ラビリンス・ヒーロー 018

 生まれてきたという事実は、生きていく上で遭遇するその他の些細な出来事よりも確かな指標になるのかもしれない。
 私はそう思ってTAMURAを見た。こいつは、今後どうするのだろう。過去のない、真新しいこいつを見ていると、かつて鴻上区で朝を迎えた時の事を思い出す。
 五年前の終戦の日だった。前日の昼間、最後の戦闘が起こった。私は潮江という男の所へ七松先輩の使い走りで向かった帰りだった。
 そして田村三木ヱ門と出会い、二人で助け合って逃げた。日が暮れる前には鴻上区へ辿り着いたはずだ。三之助に揺り起こされた時、その背中ごしに夕日を見たのを覚えている。
 私たちはそのまま眠った。目が覚めたのは、多分翌日の朝だ。日付を確認する方法が無かったから、曖昧だが。
 朝日の中で、田村は初めて世界を知った目をしていた。
 何かのショックで記憶を失っていたのだ。だが私は最初はそれに気付かず、変わったヤツなのだと勝手に合点していた。日常生活にも困難するようなレベルで物を忘れていたが、違和感は抱かなかった。何しろ、元から知っていた相手ではなかったのだ。
 それにあの頃は明日を生きていくのに、記憶のあるなしはそう関係なかった。とかく問題は目の前にある事象だったのだ。如何に次の飯を確保するか。
 記憶が無くなっているのを知ったのは、少し時が経ってからだ。
 当人が、どうも記憶がないらしいと言ってきた。私たちは瓦礫を漁って金目の物を探していた。これも夕方だった。一日街中で何らかの方法を使って稼いだ後、寝床に帰る前に漁りをやるのが日課だった。日が落ちると辺りが見えなくなるので、タイムリミットがある。
「だから何だ、手が止まっているぞ」
「今日の昼、街で日雇いの仕事が募集されてたから、行ってみたんだ。そしたら健康診断が必要だって言われてさ」
「金でもだまし取られたか?」
「いや。ちゃんと給料は貰ったよ」
「いくらだ」
「お前なんかに教えるわけないだろ」
 尤もだ。稼いだ金は稼いだ者の物であり、詮索は無粋という物だ。
「その健康診断の時に言われたんだ。ぼくには記憶障害があるんだと。お前と出会った日より前が全然思い出せないから、何となくそんな気はしてたんだ」
「ふーん」
「しかし問題はその後だ。健康じゃないから仕事は駄目だって断られたんだぞ」
「あん? じゃあ、稼いだ金ってのは、何なんだ」
「健康診断分だってさ。ちゃんと仕事できたら、結構な額になってただろうに。残念だ」
 田村は舌打ちをした。
 ふと、私は改めて田村という人間について考えた。私はこいつについて、何も知らない。こいつも、自分自身について何も知らないらしい。
 こいつはどこにあるんだろう。
 親兄弟はいるのだろうか。あの日、田村を連れてきた少年兵は兄か何かじゃなかったのか。
 田村は黙々と瓦礫を漁り続けている。あと少しで、日が落ちる。私の影が長く伸びて、田村の手元を暗く翳らせていた。
「おい、滝夜叉丸。そこに立ってると邪魔だ」
 ビルの残骸に切り取られたその場所には、私と田村しかいない。私は急に寂しくなった。
 きっと田村はあの朝の時点で既に、自分に記憶がないことに気がついていたのだ。だから戦争が終わっても親や知り合いを捜そうともしなかった。探す相手が無いから。
 私は記憶があった。親や友人達は以前に殺されて、唯一頼るべき七松先輩はその頃消息不明だった。私は戦争で沢山のものを失ったことが記憶にあった。
 田村はそれを知っていた。そして、記憶のない田村は失ったものがあるのかどうか、判らなかった。
 記憶のことを言い出さなかったのは、負い目に感じたからなのかも、しれない。自分は何も失っていないかもしれないだとか。あいつは余計な気遣いをするヤツだから。
 そんな事を、考えた。考えると何故か寂しくなった。
 私はその翌日から、暇さえあれば田村を色んな所に連れ回すようになった。色んな物を見たら、何か思い出すかも知れないとおもったのだ。或いは田村を知っている人間に会えることを期待した。
 結果は、ご存知の通り無惨なものだったが。
「これからどうする」
 私はTAMURAへ話しかけた。懐かしい寂しさを感じていた。

