人形たち - ウソ 二

天保八丁酉一月二十一日 曇り。(略)

 日が昇ると同時に、糸は水を汲みに外へ出て行った。薄暗い朝である。まだ布団から起きあがれない私の枕元に、世之介が躙り寄ってきた。
「あの女、怪しいぞ」
 世之介はなんでもかんでも疑ってかかる。そんなに後ろめたいことがあるのか。
 情けないことに、私は暫く起きあがれそうにもなかった。従って糸や世之介の看病に、おとなしく身を任せるしかない。
 それにしても世之介は何やら焦っているように見える。私の体調のために旅の予定が狂ってしまうのは確かに申し訳ないが、世之介の焦りはそれ以外の所にあるように見える。
 私は軽い熱を出していた。ぼうっとした頭で、これまで湧いたあらゆる疑問と自分の成すべきことを考える。
 差し当たっての疑問は、あの旧家のことだ。私たちが突然出て行ったのを心配しているのではないだろうか。
 そのことを世之介に伝えると、「ああ、まあ、そうだな」と曖昧模糊な答えが返ってきた。
 明日には熱も引くだろう。何の断りもなく出て行ったのを、謝りに行かなければならない。
「あの家に泊まったでありんすか」
 私と世之介の話に、戻ってきた糸が横から割り込んだ。驚いている。
「それが、何か」
「主人が不在の所、よく松六が許しを出したものでありんすなあ」
「松六という男は、気むずかしいのか」
「いいえ、気さくな男でありんす。あちきもここに来たばかりの頃にはよく世話をしてもらいんした」
「長く主人が不在だという話ですが、お糸さんは行方はご存じない?」
「行方? 随分、妙な言い方をしんす。あすこの主人は、もう随分前に大病を患って死にんした」
「死んだ?」
 糸の話は本当だろうか。私と世之介は豆鉄砲を食らった鳩のように、目を丸くして驚いた。何しろ松六もその他の下男下女も、あたかも主人が生きているかのように、ごく自然に振る舞っていた。
「やはり私たちは騙されているのだ」
 世之介が頭を項垂れた。
 杞憂ではない。いったいどういうことなのか。糸が嘘をついているのか、それとも松六たちがおかしいのか。明日あの屋敷に戻ろうと考えていたが、少し考えなおした方がよいのかもしれぬ。
 それにしても世之介は私が床に伏せっている間、何をしているのだろう。そういえば何故世之介は糸を怪しんでいるのか、聞きそびれた。


天保八丁酉一月二十二日 晴れ。(略)

