ラビリンス・ヒーロー 010

「コンマ0213以内の時間でエリアを切り替えて下さい」
「そんなに性能のいい追尾が在るのか?」
「<観測者>が存在するんですよ、この世界には。でもじゅんこ、君が僕らを助けてくれるね」
 私はダンゾウの残したプログラム馬を操作しながら、後ろに乗る孫兵をちらりと見た。蛇の口元に接吻し、じゅんこは孫兵の体を伝って馬の尻尾へ絡み付く。
「遠回りして行きましょう」
「道筋は」
「ランダムに」
 0.0213秒毎に私が移動する先を選択できる訳がない。馬のシステムに、自動的にランダムに移動するようマクロを書き込む。この辺のやり方はダンゾウから聞いたわけではないが、やつの手元とプログラムの中身を覗き込めば大体判る。私は飛び抜けた天才ハッカーなのだ。
「では、行くぞ。振り落とされるなよ」
 周囲の景色が虹色に変化した。私たちは無作為に選択したエリア、地域、場所、空間へ飛ばされる。動体視力の良い私でも、0.02秒前後の変化には視覚が追いつかない。ただ何処かに描かれた背景が、高速で展開する。
「遠回りしてどこへ行くというのだ」
「迷宮へ、ですよ。私が止めたって、TAKIさんは止める気なんか起きないでしょう?」
「無論だ。私は一度やると決めた事を、易々と諦める軟弱な精神は持っていない」
「だから僕もついて行きます」
「そうか、それは有り難い」
 私は前だけを見ていた。虹色の風景だけを見ていた。手綱を握った手に力を込め、行き先を見ていた。振り落とされる心配など無いのに。そうならぬよう、安全装置が付いていることは知っている。
 孫兵がどんな顔をしているのかは判らない。ついて行く、と言うが、それも罠かもしれない。
 でも先程聞いた、「救えもしないのに」との言葉が、記憶の中から蘇った。それは血の通わないAIの呟いた言葉だが、仮想の中で確かに再生された。現実に存在する私の耳に、確かに聞こえた。
 その重さ。「ついて行きます」と、今言った。同じ重さが感じられた。仮想の重さと冷たさと複雑さ、それは私が先日の1-ハの事件で強く感じたことだ。
 私はひとまず孫兵を信用することとした。今までもそれなりの情報を提供してくれたわけでもあるし。
 しかし、気になることが一つある。
「孫兵、お前には救えるのか?」
 救えもしない私を止めるのなら、迷宮の先へ進もうという孫兵は、救えるということなのだろうか?
 そうではないのだろう。救えるのなら、既にやっている。
 孫兵は息を呑んだ。呼吸の音が聞こえた。黙っている。答えられない問いだった。
「そういえば、動物たちはいいのか? 管理をしているお前が出て行っては困るのではないか?」
 私は慌てて話を変えた。何だか白々しい響きになってしまったが。
「実は」孫兵が柔らかい口調で答えた。「最近僕の他にも、管理のAIが出来たんですよ」
「なるほど、では安心だな」
「動物たちも増えすぎてきましたしね。あ、追尾が」
「どうした?」
「じゅんこ、彼はもう諦めたのかな? 追尾していたログが減っています」
「これほど高速で移動していればな、追うのも面倒になるだろうな。しかし、速度は落とさんぞ。位置選択のランダマイズプログラムも、少し変化させよう」
