ラビリンス・ヒーロー 005

03 曲がった道理も通るなら

 田村三木ヱ門が暮らしているのは、私と同じく嘗ての集合住宅の一室だ。コンクリート造りのビルが並ぶ町並みは明日にも崩れそうな様相をしている。しかし、意外に世界は逞しい。
 街の外側からは崩壊した建物や鉄筋剥き出しのビルが目立つが、奥まった所には、結構色々な建物がある。伊作さんの様に細々と店を営んでいる人もいるし、建物の中に大規模な農場を作ってしまった人間もいる。外側の廃墟だって、よく見ると市場が形成されていたりする。
 そこで生きているのは、戦前からこの辺りに住んでいた人間が殆どだ。生活が貧しくなってしまった時代では、大都市に流れて命を繋ぐことが、最も有効な生き残り手段になる。だけど今は全体的に誰もが貧しいために、目指す豊かさも無い。豊かなのはネットで見る夢ぐらい。ああ、だから皆がネットに流れていく。仮定と嘘と知りながら。
 現実には、昨日も明日も貧しく続いてく。戦争が終わって貧しくなったが、戦前も別な意味で貧しかった。人口爆発のために政府が作った集合住宅は狭く、一家族に宛がわれた部屋は四畳半キッチン付き風呂トイレ無し、朝慌てて起きあがると上の段に頭をぶつけるベッド付き。西瓜を小さな箱に入れて育てると、その形に育つというのは有名な話だが、人間は皆この住宅の中で、皆同じサイズに育ったのだろうか?
 勿論今は人口が激減している。開いた部屋、ばかり。私も田村も、壁を破壊して何部屋かを繋げて広く作り替えた。それが現在現実の流行だ。
 そこで一人暮らし。私は、両親がいない。何故いないのかというと、私よりも先に行列へ並んだからだ。七松先輩が手を引いたのは、私だけだった。だから私は仕方がないので、以前家族で住んでいた部屋で一人で暮らしている。
 同じように田村も一人暮らしだ。ただし、誰が住んでいたのか判らない部屋で暮らしている。いつか元の住人が帰ってきたら、問題が起きるだろう。しかし田村はそうする他無かった。
 田村三木ヱ門には帰る場所がない。戦争が終わり、田村は何所に帰ればいいのか判らなくなった。
 やつには、戦争が終わったその日以前の記憶がない。
 そして戦後出会う誰もが、やつの事を知らなかった。
 コンクリートの階段を昇りながら、初めて田村と遭った時の事を思い出していた。
 正確には、思い出せないで居た。私はまだ八つで、田村も同じく八つ、似た様な境遇の子供が街には溢れていた。子供はがむしゃらに生き抜くことしか頭に無く、私も同じくそうだった。だからいちいち誰が何をしていたかなんて、気にしてはいられない。気がつくと人々の間にはコミュニティが生まれ、それが膨張し連結し、社会と成った。
 田村と私は同じコミュニティに所属していたらしい。友好関係があった、のかもしれない、という事だ。
 どちらにしろ私たちは世間の波間で取るに足らない薄汚い子供でしかなく、路傍の小石でしかなかった。
 しかし小石にだって五分の魂、虫にあるんだから石にだって有るに違いない。小石だって何かになれる。田村は知らんが、私はなれる。
 四階だ。田村の住む、粉っぽいビル。やつが居ようが居まいが、私が何かになるのは間違いない。
 しかし私はここに来た。そしてもっと早く来てやるべきだったろうか、と何かを見る前に後悔を感じている。未来予測の不安。過去さえ判らない人間も居るのに。
 冷たい扉に手を掛けた。周囲に耳を澄ますと、生活音が聴こえる。田村以外にも暮らしている人間が存在するのだから、人の気配がするのは当たり前だ。しかし、この音が田村の生きている音でないとも、限らない。
 私は躊躇いながらも戸を押した。
 一目で全てを見渡せる部屋に、生活感に溢れた温度。奥の端末に田村が横たわっている。それを目にすると同時に、私は端末の隣に意外な人物を発見した。
 その男がふとこちらに振り向いた。
 見たことのある男だ。

