ラビリンス・ヒーロー 019

「早かったな」
 開いた戸から顔を出したのは、田村ではなく潮江文次郎だった。
「すぐに行くと宣言したのですから、すぐに来るのが当然です。私は実に誠実な性格ですから」
「ああ、そうか」
「田村は?」
「奥にいる」
 人一人が足を揃えて棒立ちするしかない狭いスペースの玄関を抜けると、短い廊下の両脇にキッチンとユニットバスが張り付いている。その廊下の幅も狭い。一定以上の肥満体は腹が支えて通れないだろう。
 部屋はきれいに掃除が行き届いていた。田村もそれなりに几帳面な方だが、気絶している間に自ずから掃除をしていたわけじゃあ無いだろう。この潮江という男が掃除までやっていたのだ。なぜ?
「気分はどうだ」
 ベッドの上で身を起こした田村は、寝間着らしいくたくたのシャツとズボンを着ている。いかにも寝起きといった風貌だ。瞼はまだ重いのか、田村は瞬きをしながら、話しかけてきた相手の方を訝しげに見返した。
「どうもこうも、さっきから変化なんて得に。あ」
 私たちに気がついた。
「何だよ、何の用だ? ぼくが弱ってるのを、笑いに来たのか?」
「邪推だよ、三木ヱ門。そりゃおもしろくないかと言われると、おもしろいと答えてしまうかもしれないけど」
「綾部、お前は黙っておけ。心配してやったのだ。ありがたく思うがいい」
「お前に心配なんかされたくなかった」
「何だと」
「滝夜叉丸こそ黙ってた方がいいんじゃない。で、どちら様?」
 綾部が潮江に視線を向ける。
「おれか。潮江文次郎と言う」
「どうも。<SECHS>の一人、潮江文次郎――そこまでは、知っているんだけど。その先を」
「身分は特にない。強いて言えば、指摘の通りネット上では<SECHS>と名乗るハッカー集団に属しているが」
「三木ヱ門とはどういう関係で?」
「それは」
 答え倦ねて、言い淀んだ。彼はなぜ本当のことを田村に言わないのだろうか。田村が自分を思い出すまで、ずっと名乗りでないつもりでいるらしい。
「ぼくもそれが知りたい」
 しかし彼が田村の看病をしているかぎり、こうなってしまうのは自明の理だったのではないか。隠し通せないのが判っていて、それでも田村が気がかりだったのか。
 短い沈黙の後、潮江文次郎は口を開いた。
「古い知り合いなんだ。この間、1-ハがらみでドンパチした時に思い出した。今日はたまたま近くで用事があったもんだから、懐かしさついでに顔を見ていこうと思ったんだよ」
 大嘘だ。そうまでして、本当のことを隠したいというのか。私に話を合わせろと無言で訴えている。
「じゃ、ぼくが眠っていた間、点滴や身の回りの世話をしていたのは誰なんですか」
「私だ」勢い、そう言い張るしか無かろう。
「は? 滝夜叉丸が?」
「何が言いたい、綾部? 私なんだから田村の看病ぐらい素晴らしくやりとげられるぞ。なんってったって私なんだから」
「時間軸が……」
 そりゃ合わないが。しかし、こうも素早く否定されると虚しいものだ。
「どうして私はそんなに信用がないのだ」
「いや、だって滝夜叉丸のくせに」
「そうか、貴様私の手柄を横取りするつもりだな。そうはさせん、そうはさせんぞ」
「するわけないし」
「あー、話を進めてもいいか?」
 潮江が咳払いをひとつ。
「さっきの通信で、こいつがショック状態に陥った原因に心当たりがあると言っていたな? 説明してもらってもいいだろうか」
「無論、そのためにはせ参じました」
 私はさっきまで直に体験していた、人工的かつ疑似超自然的な現象について説明を始めた。

