人形たち - ウソ 三

「世之介はお糸さんが病にかかっていると知れば、松六と同じように切り捨ててしまうに違いありません。ここに留まってはいけません、今すぐに逃げましょう!」
「品治様、あちきは」
 糸が何かを言いかけて、私の手を強く引いたが、私は既に誰の話も聞く耳持たなかった。ただ糸を連れて逃げる。世之介の幕府の密命も、私の世直しの密命も、もはや全て思考の外。村の燃え上がる火炎地獄の如く、私の感情はただ燃え上がっていた。
 予感があったのだ。
「くっ」
 立ち上がろうとして、足の指十本全てに釘を打ち付けたような痛みが走る。
「まだ傷が痛みんすか?」
「情けながら。肩を貸して頂けますか」
「あい……」
 糸の肩を借りて、私は何とか立ち上がる。枕元に置いていた荷物を、何とか持ち上げた。
 遠くで炎の暴れる風音が聞こえ、村の外れに建ててあるこの小屋まで熱風が吹き込んできた。
「品治様は、あちきを恨んではおりんせんのですか」
「先程も申し上げたでしょう。私には、あなたが必要なのです」
「だけど、あちきはあちきがこの世に必要とは思えない」
「お糸さん?」
 私は糸にやっと支えられ、引きずられるようにして小屋の裏戸の前まで連れられた。糸の手が戸にかかる。
「化け物全てを始末してしまおうとする満月様の考え、あちきは正しいと思いんす。病に犯された者は獣と同じ。食欲の赴くままに人を傷つけるでしょう。あちきも」
 糸の暗い目が私を見上げる。額と背筋に汗がじわりと湧き出た。妙に暑く、また妙に寒い。
「品治様と満月様から血を吸いんした。いえ、それ以前にも、村へ迷い込んできた旅人を何人も」
 暗い瞳は、じっと私を見ているようで、見ていない。世之介が変な女だと言っていた。私は自分の使命や傷のことで頭がいっぱいで、それまで気がつかなかった。
 糸は真夜中の深井戸を覗き込むような、暗く悲しい目をしている。
「許されるとは思いんせん」
 それは死を見つめる人間の目の色なのであろう。
「品治様、どうぞお一人でお逃げなんし」
 涙を浮かべた糸が、そう訴えた。
 私は今になって、彼女の心にある冷たい深井戸に突き落とされたように感じた。それまで己が欲にばかり気が行っていた。だが今は体中が冷たい。糸の心に潜む、恐怖と悲しみの温度に浸されたのだ。
 だが同時に異常な熱さが、小屋を取り囲んでいた。
 背中をじりじりと焼くように、急き立てる熱さ。私は糸と見つめ合いながら、彼女の冷たさと現実の熱さの狭間に立たされていた。
 やがて熱さが寒さを上回った時、小屋は勢いよく炎に包まれた。
 赤く照らし出された糸の顔が驚愕に変わる。恐らく私も、同じような表情をしているだろう。いや、違うか。既に己が追い込まれていることに気がついて、冷や汗垂らし歯噛みして苛立った。
「品治様、これは……」
「世之介め、お糸さんのことを知らぬふりをして始末するつもりだったのだ」
 小屋は周囲から火を放たれたのだ。でなければ、村はずれのこの小屋まで一気に飛び火した理由が見あたらぬ。
「早く、逃げましょう!」
 私は戸にかけたままの糸の手に自分の手を重ね、強引に裏戸を開いた。
 その瞬間である。奴は戸の裏で、時を待っていたのだ。
 白刃が、私の腕と抱えていた荷物を掠め切り裂いた。
 なぎ払われた刀はそのまま開いた戸を勢いよく跳ね飛ばす。
 私は突如の出来事に驚き対応できず、二、三歩後じさって小屋の中で尻餅をついた。
「大義である!」
 世之介は白刃を中段に構え直し、私の前で叫んだ。爛々と目が輝いているが、双眼の交わる点が酷く暗い。
「品治杏平、貴様は改革派の天狗党の一員として幕府転覆を目論んでいた。私の目を盗み、珍本、邪本の類を元大阪町奉行所与力大塩平八郎へ横流しし、反乱決起のための資金を稼いでいた。今回の血吸いの獣の件も、原因がお上の政にあると考えていたため、私の密命を無理にでも曝こうとしていた。間違いないな」
