火事場に泥棒一網打尽 二
暗闇の中で、不気味に轟音が鳴り響く。揺れは収まったが、あちこちで建物の崩れる音と振動が伝わってくる。
「父さん、母さん、大丈夫ですか?」
両親の部屋に飛び込んで、大声で呼んだ。灯りもなく、真っ暗で視界が悪い。忍者として、暗闇でも目が利くように鍛えてはいるつもりだが、星明かりも差し込まない室内では、流石に厳しい。
「おお、何とか大丈夫だ」
「はあい」
父と母が答えた。目をこらして見ると、飛び込んだ部屋の真ん中に何かが倒れている。手を当ててみると、薄い板である。どうやら天井板が父と母に覆い被さるように落ちてきたらしい。払いのけようとすると、再び揺れが来た。
短い揺れで、あまり強くもなかった。しかしその拍子に、バリバリ、と音を立てて天井が崩れてきた。
咄嗟に庄左ヱ門は両親の上の板を払い除け、横たわったままの二人を両手で突き飛ばした。
庄左ヱ門の上に、残った天井板が落ちてくる。天井板は薄い板だから、体に当たっても大したことはない。
しかし、さらに続けて梁の木材や屋根瓦の一部が、雪崩を起こしたように崩れ落ちた。
避ける事も出来ず、庄左ヱ門は黙ってそれを受け止めた。
やがて静かになり、瓦礫の山から庄左ヱ門が顔を出すと、天井の一部が綺麗に抜け落ち、戸外の灯りがその穴から差し込んでいた。
「父さん、母さん、お怪我はありませんか?」
「大丈夫だ。お前こそ、大丈夫か」
床を転がっていた両親が身を起こし、心配げに庄左ヱ門を覗き込んだ。
「はい」
庄左ヱ門も瓦礫から身を起こした。
あれほどの落下物を見に受けながらも、庄左ヱ門は急所は守っていた。軽い打撲の痛みこそあれ、致命傷は一つもない。
「なんだか、きな臭くないかい」
庄左ヱ門の母が、鼻をうごめかした。
「本当だ」
穴の開いた天井から、何やら炎の匂いが流れ込んだ。どこかが燃えている。
「早く外に避難しましょう。また揺り返しがきたら、家が持たない」
庄左ヱ門と両親は、予め金銭や衣服をまとめておいた包みを持ち、外へ出た。
「本当に予言が当たったねえ。こんなことなら、近所の人にも言っておけば良かったよ」
母がそう言ったが、今となってはもう遅い。半ば信用したからこそ、避難用の荷物を包んでいたのだが、逆に言うと半ば信用していなかったから、呑気に屋内で寝ていたのだ。
外に出ると、半鐘が激しく打ち鳴らされ、往来は逃げ惑う人々で混雑していた。
中に、ヤイヤイと勇ましいかけ声を上げて走ってゆく一団がある。町内の若衆が、火の手の上がった場所へ火消しに走っているのだ。彼らの走って行く先が、夕日のように赤く染まっていた。燃えているのは、大店や富豪の住む一角である。
「おーい、庄左ヱ門」
火消しの一団から、一人の若者が抜けてきて庄左ヱ門へ声を掛けた。
「伊助。素早い行動だな」
二廓伊助、表向きは染物屋を営んでいるが、庄左ヱ門とは同窓の忍者である。彼と同じく町内の若衆を纏める立場にある。
「独断で火消しを編成したが、不味かったかな」
「いや、的確な判断だと思う」
「庄左ヱ門が予め報せてくれたおかげだよ。夕方ぐらいから、何人かを見回りに出していたんだ」
「うん?」
少し、虚を付かれたような気がした。確かに庄左ヱ門は、八左ヱ門が立ち去った後に方々へ連絡を取った。遠方の者へは早馬で、所在の判らぬ者へは伝書鳩で、近所の者へは飛脚を使って。この時代、各地の勢力が要所に関所を設けていたために領国間にまたがる通信は困難だったが、各町内には後世の飛脚制度の原型のような商売は存在した。