 体が動くようになったので、朝から糸の代わりに水を汲みに行こうと申し出ると、止められた。
「まだあなた様の足の指は完全に治ってはいないようでありんす。それにあなた様方お二人は、ほとぼりが冷めるまで今暫くお隠れなさった方がいいでありんしょう」
「隠れる?」
「村の者が血眼で探していんす」
 目から鱗だった。何故、私たちが隠れなければならないのか。ただの旅人である私たちを、村人が必死になって探す道理があろうか。
 そういえば世之介がしきりに、村人が私たちを罠にかけようとしているだとか言っていたが。そのように考える理由を、聞いていない。あの穴の中でぶん殴られてから、どうも世之介との間に溝ができた。世之介の方は私を殴ったことなど既に忘れているように振る舞うが、殴られた側としては警戒してしまう。日頃の支離滅裂な言動も、一度は慣れはしたものの、また全て嘘くさく思えるようになってきた。この三日、私の方から世之介に碌に話しかけていない。
「見つかっては、ただでは済むまいな」
「あい……満月様も、あまり不用意に外出なさらぬよう。用心しなんせ」
「待って下さい。一体私たちが何をしたというのです。私にはやましい事などひとつもありませんよ。逃げ隠れする意味が、判らない」
「そうでしょう。あちきもそう思っていんす。何しろ、あの方はあちきの目の前で死にんした。後から来たあなた様方が、下手人のはずはありんせん」
「あの方って」
「あの旧家の当主でありんす。どういうわけか、村の者達はあなた様方が彼を殺したと噂していんすよ」
「そんなまさか」
 あまりに突拍子がない。村に来て数日、そのような濡れ衣を着せられるいわれなど、全くないではないか。
「その噂はいつから出たのです」
「あちきが聞いたのは三日前でありんす。あの方の死体が雪の中から出たのは、その一日前」
「死体が、ですって? 四日前は、私たちはあの家に滞在していましたよ。しかし松六は何も言わなかった」
「私と杏平が外に出てから、死体が発見されたのだろう」
「そうなると村人が罠をしかけたのと時間が合わないではないですか」
「罠とは、あなた様方が落ちていた穴のことでありんすか? あれは随分前から仕掛けられている獣用の罠でありんす。偶に間抜けな獣がかかって落ちているのを、捕まえるでありんす」
「間抜けって、お糸さん、それは私たちに言っているのですか?」
「あれ、これは失礼致しました」
「ともかく我々は村人に疑われているのだ。糸さんは真実を知っているようだから、こうして匿ってくれているが」
 糸は頷いた。
「村の者達は噂を頭から信じて、あちきの話なぞ聞かないでありんす。村から出るにしても、しばらく時期を見るべきでありんしょう」
 何と言うことだ。急に突拍子もないことを知らされ、混乱する。なにせ思い当たる節などまったく無い。
「では、あちきは水を汲みに行って参りんす。くれぐれも、ご用心なさるよう」
 念を押して、糸は出て行った。
 世之介が布団の上に座る私の方へ近付いてきた。
「糸はああ言ったが、本当の所は」
「何ですか、また藪から棒に。これ以上訳の判らないことを、言わないで下さいよ」
 私は殴られたことをまた思い出し、近付いてきた世之介から身を引いた。
「いや、聞いておいてくれ。実を言うと、あの旧家の当主を殺したのは私だ」
「は?」
 私は目をぱちくりさせ、世之介の姿をまじまじと見た。小袖に股引、刀も差さない町人風の旅姿だ。武士らしい風情も全くない。
「また馬鹿なことを考えましたね。お糸さんは確かに病気で死んだのを見たと言ったじゃないですか。仮に世之介さんが殺したのだと想定すると、一体何を使って殺したというのです」
「刀でこう、ばっさりと」
「刀、持ってないじゃないですか」
 刀は村に入る前に私が与って、荷物の中に仕舞い込んである。世之介の腰には、ない。
「む、うむむ……」
「だいいち、病気で死んだのと斬られて死んだのでは様子がだいぶ違います。お糸さんは刀傷のある死体を見て、病死だと言い張ったりはしないでしょう」
「それはまあ、そうだが。……しかし……その、糸が嘘を吐いているとは考えられないか。確か糸はかなり前に死んだと言っていたぞ。だのに死体は四日前に出た。どのくらいの期間か判らんが、時間が経てば死体は腐ってしまう」
「この寒さですからねえ、雪の中にあれば、暫く持つんじゃないですか」
「むう」
 言いくるめられて、世之介は頭を抱え込んだ。
 頭を抱えたいのは私の方だ。糸の話も、世之介の話も、矛盾だらけで何を信用して良いのかわからない。一体何の意図があって、世之介は人を斬ったなどと言い出したのか。こうなれば一から十まで説明して貰わねば気が済まぬ。
「世之介さん、今の話が本当だとしたら、なぜそんな凶事に出たのか、事の発端から話してもらいましょうか。できないのなら、またいつもの妄言ということですね」
「私は嘘など言わん」
 世之介は、ぶすっとした顔で、開き直ったかのように大声で言った。
「お前は私の話を聞いて恐くならないのか」
 世之介の双眼が、じっと私の脳裏を見透かした。だが、わからない。私には世之介が何を言いたいのか、さっぱりわからないのだ。
「私は人斬りなんだぞ。今回の件だけではない」
「お上からの密命で人を斬っていたという、あれですか? そんなもの、信じるわけがないでしょう」
 世之介は、黙り込んだ。彼の語る与太話は信じるにはあまりに突飛だ。この平和なご時世に、将軍からの密命などあるものだろうか。それに世之介自身、人斬りなど到底出来そうにない女々しい見た目だ。
 そう思いながらも、あの縦穴の中で強かに突き飛ばされた力強さが頭にちらついた。
 いや、あの時あれほど強く吹き飛ばされてしまったのは、きっと私が既に少し弱っていたからだ。そうに違いない。
 何にせよ、暫く一緒に旅をしている相手が人斬りであるなどとは考えたくもなかった。
「信じぬのなら、それでもいい」
 弱い声でそう呟いて、世之介はその話を仕舞いにした。信じて欲しいのだろうか、信じて欲しくないのだろうか。世之介の態度からは、どちらとも定かでない。
 足の指が凍傷で爛れてしまったので、私は暫く立ち上がれなくなっていた。小屋の中を膝で躙り移動するばかりで一日が終わった。情けない。