 コンピューターの生み出すランダム数値というのは、実は完全な無作為ではない。多数を集めて解析すると、コンピューターの癖のようなものが出ているのだ。それを解析されないよう、人為的な――具体的に言えば私の、適当に思いついた数値を加えたりしている。その動作を、少し変化させようというわけだ。
「じゃ、監視も減ったみたいなので話を戻します。<ラビリンス・ヒーロー>というゲームと、行方不明者の関係について、知りたいんでしょう」
「孫兵、お前判っていて話をはぐらかしたりしていたのだな」
「観測者が、見ていますから」
 私は何となく空を見上げた。空から見られているような気がしたのだ。空は、青かった。基本的に室外のエリアを飛んでいるからだ。どこへ行っても、どこで見ても、空の色は同じ青だ。

「どこから説明しようかな」
 孫兵が独り言ちた。今回の件は、訳の判らない事が多すぎる。迷宮のように入り組み、謎の空白。
「こんな所で長話してるより、早くTUGIYAとSAMONを見つけて説得した方が早い気もするんだよなー」
「迷子の?」
「そう、事の初めはその二人が迷子になった所からです。記憶の迷子」
 謎掛けのような言い方だ。
「記憶喪失、か」
 私の頭の中に、五年前の身よりも記憶も無い、弱く見窄らしい田村の姿が記憶として蘇った。私もあの頃は脆弱な子供だったが、記憶が有るだけ、田村よりマシだった。
「そう。その上、二人はログアウトが出来ないと言い出したんです」
 孫兵の言葉に、両目の間がかっと明るくなった。脳の中、妙なところで情報が検索結果として出てきたのだ。
 田村も記憶喪失で、そして数日前からログアウト出来ない状況になっていた。同じだ。示し合わせたように、同じだ。しかし、
「その、二人がログアウト出来なくなった時期は?」
「相当前です。もう、何年も」
 時間軸はずれている。何の根拠もないが、そうではないかと予測出来た。
「もしかして、TUGIYAとSAMONの記憶は五年前より以前が無かったりするのか?」
「ええ」
「そうだろうと思った」
 何故だ、と聞き返して欲しかったのだが、孫兵はそれより話を先に進める事を選んだ。
「で、その自称ログアウト出来なくなったユーザー二人を<観測者>達が発見しました」
「今まで聞き損ねていたが、<観測者>とは?」
「僕や1-ハと同じく、システムの管理AIです。仕事はこの仮想世界を見ること。異常が起きたら、異常を正常に戻すためのシステムを呼び出されます。今回の1-ハのように」
「なるほど。そしてログアウト出来ないという異常については?」
「二人はログアウトの仕方から忘れていたんです。気がついたら、ネットにいた。そこで観測者達は二人の記憶を取り戻させたらどうだろうと、考えた」
「何故? そんな、TUGIYAとSAMONとは一個人だろう? システムが一般市民の生活にまで干渉しようというのか」
「仲良かったんですよ。AIっていっても、精神だけはあります。そう、見えますよね」
 私は思わず後ろの孫兵を振り返った。孫兵はAIだ。人を摸したプログラムだ。1-ハもそうだ。タカ丸さんもそうだ。作兵衛もそうだろう。
 彼らの精神。意志。思考。感情。情け。脳。心。魂。
「見える」私は言った。
 だが、どこにある?
「ある」私は言った。
 私の精神は私の脳にある。位置として、三次元上に指し示す事が出来る。でも、孫兵たちの精神は、どこにあるのだろう?