とは言え、報せる側の庄左ヱ門は先程も言ったとおり、半信半疑であった。八左ヱ門が話半分に、と何度も念を押したためでもあるし、鯰坊主の話は詳しく聞く程に滑稽な物語として認識されたからだ。
しかし、彼があちこちに送った短い手紙は、逆に真実味を持ってしまったらしい。
又聞きの方が信憑性がある、という事も、あるのかもしれない。
「伊助、火消しの頭は立ててあるかい?」
「うん。いつもの通りだ」
「なら、伊助は抜けて、池の側のお堂に詰めておいてくれないか。そこを対策の本営にしたい」
「なるほど。あそこなら作りも頑丈だし、周囲に建物も無いから火事の心配も少ないね」
「恐らくこれから、怪我人や狼藉者が大量に発生するだろう。救護班や警備隊の編成も、しなくちゃいけない」
「任せてくれ」
伊助が胸を叩いた。
「僕は町内を一回りしてくる。父さんと母さんは、お堂の方で伊助の手助けをお願いします」
「うむ。じいさんと庄二の様子も、頼む」
「わかりました」
庄左ヱ門は頷き、逃げてくる人々の間を縫うように、走り出した。
先ずは町内の様子を確認しなければならない。弟の庄二郎と祖父は後回しだ。あの二人には、昼間の予言について話してあった。
宿場町であるこの町は、中規模の自治都市である。従って宿屋と通行人を対象に商売を行う店が、町の中央を通る大通りにある。しかしそれらの店舗は実際に商売を行う間口だけである場合も多く、経営者の屋敷や問丸はそこから離れた町の一カ所に集まっていた。現在燃えているのが、その地帯であり、庄左ヱ門が居る場所からは大通りを越えて向こうになる。
人々は火の燃える方向から、家財道具を背負って逃げて来ている。庄左ヱ門は町の顔役なのだが、逃げ惑う人々は彼に見向きもしない。すれ違う相手の顔を見る余裕もないらしい。
道々、崩れている家を多く見掛けた。区域によっては、辺り一帯の建物の全てがぺしゃんと平になってしまっている。それが、遠くの火事の灯りではっきりと確認出来た。非常に埃くさい。
崩れた家々の側で泣きわめく子や、わけのわからぬ事を叫んでいる者もいる。その隣を黙々と通り過ぎる人々も有る。
庄左ヱ門は一人一人に話しかけたかったが、時間が許さないことを判っていた。細々とした対応には、伊助の手配した火消しが当たっているはずだ。
「あの、もし、そこの方」
誰かが呼ぶ声がした。女の声だ。声の方を見ると、潰れた家の隙間から煤だらけの女の顔が覗いていた。
「どなたでもかまいません、助けて下さい」
庄左ヱ門は速急に町内の様子を確認しなければならない。だが、見捨てて行くわけにも、いかない。
瓦礫の合間から女が手を伸ばした。屋根瓦と地面と瓦礫に、体を挟まれている。
「大丈夫ですか」
庄左ヱ門が駆け寄って手を握ると、女は笑っているような泣いているような顔をした。
「手を引いて頂けますか。夢中でここまで這い出して来たのですが、足がつっかえて出られないのです」
「ちょっと待って下さい」
庄左ヱ門は女の手を握ったまま、周囲の瓦礫を押し上げて、体の周り隙間を作った。押しつぶされていたのが楽になったのか、女はほっとした様子で庄左ヱ門の手を握り返す。
「今、出して差し上げますから」
言ってから、庄左ヱ門は女を引きずり出した。初めに手を引き、半身を引き出してからは、腰を掴んで引き抜いた。女の体が嫌に熱い。
「ああ、ありがとうございます」
庄左ヱ門が道に体を横たえようとすると、女は礼を言いながら、立ち上がろうとした。
「あっ」
だが、上手く行かず、地面に倒れ込む。ふと見ると、女の右足の足首から先が、無い。