「ほお、なるほど。SOWシステムがか」
「じゃ、ぼくが見たのは本当にぼくだったのか」
「そうなるな」
 田村は頭を抱え込んだ。そりゃまあ、そうだろう。非常に複雑な事態である。しかし、既に起こってしまったのだから仕方ない。時間軸を巻き戻し、過去の事象を無かったことになど出来るはずもない。
「ワイヤードゴーストと分裂したのは、カスタマーサポートに行った時か。確かに思い当たる節があるぞ。ぼくが行っていないはずの場所で、ぼくに会ったとかいう話をされたこともあったし」
「蕎麦を食ったか?」
「は? いいや、記憶にない」
「やはりあれもTAMURA――ワイヤードゴーストの方か。そういえば、お前が昏睡状態になったのはいつだ?」
「三月ほど前だ」潮江が答えた。
「うむ、あの時既に本体のお前はネット上に存在しなかったのだな。では、お前がTAMURAと顔を合わせたのも三ヶ月前か」
「そうだ。はっきりと覚えている。あれは、学校の近くだったな。学校、知ってるか?」
「いや」
「最近出来た、新しいエリアにあるんだ。試験的に運用されている教育システムなんだけど、それが今ぼくやお前が通ってるあの学校にそっくりでさ」
 補足――現在(これを書いている現在)は、そのシステムに私たちは通学することは出来ないようになってしまったが、要するにあれは政府が作った本格的な教育システムだった。現実の寺子屋のような無秩序な教育ではなく、六年制で年齢・学力別に区分けされた教育システムだ。現実の子供も、仮想の幼いAIも、そこに通って一律教育を受けられるようになる、予定だった。私も、1-ハも一緒の学校に通うというわけだ。
 この時点では本格的な運用はされていない。田村は興味本位で覗きに行ったという。
「教室で見たんだ。ぼくが、机に座って銃の手入れをしているのを」
 思えば、二人の田村が同じ場所に出現する確率は、非常に高かったのだ。同じ思考パターンなのだから。
 二人が学校を訪れたのは、そこに惹かれるものがあったからだ。
「びっくりしたよ。ぼくがあそこにいる。じゃあ、このぼくは誰だ? ぼくはぼくのことをぼくだと思っているだけで、もしかしたらぼくじゃないのかも知れない。なにしろぼくには過去がない。記憶がないんだ。本当はぼくは田村三木ヱ門じゃなくて、別な人間で、何かの拍子に自分を田村三木ヱ門だと思いこんでいるのかもしれない。……そう思ったんだ」
 私は田村ではないのだから、その時ヤツが感じたショックを正しく知ることは永遠にできない。
 だが客観的な事実のみを言えば、田村は気絶する程のショックを得たのだった。
 味わったショックを思い出したのか、田村の顔から血の気が失せた。額に手を当て、俯く。気分が悪いのだろう。ベッドの上の田村の横に腰掛けた潮江が、田村の背中をさすった。うーむ、潮江の年相応以上に見える容貌から、父と息子のように見えるぞ。
「その、もう一人のぼくは今どうしてるんだ? 会ってみたい、な」
「何故だ?」
「だっておもしろそうじゃないか、やっぱり」
「綾部、お前には聞いておらん。田村、お前また会って昏倒するようなら、落ちつくまでしばらく考えた方がいいんじゃないか」
「充分落ちついてるさ。その、もう一人のぼくは過去のことを覚えてるかもしれないと思って。覚えてないにしても、自分と話せば思い出すことがあるかもしれない」
「自分との対話か。短絡的なお前にしては、哲学的な発想をするじゃないか」
「ぼくのどこが短絡的だって? それは滝夜叉丸の方だろう」
「私は思慮深く、しかも天才だ」
「お前が天才ならぼくは大天才だよ」
「いいや、私の方が天才だ」
「ぼくだ」
「私だ」
「っていうか、さっき目を覚ました割には元気だね」
 田村が綾部に呆れられた。実にいい気味だ。それに対し私には呆れられる要素など一つもない。完璧な天才だからな。

「で、田村のワイヤードゴーストは今何をしてるんだ?」
「ええと、確か左門と三之助を捜すとか言ってました」
「何?」
「あ、左門と三之助っていうのは、ネット上で出会った……わけじゃないか。左門は田村と、三之助は私と過去に何らかの関係があったらしい人物で」
「その二人の居場所なら、知っている」
 なんとまあ。私は潮江の顔をまじまじと見た。答えは意外なところに、さも当然のような顔をして、あるべくして転がっているものだ。考えてみれば、田村と知り合いの彼が、田村と知り合いらしい左門について何か知っているという可能性は限りなく高いのだった。
「もしかして、お知り合いだとか」綾部が目をしばたたかせながら。
「ああ」
 早くに気付いていれば、諸々の騒動が短縮できたというのに。私の凡ミスである。悔やんでも悔やみきれない。私の完璧な経歴にミスが刻まれてしまったぞ。
「左門とは戦中に同じ部隊に所属していた。三之助の方とは所属が違ったが」私の方へ視線をやり、「ヤツは小平太と同じだったな。覚えているか?」
「朧気には」
「俺は戦後に自分と同じ部隊に所属していた連中の現在の所在を知っている」
「それは、理由があって?」
「滝夜叉丸、お前には以前言ったことがあるな。……責任を感じているんだ」
「ぼくにも」田村は依然として寝床の上で、小さく縮こまって言葉を発した。こいつがこんなにも慎重になっているように見えるのは、つまり自分の無い核心をどこかから掴みだそうと細心の注意を払って行動しているからだ。
「その責任というのを感じているんですか。だからぼくに関わる」
「あー、ああ、そうだなぁ」
 潮江は言葉を濁し、緩い沈黙。私や綾部に言葉はない。私たちは田村の真実に無力だ。
「できれば、自力で思い出してもらいたいんだがな」
「何故です?」
「俺には判らんからだ。お前の精神の何が、忘れることを選択したのか。お前は忘れたくて忘れたのかもしれん。忘れたい程嫌な過去だったとしたら、それを無理に思い出すことはない。無理に思い出させたとして、その責任までは取りたくない」
 それは本心では無かろう。責任を感じていると言った。田村が思い出さないという事実に対しての責任を、この男は負う覚悟があるのだ。
 正直に言うと、田村に一体どんな過去があるのか、私は知りたいと思った。好奇心である。それ以上でもそれ以下でもない。何故なら私こそ思い出した場合の責任など取る気が全くないからだ。田村の真実の重さは田村だけが背負うべきだ。その点において、潮江という男と私では考え方が違っている。
「ぼくは思い出してみたい」
 田村は、病み上がりの痩せた体でベッドから降りた。横たわってばかりであった肉体ではエネルギーが枯れている。だが眠っていた精神は、エネルギーを有り余らせているのだろう。
「会えば、思い出すかもしれない」
 そう言うだろうと思った。
「案内しよう。だが、少し時間をくれ」
 潮江が提案したのは三日後の夕方だった。田村の体が本調子になるのに、なるほどそれぐらいは必要だろう。間を開けたのは、それだけではないかも知れない。潮江は既に田村がこのように言い出すことが判っていたかのように、淀みなく答えたが、答えた後に眉間に深い皺を寄せてふと考え込んだ。
 三日間、彼は考え続けるのではないか。一体何に思い悩み、どこへ辿り着こうとしているのか、私には判らないが。人の思考は迷路のように複雑だ。その上当人以外には見る事が出来ない。こんな難解な迷路は、他にないだろう。

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