 振り返った顔は、実年齢よりも相当老けて見えた。この男の実年齢を知っていた訳ではないが、老けて見える顔だと勝手に納得してしまうような顔つきだった。
 肌は浅黒く短い髪はボサボサで、両目の回りが黒く落ち窪んでいる。眉間に刻まれた皺も深い。常に悶々と思い悩み続け過ぎた結果、顔から取れなくなってしまったんじゃないだろうか。
 そのように言ってしまうと、まるでとんでもない醜男であったかのようだが、そこまではない。強面で、暑苦しい印象があるというだけだ。
「お前は」
「平滝夜叉丸です」
 男は頷いた。
「小平太の後輩だな」
「そちらは?」
「潮江文次郎だ。現実で会うのは、三度目か。小平太とは戦中からの知り合いになる」
 お互い、以前から存在を認識していた。従って自己紹介も簡単なものだ。互いの名前だけを確認すると、潮江文次郎と名乗った男は端末で眠り続ける田村へ向き直った。
 見ると、田村は腕に何やら器具を取り付けられている。細い管だ。端末の隣に立っている物干し台のようなものにぶら下がっている妙な液体の入った袋に、その管は繋がっている。袋からは一定の間隔で雫が落ち、それが管を通って田村の体へ送られている。
 点滴、というのだったか。
「田村は生きていますか」
「寝ているだけだ。心配ない」
 確かに、田村は正常に呼吸を繰り返しているらしい。肺が上下しているのが見える。起きる気配はなく、田村は少し痩せたように見えた。いつからこうなのか。
 ログアウトできなくなったと言い出したのは、四日前。実際は一週間程の時間が経っていたと見て間違いない。一週間寝たきりだったとしたら、この痩せ方も納得がいく。
 しかし、田村の顔からは端末が外されている。いつの間にログアウトしたのだろう。私の知る限り、田村のネット上のログは今日の朝まで残っていた筈だ。
 この男が外したのか?
 そもそも、こいつはどんな理由があってここに居るのだ。
「失礼ですが、田村とはどのような関係ですか」
「五年前、短い間だったが同じ部隊に居た」
「五年前というと」
 戦中だ。正確に言うと、五年前の一年間は戦中と戦後が入れ替わる一年だった。田村が失った時代と、田村が持っている時代との、境目。
 だとしたら。
「まさか、田村の過去を知っているのですか」
「ああ。しかし、こいつは記憶喪失とかいうやつで、おれの事など覚えていないみたいだがな」
「その事は田村に言いましたか?」
「いいや」
「何故です」
 潮江文次郎は目を瞑り、首を僅かに振るのみだった。
「だが責任は感じている」
 物干し台からつり下げた点滴を指さし、
「栄養剤だ。これで飯の代わりとは言えないが、少なくとも飢え死には回避できる。これを日に二度、定期的に取り替えに来ている」
「眠っている理由は?」
「さあな。医者に診て貰ったが、目立った外傷も病気の疑いもない。精神的ショックだろう」
「それは記憶に関係のある事でしょうか」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。おれはこいつが気を失った瞬間を見ていない。一応調べてはいるんだが……」
「私も調べています。1-ハプログラムと共に」
「あいつらか。大丈夫なのか?」
「性能の面では、高度な存在です。少しばかり間が抜けていますが。所で潮江さん、最近ネット上で頻発している、行方不明事件はご存知ですか」
「噂は聞いている。それと三木ヱ門が、何か関係が有るのか?」
「有りますね。多分、大いに」
「ほお」
 眉間に更に深い皺を寄せ、思慮深く唸った。

「判った。そっち方面も調べてみよう」
「それが良いでしょう。まあ、その前に私が真実に辿り着く可能性の方が高いでしょうが」
「真実か」
 含みのある言い方だ。
「こいつの真実は、どこに消えちまったんだろうな」
 そんなものは知らない。失ってしまったのは、田村の不注意だ。第一、真実が消えてしまったわけではない。彼の言う真実というものが、実際に起こった事象という意味であるのならば。過去。
「消えてしまったのは記憶で、過去ではありません」
 そう、そして過去は常に、永遠に消失してしまう。過去とは、逆説的に不変の永遠。
 だいたい、この男は田村の過去を知っていると主張するのならば、その消えてしまった過去を返してやれば良いのだ。何故に嘆く。
 これ以上ここに居ても仕方がないので、私は立ち去る事にした。
「よくおれを信じる気になったな」
 と立ち去り際に言われた。
 先日の騒ぎで数度顔を合わせているのだから、全く知らぬ相手でも無し、何か問題がある人物だというのなら、七松先輩か伊作さんが教えてくれるだろう。問題が起こったなら、そのどちらかに訴えればいい。何の脈絡もなく闇から現れた人物でないのは判っている。
 しかし記憶のない田村にとっては、どうだろうか。過去に会っていても、知らぬ相手だ。
 もしも彼が自分が知り合いである事を示したなら、空白の記憶の中に、ぽっかりと影が浮かび上がるだろうか。何の脈絡もない人物として。
 それは不安を感じて然るべきだ。だから彼はそうしないのか。
 記憶喪失にはなりたくない、と思った。

 田村三木ヱ門が無事である事を確認したので、私は現実世界で片付けておくべき問題の一つを恙無く追えたこととなった。
 何故片付けておかなくてはならない問題があるのか、というと、要するに遺書をしたためる要領である。やり残しの無いように――と。それは大げさだが。
 件の行方不明の事件だが、その問題解決の鍵となりそうな点が、私の活躍によって――私の活躍によって、幾つか発見出来た。私の活躍によって。
 その詳細は後に記述するとして、鍵が見つかったならば扉を開けねばならぬ。
 私は私の扉を私の手によって開けねば気が済まない質である。従って、現地調査を私が担当する事になった。決して1-ハにおだてられた結果では無いのである。
 行方不明者の生命がどうなっているのか、とんと見当も付かない。田村はこの通り昏睡状態だが、他のサンプルが無い。死んでいるのかもしれないし、生きているのかもしれない。私も田村の二の舞となる可能性も、なきにしもあらず。私は田村と違って優秀なので、無いとは思うが。
 とはいえ打てる手は打ち尽くす。まず、行方不明者の現実での具合を確認する。田村が一人目だ。他に二名程、現実での所在を調べる事の出来た人物が存在したので、そちらも確認する。無事であるのならば、喪失状態となった際の前後関係を聞き出す。あまり期待は出来ないが――これの詳細も後ほど記述する。
 次に、考えたくはないが最悪の場合を想定し、思い残しのないよう身辺整理をしておく。
 これは重大な問題だ。私個人の輝かしい功績を、後世に残すには、適当に死んではならないのだ。とは言え、こんなことを思っている内は、死ぬなど本気で意識しているわけではないのだが。当初、そうだった。
 今はほんの少しだけ。
 昏睡する田村を見て、不安になったのは、ほんの少しだけだ。
 思えば死を意識したのは、この件が初めだった。それは戦中や戦後の混乱に有った確実な恐怖としての死ではなく、不確定で存在の掴めない不安。嘘か誠か判らない、生命と死。
 田村はその正体のない死に、足を取られたんじゃないか。

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