火炎
女の嫉妬は赤く燃える炎に似ている。可燃性物質と酸素に寄生する化学反応。女は可燃性物質。恋は酸素。条件が揃えば些細な切っ掛けで有炎燃焼を起こす。
目が眩む光と触れる物を巻き込む高温をまき散らして。
燃える火炎。私は燃え上がる。
今日を選んだのは、校内に最も人が少なくなる夏休み直前の日曜日だったからだ。都合の良い事に、先生はあの女に連れられて出かけていった。どちらにしろ誰かが何とか理由を付けて、安全なところへ連れ出す予定だったけど。
計画は完璧なはず。私は網を張った。水の一滴も漏らさない。
嫉妬の炎は思考を明るく照らしている。
彼女がその情報を持ってきた時、その場にいた誰も疑いを持たなかった。あの一年の少女が首を吊って死んだその日。
「見た」と小森霧は言った。
「私はずっと学校にいるから」
それだけで誰も疑わなかった。木造校舎が、水で薄めた血のような茜色に染まる。霧は、いつも引きこもっている宿直室から自ら出てきていた。そこに仮住まいしている糸色望に、この話は聞かれたくなかった。自分がこの話題を口にしている事を知られたくなかった。
教室には二年へ組の生徒の一部が残っていた。昼の保健室で、予め密かに声をかけていた数人だ。女子が多い。
女の、嫉妬に燃えた、目。
「じゃあ、あの子に取り憑いていた鬼が移動して、元の宿主を食い殺したってこと?」
「まさか、まといちゃんが」
木津千里と小節あびるが、霧の証言を復唱した。信じられない、と言外に匂わせながらも、その内側にはまた別な感情がある。
「血を抜き取って殺して、自殺に見せかけるために首に縄を掛けて吊した」
霧は証言しながらそれらしく体を震わせた。いつもと同じように毛布にくるまっている、その毛布の端をきつく握る。
「おかしいと思ったんだ。いつも先生の近くにいるのに、最近はどっか行っちゃったりしてたし」
「他に被害者がいるかもしれないね」
木村カエレが険しい顔で言う。
「本当は鬼に取り憑かれた日から気付いてた。学校の中でだったから。でも確証が持てなくて、言い出せなかったんだ。ごめんね」
霧の語りは、その全てが嘘というわけではない。真実を嘘で濁す。そうすると何が本当なのか、判らなくなる。
「あなたのせいじゃないわ」
「でも被害者が出ちゃったし」
そこで、話が途切れた。千里が鬼のような形相をしていて、それを周りの生徒が見ていた。被害者の少女を殺そうとしていたのは千里だけではなかったが、個人的に殺しも厭わない程に憎んでいたのは、間違いなく千里だけだった。他の生徒は正義の名の下に動いていただけだ。その正義が消失してしまっては、何を憎めばいいのか判らない。霧の発言で、自分達の行動にも、相手への感情も、宙に浮いて足が着かない状況だと認識して、仕方がないので千里を見ていた。
「早めになんとかしなきゃだよね」
だが他の生徒が考えていることなど、霧は興味がなかった。誰かが発言するのを待っていたが、誰も言わなかったので自分で言った。
何とか、と。
「仕方ないよ」
黙っている生徒達に追い打ちを掛けるように、霧が繰り返す。
「仕方ないのよね」
「そうね、仕方ない」
「仕方ないよ」
少女達は声を続けた。常月まといはいつも糸色望の近くにいた。彼に思いを寄せる彼女らは、少なからず嫉妬を抱えていた。
「仕方ないのかな? 僕はそんなに仲良くなかったから、判らないけど」
男子生徒の一人が疑問を口にしたが、誰も答えはしなかった。
「どこに行くの」
「どこにも行かないわよ」
「先生、行っちゃったよ」
「知ってるわ」
まといは霧を睨み返した。主のいない部屋、午後一時過ぎ。
「ストーキングしなくていいの?」
「私は先生の側にいたいだけで、ストーカーとは違う」
「ふーん」
霧は宿直室の窓から、無人の校庭に視線を移した。いつもなら日曜日でも部活動などで学校に来ている生徒も居るはずなのに、今日に限って校内には人影がない。霧とまといを含めても、生徒は数える程度の人数しか登校していなかった。
ずっと学校に居る霧も、まといも、その異常に気がついていた。霧にとっては意図的な異常だ。
「まあ、出かけないのなら、そっちの方が好都合だけど」
「ふふ」と、まといが短く笑った。
「何がおかしい?」
「別に」
「逃げられると思ってるの?」
「思ってないわよ」
「じゃあどうして笑うの」
「明らかに私の方が先生のことを判ってあげられてるから」
「今は先生の事関係ないじゃん」
「ある」
話をしながら、まといは背後の戸に向かって少しずつ後ずさった。
「意味わかんない。負け惜しみだね」
霧は、いつものように毛布にくるまって座っている。そんなに早くは動けないはずだ。
「いいえ、私の勝ちだわ」
「何で?」
まといの背中が扉に軽く当たる。半透明の曇りガラスが覗き窓としてはめ込まれている。中から外は見えない、外から中は見えない。ただ人影だけを窺い知ることが出来る。
「だって私は先生のお役に立てる!」
まといは、急に振り向いて戸を開いた。
私服の女子が一人、勢い余ってつんのめるように転がり込む。まといはそれを予測していた。二枚戸の閉じた方に身を付けてやりすごすと、即座に彼女の脇をすり抜けて宿直室を出ていく。
「勘付かれてた!?」
千里だった。手には愛用のスコップが握られている。
まといは、動きづらそうな袴姿のままなのに、あっと言う間に廊下を走り抜けていく。
「大丈夫だよ」
第一手をしくじったにも拘わらず、霧は少しも焦っていない。
「今日、結構人数来てるんでしょ」
「ええ、そうだけど」
「それに校内のことなら私が一番よく知ってる」
