人形たち - ウソ

 可符香は、面会時間を疾うに過ぎた深夜に二回訪れた。
 一度目は、准が病院に運び込まれたその日だった。面会謝絶の重体で集中治療室のベッドに横たえられていた彼の傍らに、いつの間にか現れていた。病室の戸の開く音を、准は遥か遠くに聞いた気がしていた。
 可符香は身動きの取れない彼の顔に手を近づけ、触れるほんの少し前で止めた。顔中に巻かれた包帯越しに、准の体温を確かめているようだった。
 准の体内で血液が確かに循環している。
 可符香は何も言わず、准も大火傷のために声を出すことができない。静かな中で、准の体に取り付けられた医療器械が小鳥のように優しく鳴いて、彼の鼓動を伝えていた。
 暫くして可符香は満足したのか、顔に近づけていた手を離した。
「何か欲しいものある?」
 そう訊ねられても、重体の彼には答えられない。意識はあるのだが、瞳さえも動かすのが困難だった。
 薄暗い中で少女はじっと少年の体を見つめ、稍あってから「本かな」と自分で答えを出した。
 翌日、彼女は予告した通り本を持ってきた。
 彼は既に集中治療室から一般病室へ移されていた。同時に病院へ運ばれたまといも、彼の隣のベッドへ移動している。
 准は包帯と機械にくるまれたまま、他の入院患者に混じって四人部屋の窓際の一角に横たえられている。まといも含めた同室の三人の病人は、浅い寝息を立てて眠っていた。
 そこに可符香が現れた。昨日と同じ深夜に、静かな、静かな足音を立てて、病室の扉を開いた。
 昨日と違って、その音は准にはっきりと聞こえた。眠れずにいた彼が目を開くと、ベッドの横へ近付いた可符香と視線がぶつかった。
「本、持ってきたよ」
 可符香は鞄から薄い一冊の本を取り出して見せた。真新しいブックカバーにくるまれている。
「何にしようか迷っちゃったから、前に久藤君が読んでた本にしちゃった。もう読み終わってたらごめんね」
 准は、答えられない。人工呼吸器が口にあてられていた。火傷は気管まで達し、呼吸も困難な状態になっていたのだ。前日までは咽を切開して換気経路が設けられていたが、今日は既にマスク形の人工呼吸器に付け替えられている。
 異常な回復速度だが、それでもこうして人工呼吸器が取り付けられているということは、自力では呼吸が困難だと医師が判断したということだ。それが今日の夜の治療の結果だった。
 にも関わらず、准は包帯で肥大化した腕をぎこちなく動かして、マスクを外そうとした。腕の動く範囲が限られていて、外すことはできなかったが。
「え? 外していいの?」
 可符香が驚く。
 准は枕の上から少しだけ頭を動かして、頷いた。
 可符香の指が、慎重に准の耳からマスクのゴムを外した。
「痛くなかった?」
「大丈夫」
 准は、少し嗄れた声になっていた。
「マスク付けてると、喋れないから」
「でも、付けてないと、息ができないんじゃないの?」
「もう、治ってきてるんだ。僕は人より丈夫に出来てるから」
「そうなんだ」
 可符香は准の話に必要以上に驚いたりしなかった。ただ少しだけ、寂しげに相鎚を打った。予感があったのかもしれない。
「久藤君、ありがとう」
「何が?」
「先生を、助けてくれて」
「僕は、そんな風にお礼を言われることはしてないよ」
 昼にも、望に同じ事を言われた。そして訳も判らず、胸が痛んだ。
 今もそうだ。可符香の澄んだ目が准を見下ろして、心から微笑んでいる。そして望を助けたなんて言うが、それ以前に准は望を化け物だと目の敵にして、命を狙っていたのだ。礼を言われる筋合いなど、あって良いはずがないと思う。
「でも、久藤君がいなかったら先生は死んじゃってたかもしれない。本当に、久藤君がいてくれて良かった」
「助けようなんて、思ったわけじゃないんだ」
 胸が痛い。そんな風に、人間らしい思いやりがあって動いたわけじゃない。自分は血の通わない化け物に近いんだ。少女に微笑みかけられて、笑い返すこともできない。
 やはり胸の底に鈍い痛みが広がっていく。
 これがもしも悲しみだというのなら、良い。だけどそうでないとしたら、自分というものは人間でなく、一体何なのだろう。
「久藤君、もしかして先生のこと嫌い?」
「別に、個人的に嫌いだと思ったことは無いけど」
「なら良かった」
 可符香は、准の葛藤に気がついているのかもしれない。話を逸らして、すこし間を置いた。
 彼女は大抵の場合、その正体はあやふやで、揺るぎなく微笑んでいる。殆ど感情の動きを見せない。まるで人形のようで、感情の理解出来ない准とどこか似ていた。
 どんな時でも彼女の存在が准にとって悪意と思えないのは、自分と似たものを彼女に感じていたからだろう。
「それより、本、持ってきてくれたんだ」
「これ。ねえ、やっぱりもう読み終わってる本だった?」
「うん。でも、いいよ。ありがとう」
 可符香が本のページをパラパラと捲る。古書の匂いがした。
「大切な本なの? 前に、保健室でも読んでたよね」
「どうかな……。ちょっと不思議な本なんだ」
「不思議?」
「そう。良かったら、読んでもらっていいかな。あんまり長くない本だから」
「いいよ」
 言うと、可符香は准のベッドの淵に腰を下ろした。月と街灯、向かいにある別棟のナースセンターの電灯、近くのコンビニや民家から漏れる光がまだらに混ざって、窓から射し込んでくる。可符香の背中をぼんやりと滲ませた。
「天保八丁酉一月」
 一番最初のページから、可符香は読み始めた。



