ラビリンス・ヒーロー 013

 ネットへのログインのシステムは何度も説明した通り、視界を介して、私たちは夢を見る。
 ラビリンス・ヒーローの中にあっては、何が夢なのか幻なのか、判らなくなる。そうすると私たちは瞬きを繰り返し、思考は暴走し始める。
 ログインしているのか、それともしていないのか?
 確認しようとするだろう。そこにゲームのシステムは付け込む。
 実際はログインしているが、していないように見せかけるのだ。対象がログインしている、その場所の映像をちらっと思い出させるだけの簡単な偽装だ。
 しかしそれだけでもログアウトしているかのような気になる。
 アカウントに隙間が発生する。当人の混濁した意識と世界の正確な意識の擦れ違いで、二重の映像が発生する。
 ゴーストの発生。素早く、ゲームシステムはゴーストの方に正規アカウントを移し替える。
 元の生身の人間は、不正アカウントとして弾かれる。無理矢理に。
 しかしその無理矢理なやり方を周囲に知らせないために、藤内、数馬といった観測者たちは自らの権限を駆使して一時的にログを操作する。
 そしてほとぼりが冷めた頃に、ゲーム内のワイヤードゴーストのアカウントを書き換え、元の人物のアカウントを正規に戻す。ワイヤードゴースト達はゲーム内の住人となる。
 初めの頃こそ、ゲームをプレイする者が少なかったために、観測者と制作者の連携は上手くいっていた。
 しかし、このゲームは五年前の街並みを再現させるため作られた物だ。TUGIYAとSAMONという二名を記憶喪失から回復させる目的で。
 記憶を取り戻させるためのありとあらゆる切っ掛けを模索して、様々な街並みを作った。そのためには膨大な資料が必要で、多くのプレイヤーを必要とした。
 無差別に宣伝のスパムメールを送る。観測者は権限を利用し、受信した者が気を惹きそうなIDを適当に資料の中から当てはめる。送り主が空であったのも、システム側の権限だろう。
 幾つもの虚像を作り出し、仮想内の虚像の街には加速度的に人が増える。同時に行方不明者も数を増す。そして事件は大きくなり、露見した。
 それが今回の事件のあらましだった。
「だけど実際は、TUGIYAもSAMONも何も思い出せない。それどころか、どこかへ消えてしまった」
 孫兵が残念そうに呟く。
「ログアウトした可能性は?」と、AYABE。
「あれば良いんですけどね。でも二人はそれが出来なくなっていたので」
「TAMURAと同じ状況だな」
 私が指摘すると、孫兵は少し妙な顔をした。が、すぐに首を軽く振って話題を変えた。
「それより、どうしてこの地区を選んだんですか?」
「ひとつ、思い出したのだ」
 私は目を閉じた。
 仮想から隔絶され、己の脳内に浮かび上がる鮮明な映像に思いを馳せる。