それは、間違いだ。いつも糸色望の後を付きまとっているまといは、その時々で隠れ潜むのに恰好の場所を望の行動の範囲内でいくつも把握している。当然、校内が一番多い。
「逃げられないよ」
霧は静かに笑った。腹の中には嫉妬の火が灯り、理性を巻き添えに体を熱くする。やがて心まで消し炭にしてしまいそうだ。
まといは廊下の窓から隣の校舎を見た。何とかしてあそこまで行かなくてはならない。まといを追う生徒達は、あの校舎に最大の罠を仕掛けている。自らその罠に掛かりに行く。
今日の早い時間にさっさと移動してしまわなかったのは、霧に自分の目論見を勘付かれないためでもあったし、最期ぐらいは望の一番近くに居たかったからでもある。
きっと最期になる。死ぬかも知れない。命を捨ててでも好きな男に尽くしたいとは思っているけど、まだ心のどこかが薄ら寒い。だから今日までこの選択肢を選べなかった。自殺するよりも、誰かに殺されるのを待つ方が、何故だか気が楽だった。
いつも死ぬ死ぬと言いながら、一向に自害する気配のない望も、こんな気持ちだろう。望と同じ、と思うと悲しくて涙が出た。この鈍く打たれる傷の痛みから、早く解放してあげたい。
そのために自分が出来ることを、何としてでもやり遂げないといけない。だけどまといが密かに調べた範囲では、隣の校舎に仕掛けられた罠は最後の手段とされていた。その前に仕留めようと何人もが自分を追っているはずだ。
「見つけた!」
案の定、宿直室を出て校舎の出口に差し掛かった所で、カエレに見つかった。十メートル程先から、サプレッサー付きの低い発射音がまといの足下に跳ね返る。廊下に小指の先ほどの穴が空いた。
「威嚇? 意味の無いことをするのね」
「手元が狂っただけだよ」
カエレが手首を持ち上げ、暗い銃口をまといの胸に向けた。
「そんなの何発も当てないと致命傷にならないのに」
「頭か心臓ならやばいだろ? 化け物の体の基準は判らないけど」
「化け物、ね。やっぱりそうよね」
「何を今更。可哀想だけど証拠は揃ってるんだから否定なんてできないよ」
「可哀想? ふふ、哀れに思われてるのね、私。でも女なら恋のために化け物になる。みんな一緒でしょ」
カエレは引き金にかけたままの指を少しだけ動かした。狙いを定めたまま、打ち抜くのに混沌と迷い。何週間か前に、幼い子供に銃口を向けた時と同じだ。相手がごく普通の人間と変わらないように見えて、打ち殺すことが正しいのか間違いなのか、判らなくなる。あまり話す機会は無かったとはいえ、同じクラスの生徒なのだから、その感覚は至極真っ当だ。
「アナタ本当にあの子を殺したの?」
「そうよ」
間髪入れずに答えてから、急にまといは恐怖に苛まれた。やってもいない罪を被って、その末路は判りきっている。
だけどそれは自分で選んだ末路だ。
「食べないとお腹が空くじゃない」
どこか弱々しい調子でそう続けてから、まといは無意識に唇を大きく開いて深く息を吸った。紅を差した唇よりも、赤く湿った口内がカエレの青い瞳に映り込む。
血の色に似ている。
電撃のように短く不定形の妄想がカエレの脳裏に過ぎった。恐くなる。白いまといの顔ばかり凝視していたからかもしれないが、開いた口の中のに、生々しい赤い液体が溜まっているように見えた。
銃身を握る手の先から全身に向かって怖気が走り、引き金に伝わる。
鈍い銃声! 気がつくと、明後日の方向に発砲していた。
まといの横の窓ガラスが放射状に裂ける。
まといは振り袖をはためかせながら振り返り、背後の階段を駆け上がった。その後ろで低い響きが何度も繰り返され、まといの足下や周囲の壁に乱射された銃撃が小さな穴を開けていく。
一体何人がかりで追われているのだろう。ついさっきは強気で居られて、何とか命を奪われずに済んだけど。
十数段の階段、その上に踊り場があり、さらに十数段の階段が続く。大した移動でもないのに、踊り場を超えた辺りで心臓が破裂せんばかりに強く打つ。その割には手足の先は変に冷たい。夏場の暑さのためでは無い、冷や汗が出る。ただ目的だけが明るかった。
やっとの思いで階段を上りきった所に、人の気配。
同時に、頭の上でガラスの割れる音がした。咄嗟に頭を庇って足を止めると、あと数歩先の所に、割れた蛍光灯が落ちてきた。床に跳ね返って粉々に砕ける。破片は、まといの目の前まで飛んだ。
廊下の向こう側に、二人、立っている。
「芳賀君、青山君」
それが誰だか判断が付くまで、しばらく時間を要した。日頃学校で見掛ける時は制服だから、今日のように私服だと印象が変わって、同じクラスといってもあまり親しくなければすぐには判らない。
芳賀は自分の身長と同じくらいの長さの鉄パイプを持ち、青山は片手の上で小さな弾丸のようなものを複数投げて玩んでいた。あれが蛍光灯を打ったのだろう。
二人は、まといの姿を眉間に皺を寄せた硬い表情で見ている。まといも足を踏み直して、二人を見返した。
彼らはカエレと同じで、迷っている。一撃目が有ったのだから、些細なことを理由に消えてしまうような悩みなのだろうが。
まといを、同じクラスの女生徒ではなくて、日常から外れた異質な存在だと認識出来るのなら、迷いは消える。
だが知った顔を見ていると、それが出来ない。意識の何所かで理性がそっぽを向く。
「返事ぐらいしてよ」
芳賀と青山が更に顔を険しくした。ずっと睨み合っていると、日常にあったごく普通のクラスメイトの記憶と結びついてきて、迷いが増してくる。まといにとっても同じだ。