からの笛
――天保八年書物探索方同心日記


天保八丁酉一月十六日 天気良し。(略)

 江戸を出て四日、東海道を下る。駿河に入りかんばら(蒲原宿)を後にする。思うところ有り、道を外れて山を行く。宿場で聞いた話によると、近くに小さな村があるという。世之介と共にそこへ向かう。(略)
 日が落ちる前に山間の村に着く。聞いていた通り、寂れた小さな村である。こんな村に見るべき書物があるだろうか。(略)

 晴れてはいるが、前日までに積もった雪が行く手を阻んでいる。
「こんな遠くまでやってきて、目当てのものがなかったら目も当てられないよ」
 事が始まる前から、世之介が嘆いた。
「まあまあ、そう悲観せずに。ひょっとしたら書物どころか本物に会えるかもしれないじゃないですか」
「そうだとしたら余計に悪い。ああ、こんなことならもっと真面目に道場に通っておくべきだった」
 腰に差した大小が重く感ぜられるらしい。世之介は脇差を外すと、私の方へ差し出した。
「これは?」
「目当てのものがあるかどうかは別として、これからは身分を隠した方がいいだろう。二本差しなど目立ってしょうがないし、それに昨年はものすごい飢饉の年だった。ただでさえ化け物騒動と飢饉で人々に不満が溜まっているというのに、この上更にお上が件の化け物と関わりがあると知れたら、民の不安を煽るばかりだろう」
「名目上は『大日本史』の史料探しですよ」
「それこそこんな山奥で見つかるわけがない」
「わかりませんよ、書物というのは思いがけないところに潜り込むものです。源平合戦で逃げ落ちた平家の末裔が貴重な巻物を所有しているかもしれません」
「杏平、お前の寝言は聞き飽きたよ。いいから差し前を外して荷物にでも隠すんだ」
「はいはい。それじゃ私は、二本とも外しておきます」
 雪の深く積もった道を行きながら、言う。
「なにもそんなに意地にならなくとも」
「意地になってるわけじゃありませんよ。自分で言うのも何ですが、私は剣の腕はからきしですからね。帯刀していたってどうせ役に立ちません」
「それじゃ、化け物が出た時は私一人で戦えと?」
「世之介さんなら大丈夫でしょう」
「根拠もなく持ち上げるんじゃない」
「おや、村が見えてきましたよ」
 白い山道の奥に、雪に反射する日光で煙るように霞んだ村の影が見えた。
「杏平、忘れちゃいないと思うが、私たちの目的は三つだ」
「父の後を継ぎ、晴れて書物同心となった初仕事です。ちゃんと覚えていますよ。まず表向きに『大日本史』の史料探し」
「うん。しかしそれだけではない」
「所謂『邪説』の本を一冊でも多く見つけること。そして、中でも件の化け物に関する書物を見つけること、ですね」
「そうだ。よし、行くぞ」
 世之介が気合いを入れ直した。

 (略)

 旅人を装って村に入る。小さな村なので宿がない。仕方がないので、納屋でも借りようと農家に交渉するが、ことごとく断られる。断られる毎に世之介が恨み言を小声で言っている。何やら聞いてみると、ここしばらくのような不作では旅人を泊める余裕など当然あるはずがない、このように間が悪いのは己の生まれ持ったつきの悪さのせいである云々。
 つねにこの調子である。この世之介という男は、何かに付け物事を悪い方悪い方へと考える。年は私よりも十近く上なのだが、こうなると言動がすこぶる若い。役者のような顔立ちも、その印象を強くしている。鬱陶しく感ずることも無いではないが、初めて同僚として会った頃からすると、旅の内に私もずいぶん慣れた。
 ついに全ての農家で断られてしまった。かんばらへ引き返そうにも、日が暮れて具合が悪い。
 ただ一軒、村の旧家だけは主人不在のため、松六なる男が出る。下男。年の頃五十いくつ。珍本を探している由など伝えると、気さくにあれこれと語る。