 私と田村は殆ど同時に眠りについたのだが、目を覚ましたのは私の方が先だった。これは私の方が身体能力が長けている証拠に他ならない。
 あと他に理由があるとすれば、私を揺り起こす者が居たということだ。
「おい、お前!」
 肩を掴んで揺さぶられ、疲弊の泥の中から強引に現実へ引き戻される。
「良かった、無事だったんだな」
 霞んだ視界の中に、見た事のあるような無いような相手が在った。そいつが私の肩を揺さぶっていたのである。
 相手は私よりも背丈の高く、ややツリ目で細長い面、非常に汚れた兵服を着用した少年兵であった。
 これが次屋三之助だった。
「誰だ」、と私は訊ねようとした。だが全身が疲労していて、肺と咽の連携すら上手く行かない。
 しかし相手はそんな私の様子に、直ぐに気がついたようだった。
「覚えてるか? 俺だよ、次屋三之助。七松先輩の下に付いてるんだ。お前、使い走りの平だろ」
 心臓が、どん、と強く打った。その衝撃を、今思い出している。
「TAKI?」現在に潜むAYABEの音声が過去に介入する。
「少し待て。順を追って説明する」
 私は瞳を閉じたまま、記憶の描く地図を頼りに、あの場所を指差した。
 私と田村が体を休めたあの豪邸は、確かこの方向だ。地図は頭の中にある。仮想に再現された世界を視覚的に頼るまでもない。
「私たちはあちらに逃げた」
 そして疲れて死んだように眠り、三之助に揺り起こされる。
 ヤツは言った。私と七松先輩の名前を。
 その時の衝撃。前後不覚の混沌の中で、どうやら味方らしい人間が目の前に現れた! その歓びと言ったら、どんなものだろう。しかもヤツは七松先輩の名前も言ったのだ。
 このゲーム上に再現された荒廃した鴻上区を見た瞬間に、心臓が強く打ち、巡る血が脳を眩く活性化させた。迷宮の終点がそこにあったのだ。
「七松先輩が心配していた。だけど、生きてたんだな! 良かった!」
 肩を強く掴んだまま、三之助は目に涙すら浮かべて言う。
「俺は戦闘中にあちこち移動してる間に、こんな所まで来てしまったんだけど、どうやら幸運だったみたいだ」
 そういえば孫兵が、TUGIYAとSAMONは迷子になっているのだとか言っていた。この時も三之助は、隊からはぐれて一人道に迷っていたのだろう。
「今から、俺は先輩達のいる駐屯地に戻る。お前が無事だってことも、必ず七松先輩に伝えるからな!」
 そう言い終わるや否や、彼は私たちに背を向けて走り出した。
 駄目だ、七松先輩の居る駐屯地も危ないのだ。そう、あの年長の少年兵が言っていた。
 私は引き留めようと声を上げようとした。駄目だった。まだ咽で呼吸が詰まる。立ち上がって追いかけようとした。膝が酷く痛む。立ち上がれない。
 ただ届きもしないのに手を伸ばした。
 そして? それ以降の記憶はまた、消失した。次の記憶まで、途切れている。
 そこだけ思い出したのだ。今になってあの出来事が重大な意味を持って、脳の中で燦々と輝きだした。

 どうして大切な事が、突然記憶の中から消えてしまったりするのだろう。それは生物としての仕様で、重大な欠陥で、修正のしようもないことなのだろうか。
 あの日、あの時、私に希望を与えた短い会話を、どうして忘れてしまっていたのだろう。
「あっちだって?」
 AYABEが現在の音声を再生する。
 私は目を開いた。
「そうだ。私は、あちらにあるとある豪邸の軒下で、次屋三之助と会ったことがある。手がかりになるかどうかは、判らんが……」
 次屋三之助と会話を交わしたのは、あの時だけだ。その以前も、以後も、彼には会ってすらいない。
 しかし他者である彼が私の生存を確認したあの瞬間、その言葉、それは私を救い出す英傑の行為だった。
 そうだ、後光を称えたヒーローのように。
「行ってみましょう」
 私たちはワイヤードゴーストの群れに紛れて、街中を歩み始めた。
 ひとまず、平穏。制作者たちは、ゲームの構造で私たちを追い詰めるのを諦めたのだろうか。敵と覚しき存在が出現しない。
 しかしそれでも私たちは幻覚と現実の両端に両手を縛り付け、前後不覚とならぬように葛藤する。
 私とAYABEはキンゴの手を強く握って歩いた。強く、どんなに強く握っても、温度も抵抗も無い子供の手のひら。両手を取られて歩くキンゴは、少し照れくさそうに私とAYABEに向かって笑いかけた。
「平和ですね」
「さっきまでの戦闘が嘘のようだな」
「現在の現実も、こんな感じなんですよね?」
「そうだ」
 私は更にキンゴの手を強く握る気持ちになった。そういう動作をしてみても、キャラクターモデルに設定された疑似三次元的な接点以上に踏み入ることは出来ない。
 私が唇を噛み締めるような気持ちでキンゴの手を握っていることは、彼に伝わりはしないだろう。キンゴだけではない、AYABEにも、孫兵にも、観測者たちにも。
 私のインターフェイスは確かに唇を噛み締めているが、それが嘘か真実か、ここにいては判りはしないのだから。
「とある豪邸、ってどんなの?」
 AYABEは無表情にて問い掛けた。
「塀も屋敷も煉瓦造りで、ポーチの屋根が白いバルーンのような形になっている」
「それなら知ってる家だ」
「本当か、AYABE」
「近所だったからね。TAKIと僕の記憶のどちらも正しいのなら、確かにこっちの方向に、その屋敷がある」
 孫兵が緊張した面持ちで頷く。
「情報、あるといいですね」
 一番幼いキンゴが、気遣って励ましの言葉をかけた。