だけど彼女は迷えない。迷った先には何もない。彼女には、一秒でも長く生きながらえたいと生物的な欲を覆す、決意がある。その障害は敵だ、全部が敵。世界でたった一人以外は。そう思って、目に入る全てに立ち向かう力を沸き立たせる。
「殺せばいい」
まといの咬み合わせた真っ白な歯の間から、細い声が溢れ出た。
「四肢を千切って頭蓋を砕いて咽を削いで心臓を打ち抜いて臓物を引き抜いて」呼吸。「殺せばいい」
血なまぐさい単語が文節になり、一文となって形成された時、まといは胸の深くから吐き気にも似た食欲が込み上げてくるのを感じた。白くやつれた肌が象牙のように透き通り、堅くなる。食いしばった唇の間から見える歯の色と、肌の色が殆ど変わらない白。
「私は!」叫んだ。
まといは嘗て久藤准と約束した通り、一度も食事を取っていない。だから今まで何度も、この衝動に耐えてきた。破壊的な食欲。本能的で獣じみた欲望だ。酷い時には床をのたうち回り、犬猫の血肉でも啜ろうかと思ったこともある。
まといが戦っている最大の相手は、この衝動そのものを人に背負わせる、鬼という形のない存在だ。今彼女の内部にあって、彼女を苦しめているもの。
敵は、目に入る全てだけではなくて、自分の内にさえ在る。
「あなたたちに、そうしたい」
単語の持つ音一つ一つを確認しながら、ゆっくりと吐き出した。まといの目は血走っている。肌には血の気が無い。強く握りしめた手の平には、自分自身の爪が食い込んで、指の間から薄い血が滲み出、中指の第二関節の先に玉となって留まった。
「殺せばいい。出来ないのなら、私が」
まといは今、酷い顔をしている。普段なら男には絶対見せたくないような顔だ。まといが異性と認識してるのは、一人だけだが。
「殺したい」
関節の先に留まっていた赤い玉が、まといの肉体から離れた。日常と同じ木造校舎の色彩の中に、一滴の血の彩り。芳賀の頭の中で、以前教室で弾けた血液がフラッシュバックした。
血は滲む。たったの一滴でも、視界を浸食して、広く滲む。
青山が舌打ちした。礫の一つを指の間に挟み、腕をまといに向かって真っ直ぐに伸ばした。
「殺されて、たまるかよ!」
芳賀が叫び、鈍器を手に駆け出した。
まといは懐から取り出した匕首を握り、迎え撃とうと一瞬留まった。獲物だ、と欲望が歓喜する。
だがそれを押さえつける強い意志が、意識を明瞭にした。
二対一で、相手は男だ。敵うはずが無い。
まといは固まった両足を無理矢理動かし、振り返って背後に続く廊下を走って逃げようとした。飢えて弱った体が軋む。それでも化け物に取り憑かれた体は力強く動いた。
だけど逃げ切れるか? まといの脇の壁に礫が当たって、材木と礫の両方が砕けた。破片が振り袖を擦った。
直ぐ後ろに足音、男の荒い呼吸音。一瞬でも留まったのが仇になる。
「おらぁ!」
芳賀が叫んだ声と同時に、彼が振りかぶった鉄パイプが空を切った音が聞こえた。
床を蹴って、飛び上がる音。
二つ!
僅かにタイミングをずらして、確かに二つの足音が鳴った。
「ぐがっ」
誰かの悲鳴だ。まといは振り返るまで、誰が叫んだのか判らなかった。
予想していなかった状況に、反射的に逃げる足を止めて後ろを振り返ってしまう。芳賀が、階段を駆け上がってきたらしい誰かに、横腹を蹴り飛ばされていた。顔が見えない。青山が眼鏡の奥で目を見開いている。
「は、般若面だ」
芳賀が教室側の壁に叩き付けられる。目もくれず、廊下に着地した般若面の男はまといの方へ駆け寄った。
「どうして?」
まといが小声で呟く。
面の黒目球の部分から覗く、二つの眼球が、瞬きもせずにまといを見返した。まといの匕首の握っていない方の手を、掴む。そして強引に引きずるようにして走り出した。
待て、と青山だか芳賀だかが叫んだ。追っては来ない。
「約束したから」
廊下を走りながら、辺りに聞こえないように、最低限の音量で久藤准は答えた。
「誰と? 私?」
准が頷く。
「余計だったらごめん」
「誰にも言わないでってしか言わなかったのに。でも、信じてくれたんだ。嬉しい」
廊下の先にまた階段がある。
「上に行って」
まといを先導する形で准が手を引いて走っている。階段の近くに来て、まといが話を変えた。
「一階に行って、逃げた方が良いんじゃないの?」
「逃げないわ」
階段を踊り場近くまで昇って、まといが足を止めた。准の顔は般若の面で隠されて見えないが、掴んでいた手が離されて、彼が訝しんでいるのをまといは感じた。
「私、鬼を退治する方法を探してるって言ったでしょ」
「でも、まだ見つかってないんだろ」
「うん」まといが悲しげに笑った。「でもね、久藤君、火って試した?」
火! 可燃物質と化合し、熱と光を伴って発生する激しい化学反応。高熱のために生物を構成するタンパク質を変質させる、生きる者の天敵。
「まさか」
まといの目に、光が火炎のように揺らめいている。午後二時、天頂へ登りつめた太陽の灯りが踊り場の窓から差し込んでいる。
「隣の校舎に、ね」
まといがそこまで囁いた時、階段を昇ってくる足音が複数聞こえた。
「いたわ!」
階下に、長い黒い髪が見えた。千里だ。まといと准は三階に向かって階段を駆け上がる。
准は、再び手を引くことはしなかった。彼女が向かう先に、自分が導いていいのかどうか判別がつかなかった。
駆け上がった先に、また下と同じような廊下が長く続いている。二人の後ろに、後ろに黒く長い髪が棚引いている。
准が階段の一番上に足をかけた時、妙な感覚があった。軽く足を取られるような。
「上!」
まといが叫んだ。准よりも数段後ろを昇っていたまといには、准の足首に引っかかった細い糸の白さが一瞬だけちらついて見えた。段の上の低い位置に、糸が張ってあったのだ。