「そういうことなら、この家に珍しい本がたくさんありますよ。見ていかれますか、と言いたいところだが主人が留守にしている由、お見せすることもできませんが」
「いつごろお帰りになられますか」
「さあ、こればっかりは判りません」
「ご自身の主人じゃないですか。帰ってくるのがわからなくては、困りませんか」
「まあ、よくあることでしてな。狩に出かけているのです。江戸から参られたのでしたな」
「ええ。狩とは?」
「江戸の方じゃ獣なんか食べないんでしょう。猪、兎なんか」
「猪鍋なら食べたことがありますよ」
「なに、杏平、本当か?」
「麹町の山奥屋に、いって食べましたよ。ずいぶん流行っていて、かなり並びましたけどね」
「ははあ、よく獣肉なんぞ食う気になるなあ」
「流行物ですよ。世之介さんは、そういうものには疎いようですね」
「江戸じゃ、流行物なんですか」
「ええ。麹町、と言うだけで山奥屋の猪鍋と通じるぐらいでして」
「所変われば、というものですな。ここらじゃ獣肉なんて珍しいものでもない。米が足りなければ、獣でも捕まえて食うしかありませんから」
「ああ」
 外の、枯れた畑を思い出して、私は口を噤んだ。
「それにしたって主人みずから狩に出かけることも、あるんですね」世之介が深刻そうに言った。
「性格ですよ。自身の足で歩き回らないと、気の済まない質の方なんです。溜め込んである本も、そうして集めたものだそうです」
「何、それは」
 食指が動いた。しかし、主人が帰ってこないことには勝手に見るわけにもいかないだろう。
「ところで、今日の宿は決まっているんですか」
「いや、それが、ここに来るまでに粗方の家に断られた所なんですよ。納屋でいいので借りられないかと、たずね回ったんですが」
「こんな村じゃ宿屋もありませんからな。どうです、よろしければこの家に泊まりませんか」
「それは、渡りに舟です」
「ただし、やはり納屋ですよ。主人に断り無く屋敷に通すわけにもいきませんから」
「雪の中で野宿するはめにならなかっただけでも、充分です。ねえ、世之介さん」
「ん? ああ」
 また何か暗いことを考えていたのか、鬱々とした調子の返事が返ってきた。


天保八丁酉一月十七日 天気良し。(略)

 まだ主人は帰ってこない。朝方に松六が納屋に来て、朝餉を出してくれた。粟と麦の多い粥。一口啜って、世之介が変な顔をした。
「塩をくれ」
「贅沢ですね。こんな田舎なんですから、白米が出ないのは当たり前でしょう」
「いや、何だか獣臭い」
「昨日の話を聞いていたからですよ。私は全く気になりませんがねえ」
「とにかく何だか不味いんだ、味がしない」
「食事を出してもらっておいて、それはないでしょう」
 そうは言いつつも、結局は塩を使わせてしまった。残りの旅程がどれほどになるか判らないのに、物資をむだに使っているような気がする。(略)
 日のある間に何か収穫はないかと村を回ってみたが、何もなかった。ただ痩せた田畑が広がるばかり。


天保八丁酉一月十八日 くもり。(略)