 しかし待っていたのは次屋三之助の情報ではなかった。無駄足でも無かったが。
 崩れた豪邸の壁に、蹲って座っている者が居る。
 その影が孫兵の持つ地図の認識範囲内に入った時、私たちは誰もがTUGIYAであることを期待したのだ。が、違った。そしてその正体にも、驚きを禁じ得なかった。
「TAKIさん、このアカウント情報を見て下さい」
 地図を広げた孫兵が、慌てて私を呼んだ。
 指差された先の情報に目を通す。
 ネット登録名、<TAMURA>。田村三木ヱ門!
 しかし、これはTAMURAであるはずがない。きゃつは現実で昏睡状態にあるはずだ。では、その正体は?
 誰に問うまでも無い、ワイヤードゴーストだ。
「そんなに驚くべきことかな? TAMURAも行方不明事件に遭ってたんだよね」
 AYABEの言う通り、行方不明となったTAMURAも同じくここの住人として再現されていても不思議は無い。
 では何故孫兵はそのように慌てたのか。
「いいえ、驚くべきことです。TAKIさんは、TAMURAさんが消失したことを、彼の行動ログを覗き見ることで確認していましたよね」
「良く知っているな。孫兵、お前も観測者の一員か?」
「まあ、半分ぐらい仕事被ってますから」
「あのー、それより、ユーザーが他人のログを読むのは規律違反なんですけど……」
「キンゴ、今はそういう細かい事を言うべき時じゃない」
「しかしですね、僕たちの仕事というのは」
「仕事熱心なのは結構だが、もうちっと柔軟にならんと大人の世界は生きて行けんぞ」
「その通り、僕はTAKIさんの意見に同意しておきます。で、確かにTAMURAさんが消失したのを確認しましたよね?」
「無論だ。場所も、このゲーム内で間違いない」
 そうだ、確かにアカウントTAMURAは、数日前にレストランで私と別れた後、フラフラと覚束無い足取りで仮想の中を歩き回り、このゲーム内と思われる座標に至った。
 そして忽然と、消失した。
 不審な点がある。TAMURAは消失の少し以前に、ログアウトが不可能になっていたのだ。
「孫兵、一つ聞いてもいいか」
「はい」
「このゲーム内で作成されたワイヤードゴーストは、この迷宮の外に出られるのだろうか」
 孫兵は唇を噛み、険しい顔で一瞬思案を巡らせた。
 点と点を結べ、不審な点から別な疑問点へ、糸を張り巡らし迷宮のような思考を巡り巡らせろ。
 ネット上に在って、ログアウト出来ない存在、それはつまり。
「理論上は、可能です」
「だろうな。不可能であるはずがない」
 私はログアウト出来ないTAMURAというアカウントと会った。その数日の後に、TAMURAは消えてしまった。
「ちょっと話が読めないんだけど」
「AYABE、前にも言ったと思うが、TAMURAというアカウントは数日前に消失したんだ」
「うん、で、それって行方不明事件に巻き込まれたってことで、他の被害者と同じじゃないの?」
「いや、違う。このTAMURAのアカウント情報をよく見ろ。全て隅々まで、全くもってTAMURAだ」
 半透明の情報ウィンドウに事細かな数字の羅列。これがこの仮想の中で、TAMURAを表す唯一無二の証だ。
「もしかして全部暗記してる?」
 情報を見てもピンと来ないのか、AYABEが首を傾げた。
「この程度の数値ぐらい、二、三度見たら覚える」
「いいや、執念だね……」
「天才だからだ。おい、孫兵。話では、ワイヤードゴーストのアカウントは在る程度の時間が経ったら書き換えられるのだったな」
「はい」
「つまり、ここにTAMURAのワイヤードゴーストが存在するとしても、アカウント情報がまるきり同じになるわけがないのだ。判ったか、AYABE」
「TAKIが情報を覚え間違えてる可能性は?」
「ない」
 AYABEは肩を竦めた。
「本物のTAMURA……田村三木ヱ門は現実で昏睡状態にある。それとは別に、消失したTAMURAのアカウントがある。だのにここに表示されているアカウントはTAMURAだ」
 そもそもそれ以前に、読み違えていたのだ。脳内で情報が混沌となり、冷たい温度で背筋を伝い落ちた。

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