まといの声に反応して、准が上を見る。四方に錘を付けられた三メートル四方程の白い布が、落ちてくる。
准はまといの腰に手を回し、そのまま抱えて転がるようにして階段の上まで飛び上がった。踊り場に、千里とカエレが辿り着く。
「般若面! あなた一体、何者なの!?」
准は答えない。声で正体を知られる可能性が有るからだ。
廊下に着地した二人は素早く体勢を立て直した。布の影に隠れて、握り拳大のボールが三つ、天上から落ちてくる。
准がベルトから取り出した、鉄釘のようなものを投げ飛ばした。普通の釘と違って、頭頂部が広がっていない。右手の指の間から三本、飛ばされた釘はきっちり三つのボールを打ち抜き、天上に縫いつけた。弾けたボールから赤や緑の鮮やかなペンキが飛び散る。
それと同時に、まといは階段の上部に落ちてきた布の端をつかんで、千里とカエレに向かって投げつけた。
錘の付いた布が落下しながら広がり、千里とカエレの視界を遮る。
相手が戸惑っている間に、まといと准は再び廊下を進んだ。三階には、となりの校舎への渡り廊下がある。が、
「三年は組に」
まといが囁いた。准にはまといの真意が判らない。が、彼は彼女のためにこれほど無茶をした。約束、のために。彼女を裏切れはしない。
走りながらも、出来るだけ静かに三年は組の教室へ滑り込んだ。彼らが昇ってきた階段から数えて、三つ目の教室にあたる。誰もいない、静かな休日の教室だ。
「あそこ」
まといが掃除用具入れのロッカーを指差した。
「昇れるよね」
「あれぐらいなら」
「あの上、天上がずれるようになってるの」
まといは並んだ机と椅子の間を抜けて、生徒用のロッカーの上からひょいと掃除用具入れの上まで昇って見せた。そこから天上の一部を押すと、タイル部分が一枚ずれた。
「ここ、壊れてるだけなの。梯子とか無いから、私以外まず誰も知らないと思う」
人一人が入れる程度の狭い隙間から、まといが天井裏へ入り込む。准も続いた。
「いない」
まといの投げた布を払い除けて、やっと三階へ昇ってきた千里は舌打ちした。ただ布を払い飛ばしたぐらいで、そんなに時間がかかったとは思えない。
「カラーボールも、無駄だったね。足跡も残ってない」
カエレの言うように、折角準備した罠も、階段の上に虚しく飛び散った汚れになっているだけだ。
「どこかの教室に入ったはずよ。この階からは逃がさないように、階段と渡り廊下を警戒しましょ」
千里は携帯を取り出し、今日学校へ来ている全員にメールを打ち出した。
「それにしてもあのお面の男、なんなの?」
「確か前も、常月さんを逃がしたわね」
「その前は、鬼とはいえ幼児の首を躊躇いなく折った」
一月前の、薄暗い池袋の裏路地を思い出した。誰もが攻撃することを躊躇した、幼い子供のやや日に焼けた顔。あどけなさなのか狂気なのか、判別の付かない、夜半を見上げる子供の目。その首が一呼吸の間に在らぬ方向に折り曲げられ、両の目の眼球はぐるりと上に周り、口の端から吹き出した血混じりの泡が地面に垂れ落ちた。
「誰だか知らないけど、あいつは人殺しだし、人殺しの味方をしてるのよ」
千里の胸の奥には青い炎が燻っていた。常に望の近くに居る、まといへの嫉妬だけではない。正義と理性と憎悪と罪悪感。炎を宿す感情は、誰よりも黒く重たい。
「じゃ、敵だね」
遊びの感覚で、正義を楽しんでいるカエレとは、少しの違いを抱えている。
「今まで見た感じ、動きがかなり良かったわね。芳賀君が蹴り飛ばされてかなりダメージを負ったらしいし」
「人数集めりゃ何とかなるだろ。あっちも人間なんだ」
「鬼かもしれないわ」
「それなら、殺す口実になるよ」
そうでなかったら? 千里は疑問を飲み込んだ。
予測で相手を攻撃するなんて、卑怯者じゃない? 誰かにそう言われた気がする。頭の中で疑問が反響した。その疑問すら、胸の炎を保つ燃料になる。
二人は階段を上った先から、端から順番に教室を覗いて回った。三階に繋がる各階段と渡り廊下に、味方の集まってきた気配がある。
やがて准とまといが逃げ込んだ三年は組の教室の扉を、千里が開いた。だが、誰もいない。掃除用具入れの上のタイルが少しだけずれていたが、千里もカエレも気がつかなかった。
「どこにもいないわ」
「隠れてんだろ。そーゆー場所なら、校内にいくらでもある」
「小森さんに聞いてみましょ。持久戦になるわね」
「このあっつい日に、ずっと一カ所に隠れてなんかいられないよ。すぐ出てくるって」
千里が再び携帯を取り出した。
その様子を、准とまといは天井裏の僅かな隙間から見ていた。風も入らない狭い空間は、むっとするほど熱い。天上までは立ち上がるほどの高さもない。四つん這いで、埃まみれになりながら移動していた。
准は面を外していた。暗く熱い中で、見ているだけで暑苦しくなるその姿にまといは苦笑して、取り上げてしまったのだ。
「持久戦ね。私としては、先生が帰ってくる前にカタを付けたいんだけど」
「先生、どっか行ってるんだ?」
「うん。デートだって」
次第に暗さに目が慣れてきたとはいっても、まといの横顔に浮かんだ微妙な表情の変化を、准ははっきりと見ることができなかった。嫉妬のような、悲しみのような、諦めのような。
「さて」まといが携帯を取り出して開いた。画面が明るく発光して、暗さに慣れた目には明るすぎて痛むほど眩む。
准が薄目を開けて見たまといの携帯の待ち受けは、担任の糸色望だった。画面のこちらを正面から見て、笑っている。いつも望の後ろを付けているまといが、いつ撮ったのだろう?
