれは田村というヤツを知らないから、何とも言えないな」
「大間抜けさ。だからいつまで経っても、私の二番手なのだ」
「ふふっ」キンゴが、小さく笑った。
「何がおかしい?」
「だってTAKIさん、いつも自分が世界で一番だって言ってるじゃないですか。だから」
「だから?」
「TAKIさんの二番手って、世界で二番目だって言ってるのと一緒だから。何だかんだで褒めてるんだなって」
「断じてそんなつもりではない」
キンゴは、考えが過ぎるというか、気を回しすぎるというか、気遣っているつもりだろうがそれが明後日の方向に行っているというか。私が田村を褒めることなど、断じて無いのだ。所詮私には及ばぬ才能の持ち主なのだから。いやむしろ、私が比類無き才能の持ち主であると言うべきか。
「友達なんだな」
「そうなんですよ」
「いや、それは違う」
「俺たちも、友達なんだ」
「左門、孫兵、作兵衛、数馬、藤内、だったか」
「ああ。大切な友達だ。どうして出会ったのか、左門は忘れちまってるけど」
「出会いを聞いてもいいかな」
私たちは階段を登る。西日が差し始めた。映像なのか本物なのか判別のつかぬ、明るすぎる太陽が階段に開けられた窓から射し込んでいる。
私が田村と出会ったのも、西日の強い午後であった。
「同じ日に政府の実験に選ばれた、それだけなんだけどな」
「実験」
キンゴが小さな声で呟いた。
「知っているのか?」
「寧ろアンタが知らないのが驚きだ。当時政府はあの実験を繰り返して、そのために紛争が起こったんじゃないか」
「私は当時八つの子供だったからな。それに、七松先輩に助けられてからは政府軍にも革命軍にも属さない、浮ついた立場だった」
「何も知らされてなかったってことか。でも、そうだな。今生き残ってる子供達って、何も知らされてないって方が多いだろうなあ」
三之助は、天井を仰ぎ見た。空は、天井に遮られて見えぬ。だが、三之助はそれを追うように、仰ぎ見た。
「どう、判断するだろう。おれとか、左門とかを見て」
仮想上に存在するワイヤードゴースト。個性と自走能力を持ったAI。魂は、あるのか?
「個人的な見解で申し訳ないが」
私は、これから私の発する言葉が非常に重たい意味を持っていると、判っていた。だが言わねばならぬ。あの戦争を生き抜いた子供の代表として。
「私たちと、そう変わらぬように見えるよ。存在する場所が違うだけで」
三之助は、天井から視線を落とした。後ろに立つ私たちからは、三之助の表情はうかがい知れぬ。三之助は何か考えるような、短い間の後、私の方へ振り返った。
「そっか」
と、泣いているような、笑っているような顔で言った。
「さ、左門はあの先だ」
長かった階段の終点。アルミの扉の向こうを、三之助は指差した。
二十二
果たして神崎左門はそこにいた。学校の屋上だ。丸い時計が側面に設置してある給水塔の、上に座っていた。
「左門!」
「何だ、三之助」
左門はこちらを振り返らなかった。給水塔の上から、どこか遠くを見ている。
「初めまして、私は平滝夜叉丸と名乗る者だ。世界一、いや宇宙一の天才である私に出会えたことを誇りに思うが良い」
「あー?」
「聞けばお前、田村と知り合いだそうじゃないか。その田村が来ているぞ。会ってみないか」
「知ってる。ずっと待ってたんだ」
左門は遠くを見ている、その目線の先を指差した。私とキンゴは、屋上のフェンスまで歩み寄り、寄りかかりつつその先を見た。
校門に、四つの影がある。西日が眩しく、よく見えない。私は目を凝らし、額に手を当てた。
「TAKIさん、TAKIさん」私の服の裾を引っ張った。
「ん? なんだ、キンゴ」
「これ」
キンゴは、開いた両手の真ん中に薄青いウィンドウを開いて見せた。そうだ、ここは仮想であった。