「世之介さんは、諸政党の佐幕派ですか」
「武士の義である」
 水戸藩は大日本史の編纂を巡り、二つの考え方で派閥が生まれ対立が続いていた。私の属する天狗党は改革派であると同時に過激派でもあり、世直しを名目に天狗の如く活動を行っていた。江戸幕府に対する反乱を企てている大塩平八郎への援助という密事も、その活動の一つであった。
 対する世之介の諸政党は保守派である。佐幕、幕府を補佐するという言葉の通り、武士は幕府のために働いてこそとの考えを持つ一派である。
 諸政党と天狗党は完全に対立の立場にあった。私が天狗党であることは誰にも知られていないはずであったが、世之介の密命とやらを穿つと、もしやすると最初から私を暗殺するための旅だったのかもしれぬ。
「最初から私を殺すおつもりで?」
 世之介は顔を歪め、周囲で眩しく燃える火炎に目を細めた。
「血吸いの獣の村を見つけたと同時に、と考えていた……」
 言葉尻が弱くなる。この役者のような優男は、剣の腕は立つけれども、やはり気弱で何事も悪い方へ考える人間くさい性格をしている。
「思いの外、旅は長くなった」
「まだ半月ほどしか経っておりませんよ」
 世之介は、刀を構えたまま、酷く情けない表情をした。
「充分長い。情など移らぬほうが、良かったな」
「お互い様……」
 こそこそと工作活動をしていた私はともかく、村一つを全て灰に変えてしまうような密命を負った男が、こんな情けない顔をしてよいものだろうか。
 彼は生まれや行き方を誤っているように思える。
「話はこれまでだ。もうとどめを刺させてくれ。早うせんと、決心が鈍る」
 懇願するように、言う。
「はい、とは答えられませんよ」
「余計な抵抗はしないでくれ。苦しみたくは無かろう」
「はは、答えは何度も言いません」
 私は切り裂かれ、中身の散らばった荷物の中から打刀を辛うじて拾い上げた。
 未だ尻餅をついたままで、拾い上げた刀を抜くこともままならぬ情けない状況だ。しかし、何の抵抗もせずに世之介なんぞに殺されては、我慢がならぬ。
「無駄だ」
 世之介が、静かに刀を上段に振り上げた。刃の燦めきが、赤く眩しく揺らいでいる。
「満月様!」
 糸が、世之介の名を叫んだ。彼女の存在に気がついていなかったのか、ぎょっと身を固めた世之介の額を、彼女の投げた脇差しが割った。そうだ、私は荷物の中に大小二本とも仕舞い込んでいたのだった。
「うむ!」
 女とは言え、至近距離で投げつけられた切っ先は世之介の額を繭の下まで斜めに一筋切り裂いている。吹き出した血が、世之介の目に流れ込んでいる。
 世之介は額の傷に手を当て、血を振り払うように頭を激しく揺らした。しかし血を出しているのは、己の頭である。次々溢れる赤い雫が世之介の視界を奪う。
「いまのうちでありんす」
 炎の中を踏み越え、糸が私の側へしゃがみ込んだ。糸はそれ以上何も言わずに、無言で私の肩を担ぐ。私は拾った打ち刀を杖のように付きながら、足を踏ん張り立ち上がった。
「杏平、お前を逃がすわけにはいかぬ!」
 まだ前が見えていないのであろう、世之介は私がさっきまで尻餅をついていた場所に向かって、刀をやけくそのように振り下ろした。手応えが無いのにすぐ気がつき、周囲に出鱈目に刀を振り回し始める。
 私と糸はそれを尻目に、小屋の正面の出口へ進んだ。
 小屋は燃え上がる。戸口の側で、松六が燃え真黒く焦げて異臭を放ち始めていた。その横に、炎の切れ目がある。開いたままであった戸口の隙間だ。
 糸は無言で私に先に戸をくぐらせた。火炎に包まれた小屋の中から一歩出ると、冬の冷たさと遠くの家屋と肉が燃える濁った灰色の匂いが鼻先を掠めた。