「足は、どうしたのですか」
「さあ、判りません。気がつくと、片方の足が動かせなくって」
「痛くはないのですか?」
「全く」
女はやはり笑っているかのような、泣きべそをかいているような曖昧な表情で、庄左ヱ門を見上げた。
そして再び立ち上がろうとするが、片足が無いのでは立てるはずもない。
「どこかに行く予定なのですか?」
「あの、道の向こうの小豆問丸の太田様の所へ。明日の朝に輿入れなんです。急がないと、夜が明けてしまいます」
よく見ると、女は白無垢のようなものを着込んでいる。しかし女が瓦礫の下を這い回ったためであろう、煤で汚れ、あちこちが引き裂かれているために、元の面影が全くない。
「御輿も潰れてしまいました。ですから一人で行かなければ」
この町ではそれなりの経済力を持つ者は、婚姻の際には花嫁に御輿を差し向け、前日の夜から婿の家への行列を作らせる。だがそれらしいものは、辺りには見当たらない。恐らく先程の地震で崩壊してしまったに違いない。
「宜しければ、私がお連れします」
「まあ、返す返すも、ありがとうございます」
女が涙を浮かべて、しかしにこやかに笑って手を合わせた。庄左ヱ門が女を背に負うと、女は再び礼を言った。首の周りに絡められた手が、異常に冷たい。木枯らしが吹いた。
「小豆の問丸、太田どのでしたね」
「ええ、五朗左右衛門様のところ」
「走りますので、不都合ありましたら直ぐに言って下さい」
「はい」と女ははっきりと答えた。
その問丸が在る辺りは、ちょうど庄左ヱ門が向かおうとしていた先である。庄左ヱ門は駆け出す足の運びを、慎重に選んだ。
大通りを越え、大勢の人が絶え間なく逃げ出してくる。空を見ると、鳥が凄まじい騒ぎを起こしながら飛んでいた。赤く染まった空を避けるように、二股に別れた黒い雲となって、こちらへ飛んで向かってくる。地震に驚き、山から逃げ出たのだろう。
屋敷の建ち並ぶ一角へ近付くにつれて火の灯りはいよいよ強くなり、火消し衆のかけ声が近くに聞こえ始めた。そこかしこの屋敷が燃えていた。火消し衆は火の勢いを押さえるために、立ち残った屋敷を打ち壊し、水に濡らした筵を被せている。
この一帯は大きな屋敷や頑丈な倉が多いために、地震の揺れに耐え、倒壊を免れたものが多かった。しかし木造建築の時代である。火には、敵わない。火事の勢いは現代のそれとは比べものにならない。
そこに木枯らしが吹き込み、火を煽っている。当に焼け石に水の様相だった。あちこちから火が出ているものだから、火消しの頭数も足りていない。
絶望的な状況だった。自分の町が自然の前に為す術もなく破壊されていく様に、庄左ヱ門は心の中で歯を食いしばった。さらに、今背に負っている羽のように身の軽い乙女、彼女のことを思うと、一介の人間の無力さを痛感せずにいられない。この火の勢いでは、太田五朗左右衛門の屋敷が無事に残っているとは、思えなかった。
しかしそれを彼女に告げることもできない。冷たい女の体を振り落とさないように気を配りながら、庄左ヱ門は火の間を走った。次第に逃げる人も、火消しの姿も見えなくなってくる。
この一角に入ってから、辺りは変わらず赤く明るい。
小豆を専門に扱う問丸の屋敷は、その中でも一際明るく燃えていた。
轟々と音を立てて燃えている。周囲に飛び火しながらも、屋敷は立ったまま炎上していた。
庄左ヱ門は唖然として立ちつくした。ここまで来て、女に何を言えばいいのか見当もつかない。