 ひどく寒い。今日も松六が朝餉を出してくれた。粥の中身は変わらず。世之介が塩を所望する。
 ところでまだ主人は帰ってこないようである。
「変なところへ来てしまったな」
 世之介があの世でも見たかのような調子で言ったが、これには私も同意した。帰りも告げずに三日も留守にする者に、旧家の当主が務まるだろうか。
 松六は相変わらず気にするなと言っていたが、何だか気味が悪い。こうなると味のない粥さえも、不気味に思えてくる。
「この粥の米と麦は、あの農民たちが作ったものだな」
「それがどうかしましたか?」
「彼らは私たちがここでただ飯を食らっているのを知っているんじゃないか。どうも怨みがましい目で見られる」
「確かに、ここの主人ですら食うに困って自ら狩に出るほどの状況ですからね」
「一度村を、出ようかと思うんだが」
「しかし、主人の集めた本というのが気になります」
「あのな、あの松六という男は珍しい本だなどと言ったが、田舎者の珍奇など当てにならないものだ。どうせ大した収穫にはならないに決まっている」
「ちょ、ちょっと世之介さん、宿を借りている分際で、そういうことを言うのは……」
「誰も聞いてはおらん」
 確かに、納屋には松六が朝餉を置いていったきり、誰も近付いてこない。昨日そうだったのだから、今日もそうだろう。大きな屋敷の割に、妙に人気が少ない。台所へ行けば下女などがいるのだろうが。
「でもあまり良くないことでしょう。どうです、外にでも出て話しませんか。世之介さんは昨日はほとんどここに籠もりっきりだったじゃないですか」
「外こそ誰が聞いているかわからない。それに」
「それに?」
「寒いから嫌だ」
 子供のようである。外へ引っ張り出すのに四半刻はかかった。
 村を縁取る森に入り、暫く無言で歩く。むりやり引っ張り出したせいか、世之介の機嫌が悪い。困った人だ。
「なにか考えでもあるんですか」
「いや、ない」
 妙にきっぱりと言い切る。しかし、同僚ではあるが年長の世之介が何も考えていない、ではこちらが参ってしまう。私たちには使命があるのだ。
「私としては、やはりあの家の珍本というのが気になるのですが」
「そうだな」
「おや? さっきは反対したじゃないですか」
「何だ、お前は本当に気付いていなかったのか。あの松六という男、朝餉を片付けて出て行ったふりをして、ずっと戸に張り付いて盗み聞きしていたぞ」
「まさか」
 得に行く当てがあるわけでも無し、私たちは森の中へどんどん踏み入っていた。細い獣道を辿っている。どこへ続くのかは判らないが、雪の上に足跡は残っていない。つまりこの先には誰もいないということだ。
「そんなことをして、一体何の得になるって言うんですか。また悪い癖が出ていますよ」
「いいや。確かに気配が残っていたんだ」
「すぐそうやって悪い方へ考えるんだから」
「こう見えても直心影流綾川道場師範代だ。気配ぐらい読めずにどうする」
「あれ? それって法螺だったんじゃないんですか。真面目に道場に通っておけばよかったなんてご自分で仰ってたじゃないですか」
「うむむ」
 何か、証明して見せようと思ったのか、腰の刀の在るべき位置に手をやった。しかし今は帯刀していない。鯉口を切る型で、手が宙を掴んだ。あまり様にはなっていないように見える。
「しかし怪しいのはお前も感じただろう」
「そりゃねえ、狩に出たっきり三日も主人が帰ってこない家なんて、おかしいですよ。それとも田舎ってもんは、そうなんでしょうかね」
「いくら田舎でも、あれだけ大きな家の主人が日頃からふらふらしているわけにはいかんだろう。ところが、使用人達は気にしている風でもない。だいいち、主人の同意もなしに身知らずの客人を何日も泊めるだろうか」
「どういうことでしょうか」
「罠かもしれんな」
「罠?」
 その時だ。先を歩いていた世之介が、「うわっ」と叫んだ。何が起こったのか判らなかったが、私は急に袖を引っ張られ、世之介と縺れ合うようにしながら雪の中をずり落ちた。
 目の前が真っ白になった。雪の色だ。そして気がつくと、辺りは真っ暗だった。
「痛たたた」
「どけ、杏平」
 全身を強かに打ち付けている。下の方から世之介の声が聞こえた。
 私は手探りで体制を立て直し、足を踏ん張ってその場から立ち上がろうとした。途端に、ぎゃっと世之介が悲鳴をあげる。
「手を踏むな、手を」
「どこに何があるのかなんてわかりゃしないですよ。股の間じゃなかっただけましと思って下さい」
 世之介が下で縮み上がった。
「踏むんじゃないぞ! 気を付けて動け――」
「言われずとも」
 次第に目が慣れてきた。真上から、灰色の光が射し込んでいる。曇り空が頭上で丸く縁取られているのである。
 どうやら深い縦穴に落ちたらしかった。人が二人、向かい合って座ることのできるぐらいの広さはある。世之介の上から私が退くと、世之介はのろのろと立ち上がった。
 真上を見上げる。
「獣用の罠か何かだな」
「気配は読めても、落とし穴は避けられないんですか。それに、落ちるなら一人で落ちて下さいよ」
 さっき、穴に落ちながら世之介は一蓮托生とばかりに私の袖を引っ張ったのである。本来なら落ちるのは世之介だけですむはずだった。私は巻き込まれただけだ。
 それなのに、世之介は悪びれもせず、
「一人で落ちたら心細いじゃないか」と言ってのけた。
「心細いって、子供じゃないんだから」
「杏平が私を見捨てて、そのまま村に引き返してしまうだろうと思うと、こうせずにはいられなかったんだ。一人で穴に落ちた私はどうすればいい? 荷物は杏平が持っている、刀も食糧も全部だ。その上お前は助けを連れてくることもなく、私はここで穴に落ちたことなど誰にも気付かれずに、為す術無く餓死する他はない。薄情にも程があろう」