画面のデジタル時計が秒単位で時間を刻んでいた。午後二時半に近い。
「久藤君、春からメアド変わってないよね」
「あれ? いつ教えたっけ」
「連絡網に書いてあったよ? じゃあ、私のアドレス知らないんだ」
「ごめん、多分入れてないと思う」
准も、ジーンズのポケットから携帯を取り出した。
「久藤君の私服ってそんななんだね」
「変?」
首もとの広めに開いた灰色の半袖Tシャツ、下はスキニーのジーンズと模様のない真っ白なスニーカーを履いている。ベルトとスニーカーの紐だけ真っ黒で、目立つ派手さは無いが、色味がふっと目に残る恰好だ。
「ううん、似合ってるよ。お面が無かったらね」
携帯を弄っていた手を止めて、まといが准に顔を向けて笑った。二つの機械から放たれる鮮烈な光の中で、白い顔が陰影を濃くして笑顔を作っている。影の濃さと対象に、儚く見えた。
「私、今まで好きな人しか見てなかったから」
まといの顔は准の方を向いているが、二つの目はどこか遠くを見ていた。狭い狭い木造校舎の天上と床の隙間。
「でも、こうなってから、色んな物を見たり調べたりしたわけ」
そのうち、准の携帯の画面から光が消えた。画面を開いた後、何も操作していなかったからだ。
真っ直ぐに光るまといの双眼が、明るさを半分に失った。
「先生以外の人の私服なんて、どうでもよかったんだけどね……今だって、別に、どうでもいい。だけど」
黒目は准の方を見ている。だけど眼球全体の光が、揺れた。
「他の人や物を知ると、もっと愛しくなるの。もっと。先生ならこう、先生にならこう、先生にとってはきっとこう、先生のためなら、こう……」
少女の瞳に、涙が浮かんだ。
「先生を助けるためには、こうするしかないって」
「それが常月さんが出した答えなら、僕にはどうすることもできないけど」
「久藤君じゃなくても、誰にも、止められないわよ。私は先生への愛に導かれてるの」
そしてまといは、悪戯っぽく笑った。
「火をどうにかするって言ったね」
「ええ。私の集めた情報によると、隣の校舎には火薬……校舎を炎上させるための罠が仕掛けてある」
「それを?」
「恐い顔しないでよ。どうすることも、できないって自分で言ったじゃない」
准は自分の顔を自分の掌で撫でた。険しい顔をしていただろうか。そんな風に表情を作る理由など、自分では思い当たる節も無い。怒っているわけはないし、彼女の作戦が上手く行くかどうか、焦っているのか?
「鬼って、寄生してる本人が死にかけたり、死を覚悟したりすると出て行くじゃない。だからあいつらを殺したいなら、素早く躊躇わずに、取り憑かれた人間を始末しないといけない。そうじゃないと近くにいた人間を新しい宿主にするから」
それは鬼という存在を知る者にとっては、周知の事実だ。准もそれを利用して加賀愛に取り憑いた鬼を打とうとしたし、まといが鬼を得たのもその性質を利用して、だ。
「でも逃げ出す時、周りが火の海だったどう?」
まといはより一層声を潜めて、ずっと一人で考え続けていた答えを打ち明けた。酷い、陰惨な考えだ。
准の目尻の垂れ下がった温厚そうな目が、薄闇の中で大きく見開かれた。
「そんな、何の確証もない賭のために、死のうって言うのか!?」
叫んだ本人が驚く程、大声で問い返していた。まといの携帯の光も消えている。真っ暗な狭い隙間で。
「しっ」
まといが唇に人差し指をあてて、優しく囁く。二人が居るのは校舎の中程の教室の天上の上だ。追っ手に、聞こえただろうか。
二人は息を潜めて辺りの様子を伺ったが、悟られた気配は無い。
「鬼が憑いてて、焼死した人からは鬼が出て行ってなかったりとか、そういう古い記録は見つけたの。確証がないわけじゃない」
「じゃあ、君は焼死しながら……」
「携帯、アドレス教えとくから。死ぬ間際にメールぐらい送れるわ。久藤君の携帯、赤外線使えるよね?」
准の頭の中には疑問が沸き立つ。自らの感情にすら慣れない彼には、それがどんな言葉を持ってして表現して良いのか、判らない。
携帯のキーを押して、再び光を取り戻した機械が、無感情に動作する。機械の無感情さに、彼の指も導かれる。導かれざるを得ない。指先だけが無感情になる。
「はい、通信」
まといが自分の携帯を、久藤の携帯に軽くぶつけた。
数秒経たず、画面に「受信しました」の文字が出る。二つの携帯が離れる。そしてまといが、般若の面を准に手渡した。
「じゃ、このまま渡り廊下近くまで移動して、それから私は隣の校舎に派手に走って行くから」
「僕は常月さんを止めようとする木津さんたちを、派手に足止めする」
准は出来るだけ冷静に物事を処理すべきだ、と自分に言い聞かせながら、手渡された面を再び顔に付けた。
「そんな感じで、いいんじゃない。私を追い込んだと思いこんだあいつらが、隣の校舎に火を放てば作戦成功。うまく行きますように。先生、見てるわけないけど、見てて下さい」
渡り廊下近くまで、四つん這いで這いずって移動する。膝から下と、腕が埃まみれだ。
准はまといの横に並んで、彼女の横顔を見た。廊下の天井になると、下から細やかな灯りが入り込んでくる。血の気のない顔が、下側から照らされていた。
その柔く照らされた顎の部分が、上下にカチカチと動いている。
「上手くいきますように、上手くいきますように」
そう囁き続けているようだった。次第に、はっきりと聞き取れる程の音量になってくる。
「恐くない、恐くない、恐くない、死ぬのなんて、恐くない、恐くない……」
准は足下、三階の人の気配を探った。
自分達が天井裏にいることは、勘付かれているのではないだろうか? さっき、自分が叫んでしまったのもある。今、まといが囁き続けているのもある。
「常月さん、声」
と、咎めようとして、振り返ったまといの顔を見て准は何も言えなくなった。
蝋で固められたような滑らかな肌で、これほど壮絶な表情を作り上げてしまって、彼女の心中ではどれほど色濃い絶望が精神を染め上げているのか?