天保八丁酉一月二十三日 晴れ。(略)

 一日中小屋の中にいては退屈だろうと、糸が物語をしてくれた。
 驚いた事に、開巻驚奇侠客伝を何も見ずに諳んじて見せた。以前私も読んだ事のある本だから、内容もほぼ間違いなかったと思う。
「一度読んだ本は、忘れられないでありんす」
 いよいよ不思議な女だが、自分では己の出生などを殆ど語らない。話し方から元は廓の女のようであるが、それが何故、今こうして人寂しい山奥に一人暮らしているのだろうか。それを訊ねてよいのかどうか、迷う。
 世之介が帰ってこない。

天保八丁酉一月二十四日 雨。(略)

 寂しい雨が降る。じとじと湿った空気が恐ろしく冷たい。
 朝方になって世之介が帰ってきて、私の被っていた布団を一枚奪ってこけしのように丸まった。
「どこに行っていたんです?」
「あの屋敷だ。当主が死んだのだから、本を譲って貰えないだろうかと思ってね」
「そんなことなら、私も連れて行って下さいよ」
「まだ満足に歩けないのだろう。それに、どうせ収穫無しだ」
 世之介は、何も握っていない手をひらひらさせて、私に示した。
「持ち主がいなくなって、本はどう処分されてしまうのでしょう」
「ちょうど昨日から今日にかけて火葬をしていてな。盛大に燃やされていたよ」
「本が、ですか!?」
 私は思わず声を荒げた。立ち上がろうとした私を、世之介が窘める。
「まだ立ってはいかん」
「だって、本が燃やされてしまうんですよ」
「うむ、わかっている。非常に残念なことだ」
「残念じゃすまされませんよ」
「杏平、おまえちょっとのめり込みすぎじゃないか」
「本を見つけて帰るのが、私たちの使命でしょう」
「それだけか?」
 世之介は私の肩を強く押し、真正面から私の顔を見た。この目だ。数日前から私の真意を見透かそうと挑んでくる。
 疑われている。
「それだけですよ」
「そうか。杏平、私は」
「何ですか?」
「忠告したからな」
 ぼそっと呟いた。
 不味い。非常に不味い。少し派手に行動しすぎたやもしれぬ。世之介に疑われてしまった。しかも、話が本当であれば、世之介はお上の密偵だ。
 ああ、万事急須か。


天保八丁酉一月二十五日 晴れ。(略)

 如何にして世之介の目を眩ますか、昨晩から必死に考えている。世之介は時折ふらりと村へ出かけていくから、その隙を見て逃げ出すか。しかし、足がこの通り腐って碌に歩けない。それに出て行った世之介が村で何をしているのか知れたものではない。待ち伏せを食らうかもしれぬ。
「お侍様、昨日から気分がすぐれぬようでありんすなあ」
 糸が、私に粥を差し出しながら、言った。
「なんでもない」
 私は焦りから、ぶっきらぼうに言い放ってしまった。糸は少し表情を曇らせ、私の顔を覗き込んだ。
 いけない。
「いや、ずっと考えていることがあるのです」
「何でありんしょう」
「その前に、お訊ねしてよろしいですか。なぜ見知らずの私たちにこんなに親切にしてくれるのです」
 糸はさらに表情を曇らせた。これは訊いてはならぬことだったか、と私が内心焦っていると、糸は私から視線を外し浅い溜息を吐いた。
「懐かしかったからでありんす」
「懐かしかった?」
「あい。お気づきでしょうが、あちきは元は廓の女。江戸吉原の遊女でありんした」
 その頃藤糸と名乗っていた糸は、かつては浮世絵にも描かれたというのだから、江戸吉原の中でも名の通った遊女だったらしい。その名の売れた彼女が、どうしてこのような辺鄙な田舎で一人くらしているのだろう。
「花魁が廓から出る方法は限られていんす。ご存知でありんしょう」
「はい。身請けされるか、借金をすべて返済するか」
「もう一つ、ありんす」
 この一つの理由というのが、糸を廓の檻から救い出し、しかし未だ彼女を苦しめている要因である。
「病でありんす」
 糸は寂しげにそう呟いた。
 病は未だ糸の身を蝕んでいる。その病の名を糸は口にしなかったが、私はその病こそ私が探しているものだと悟った。江戸を抜け出して何日目になろうか、やっと私は自分の目的を果たせそうだ。