「あの一瞬で、よくそれほど悪い可能性を考えますね。私が世之介さんを見捨てるわけないじゃないですか」
「仮にそうだったとしても、村人は助けに来ない」
「なぜ?」
「これは村人が私たちを陥れるために仕掛けた罠だからだ」
「世之介さん、貴方は本当に、面倒な人ですねえ」
 溜息が出た。
「獣用の罠だと今さっき言ったじゃないですか。大丈夫ですよ、獣用なら定期的に村人が獲物が掛かっていないか見に来るはずですから」
 世之介はまだ何か言いたそうにふてくされた顔をしていたが、これ以上何を言わせても同じことばかり繰り返すだろうとこれまでの経験から判っていたので、私は世之介が次ぎの言葉を出す前に、先手を打って話を続けた。
「さて、それまで待ちますか。それとも登ってみますか?」
「何か登る道具になりそうなものはあるかな」
「荷物に刀が入っています」
 納屋を出る時、私は何となくこのまま村を出る可能性があるような気がして、荷物の殆どを持って来ていた。
 大小が二人分、併せて四本の刀を荷物から取り出す。
「これをこう、穴の壁に差しながら上れないだろうか」
「じゃあ、やってみて下さい」
「私がやるのか」
「言い出した者がやる。それが道理でしょう」
 世之介は嫌そうな顔をしながらも、しぶしぶと脇差し二本を手に取って、壁に向き合った。
「うまくいく気が、まったくしない」
「失敗したら、別な方法を考えればいいんです」
 世之介は大きなため息を吐いた。それから改めて壁を睨み、片手に握った脇差しを鞘ごと壁の目線の高さの位置に突き立てた。脇差しは鞘の中程まで難無くめり込んだ。
「かなり柔らかい地層だ」
 もう一方を、軽く飛び上がって今よりも高い位置に突き立てる。やはり簡単に鞘の半分以上が突き刺さる。
「よっ」
 かけ声とともに飛び上がって、高い位置に突き立てた刀にぶら下がる。下に差したもう一本を抜いて、更に高い位置に突き立てようとする、が。
「うわあああああ」
 かなり情けない声を上げて、世之介は落下した。ぶら下がっていた刀に体重がかかりすぎて、壁が崩れてしまったのだ。
「駄目ですね、地層が柔らかすぎるみたいです」
「笑いながら言うんじゃない。杏平、お前もやってみろ。お前の方が体が軽いだろう」
 更に泥まみれになった世之介は、顔を真っ赤にしながら全身についた土を払っている。
 確かに、身の丈が五尺六寸はある世之介と比べて私は五尺一寸あるか無いかぐらいだ。おまけに在る程度鍛えているらしい世之介と、武芸に関してはからきしの私では、体重も相当違ってくるだろう。
 しかし、世之介が私にもやれと言った理由は、そんなことじゃあるまい。
「自分だけが失敗したとうのが、恥ずかしいんですね?」
「そんなわけが、あるものか」
 図星なのだろう。言葉尻が弱くなった。
 どちらにしろ、私が同じことをやって、上手く行くとは思えない。
「これは、やっぱり助けを待つしか無いようですね」
「助けなんか、来るのかどうか……」
「待ちましょう。幸い、多少の食糧と野宿の準備はあります」
 私は腰を下ろした。背負っていた荷物を開き、中身を確認する。現在あるのは、先程の刀が全部で四本と、乾し飯、乾し肉、塩、天幕用の布、簡単な寝具、火打ち石、それと胡椒などの薬、道中記録用の紙と墨と筆。
「ここで火を起こすのは危険だな。煙で中毒死の恐れがある。だからといって、このままでは凍死してしまいそうだ」
「布でも被っておくしかないですね」
 私と世之介は狭い穴の中に互い違いに並んで座り、天幕用の布を被って首だけ出した。これで多少の寒さはしのげる。
「餓死だけはしたくない。餓死は辛いぞ」
「その前に助けが来ますよ。ここに来るまでに道があったでしょう。ということは、誰かが通る道だということです。人の気配がしたら、声を上げて助けを求めましょう」
「来る、と言っても村人だろう」
「もちろんそうでしょうね。どうしたんですか、本当に。今日はやたらと村人を敵視していますね」
「彼らは私たちを陥れるつもりなんだ」
「また、そんなことを言う」
「根拠も無しに言っているわけではない」
 見ると、世之介は真面目腐った顔をしていた。
「私たちはお上の命令で『大日本史』の資料集めをしているという大義名分があるんですよね」
「無論、表向きの理由はそれだ」
「水戸藩二代目藩主、徳川光圀公の設けた彰考館、つまり『大日本史』の編纂所である後学問所からの命です。この日本歴史書の編纂は、すでに百年以上前からの大仕事です。言ってしまえば全国に知れ渡った公共事業ですよ。その仕事に従事しているというのに、人々から怪しまれたり、罠に掛けられたりなんておかしな話じゃないですか」
「まあ、そうだな」
 世之介は答えながら目線を逸らした。あまり、嘘は上手くないと見える。
「惚けないでください。考えられるのは、私たちが持っている裏の理由が、村人と何らかの関わりがあるんじゃないかってことだ。そういえば、この村に来ることを提案したのは、世之介さんでしたね」
「邪本の摘発、獣の誅戮……」
「世之介さん、どうやら私は、上から全てを聞かされている訳じゃないみたいですね。しかし世之介さんは知っている」
 世之介は否定も肯定もせずに、視線を上に持ち上げて狭い空を見た。昼間だというのに、曇っていて薄ら暗い。
「寒いな。これでは本当に、凍死してしまいそうだ」
「隠し事があるのはあの松六という方だけじゃなく、世之介さんもじゃないですか」
 これ以降、半刻以上も世之介は黙り込み、難しい顔をして地面をじっと見つめていた。
「二つ、教えてやろう」
 黙っているのに飽いたらしく、日が傾きかけてようやっと世之介は口を利いた。