「まあ、なるようになるさ」
 TAMURAは周囲を見回し自分と同じ境遇の人々と視線を交わすと、再び空を仰ぎ見た。
「前と同じだ。必要なだけ日銭を稼いで何とかやっていくよ。乗りかかった舟だし、その左門と三之助ってヤツらを捜すのもいいな」
 そう言うヤツの目は、限りなく澄んでいた。虹彩の微妙なグラデーションに青一色の空の色が映り込んでいる。データの色が限りなく複雑に見えるのは、TAMURAの視線が小刻みに震えているからだろう。空に映った文字を読んでいる。
 生まれてすぐの人間がどんな目的を持ってその道を歩き始めるのか、私は知らない。しかしやはり皆TAMURAと同じように、前ばかり見ているのだろう。
「今の説明で不満のある人がなければ、これでお開きです」
 ランタロウが静かに告げた。
「お開きって、これで終わりにしていいのか? ワイヤードゴーストは? 俺たちは? このゲームは?」
「ゲームは停止してもらいます。作兵衛さんたちは、本来の業務に戻って下さい。ワイヤードゴーストの方々は、正式なAIとして登録をします」
「全ての手続きは任せろってことか。お前らは、俺より運営に近いもんな。クソ、結局俺ら末端は何も知らされないまま、何もできないままだ……」
「作兵衛」
「判ってるよ、孫兵。面倒を起こしたのは悪かった。あの二人のことだって個人的な問題だもんな。大人しく処分を待てばいいんだろ」
「できるだけ、軽い処分になるように取りなします」
「何だか情けないな、五歳も年下の君たちに頼ることになるなんて」
 藤内が気まずそうに笑った。
 これで終わり。これでいいのか?
 その場に集まった人々は、それぞれの目的を目指して、てんでばらばらの方向へ歩き出した。AIたちも、1-ハも、ワイヤードゴーストも、TAMURAも。
「いいの?」
「何がだ」
「いやさ、何か消化不良な感じじゃない?」
「カステラの食い過ぎかもな」
 とは冗談だが、確かにまだ私はゴールにたどり着いていない気がする。当初の目的、行方不明事件は解決したのだが。
「そういえば、三木ヱ門は大丈夫かな」
「ああ、TAMURAの本体か。すっかり失念していた」
 噂をすれば影を差す。この時丁度、通信呼び出しのアラームが鳴った。

 映像付き通信でウィンドウいっぱいに表示されたのは、あの強面の潮江という男だった。
「田村が目を覚ました」
「え? いつですか」
「今日俺がここに……今、田村の端末からログインしてるんだが、部屋に来た時には目を覚ましていた」
「どんな状態なんですか?」
 画面の向こうで、男は首を傾げた。その背景に田村の部屋が映っている。テレビ電話のネット応用版だが、このシステムは一般的ではない。普通なら、ネットに接続している者への通信は、自身もネットに接続して行うものだ。現実と仮想は交差しない。現実は現実と、仮想は仮想としか通信しない。1-ハ連中が騒がないところを見ると、これは不正なプログラムではないのだろうが。
「目が覚めたばかりでぼんやりしてるんだろうが、どうも話が通じないんだ」
「何と言っています?」
「自分が偽物になったとか、消えてしまうかと思ったとか、そんな感じだ。混乱している」
「ショック状態になっていたとしたら、原因に心当たりがあります。すぐに、そちらに向かいます」
「悪いな」
 短く言い切って、通信は切断された。
 さて、田村はどうやら無事らしい。まだ全て事態を把握したわけではないのだから何とも言えないが、ヤツが強いショックを受けた原因はやはりこの一連の事件にあるのだろうな。
 今の情報の限りで考えられる原因は、一つしかない。
「ま、そりゃ混乱もするさ」
「TAMURA、もしかしてお前はあちらの田村と顔を合わせたことがあるのか?」
「いや」首を振った。「もし会ってたら、ぼくだってショック状態になる。自分に会うんだぞ? どこか、街角ででもすれ違ってたんじゃないか」
「自分に会うなんて面白そうだけどな」
「AYABEはもう少し自己の特異性を認識した方がいい。普通に考えて卒倒する方が正常だ。考えてもみろ、私のように素晴らしい存在がこの世に二つも存在して」
「そうだねよかったね。それじゃ、行こうか」
「人の話は最後まで聞くものだぞ」
 私がまだ話をしているというのに、AYABEは素早い動作でログアウト画面を呼び出している。しかも勝手に私の情報まで入力を進めている。
 当然、通常は他者が勝手に人のアカウントをログアウトさせる事は出来ない。勝手にログアウト出来ないのだから当然だ。
 つまりAYABEは私の回線に割り込んで、アカウントを弾こうとしているのだ。はっきり言うと悪質なクラッキング行為で、簡単なことじゃない。
 何を焦っているのか。どうせ下らない理由だろうが。
「おい、TAMURA、お前これからどうするんだ」
「さっきも言っただろ、なるようになるさ。当面は何かやることがあるわけじゃないし、左門でも探しに行こうかな。乗りかかった舟ってやつ」
「よし、入力完了。TAKIはログイン関係のパスワード変えた方が良いんじゃない? 簡単すぎる」
「勝手に読もうとするヤツがいなけりゃ、その必要も無いのだが」
「さあ、行くよ」
 私はAYABEに引っ張られるようにして、ログアウトのための情報の渦に飲まれた。
 仮想の幻が私から離れていく。
 消える直前のモザイク模様の景色の中で、TAMURAが手を振って「ぼくによろしく」と言った。