 ネットの中枢システムに、組み込まれているのだろうか。
「確かに、あるように見える」私は、はっきりと言った。
 あるのだと、私は信じている。彼らの精神が。
「記憶喪失の友人、助けたいと思うのが人情でしょう。そこでTUGIYAとSAMONと仲の良かった<藤内>、<数馬>二名は制作者<作兵衛>に相談しました」
「制作者とは」
「プログラムを作れるAIです」
「そんな者も、存在するのだな。この世界は膨大に膨れ上がっていくようだ」
「増え続けますよ、何でもかんでも。人も動物も。そして作兵衛が作ったのが、<ラビリンス・ヒーロー>」
 やっと話が繋がってきた。

 さて、孫兵の語った話は私を驚き呆れさせるのに充分だったわけだが、しかし驚いた後に私は考えた。
 もしも、私が<作兵衛>と同じような能力を、あの時代に持っていたら、同じ事を考えなかったかどうか。
 いいや、今も昔も誰よりも能力は高い私ではあるが、私の高い能力を充分に生かせる環境があの頃に在ったなら、どうしただろうか。
 どうしたもこうしたもない。よくよく思い出してみれば、私は彼と同じ事をやったのだ。記憶が無く、名前すら存在しない、あの今ですら田村三木ヱ門なのかどうかも判らない、やつに私は、同じ事をしてやったのだった。
 孫兵の話を聞き終えた時、私の頭の中の空白だった部分が急にスポットライトを当てられたかのように、明るく浮き上がった。私はそこを空白であったとさえ、認識していなかった部分だ。失った記憶というのは、往々にしてそのようなものだろう。
 終戦は私が七松先輩に助けて頂いた日から、季節一つ分も経たない内に訪れた。もう少し長引いていたなら、私も、七松先輩も、命は亡かったかも知れない。かも、と。今は仮定は無意味だ。ここに述べるのは、過去の事象であって、不変かつ不滅の事実だからだ。存在を失った過去は、変化する事を許されない。
 だが記憶は現在のものだ。話が前後するが、私は孫兵に<ラビリンス・ヒーロー>についての秘密を聞いたこの時に、田村と出会った終戦その日を思い出した。
 思い出した事を、まず述べようと思う。
 何故戦いが終わったのか、当時私には判らなかった。というか、戦いが終わったこと自体を、正しく理解していたわけではなかった。当時私は少年兵だった七松先輩の使い走りで、その日もその時にはさっぱり理解できない理由で、誰かの所に何かを届けに走らされた。また思い出した。五年前だ。あの強面の、潮江文次郎という男の所だった。五年前だから十を超えたぐらいの年だっただろう。七松先輩もそうだが、彼らの戦い慣れした面構えと与えられる少ない栄養食を最大限利用して成長させた屈強な肉体は、なんだかどうみても十の子供には見えなかった。多分、頭脳の方も大人顔負けであったのだろう。
 彼らについての子細はまた別な機会に述べるとして、使い走りに出された帰りに、私は空が虹色に変色したのを見た。
 辺りには誰もいない、瓦礫の山の、その合間で見た。
 あれが見間違いだったのか、それとも栄養失調で立ち眩みがしていただけなのか、この時には判らなかった。虹色といっても見える範囲の空に七つの色が並んでいた訳ではなく、様々な、ありとあらゆる色が、形が、風景が、空に映り込んだように見えたのだ。
 あまりのことに、私はその場にへたり込んだ。途端に、その頭上を激しい爆音が通り過ぎた。
 戦闘だ。当時の戦闘は、ほぼ廃墟と化した市街地でのゲリラ戦や、少数の部隊同士が小競り合いを繰り返す形式であったように記憶している。
 何と何が戦っていたのか? 政治、思想の違いだ。もう誰も覚えては、いまい。
 とかく、驚いている間に戦闘が始まった。私は周囲を見た。背後、今し方走ってきた方から、数人の兵士が走ってくる。手に銃は無い。逃げているのだ。
 それは潮江文次郎と、田村三木ヱ門だった。
「おい、お前!」
 呼ばわれた私はビックリして、振り返った。埃まみれの十歳の少年兵が、気を失ったさらに幼い子供を抱えていた。
「こいつを頼む! 小平太の所には逃げるな、あそこもすぐにやられるぞ!」
 どさっと乱暴に子供を投げ飛ばす。地面に叩き付けられた拍子に、はっと田村は目を覚ました。