涙の一滴も出ない枯れた骸で、彼女の体に循環する体液の名は何と呼ばれるものなのか。それは通常の人間の血液よりも濃い、愛欲を追い求める女の体液だ。
「私、すっごく先生のこと好きなの」
准は彼女の横顔に、埃の付いたままの指先を、伸ばした。
「先生じゃなきゃだめなの」
触れられない。愛を追う女の血は、触れるものを焼き払ってしまう程に熱い。
渡り廊下まで、あと数メートル。
「先生のためだったら、死んだっていい!」
まといは叫んだ。もう、勘付かれたって構わない。自分の考えたたった一つの方法に追い詰められて、その成功が目前に見えて、その結末を胸に抱えて、まといは叫んだ。
「でも、恐いの! どうして!? どうして、ねえ、教えてよ!」
二人の足場が、爆発した。准は片手でまといを抱えて、狭い天井裏を横っ飛びに移動する。
手製の爆弾を投げつけた、三珠真夜が空いた穴を見上げた。
「いない!」
駆けつけた、千里とカエレも見上げて叫ぶ。
准は空いた片手で床を殴りつけた。天上裏の、床。
三階の渡り廊下すぐ側、廊下の端の天上が上側から破壊された。大穴が空き、飛び降りてきたのは、鬼の常月まといと、謎の般若面。
准とまといの背後には渡り廊下、右手の廊下には千里とカエレ、真夜、左手には芳賀、木野、青山とあびる。
総員、揃い踏み。無人の教室で、無数の時計は午後二時半過ぎを指していた。
無数の瞳は交差する。女の柔らかい胸が上下する。男の骨張った肩が上下する。
チク、チク、チ、チ、クチ、チ、チク、ク、ク、チク、チク、チク、全ての教室から、時計の秒針が回転する音が聞こえる。僅かにずれ、重なり、ずれ、重なり、呼吸と、重なり、呼吸は、早まった。
砕けた二カ所の天上から欠片が落ちる。秒針の囁きでもない。人の吐息でもない。
カタン、とタイルの破片が床に衝突する音。
息が止まった。恐らく、全員の。時計の針は、止まらない。
「追い詰めたよ!」
動いたのは、カエレだった。小銃を握った腕を、勢いよく伸ばす。
真っ直ぐ先には、何がある?
カエレは引き金を引いた。今度は、躊躇わなかった。攻撃を判断したのが、自分だけではなかったから。
サプレッサーに閃光と発射音を奪われた、ズドンと響く低音の発砲音。
パアンとガラスの引き裂かれる音。准とまといの背後の、渡り廊下の窓ガラスが放射状に裂けた。
それは威嚇だ。銃声に反応してまといは体を縮めたが、その前に立ちふさがる般若面はぴくりとも動かない。
秒と間を開けず、再びカエレは小銃を逆の手に引き抜いた。両手に二丁拳銃、新たな銃口から一発、僅差でまだ熱い銃口から一発。
二つの低音が鳴り響く。
鳴る前か、鳴る後か、誰にも判別付かない速度で、准はまといを庇うように左手を横にさっと伸ばした。
二十二口径の銃弾が、左の手の平と、半袖から剥き出しの前腕にめり込んだ。十メートル近くも離れた距離では、大した威力にもならない。ましてカエレが握っているのは右がワルサーP22、左がコルトポケットと両者とも銃身が短い。よほど至近距離で撃たなければ致命傷は与えられない代物だ。
二つの小さな銃弾は皮膚を引き裂き、毛細血管を潰し、薄い脂肪を突き破り、筋肉の抵抗を受け、骨に跳ね返されて、ようやっとめり込んだのに、准が腕に力を入れると簡単にぽろりと落ちた。
落ちたのは銃弾だけではない。濃い赤の血が、手の平の皺を伝って、或いは僅かに弛んだ肘まで伝って、床に落ちた。
その赤い幾ばくかの血液。彼らを取り囲む環境で、血が流れるのは珍しい事ではない。
そう、その良くある光景の一つ。しかし彼らにとってそれぞれ大きな意味を持つ、赤い体液。
千里、カエレ、真夜は体に逆巻く正義の熱さを感じ、同じく正義を感じた青山は東池袋の裏路地で抱き始めた後ろめたさを断ち切られ、芳賀は教室で弾けた日常を引き裂く赤を再認識し、以前似たような光景を見たことのあるあびると木野の二人は、何故か今になって、以前准が話した羽のない烏の寓話を思い出した。
そしてまといの胸に騒ぐ食欲。
当の血を流し続ける准は、さほどの痛さも感じず、これなら以後の戦闘にも問題は無いと思考を冷徹に冷やしていた。
床に小さな血溜まりができあがるまでの間、准とまといが天井裏から飛び降りてきてから、数分。カエレが一言叫び、三度の銃声が鳴ったのみの短い間だった。誰も見ていない無数の時計が、午後二時四十分頃を指し示している。
時計の針は、止まらない。まといは走り出した。渡り廊下を、誰もいないはずの隣の校舎に向かって、一目散に。足が、両の足の筋肉が、これ以上ないほどの強さで床を蹴っていた。
カエレの定めた狙いの先にまといがいたのを確認する時間的余裕すらも無かったのに、准が銃弾を受け止めたのは、全くの偶然、完全に反射的な行動だった。以前のように、まといを試そうと考えたわけではない。まといが鬼の本性を捨てて、糸色望のために死に走ることを、既に全く疑っていなかった。
しかしこの赤い血は、まといの心の最後の引き金となった。
残虐な蠱惑に歯を食いしばり、息を詰めて目を見開いて自分を取り囲む全てを、見た。欲望と愛情に引き裂かれそうになる心に耐えた時、自らの望む先を明るく照らす太陽のような光を見た。
地面に這い蹲る人間という生き物を生かす、無償の愛のような太陽の火炎。
それを、見た。自らの虹彩の中に? 或いは外に? 見えないほど遠くに?