「まず一つは、昨日あの屋敷にて判明したことだ。私は下男下女の目をかいくぐって、かの珍本があるという書斎へ忍び込んでみた」
「そんな、いつの間に」
「お前が村をふらついていた時間にだよ。私だって一日中納屋に引きこもっていたわけではない。しかし忍び込んだはいいが、生憎すぐに人が近付いてきたので、蔵書のすべてに目を通す事はできなかったが。しかし興味深い題の本がいくつもあった。『飢餓之図解』だとか『荼枳尼天包丁類聚抄』なんていうのもあったな。中身は読めなかったが、なんとなく判るだろう」
 荼枳尼天とは人の死肉を食らう仏尊の一種である。『荼枳尼天包丁類聚抄』はその題から察するに、荼枳尼天の食らうもの、つまり人肉の調理法を記した書ではないかと思われる。いかにも恐ろしげな邪本だ。
「これはこのところ江戸を初めとして各地で人を脅かす獣の存在と、繋がっているように思えないか」
 私は背筋が寒くなった。日が落ちて気温が下がったせいだけではない。噂に聞いていただけの血吸いの獣の存在が、急に本当らしく思えてきたのだ。
 獣に関しての書を集めるように、と命令が下っても、私はその存在をあまり信じることができなかった。江戸においては、血吸いの獣が出たというのは渋谷辺りの田舎の方で、どうにも人事としか思えなかった。
 だが今、陰気な目をした村人の作った罠にかかって縦穴に閉じこめられている状況で、俄に獣の存在が恐ろしくなってきた。
 噂によると獣は人と同じ形をしているという。得物を追って帰ってこないあの旧家の当主も、本当は猪や鹿なんていう得物を追っているのではなく、もしかしたら人を……などと考えてしまう。土臭く、薄暗いこの場所が不安を煽るのかもしれない。
「もう一つは、これは私だけの仕事なのだが」
 世之介は今までよりも更に小声で囁き、右手でちょいちょいともっと近付くようにと仕草で示した。
 被っていた布から出て、世之介の方へ膝で躙り寄る。こんな穴の中だ。誰も聞き耳を立てることはできないだろう。そう判っていても、私は世之介の気迫に気圧された。今まで見たことがないほど、真剣な様子だった。
「私は全国に潜む血吸いの獣を、全て誅戮せよとの命を与っている」
 世之介は地面に放り投げられたままになっていた脇差しの一つを拾い上げ、かちりと音を立てて鯉口を切った。鞘と鐔の隙間から、氷のように冷え冷えと光る刃が覗いた。
「少し、腕に覚えがある。お前は信じていないようだがな」
 私は世之介の腕をまじまじと見た。旅をしていてずっと考えていたのだが、この人は役者のようななよなよした外見の中に何か鋭く研ぎ澄まされた刃のようなものを隠し持っている。普段は後ろ向きで面倒くさがりな言動に隠しているが、刀に手を当てた際などにふっとその鋭さが垣間見える。私はいつしかその隠された正体を見破りたいと思うようになり、事ある毎にからかうような態度に出、真意を引き出そうとしてきた。だがいつものらりくらりと躱されてしまう。確かに、自分に実力があるのだと自称はするが、本当に刀を抜いた事はない。
 手慰みだろうが、真剣を抜いたのを見たのはこれが始めてだった。
「私は表向き水戸藩の書物同心だが、藩主の徳川斉昭公の密命を受けて、この腕を振るうことがある。主に、幕府転覆を目論む不義の輩などを――」
「信じがたいですね。本当にそんな重大な役を与えられているのでしたら、私なんぞには明かさない方が良いのでは?」
「……妄舌を吐いていると言いたいのか。信じぬのなら、それでも構わん。とかく、私は今回の旅では単に『大日本史』の史料を集めるだけでなく、噂の獣を討ち取る命を受けているのさ。そのためには敵を知らねばならん。だからこその邪本集めよ」
「ちょっと待って下さい。さっき、全国の血吸いの獣を全て、と仰いましたね。獣は各地に何頭も存在するのですか?」
「む、ううむ」
「世之介さん、あなたは嘘を吐くのが本当にお下手だ。今更、獣について調べる必要など無いのではないですか。何所に何頭存在するのか、どのように斬ればよいのか知っているような口ぶりですよ」
 世之介は口篭もり、目を伏せた。いよいよ陰鬱な気分になったと見える。
 しかし憂鬱なのはこちらの方だ。世之介の話が本当であるとしたら、知らぬ内にそのような危ない使命に同行させられていたのである。不安にならないわけがない。
 それに、これまで短い期間とはいえ同じ旅程を踏んだ仲だ。真っ赤な嘘で騙され続けていたということに、何だか腹が立った。
「これで二つ、私に教えることのできる全てですか? まだ隠し事がある。それも知りたい所ですが、今私が一番不可解なのは、なぜ私が騙されなければならないのかということです」
「知らぬが仏、という言葉もある。危険だと判っているのに、あえて近付かせてやることもあるまい」
「知らないがための危険もあるでしょう」
 私は世之介に詰め寄り、白い首の据えられた旅姿の衿を掴み掛かった。世之介は、抵抗しない。冷めた目で私を見返した。子供の行いを嘲笑する様である。私はかっと頭に血が上った。この村に入ってから少しずつ蓄積された不安が、堰を切って流れ出したのかもしれない。
 空々しい村人たち、主のいない奇っ怪な屋敷、世之介の嘘。並べて私を除け者にしている。
「何とか言ったらどうです」
 私は世之介の耳元で声を荒げた。すると世之介は溜息を吐き、脇差しの柄を握っていた手を私の目の前に翳した。
「な、何を」
 私がそう言った瞬間に、平手が突然に伸びた。鼻っ面を勢いよく叩かれる。私はもんどり打って後ろに弾き飛ばされた。
「大人しくしておかんと、凍え死んでしまうぞ」
 世之介は相変わらず冷えた目で、手に握った脇差しを見ている。言葉は警告の如く聞こえた。