薄青のウィンドウは私たちの目の前に浮上し、拡大鏡のように視線の先の映像を映した。まるで空中に彼らが浮かび上がったかのように。
『……だからぼくはぼくに還るんだ』
映像から音声が聞こえる。TAMURAは酷く驚いている田村の前に立ち、同じ作りの顔で残酷な提案をした。田村は、答えない。驚愕に顔を歪めて、どうしていいのか判らず口をあんぐり開けている。
『いいのか?』
『いいんです、潮江先輩。よく考えてのことですから』
『死ぬんだよね?』
『死なないよ、AYABE。消えるんだ』
『一緒じゃん』
『消えて後になんにも残らないわけじゃない。そうだろう、ぼく? 記憶の扉は、開きかけているはずだ。ぼくには判る。同じぼくのことだから』
『手を……』
田村が、躊躇いながら右手を差し出した。同じ作りのTAMURAの手が、その手に触れた。
触れられないのに。
『同じだ』
『そうさ』
『一つになって、ぼくの記憶は戻るのか』
TAMURAは、頷く。私たちはもどかしく、そのやり取りを見ている。私には何もできない。これは田村一人きりの問題だった。
『ぼくが新しく得た記憶は全てデータボックスにしてこの学校の屋上に置いてきた。さ、もう準備はできてる。決心は付いたか?』
TAMURAの問い掛けに、田村が長い時間をかけて頷いた。
同じ作りの目と目が、見つめ合う。瞳の中に同じ顔が幾つも、幾つも映り込む。
TAMURAの手が田村の手を握った。
瞬間、真っ赤なエラーの警告文が二人の中心に現れ、それぞれの心臓に向かって矢のよう伸びた。心臓を打たれた両者はそれぞれ面対称に背後に倒れ込む。
駆け寄ってきた潮江が倒れる田村を受け止めたが、TAMURAを引き留める者がいない。
斜めに倒れて静止したTAMURAの体は、次々と現れる赤い警告文に、額、首、胸、腹、足、全身を撃ち抜かれ、撃たれた場所からノイズ混じりに分解され始めた。
全く同じ警告文が田村を鏡のように攻撃していたが、田村の方はその攻撃が当たった場所は映像が波打ち、メッキが剥がれるように田村の映像の下から本物の田村の姿が現れた。尤も、田村の映像も田村の姿も、寸分違わず同じなのだが。
TAMURAのノイズの最後の一欠片に、田村のメッキの最後の一枚に、警告文が撃たれる。
「たむらああああああああ」
急に、左門がバカでかい声で叫んだ。給水塔の上に仁王立ちになり、震えんばかりに叫んでいる。
「覚えてるかああああああ。約束したのを、覚えてるかあああああああ」
「左門!? 記憶が戻ったのか?」
三之助が驚いて問い掛ける。記憶を失っているはずの左門が、田村の名を呼ぶということは、つまりそういうことなのか?
「いいや! ぼくは全部忘れた! でもなあ、たむらあああああ。約束は、覚えてるぞおおおおお」
『約束』
潮江に支えられて、ようやく立ち上がった田村は、目を一杯に見開いて学校の屋上を見つめていた。
『田村、思い出したのか』
『約束、約束……』
「しおえ、もんじろううううおおおお。お前は、覚えてるかああああああ」
『ああ! 覚えている!』
「なら、やってみろおおおおおおお。撃ち抜いたやつが、今日の『ヒーロー』だあああああ」
左門は身に纏っているボロボロの軍服の腰ポケットから、緑色の布を取り出し、大空に向けて大きく振り回した。
たなびく緑の色。色褪せた、しかし目にも鮮やかな緑だ。
「ルールはいつもと同じだぞおおおおおお」
言うと、左門は緑の布を給水塔に掛けられている時計の上部に引っかけた。よく見ると、時計は複数の銃弾に撃ち抜かれた後があり、止まっている。時を刻んでいない。止まった時計の上で、緑の布は風にたなびいた。
『約束、約束! ぼくは』
『田村、今日はお前が撃つ番だ』
潮江がどこからか、銃身の長い長距離スナイプ用の銃を取り出した。あれは、現実だろうか幻だろうか?