 広く開けた視界に、私の胸に無暗な希望がなだれ込んできた。
「お糸さん! このまま上手く……」
 私は背後の糸を振り返った。
 瞬間。私の視界の真ん中に、真っ赤な鮮血が飛び散った。糸の唇と、胸元から迸った熱い鮮血である。足下の雪と同じ、白く煌めくかます切っ先が、糸の纏っていた色鮮やかな着物の胸の辺りから突き出していた。
「ああっ」
 私は思わず、自らが胸を切り裂かれたかのような悲鳴を上げた。
 だが糸は一言も叫ばなかった。口元から血を垂らしながら、ふっと悲しく笑い、私の肩を支えていた手を外し、その手で私の胸を突き飛ばした。
 糸と私、二人が地に倒れる。私は雪の上に。糸は炎の上に。
「手応えあり!」
 世之介が炎の中で叫ぶ。倒れた糸の胴を足で踏みつけ、突き刺した刀を引き抜く。赤く美しい糸の体液が勢いよく吹き出し、世之介の体に降り注いだ。
 世之介は目を、閉じている。まだ目は見えていないのだ。しかし、刀の手応えと、私の悲鳴で彼は確信しただろう。今斬ったのは、私であると。
 その証拠に世之介は糸に確実にとどめを刺すためか、再び刀をその細い体に突き立てた。
 糸の血が、戸口の敷居を越え、私の足下の雪に赤く滲む。それでも糸は悲鳴も上げない。
 世之介は二回の突きで充分致命傷を与えたと判断したのか、赤く燃える小屋を後じさり始めた。やはりまだ目が見えていないらしく、開いたままの裏口を探して左右に迷っている。
「お糸さん……」
 私は世之介に聞こえぬように、小さな声で糸へ呼びかけた。
 ぐったりと倒れた糸は、未だ息があるらしく、頭を重たそうにしながらも、顔を上げ目線を私に向けた。
「早くお逃げなんし」
 糸の声は囁くような、微弱なものであった。だが私の耳にはよく届いた。
「お糸さんを置いて逃げる事はできません。傷も、すぐに手当すれば間に合うかもしれません。今度は私がおぶりますから」
「……ふふ、うれしいですけんど」
 糸の着物に、松六の火が飛び移った。
「満月殿は用心深いお方。火がおさまれば、きっと死体を確認に戻ってくるでしょう。私の……いえ、品治様の死体がみつからなければ、きっと貴方様を追い続けるに違いありんせん」
「私はお糸さんに、私の身代わりになどなって欲しくない」
「とは言いましても、そうならざるを得ない状況ざんす。心配はご無用でありんすよ。燃えて骨ばかりとなってしまえば、男も女もありんせん」
 そう糸が告げ終わると、炎はその時を待っていたかのように哮りを上げ、糸の体を、顔を、飲み込んだ。
 赤く透明な炎の中で、白く整った顔が優しく微笑んでいる。だがその顔も、すぐに熔けて焼け爛れ……。
 私はたまらず目をそらした。

 准が静かな音を立てて息を飲み込んだ。物語の終わりは、虚無になる。
「天保八丁酉六月」と、間を開けずに可符香が続けた。
 削除されずに残っていた、書の結末だ。その日記の日付は、准が終わらせた物語から半年近く経過している。
「この半年、私は自分が一体何をして生きのびたか、とんと思い出せない。糸と世之介の悪夢から逃げ回るように山中を徘徊し、中ば獣同然に命を繋いだ。狩人を生業とする親切な一家に長い事世話になったような気もするが、ある日突然江戸へ戻らねばと思い立ち旅立ってからは、それらの日々も狸にでも化かされたかのようにあやふやで細かい事が思い出せぬ。江戸へどのような道を通って辿り着いたのかも定かではない。江戸に帰ってからは少し記憶が確かだ。私は逐電したこととなっており、罪人も同然であった。世之介は判らぬ。かつては同僚であったが、しかし共に旅立つまで全く親しくしていなかったため、何所に住んでいたのかすら知らぬ。罪人となった私は早々に江戸を出た。