天保八丁酉一月十九日 晴れ。(略)

 寒い。足の先の感覚が無くなってから、どのくらい経つのか。一度日が沈み、登ったので、この穴の中で日を跨いだことは判った。
 昨日のことで、世之介と気まずくなってしまった。あれから一言も会話を交わしていない。しかし世之介は時折ぶつくさと何やら呟いている。
「別にやりたくてやっているわけではない」
 云々。
 こちらが反応するのを期待しているのだろうが、詰め寄った程度で殴り飛ばされた私としては、安易にあちらの要求に従いたくない。子供じみているかもしれないが。
 そんな意地を張って、恐ろしく寒いのに世之介と可能な限り離れてじっと縮こまっていた。
 朝日が登る。このままでは、世之介の予想通り助けもなく飢えと寒さで死ぬばかりかと絶望的な考えを持ち始めた頃だった。
 微かに人の足音が聞こえた。雪を踏む、耳障りのいい音だった。
「人だ」
 世之介がはっとして顔を上げる。
「おおおい、こっちだ、助けてくれ」
 まず世之介が、腹一杯に力を込めて叫んだ。死にものぐるいの形相である。私よりも先に悪い予想をしていたのだから、その絶望は私よりも深かろう。反転、必死にもなる。
「おおおい、誰か」
 私もつられて叫んだ。気がつくと世之介は立ち上がって叫び続けている。なるほど、立ち上がった方が声が穴の出口に近付き、外の何者かにも聞こえやすいだろう。私も習って立ち上がろうとした。
 が、
「うっ」
 立ち上がろうとして足を踏ん張ると、指先に激痛が走った。立ち上がれない。だけでなく、短く呻き声を上げてしまった。
「どうした」
 世之介が私の方を顧みる。私は恥ずかしくなった。昨日まで世之介のことをさんざん馬鹿にしたように言っておきながら、この環境で先に体が音を上げたのが私の方であったのが、情けなかったのだ。
「何でもありませんよ。それより、助けを呼ばなくては」
「うむ」首を傾げながらであった。
「おおおい」
 世之介は再び声を張り上げた。すると、穴の切り取る青い空に突然、白い顔が現れた。
 女だ。山深いこの土地に似付かわしくない、江戸好みの島田髷を結っている。
「おやまあ、獣がかかっているかと思って見に来てみれば、浅葱裏がお二人もかかっていんす」
 訛りもない。流麗なありんす言葉だ。
「何者かは存じませんが、縄か何かを投げていただけませんか。私は満月世之介、こちらは品治杏平と申します。慣れぬ土地を旅していて、うっかり罠にはまってしまったのです」
「しばらくお待ちなんし」
 首が消えた。暫く経ってから、穴の口からするすると梯子が降りてきた。
「お一人ずつ、おのぼりなんし」
「世之介さん、お先にどうぞ」
 私は地面に座ったまま、世之介を急かした。足先の痛みが、次第に明瞭になってくる。冷えのために凍傷を起こしてしまっていたのだ。だが、素直に立てぬなどとは言い出せなかった。
 世之介が梯子を登っていくのを見上げながら、私は再び立ち上がろうと試みた。足の指が地面に強く触れなければいいのだ。かかとと足の平に力を入れて、そっと地面に足を踏ん張る。壁にもたれかかりながら、ゆっくりと時間を掛けて立ち上がる。
 私が単に立ち上がるだけの動作に必死になっているのをよそに、世之介はちっとも平気そうに梯子を登っていく。昨日、自分は腕に覚えがあるために藩主の密命をうけている、等と言っていたが、なるほどと思わせるだけはあった。
 やっと立ち上がれたところで、梯子の上から世之介が私を振り返った。
「杏平、荷物を渡せ」
 言われて、地面の上に荷物を広げていたことを思い出した。冷や汗が出る。またしゃがんで荷物をまとめて、立ち上がって世之介へ手渡す。考えると熱いような寒いような心持ちである。しかし弱音は吐けない。
 私は腹をくくった。できるだけ素早く、慎重に膝を曲げ、痛みを堪えながら荷物を一つ一つ拾い上げ、元の通りにまとめる。足の指を地面から離して出来る作業ではない。叫びたいほど痛むが、必死に咽で押し殺す。
「まだか?」
 世之介は私の状態には全く気がついていないようで、気軽に催促の言葉を投げかける。憎々しく思うが、助けを求めるのも情けない。
 ようやく荷物をまとめ上げ、決死の思いで立ち上がり世之介へ荷物を手渡した。荷物の重さが足にのし掛かり、一度目に立った時のように指先に力がかからないように配慮することなど出来なかった。
 冷や汗をだらだらと垂らしながら、私は世之介が梯子を登り切ったのを見送ってから後に続いた。
 穴の外に出るとまず、日の光を目映く反射する白い雪が目に入った。明るすぎて目が痛い程だ。
 眩しかったのは雪の色だけではない。その隙間から覗く草や木の緑や、遠くにうっすらと見える山の陰も、この世のものとは思えぬほど眩しく美しく見えた。たった一晩穴に閉じこめられていただけなのに、こんなにも明かりが目を射すものか。
「お侍様、どこか怪我でもしていんすか。顔が真っ白でありんすよ」
「え?」
 汗が止め処なく流れ出る。近くに立っていた女の目を見返し、その黒い部分に映り込んでいた私の顔を凝視した。
 いや、全てが真っ黒だ。女の目だけではない。目の前が、突如として全て真っ暗に変わった。