「あれ? この本、ページが破れてるよ」
 そこまで読んで、可符香は顔を上げた。
「それ、どこから持ってきた?」
「久藤君の机の中。ごめんね、勝手に漁って」
「いいよ。その本ね、不思議なんだ。うちに何百冊もあって」
「同じ本が?」
「そう。じいちゃんの書斎に、何百冊も詰んであるんだ。しかも、どの本もほぼ同じページから落丁してる。不思議じゃない?」
「全部破いてあるの?」
「うん。じいちゃんが居ない間に確かめた。全部の本が、ほぼ同じページから破り捨てられてた」
「不思議だね。何か隠したい事が書いてあったのかな」
「出版された本を、手にはいるだけ掻き集めて……ページを破いた。残酷だよ」
「残酷?」
「これは日記本だろ? 誰かの人生の一部分だったんだ。それを、破って、無いものにしようとした。残酷だなって、僕は思ってしまったんだ」
「誰が破いたのかな」
「それは僕のじいちゃんだと思う」
「そうなの」
 可符香は静かに相鎚を打った。祖父という身内に対して残酷だと評する准が、酷く寂しげに見えていた。何と言えばいいのか、判らない。
「風浦さん」
「なあに?」
「続きを、考えたんだ。物語の続きを」
「……聞いても、いい?」
「何かに書き留めてもらっても、いいかな」
「判った」
 可符香に代わって、准は、語り出した。焼け爛れた咽を熱くしながら、擦れた低い声で。


 糸は、生き証人だ。何としても連れ帰らねばならぬ。
 だが、どう切りだそう? 私の予測が確かなら、糸は病を買われ、この村に幽閉されている。この村こそが件の事件に関与しているに違いない。飯が獣臭いと世之介が言っていた。気のせいだと思っていたが、まさか……。
 私の足は、何とかなる。それよりも糸を、連れ出さねば。
 幸いにして世之介は日に何度もどこかへ出かけていく。その間に、何とか糸を連れ出す口実を見つけなければならぬ。
 夜深く、恐ろしく寒い寝床の中で、私は隣の寝床で眠る糸を見やった。
 肌白く、瓜実顔の美しい女である。だが、世にも恐ろしい病に臓腑を蝕まれている。大塩先生の考えが正しければ、この病は血吸いの獣と関係がある。病その物が、獣である。この美しい女が、だ。
 とてもそうは見えない。糸の振る舞いは、生気に満ちあふれ健康そのものだし、面構えも美しい人間のそれだ。病とも、獣とも、結びつかぬ。
 私は考えながら、その白い肌に向かって知らず手を伸ばしていた。
 触れる、その刹那、不意に糸が目を開いた。私は酷く卑怯な行いをしていたような気になり、気まずく眠ったふりをした。それでも、薄目を開けたまま糸を見続けてしまう。
 夢醒めやらぬような瞳で天井を見ていた糸は、しばらくしてゆっくりと身を起こした。
 何を、するつもりであろうか。窓の外から雪に反射する月明かりが、明るく射し込んでいる。
 糸は着崩れしていた寝間着をきちんと整えると、立ち上がり、横たわる私と世之介を見下ろした。薄暗いため、私から糸の顔は見えぬ。
 短い時間、私たちを見下ろしていた糸は、足音も立てず、私の枕元へ近付いた。
 静かに、跪く。白い顔と真っ赤な唇が近付いた。その面に二つ並ぶ漆黒の瞳が、悲しげに瞬いた。
 細い指が私の首筋に触れる、なぞる。全身の毛が毛羽立つ思いをした。私の中で血が巡り、冷えた血液が全身を駆けめぐる。
 目を覚ましていることを知られるのではないか、などと考えている間に、糸の顔が、どんどん近付いてきた。
 私は目を瞑る。薄目を開けたままではいられなかった。全身を緊張させ、呼吸を整える。息が詰まっては、目を覚ましていると知られてしまう。
 矢庭に、私の首筋に生暖かいものが触れた。かと思うと、ちくりと刺すような、熱い痛みが走った。
 私は思わず両目を開けた。糸の頭が、私の首に覆い被さっている。首と左肩との境目の当たりに、糸の唇が押しつけられているのである。
 熱い痛みと、生暖かい舌と唇の押し当てられる感触が、続く。私は驚き、天井を見つめたまま唖然とした。
 やがて糸が首を上げた。私はあわてて目を瞑る。首筋に熱が残っている。おもわずうっとりとしてしまいそうな、甘美な熱だ。
 私は再び薄目を開けて糸を見やった。糸は自らの寝間着の袖で、私の首筋から流れ出る血を拭った。途端に、熱まで奪われたように感じた。歯を立てられた薄い痛みは、以前として残っていたが。
 次に糸は自分の口元を拭い、立ち上がると、再び音も立てずに世之介の枕元へと近付いた。世之介の血も吸うつもりなのだ。私はついさっきまで感じていた熱を思い出し、嫉妬した。
 糸はそんな私の思いなど知らずに、私にしたのと同じように、跪き、世之介の首筋に噛み付く。
 やはり血を、啜っている。
 間違いない、糸は血吸いの獣である。尚のこと私は、糸をつれてこの村を出ねばならぬ。大塩先生のいる大阪まで連れて行かねば。
 そのためには世之介が邪魔だ。どうすればいいのか。私は寝付く事ができず、一晩中考え倦ねた。