判らない。ただ、炎に包まれての死へと向き合うことに怯えていたまといの心は、体は、かつてない活力で絶望の未来に走り出した。
「逃がさない!」
女の内の、誰か一人が叫んだ。千里だ。愛用のスコップを手に、渡り廊下と校舎の境目に立っていた准に向かって突進した。
仮面の奥側で、准は向かってくる千里の背後のあびると木野に目をやった。二人と、本当に短い瞬間、目を合わせた。
そして准は踵を返す。まといは既に渡り廊下を抜けきって、隣の校舎の更に奥へ走っていっていた。
渡り廊下は、准の大股で二十歩無い。五歩目を踏み込んだ瞬間、弱い力が准の左足首を掴んだ。
白い、布製の包帯が絡み付いている。振り返ると丁度千里がスコップを高く頭上に振り上げていた。
包帯に絡め取られた左足を軸に振り返った反動で、打ち下ろされてくるスコップの柄を、左手で掴み、なぎ払う。錆色の鉄の柄に、まだ塞がっていない傷口から出た血がぬるりとぬめった。
千里、准共々体勢を崩す。千里は握っていた得物ごとなぎ払われて、渡り廊下の壁に向かって横に転がり、准は千里をスコップ奪うつもりで力を込めたつもりだったのが、血のぬめりで千里ごと投げ飛ばしてしまう形になってしまった。余った力で体が蹌踉めく。
敵は一人ではない。千里と共に走り出したもう一人が、蹌踉めいて背中を見せた准に鉄パイプを振りかぶった。
「さっきのお返しだよ!」
バアンと肩から背中の辺りを打ち付けられる。
面の下で、准は呻き声を押し殺した。
服の上からとはいえ、皮膚が擦り切れる。毛細血管から血が滲む。骨と筋肉が軋む。響くような痛みは脳髄まで駆け上がる。
だが止まれない。ここで彼らを足止めしなければ、まといの苦悩は水の泡だ。本当に火を放たせなければ。
火か。そういえば、自分はまといの調べたという話を全て信じている。鬼と火の話もそうだし、今回まといを追う側の千里達が隣の校舎に準備した罠の話とか、彼女が彼に語った内容を、全て疑わずにいるのだな、と今更ながら思った。
不思議な気分だ。背中に痛みが走るのを追うように、准の頭にその感覚は走った。
信じたかったから、信じると言いたかった。口に出しておけば良かったと今更ながらに思う。
久藤准という一介の少年は、何か大きな意志のようなものに突き動かされて、鬼と呼ばれる存在を殺して回っている。鬼は人を喰らう。人は鬼を殺す。循環する悪夢に、久藤准や常月まといや糸色望は組み込まれている。
それを断ち切ってみせると彼女は言ったのだ。自分は永遠に輪の中に留められ、抜け出せないと思っていた准に向かって。
信じたかった! 悪い賭だと判っていても、信じたかった。
断ち切る勇気を持てなかった自分を認められずに、彼女の賭に全てを預けきれなかった。もっと早くに口に出して信じていると言えていたなら、結末は変化したろうか。
少なくとも、常に目の前に餌をぶら下げられて走る馬のような無惨な生き方は、変わった。これまで彼は目の前に自ら絶望を吊して、その絶望を切り捨てるために果てしなく、果てしなく、力尽きるまで走り続ける風体をしていた。
それを今になって、背中に走る痛みの中に認識した。
無様だ。以前、木野にそんな風に言われて笑われたような、そんなことが有ったような無かったような、気がする。相談しろよ、だったっけなぁ。そんな顔するなよ、とかだったっけ。
痛みに一瞬呻いた後、ふっと仮面の奥は笑って吹き出した。それはその場にいる誰一人も気がつかない微かな時間で、微かな変化だった。
今背中を打たれた痛みなど、これまでに経験した中ではさほどでもない。
准は打たれた瞬間こそ前につんのめったものの、すぐに振り返って、獲物に武器をぶつけた反動で後ろに蹌踉めいている芳賀の、その長い武器の一端を掴んだ。今度は血に手元を狂わされないように、両手で引っ掴む。
「げっ」
武器を掴まれた芳賀が、短い言葉を嫌そうに吐き捨てた。
力比べになるか? 鉄がミシミシと軋む音をさせて、ひしゃげ始めた。芳賀の手にも相手の馬鹿力が伝わって、骨に軋む。芳賀の武器を握る両手が汗で滑り始めた。
「クソが!」
芳賀が突然手を離した。力の行き場を無くした准の両手が、芳賀の武器を奪ったまま上に打ち上がる。
両眼のために開けられた穴から覗く狭い視界が、自分の前腕で更に狭まれた時、准は右肘に針を刺したような痛みを感じた。
青山が二発目の狙いを付ける。カエレも、二丁拳銃を准に向ける。正確には、准の顔に向けて、だ。木野も同じようにナイフを投げる体勢を取っている。
准が舌打ちし、奪った芳賀の武器を振りかぶって、彼らに向かって自ら走りこんで行く。
突如、その後ろで爆発音が響いた。
爆風が准を後押しするように吹き荒れる。渡り廊下のあちら側が、灰色の煙を上げていた。ちらりちらりと炎が覗く。爆発で崩れた校舎の天井が落ちる。
終に始まった。終に、まといは追い込まれてしまった。終に、まといの策謀は成功する。終に、炎は彼女を追い込むだろう。
しかし准は振り返らなかった。この爆発は判っていたことだ。そして、信じていたことだ。
信じた先を得るためには、振り返るわけにはいかない。
渡り廊下から校舎側へ戻り、廊下左手、青山と木野、あびるの待ち構える方へ曲がる。標的に至近距離に詰め寄られ、青山は怯んで二、三歩後退した。構えていた狙いも逸れる。
准は鉄パイプを振りかぶって、青山の目前で急に後ろを向いた。
そこに芳賀と千里が迫っていた。武器の無い芳賀は拳を振り上げる。その後ろで千里は持ち手に血のついたスコップを構え、駆け足で突進してくる。