天保八丁酉一月二十日 晴れ。(略)

 嗅いだこともない匂いで目が覚めた。眠気の残る鈍い頭で、その匂いに浸っている。強い匂いだが、不快ではない。瑞々しい、かぐわしい花のような香りだ。ずっとこの匂いの中で眠り続けたくなるような匂いだ。
 女の匂いだった。
 狭い小屋の戸が開き、女が入ってきた。
「おや、目が覚めたでありんすか」
 私は首を動かし、女の方を見た。女は腕に釜を抱いている。
 私が返事をしないでいると、女は興味を失ったように私から視線を外した。布団の上に横たえられた私を大股で乗り越えて、部屋の真ん中の小さな囲炉裏に釜を置いた。朝餉の支度をしているらしい。
 小屋は狭いが、囲炉裏と鍋釜などのひととおりの炊事道具が揃っている。女が一人で暮らしている証拠である。
 暫くすると米の温かい香りが部屋に満ちはじめた。
 女は私に食事を勧めたが、私は動くことが億劫で、黙って横になったままでいた。すると女は私の体をゆっくりと助け起こし、湯気の立ち上る粥の入った椀を私の口元に差し出した。
 受け取ろうと腕を持ち上げるが、ふと手を見ると、拳全体に布が巻かれている。これでは椀を受け取ることができない。女はお構いなしに、椀を私の口に優しく押し当てた。自然、唇が開いてしまう。その隙間から、熱い粥が少しずつ流し込まれた。
 そうして長い時間をかけて、私に朝食を取らせると、女も自分の食事を取った。
 女は糸と名乗った。少し気位の高そうな目をしている。
 あの罠を仕掛けたのは女も含めた、村の人間だと言った。なるほどあれほどの深さの穴は、一人や二人で掘れるものではない。松六という男も言っていたが、この村では獣を捕らえて食うのが習慣なのだろう。
 偶然にも女が昨日の朝に、獣が掛かっていないか確かめに来たために、私と世之介は命拾いをした。あの寒さだ、数日もあそこで過ごしたら凍死してしまっていた。
 その世之介がいない。
「夜には帰ると言っていんした」
「どこへ?」
「さあ。あちきは聞いておりんせん」
 女は、さほど口数が多くない。必要なことだけを口にしているようである。しかし、ここの他の村人たちのような、薄暗い影が、ない。田舎の鄙びた風情もない。言葉遣いは吉原遊廓の遊女のようだが、確かにそれらしい容貌と物腰である。だとしたらなぜこのような山奥に一人暮らしているのか。
 問い倦ねていると夜になり、話の通り世之介が帰ってきた。
 どこで何をしていたのかも言わず、難しい顔をして私と糸を眺めた。

→次

さよなら絶望先生 目次

index