銃を受け取った田村は、落ち着かないように震えながら膝を折り、銃を担いで屋上の時計へと狙いを定めた。
「ここは、危ないですね」
キンゴが私の袖を引っ張りながら言った。流れ弾を心配しているのだ。私たちが立つのは、田村が狙う時計から五メートルと離れていない。
だが、
「いいや、田村なら大丈夫だ」
私は動かなかった。目の前のウィンドウには、震えながらも確実に照準を定める田村。
『落ちついて、ゆっくり呼吸をしながら狙うんだ』
『はい』
『前におれが撃った時は、少し横に逸れた。おれはヒーローにはなれなかった。でもお前は、おれよりも射撃が上手い。今までは誰も成功しなかったが、今日はお前がきっと』
『ぼくが』
田村の震えが止まった。僅かに開いた唇の隙間から、ゆっくりと息を吸う、その音が耳元で聞こえたような、気がした。
刹那。
パアンという明るい発砲音が鳴り響いた。
迷いのない一直線の軌道。空を駆ける一発の弾丸。田村の狙いは、確かだ。発砲した瞬間のフラッシュが、私の目に焼き付くと同時に、後方でバリン、とガラスの割れる音が響いた。
時計の上になびく緑の布に、黒い穴が空いている。同時に撃ち抜かれた時計の秒針が、はずみでカチンと一秒を刻んだ。
『思い出した。ぼくは、あの日』
田村の目に、涙が浮かぶ。瞼から溢れ、頬を伝って流れ落ちた。
『ヒーローに、なりたかった』
田村は銃を捨て、校舎に向かって走り出した。ここへ上がってくるのだろう、左門に会うために。
「そうだ、左門! 記憶はどうなった!?」
三之助の問い掛けに、左門は満足そうに笑って答えた。
「ぼくはずっと嘘を吐いていた」
「何だって!?」
「この布を撃ち抜くのが部隊のヒーローなら、この布をここへ掛けるのもヒーロー。でもあの日、ぼくはそれができなかった。それが悔しくて、ずっとずっと止まっていた。ずっと待っていれば、いつかまたチャンスが来ると思っていた」
「それで記憶を失ったふりをして……」
「真っ直ぐな未来に進まずに、あの日に戻るために色んな道を探していた。でもこれからは、前に!」
階段を駆け上がってくる足音が、近付いてくる。
止まった時計が掲げられた屋上で、田村たちの時間は動き出すのだろうか?
あの日、とは私が田村と出会った、終戦の日だ。私たちの歩く道が、それぞれ曲がりくねって別れ道に入った日。田村と左門、潮江は所属する部隊が駐屯するこの校舎で、代々部隊に伝わるゲームをやっていた。まず、一人が緑の布を時計に掛けに行く。屋上まで出なければならないから、運が悪いと上空の敵の偵察機に狙い打ちされるかもしれない。それが上手くいけば、次に校門から射撃手が緑の布をねらい撃つ。上手く撃ち抜ければ、布を掲げた者と撃ち抜いた者は、一日部隊のヒーローとして扱われる。
戦場の他愛もない遊びだ。だがそれが、田村達の時間を動かす切っ掛けとなった。
些細な切っ掛けで脳は正しい道を見つけ出す。迷宮を抜け出した田村は、ヒーローとなった。
さてここで、今回の大変入り組んだ事件のそこかしこに、不明なデータが存在すると思う。この時点で調査して解決することもできたのだが、私はそれをしなかった。真実を恐れたからだ。
私は巡る自然がこの冷たいブラックボックスを春風で暖め、解放することを期待した。だがその前に冬が来る。結果としては、その希望は打ち砕かれる事になる。
だがそれも先の話だ。ここでは、今回の事件の記録のみに留めておこう。
あ、それともう一つ。嘘の多い事件だったが、この記録にはもう一つ、大きな嘘がある。だが私はこの時点ではそれを知らない。ずっと騙されていたのだ。
だが前途の通り、この記録はただひたすらありのままに、当時の私が見聞きしたままを書いていく予定である。従って、今は騙されたままにしておこう。
本当のことを知るのは、もう少し先だ。
この一連の文章は、×年×月×日×時×分×秒、道浦市女川町×番地××ビル三七一、平滝夜叉丸、十三才の頃作成した。