 翌朝、早くから糸は水を汲みに外へ出て行った。必然、世之介と私が小屋に取り残される。
「世之介さん」
「何だ」
「以前、世之介さんには使命があると言っていましたね」
「信じていないのではなかったのか」
「ちょっと気になってるだけです。江戸で出た獣の話は、私も聞いていますし」
「あれ以上は教えられぬと言ったろう」
 あれとは、あの穴の中で語ったことであろうか。血吸いの獣を全て斬るという使命を負っていると。
 だとすると、世之介は糸を斬らねばならぬ。いや、それ以前に世之介は糸の正体に気がついているのであろうか。
「逆に言うと、あれ以上があるということですね」
「何度問い詰められても、言えぬものは言えぬ」
「私に知らせられぬ内容が、ある」
「お前の方こそ……」
 言い淀み、私から目をそらした。互いの腹を探りあっている。世之介は、私を疑っているのか? これまで疑われるような言動は、取っていないはずだが。
 疑われているとするならば、行動を早めなければならぬ。
「これからどうするおつもりです」
「うん? 急に、何だ」
「いつまでもここに滞在しているわけにはいかないでしょう。表向きだか密命だか知らないが、私たちには使命があります」
「その足ではどうしようも無かろう」
「治るまで?」
「春には良くなるだろう」
「何を呑気な。この程度ならすぐに治りますよ。それにいつまでも滞在していては糸さんに悪いでしょう」
「いつまでも、と言ってもな」
 何か言いたげであるが、その先を決して言うことは無いだろう。世之介の態度がそれを示している。今は世之介からは何も知ることはできないだろう。
 欺かねばならぬ。私は糸をつれて大阪へ向かわねばならぬ。逐電するのだ。世之介は、邪魔だ。何とか目を眩まして、そのうえ糸を連れて。
 世之介の言うとおり、暫く滞在せねばならぬかもしれぬ。期を待たねば。