 ログアウトした直後、寝惚け眼の私を綾部が叩き起こした。同時にログアウトしたはずのなのに、どうしてこの速度で私の自室に現れるのだ? いったいこいつはどこからログインしていたというのか。現実的に神出鬼没。
「何を焦っているのだ」
「いや、だって困らない?」
「困る、か」
「どう接して良いのか判らないよ」
 そんなことを言うためにこちらで目覚めたばかりの私を、文字通り叩き起こしたのか。叩かれた額が痛い。
 私は額をさすりながら、ログイン用の端末を取り付けたベッドから身を起こした。目が乾いているために、僅かな涙が出た。その涙で滲む視界の向こうで、綾部が困難な顔をしている。
 途切れかけの映像として見た、TAMURAの印象とダブった。なんだ、現実も仮想も、そう変わらないじゃないか。
「普通で良いんじゃないか」
「普通って、じゃあこっちの田村にはどう接すればいいのさ」
「普通だよ」
 だが、判らなくもない。綾部の手によって半端にずらされていたヘルメット形の端末を完全に取り外し、私は立ち上がった。
 行かなくてはならない。
「いいじゃないか、別に田村三木ヱ門が二人になったって。そりゃ多少は煩いだろうが、有害な人物ではあるまいし」
 困難な顔のまま、綾部は口をパクパクさせた。魚のようだ。酸欠か?
 綾部の言うことも、判らないではないのだ。しかし私は、田村だろうがTAMURAだろうが、その存在を否定したくない。彼らは既に一度、自己の存在を自分と世界から否定されているから。
 哀れんでいるのではない。否定されても、存在し続けているという立証があるから、今回だって否定する必要がないと思っているだけだ。
「どこに行くの?」
「田村の部屋に決まっているだろう。あの潮江という男に、すぐに行くと言ったからな。私は約束を守るのだ」
「行く」
 行くか、と訊いたわけではないのだが、行くと言われてしまった。

 数日前に訪れたばかりの、集合住宅ビルの一室(元二室)に再びやってきた。私の住んでいるビルからそう遠くはない。短い道中、綾部の質問攻めで疲れてしまった。いつも自分以外にあまり興味を持っていなさそうな態度をとっているが、実際はそうでもないらしい。
 話をしながら、私は田村について、田村自身が知っている以上に知っている部分があることに気がついた。潮江文次郎という男と田村が知り合いだという点だ。田村と始めて会った時のことを、話していなかったのだ。些細なことだが、昏倒する以前に彼について話をしたことがなかったのが悔やまれた。もしかしたらその些細な情報で、田村の記憶は安定したかもしれないのに。
 空白の404号室を挟んだ403号室と405号室が田村の暮らす強固なテリトリーだ。塒とも言う。誰に許可を受けたわけでもないが、ここに帰ってくると田村は決めていた。過去はなくとも、今とこれから先に帰る場所がある。
 403号室入り口のインターホンを押すと、部屋の中でブザーが鳴ったのが廊下まで聞こえた。
 綾部が物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回している。そういえばこいつは元金持ちだった。
「お前、こういう庶民的な所は始めて来たとか言わないだろうな」
「滝夜叉丸の部屋に何度も来たことあるじゃない。確か兵助さんの家もこのタイプだったし。でもこのビルは始めて入った。何か、得になる情報は無いかと思ってさ」
 何のこっちゃ。こいつは常にあらゆるものに何かの望みを賭けているようだ。
「そのハングリー精神は素晴らしいぞ」
「滝夜叉丸に褒められても何故か全く嬉しくない」
 ドアが開いた。

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