「逃げろ、いいな! 生きるんだ!」
 田村は幼い目に大量の涙を浮かべ、自分の前にしゃがんで叫ぶ少年兵に、何度も頷き返していた。
「お前もだ! 平、滝夜叉丸!」
 彼は私に向かっても叫び、そしてまた自分達が逃げてきた方へ駆け戻っていった。廃墟、瓦礫、元市街地の裏道の先に、白い大きな建物が見えた。あれは元は学校だった建物だ。戦争が始まってから暫くして、少年兵の駐屯地になっていた。
 建物の一番高い所に時計が掲げてあって、その下に誰かが作った、緑の旗がなびいていた。

 私は走った。夏の通り過ぎた秋野は入り口だった。熱い気温の最中、後ろから何度も銃声と爆音が聞こえた。
 そしていつの間にか、私が片手に強く握っているものに気がついた。手だ。誰かの手を、握っている。その手は私と同じように灰と埃と垢にまみれて汚れ、栄養不足のために骨と皮ばかりに痩せ細っていた。
 私たちは互いを引きずるようにして走り逃げていた。どこへ逃げればいいのかも判らずに。
 何しろ私が帰る場所と言えば、七松先輩が所属していた部隊の駐屯地しかもう残っていなかったのに、そこも危険だとあの少年兵は言ったのだ。
 そして田村も、恐らく逃げてきたあの校舎しか帰る場所など無かったのではなかろうか。この時はまだ田村が記憶を失っている事には気がついて居なかった、というか一緒に逃げている相手について何の情報も持っていなかったのだが、推測するに私と同じように下働きでもしてたのではないかと思う。
 当人は、ネット上での射撃の腕を誇って昔は射撃兵だったのだと主張するが、やつは何でもかんでも射撃したがるだけで、腕があるのとは違う。真実、能力があるというのは、私のような者のことを言うのだ。
 話が逸れた。とかく、私たちは逃げた。私の足が道端の石に蹴躓けば、田村が手を引いて強引に私の前へ走る足を進めさせる。田村が体力を失って気絶しそうになれば、私が手を引いて強引に田村の意識を引き戻した。
 そんな風にして逃げた先は、やはりどこか市街地の片隅だった。既に壊滅している廃墟の街だ。建物は倒壊して、誰もいない。人の気配のない場所だった。酷い臭気が立ち籠めている。潰されてから、数日経った街であろうことが推察された。
 なんだかどうにもよく判らない理由で頭に血の上った人間が、大挙して押し寄せて楽に暮らしていた人々を打ち殺して、建物を壊しては金目の物を奪って、そしてその死体はそのままに打ち捨てられてしまった。
 後になって気がついたが、そこは鴻上区だった。
 殺し合いの気配からやっと逃げ延びた私達は、互いの手を握ったまま、崩れた煉瓦の一軒家の軒先に入って、壁により掛かって座った。
 そしてやっとお互い、一人でない事に気がついた。
 ふっと横を見る。そうだ、手を引いて共に逃げた誰かが居たのだった。その誰か、つまり田村と私はその時に初めて目を合わせた。
 目があって、何を思ったのか、思い出せない。恐らく何も思わなかったのだろう。山に木があるように、川に水が流れるように、海に潮が満ちるように、目があった相手はそこに有って然るべき存在としか思えなかったのだ。
 そして私たちは目を閉じた。迷宮のような市街地を逃げ回り、酷く疲れていた。
「さて、突入しましょう」
 そこまで思い出した所で、孫兵が私に声を掛けた。
 行方不明事件とラビリンス・ヒーローというゲームの関連性について孫兵が語り終えてから、ほんの一瞬の間だ。僅か一秒ほどの時間の中で、私は突如煌めいた昔々の記憶に思いを馳せていた。
 事件の根幹に対する疑問を抱いた瞬間に、私は脳内の迷路の一つを攻略してしまったのだ。
 この世に存する迷宮の中で、最も難解な存在、記憶。四次元上に存在するその迷宮のゴールを発見するのには、どんなアルゴリズムも通用しない。
 だけどゴールにたどり着ける時は本当に一瞬だ。ほんのちょっと、少しの切っ掛けが目の前にちらつくだけで、終着は燦々と輝き出す。
 ラビリンス・ヒーローの装飾は、それを期待した藤内、数馬、作兵衛の三人の苦肉の策だった。

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