 夜毎に糸に血を吸われる。世之介は深く眠っていて気がついていないようだ。私は糸が首筋に噛み付いてくる時刻まで、毎晩寝たふりをして待っていた。
 殺す気は無いのだろう、吸われた翌朝も、体調に変化はない。ほんの一口だけ、吸い上げられる。糸のあの小さな口で一口だけ。
 初めはその正体を見極めようと、息を潜めて待っていた。だが数日経たぬ内に、娘の唇が首筋を這う甘美な快楽を待ち望んでいる自分に気がついた。
 世之介がここに長く滞在しようとしきりに主張するのは、或いは私と同じ感情を抱いたためかも知れぬ。そう疑うと、腹の底に黒い物が湧いた。
 よくない傾向だ。早急に、ここを抜けだそう。糸を連れて。
 ある日、いつものように世之介が村へと出かけて行った。小屋を出る前に、妙なことを言った。
「私はどうもまどろっこしいやり方しか出来ぬ。もっと早く動くべきだったか」
「やっと使命を思い出しましたか」
「うむ」
 随分と、思い詰めたような声であった。
 私は昼餉を取りながら、朝の世之介の態度を糸に話した。
「品治様方の使命とは、本を集めることでありんしたね」
「ええ、そうです。旧家の主の収集しているという本に目を付けていたのです。残念ながら、すべて燃やされてしまったようですが」
「そのことなら、あちきは少し力になれるかもしれないでありんす」
「え?」
「あの家の主様とは親しくしておりんした。蔵書も、いくらか読ませて頂いたでありんすよ」
 私は数日前に糸が書物を一冊、殆ど完璧に諳んじて見せたのを思い出した。
「書の題が判れば、お話しんす」
 何故だか、妙な興奮を覚えた。恐ろしいものを、障子の隙間から覗き見るような静かな興奮だ。
 あの屋敷にあった書物で、糸の口から聞くのに相応しい書。一冊しか思い浮かばぬ。
「荼枳尼天包丁類聚抄」
 糸の顔が、冷たく凍り付いた。
 長い沈黙。集落から外れたこの小屋は、恐ろしく静かだ。
「いつから?」
「この数日に」
 糸は深く溜息をついた。
「どうします。正体のばれた血吸いの獣は、私を殺してしまいますか」
「そんなことはいたしんせん」
「では、どうするのです」
「去りなんし。あちきが怖いでありんしょう」
「怖くなど」
「あちき自身が怖いんでありんすよ。村の者と同様に、いつか真の鬼となり、品治様方を食い尽くしてしまいそうで」
 糸の目に、涙が浮かんだ。美しいその容貌に、儚い涙はぞっとするほど似合っていた。
 糸を連れて逃げなければならぬ。
「書には、何が書かれているのですか」
「村人の記録でありんす。ここは血吸いの病に犯された者の隠れ里。書には病の詳細が書かれていんす」
「それが私には必要なのです」
 私は糸の前に躙り寄り、その手を取った。
 邪な考えを既に抱いていたと思う。私の目的は血吸いの獣の正体を解き明かし、大塩先生にお伝えする事だ。書物探索方同心の使命など、江戸を抜け出すための建前に過ぎぬ。獣の、いや糸は病と言ったが、その病の元凶がお上の悪政であると証明できれば、先生が密かに企てている幕府への反乱の大義名分となる。大いなる正義の使命だ。
 だのに私は邪な考えを抱いて、糸の手を取った。私の頭に浮かぶのは大塩先生の教えなんどではなく、毎夜首筋を濡れさせた糸の唇の感覚ばかりであった。
 ひやりと冷たい糸の手を握って、溢れるばかりの煩悩が小賢しく仮面を被る。
「私はその病に苦しむ者を救い、またこれ以上病に犯される者が出ぬように尽力したいのです」
「何故でありんしょう。この病は、品治様のようなお侍様には無縁のこと。ただ関わらぬように、あちきのような者のことを忘れ、江戸に帰れば平和に暮らせるものを」
「江戸にも血吸いの獣は出るのです。私はとある方から、この獣の出現は幕府の陰謀であると聞いています」
「そんな馬鹿な。書には病の原因は飢饉での食人であると書かれていんした。人を喰らった女から産まれた子は、須くこの病に犯されていると。あちきの故郷でも、あちきが産まれる数年前に大飢饉があったと聞いていんす。きっとあちきの母は人を喰ろうたのでありんしょう。お上のことなど関係ありんせん」