爆発音が続く。隣の校舎の様々な位置から煙が上がる。赤い火が産まれる。
その騒音の中でも、芳賀と千里の足音ぐらいは、准にも聞こえていた。
長い得物を持った分、今度は准の方が有利。振り向き態に回転の遠心力を加えて、直径五センチ越、内側に直径三センチの空洞の空いた鉄パイプが、芳賀の横っ腹を強かに打ち付けた。
つい四十分ほど前に、蹴り上げられた場所と同じだ。
准の手首に芳賀の肋骨の軋みが伝わった。しまった、やりすぎたかと気を緩ませてしまい、握り手の力が弱まって鉄パイプが手からすっぽ抜ける。
芳賀と一緒に、鉄パイプまで吹き飛んだ。後ろにいた千里が巻き込まれて、突進する足が弛む。彼らの向こう側にいるカエレと真夜は、突き飛ばされた二人に阻まれて准を攻撃出来ない。
准の背中に、また針を刺すような痛みが走った。Tシャツに穴が空き、小さな傷口から僅かばかり血が垂れる。背後の青山だ。
素早く振り向いて、面の奥から睨むと、やはりぎょっと目を見開いて怯んだ。さっきよりも後退した場所に立っている。
准は再び走った。青山は、至近距離では大した驚異ではない。そのまま無視して横を通り抜けると、その奥にあびるが肩を竦めて立っていた。さっき彼女が投げた包帯は、まだ准の片足に巻き付いたままだ。
そして木野国也。顔を隠した准の正体を承知の彼は、一応ナイフを両手に取り出して、向かってくる般若面に対して構えた。
「てめぇ、顔見せやがれ!」
中々の役者ぶりだ、と叫んだ当人は内心自惚れてみたが、周囲の誰もが、今何が正常で何が異常なのかを冷静に判断出来る状態になかったので、彼の迫真の演技などさっきから断続的に響く爆音と同じレベルの問題でしかなかった。
隣の校舎が爆発している。隣の校舎に鬼の常月まといが逃げ込んだ。隣の校舎に火の手が上がっている。目の前に般若の面を着けた若者が居る。彼に芳賀が吹き飛ばされた。千里が巻き込まれた。青山は妙な面の若者に多少のダメージを与えた。あびるは若者の足首に縄をかけた。木野は叫んだ。そこに有るだけの事実。
木野は宣言通り准の顔の辺り目掛けて、片手のナイフを振り払った。
准は走り抜ける瞬間に、背を屈めて攻撃をかわす。
木野を追い抜いた所で振り返り、腰、ベルトの間に隠していた釘三本を引き抜こうとして、それがそこに無いことに気がついた。まといと三階の階段を昇った時、罠をかわすのに使ったのだった。
表情の凍り付いた面には、食いしばった牙の如く尖った歯と、両側に釣り上がった口がある。口はぽっかり空いた空気穴だ。勿論、その奥は薄暗くてはっきり覗き見る事は出来ない。
しかしその開いた隙間で、准がしまったと歯を食いしばったのを、木野は見抜いた。
「食らえ、怪しいお面の男!」
これは、あまり上手い演技では無かった。言った当人も少し後悔したが、大見得を切った以上、間を置かずに次の動作に入らなければならない。幸い、あびる以外の当事者はさほど気に止めなかった。
木野の片手からナイフが飛ぶ。
刃が面の中心に高く付き立った鼻に突き立つ直前に、准はそれの柄を難無く掴み取った。顔に狙いを衝けると宣言した通りであったし、周りに気取られない程度に弱い力で投げつけたからだった。
木野が投げつけたのは折りたたみ式のナイフで、バネを内蔵しているために簡単に閉じたり折れたりはしない。
刃先は准の手の平よりも短く、投擲用であるために柄も刃も薄く鐔もない。軽い小さなナイフだ。
それでも、素早く逆手に持ち直し顔の前で構えると、刃先の赤い照り返しが神経を痺れさせるような威圧と緊張を抱く。白黒の刃文が、廊下の窓から入る灯りを各々別な色で反射した。
刃に反射する光が揺れる。廊下の窓から、炎に浸食されつつある隣の校舎が見えた。
休日の木造校舎、灯りは外の太陽と、燃え上がる火炎のみだ。
昼過ぎの太陽は熱気を持って窓ガラスを見下ろしているが、蛍光灯の白々しい灯りが無いとどこか薄暗い。そこに火炎の光明が明暗を行きつ戻りつしながら、彼らを照らす灯火となっている。
面の彫りの深い顔が、暗く翳ったり、仄明るく照らされたりする。
准とクラスメイト達は睨み合いながら、次の展望が見えない状況に焦りを感じていた。
隣の校舎の炎が、俄に大きくなる。真っ赤な眩しさが、真横から准の面を照らした。
薄明るい般若面の奥が、目を凝らすと見える気が、する。比較的准の近くに居た、木野、あびる、そして芳賀と青山、千里が精神に不明瞭な認識が照らし出される感覚を抱いた。
見えたのは目元、口元。隠されていない体格と髪型、服装。判らないのは顔の細部と声のみ。
木野とあびるは、元々正体を知っている。
芳賀と青山、千里が、一つの解答を見出そうと意識を混濁させた。
そして灯りを身に受けた准にも、不味い、との咄嗟の認識。正体を悟られる不覚を、予期した。
睨み合いの緊張が急に途切れた。
准が踵を返して廊下を駆け逃げ出したのだ。思惟の中に居た千里達は、予測の内で蹈鞴を踏んだ。答えを探すのに夢中で、急に逃げ出されるとは思っていなかったのだ。
准の片足にはまだあびるの包帯が巻き付いていたが、彼女が強く引くような動作を見せると、繋がった途中でぶちっと音を立てて切れた。
「あー、やっぱ駄目だった」
静かな声で、呟く。こちらも中々の役者だった。
「駄目だった、じゃ無いでしょう! 追うのよ!」
千里が叫んで、やっと周囲が動き出した。
その時には既に准の姿は廊下に無い。教室の一つに滑り込んで消えた。その教室の引き戸の上には、三年は組のプレートが吊られている。