かんばら近くの村が一つ、山火事で失われたというのと、大塩先生の改革は一日も持たずに失敗したという噂は聞いた。糸のこと、世直しのこと、私が抱いた希望がどちらも遙か遠くで潰えたと改めて知り、私はまた正体を無くした。次に気がついた時には、どこか知らない農村で畑を耕していた。家に帰ると妻子があり、生まれ変わった心地がした。そんな折、納屋の隅で埃をかぶっていた古い荷物からこの日記と打刀を見つけた。妻にこれは何だと訊ねると、あなたが私たちに触るなといつも口を酸っぱくして言っているものじゃありませんか、中身なんて知りませんよ、と言われた。私は日記を読み返す。一文字追う度に糸や世之介のことが色鮮やかに思い出された。血吸いの獣のことも。あの隠れ里は燃え滅んだが、病に犯された者全てがあそこに集っていた訳では無かろう。この日記には、彼らの正体について子細に記されている。広く出版することが、後の世のためになるのではないか。私はそう思い立ち、三度江戸へ戻る決心をした。妻子には黙って、深夜に出発するつもりである。江戸を追われた男と知らずに慕ってくれているのだ、子細を話せば、危険が及ぶかも知れぬ。それに私は、この日記を出版するにあたり、奇妙な期待を抱いていた。この日記が世で広く読まれるようになれば、糸や世之介と再び出会うことができるのではないかと。こんなことを言うと、世之介にまた根拠もない絵空事を語っていると笑われそうだ」
 読み終わると、可符香は准に習って静かな呼吸で幕を閉じた。
「ありがとう」
 准が礼を言った。可符香は、准の話を聞きつつ書き留めていた物語の最後の一文字に視線を落とし、それから本の最後のページに視線を戻した。
 本に書かれていた日記と、准の語った物語。それから、今彼女らを包み込む現実。歪に繋がって、境界線を揺らしている。
「ねえ、このお話に出てくるお糸さんって、名前は先生に似てるのに、性格は全然似てないね」
「名前」
 准はぽつりと呟いて、思いめぐらすように虚無を見た。
「名前が、似てるね……。気がつかなかった」
「ね。どっちかっていうと」
 可符香は不自然に言葉を切った。まるで急に電源を切られたテレビやラジオのように。
 不思議な少女だ。准は月光に包まれて静止する、人形のような彼女を暫く無言で眺めた。もしも第三者がこの様子を見ていれば、准もまた、繰り糸を切られた操り人形のように見えたに違いない。
「また、明日来るよ」
 少女を操る糸が手繰られた。
「明日は、いいよ」
 少年の繰り糸もまた、何か別な装置に絡まった。
「どうして? 退院するまで、毎日お見舞いするよ」
「いいんだ。多分僕は明日には退院するから」
「え? そんなに早く?」
「じいちゃんが迎えに来ると思うんだ。無理にでも家に連れ返されるよ」
「ふーん。久藤君のお爺さんって、怖い人?」
「判らないよ」
 問い掛けてから、可符香は先程准が「残酷だよ」と呟いたことを思い出した。
「でも、風浦さんも会ったことのある人だよ」
「ふーん、そうなんだ。ねえ、このお話、先生にも教えてあげていいかな?」
 准は、血の巡りの鈍い脳で、希望と絶望を同時に予感する感情がにじみ出したのを感じた。どちらに賭ける? 天秤は?
「いいよ。その本も、あげる。明日じいちゃんに見られると面倒だから」
 傾いた。希望の方、その予感に賭けた。絶望のリスクを背負って。
 だけど彼はいつだって絶望のリスクを背負っている。今回のまといの事件だってそうだった。そろそろ、予感だけでも、分が悪くても、希望の方にチップを賭けても良いじゃないか。
 それはこの運の悪い青年に、可符香が持ちかけた勝負。

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