「いいえ、飢饉で人民が苦しむのも全ては幕府の悪政が原因。それを正させるために、あるお方が密かに計画を練っているのです。その計画にはお糸さんの証言が、大きな力となります」
 私は益々強く糸の手を握った。嘘偽りなどは言っていない。ただ、重大な密命の裏に私の煩悩を隠しているだけだ。
「ですが、病に犯された者がこの村を出る事は……」
「村人には気付かれぬよう、ひっそりと出ましょう。お糸さんが病に犯されていることは、私と先生だけの秘密としましょう。上手くやれば、また江戸で大手をふって暮らせるかもしれません」
「……村を、出て……」
 糸は遠くの情景を愛おしむように、悲しい視線を宙にさまよわせた。糸は江戸に未練があるのだ。このような田舎にあっても未だありんす言葉を使い続けていることや、江戸からの旅人である私や世之介の世話を焼くことからも、容易に想像がつく。
 そこに付け込むことが出来る。
 私は足の負傷など忘れ、今すぐにでも旅立つ気持ちになっていた。もちろん、糸を連れてである。幸いにも、邪魔となる世之介は不在だ。彼は幕府の子飼いであるらしいのだから、血吸いの獣である糸はもちろん、幕府反乱の企てに加わっている私も、そうと知れば斬り捨てるであろう。
 出るのならば、早い方が良い。今すぐに。
「品治様、少し考えさせておくんなまし」
 糸が私の手をふりほどきながら言った。
 その時である。
 小屋の戸が、勢いよく開いた。
「糸! お主、わが主を火葬にしたな!」
 血相を変え飛び込んできたのは、松六であった。いや、血相を変えてなどという生やさしい顔つきではない。自らのものか、はたまた何者かの返り血か、夥しい血液を薄く毛の生えかけた月代の上から被り、地獄の鬼の形相である。
「松六殿!? いいえ、あちきはあの方の体を雪の中に隠しんした。その後の事は、知りんせん」
「それは一度目に死んだ時であろう! 二度目は、如何にした」
「村の者の為すまま、任せておりました」
「最期まで見ておらんかったな! お前の病を買ったのはわが主ぞ! 何の能力もないお前を、主の世話役として生かしておいた恩を忘れたか!」
「……忘れは……」
 糸は言い淀み、松六から視線を逸らした。
 しかし、何と言うことだ。一度目に死んだ時、とは? 二度も三度も死ぬ者が、この世に存在するのか? しかしそれが本当であれば、一度死んだという男を斬り殺したと言った世之介の発言にも筋が通る。
「あい判った、主を火葬にしたのがお前で無ければ、怪しきはあの旅の二人組」
 言って、松六はその時漸く私の存在に気がついたように目を丸くした。
「どういうことだこれは? 糸、お前がそやつらを匿っておったとは」
「森の中で獣用の罠に掛かっていたのを、助けただけでありんす。やましいことは、けして」
「いいや、いいや、信用ならぬ。見れば片割れがおらぬではないか。やはり、今村の中に火を放ったのは……」
 そこまで叫んだ所であった。
「ぎゃあ」
 と、短い叫び声を上げ、松六は口から血を吐いた。胸を、血に濡れて暗く光る刀が貫いている。背後から、一突きである。
「杏平! 無事か!」
 松六の死体を蹴り倒し、深々と突き刺した刀を引き抜きつつ世之介が叫んだ。その背後に、赤く燃える村の情景が揺れていた。
「世之介さん! これは一体どういうことですか」
「私はずっと調べておったのだ。ここは間違いない、血吸いの獣の根城だ。村人全てが、恐るべき獣よ」
「そ、それで、村に火をお放ちに……」
「うむ。獣は炎に食われ灰となれば確実に死ぬのだ。指導者である旧家の主を二度と復活出来ぬように燃やし、村人どもが外へ逃げぬよう村の周囲に罠と仕掛けを作るのに今日までかかってしまった。だが仕掛けは上々だ。二人は事が済むまで、ここで大人しく待っておれ」
 言い捨てると、世之介は再び小屋を出て行った。
 開いた戸の向こうに火炎地獄の赤い光が煌々と燃えている。微か遠くに村人たちの阿鼻叫喚が響いている。
 世之介は糸が血吸いの獣であることを知らないのであろうか?
「お糸さん、逃げましょう!」
 私は再び糸の手を強く握った。

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