いや、ひょっとすると、五朗左右衛門を初めとした太田家の衆は、火の手が上がる前に既に逃げ出しているかもしれない。それならば探しに行かずとも、伊助の準備する救護所に戻れば、消息を掴める可能性は高い。
「一端、戻りましょう。気を落とさずに」
首を曲げて女に語りかけた途端、庄左ヱ門はまた身を固くした。
女は、事切れていた。目を閉じ、息をしていない。相変わらず背に触れた胴と胸の辺りは嫌に熱く、庄左ヱ門の首に回した腕は冷たかった。
庄左ヱ門は静かに彼女の体を地面に下ろし、彼女の顔を着物の袖で拭った。かわいそうに、まだ十二、三ほどの若さだ。足首から流れ出た夥しい血が、命取りだったのか。本来喜ばしいはずの婚礼の前夜に、このような惨事に襲われ、さぞ無念だったろう。
庄左ヱ門は娘の家とは付き合いが無かったため、彼女がどのような立場で嫁ぐことになっていたのかは判らない。しかし太田屋の方とは友好があった。若当主の五朗左右衛門は非常に穏やかな性格で、商売の才の方はあまり褒められたものではなかったが、下に慕われる人格であったから、二代目の当主としてはまずまず良いと評されていた。この娘との婚礼も、その後の生活も、穏やかなものが約束されていたに違いない。それをたった一度の大地震が打ち壊してしまったのだ。庄左ヱ門の胸に、行き所の無い怒りと悲しみが、募る。
地面に横たえた娘の腕を取り、胸の前で組ませた。弔いの念仏を唱えようとした時、燃える屋敷の脇から、男が一人抜け出るように姿を見せた。
火の薄い場所から、何気なく道に出てきたのである。火にあぶり出されたのでは無いようだ。煤だらけのその男は庄左ヱ門の姿を見るや、慌てて踵を返し、逃げ去ろうとした。
「待て!」
庄左ヱ門が大音声で呼ばわると、男はぎょっと体を強張らせて立ち竦んだ。
「何故逃げる」
「ひ、火が恐いんで。早いとこ広い場所に逃げねえと、次に地震が来た時に、危ねえじゃあねえか」言い捨てて、また逃げようとする。
「待てと言っている。こちらへ来い」
男は観念したように向き直り、数歩だけ庄左ヱ門へと近付いた。
鼠のように尖った顔の若い男だった。庄左ヱ門の、知らぬ顔だ。一応、町の若い衆の顔は殆ど覚えているつもりである。
「太田屋の使用人か?」
「へえ、その通りでございます」
「主人や、他の使用人はどうした」
「ああ、それが、皆地震と火事に逃げ遅れまして」
「地震と火事だと? 屋敷は、地震に立派に耐えているように見えるが」
「いやそれは」男はしどろもどろになった。「すぐに火事が出たんで」
「そうか。では五朗左右衛門も奥方殿も、皆……」
「へい。痛ましいことでございます」
男は片手で目の辺りを拭う仕草をしてみせた。
「嘘だな」
「へ?」
「屋敷の燃え具合を見ればすぐ判る。これほど原形を留めているのだから、太田屋に火の手が上がってから、そう時間が経ってはいまい。しかしその割には、屋敷全体が燃えている。火付けをした者がいるということだ」
男は庄左ヱ門が言い終わるのを待たず、まろびながら逃げ出した。
それを庄左ヱ門が撥ねるようにして追いかける。両者の二間ほどの差が、一呼吸の内に縮められた。
腰に差した小太刀が引き抜かれる。赤い光を煌めかせ、男の首の辺りを真横に素早く一閃。
男の体が地面に叩き付けられる。首は繋がったままだ。峰打ちである。
庄左ヱ門は懐から縄を取り出すと、男の手足を素早く縛り上げた。
「五朗左右衛門どの、女房どの、この場で仇を討てず、申し訳ありません」
燃え続ける屋敷と、その傍らで眠る娘に向かって、庄左ヱ門は両手を合わせて深々と礼をした。