火炎 二
掃除用具入れの上の、天上のパネルが外れていた。
「あそこから天井裏に入れるな」
教室に突入した直後に、木野が発見して指差した。視線が真っ暗な天井裏の穴に集まる。
「さっきもここから登ったのかしら」
「そうだろ」
千里が見上げて、木野が適当に相づちを打った。
「気配、無いね」
あびるが運動場側の窓に背を寄りかからせて、言った。校舎は木造だが、窓枠はアルミ製だ。夏場でもガラスとサッシはひやりと冷たい。
運動場側だから、ガラスには炎も映っていない。
「逃げたのかな」
まだ天井裏を見つめたまま、青山が頼り無さげに呟く。そうであって欲しい、というような言い方だ。
「逃がしてたまるかよ! くっそ、二回も同じとこ狙いやがって」
芳賀が横っ腹を押さえてその場に蹲る。あいたたた、と苦しげに唸る姿をカエレと真夜が見下ろした。
「その状態じゃ、仮に見つけてもまた返り討ちだろ」
呆れながらカエレが言った言葉に、真夜が頷きもせずに視線だけで同意した。
あびるが視線を窓の外に向ける。誰もいない校庭。隣の校舎の炎で、明るくなったり暗くなったりしているように見える。早めに方をつけないと、近所からの通報で消防車が来るだろう。
日が少し傾いて、現在午後三時。
あびるの手がガラス窓を横に撫でた。
「どうする?」
「ほっといて良いんじゃない? 今日の目的はあれじゃないんだし」
「木村さんの言うとおり、追いかけても仕方ないんじゃないかな。また邪魔してきたら対応する感じで」
「いーや駄目だって、あいつ怪しいじゃん」
芳賀は蹲ったまま叫んで、その反動でまた負傷した場所に響いたのか、うう、と唸った。
「わけわかんねーお面付けて、更に敵意丸出し、って態度だったしさ」床に俯いたまま言った。
「そうね、敵意を感じたわ」
千里が同意する。さらに真夜が視線を千里に向けた。同意の意味だろうか。
「でも先に攻撃したのこっちじゃなかったっけ」
「ちげーよ、俺が蹴られたのが最初!」
「あ、そうなんだ」
あびるは少しイライラしながら、時計の秒針が進む音を聴いていた。休日の教室の中で、妙に強く響く。
議論が滞る。先が見えない。一分、二分と時間が経過する。
「それに彼、鬼を庇ったわ」千里が呟く。
あびるはまた窓を撫でて、それから千里の方へ視線を向けた。
千里の向こうには廊下側の窓がある。教室のその窓のさらに向こうに、廊下の窓がある。廊下の窓からは隣の校舎が見える。
千里の背後に火炎が見えた。
「鬼を庇ったのなら同じ鬼でしょ」
「まといちゃんの関係者とかじゃないの。前、元彼がストーカーしてくるとか話してたし」
「それなら庇うのも筋が通るな」
これに同意したのは木野だけだった。
「それなら、やっぱ敵じゃん」
机に掴まって、芳賀がやっと立ち上がる。
時計の針が進む。
「もしそうなら、隣校舎に逃げたまといちゃんを助けに行く筈よね」
「行ったんじゃないのか? あそこから」
カエレが天井を指差して、また視線が天井裏の穴に集まる。
あびるだけは千里の後ろの火炎を見ていた。
「追いかけましょう。ちょっと危険だけど、こっちは火薬を仕掛けた場所は判ってるんだし」
千里の言葉に、真夜が瞬きをして僅かに頷いて見せた。
「追いかける、ねぇ」
カエレが隣の校舎の方を見て、嫌そうな顔をした。
校舎はまだ全てが炎に包まれたわけではない。焼け残った場所を、まといは逃げ惑っているだろう。逃げ回っているうち、追い詰めらて校舎から出られなくなる。そうなるように、千里と霧、真夜が協力して火薬の場所を定めたのだ。
だから千里と真夜の頭の中には、まといの逃げ道と炎の逃げ道がシミュレートされている。
完全に安全ではないが、危険の少ない場所は判っているというわけだ。
「まあ、仕方ないか」
「追いかけるなら急いだ方がいいね。芳賀、どうする? 残る?」
「行くに決まってんだろ」
「決まりね」
議論が長引いたために、時計の針はかなり進んだ。
千里を先頭に、教室から皆が出て行こうとする。真夜とカエレは早足の千里と同じ速度で、青山は芳賀に肩を貸しながら少し遅れて、そしてその後ろに渋々といった感じで木野とあびる。
「あ」
「どうしたの、木野君」
「あそこから出てきて、後ろから襲撃されるって可能性あるんじゃね」
また天井裏の穴を指差す。全員が後ろを振り返る。結果、あびるの背中に視線が透かされる。
「確かに、そうね」
千里が手を顎に当てて、考え込んだ。ゼロ以上の可能性を計算する。
「あそこじゃなくても、別な場所から出てきて死角から攻撃される可能性があるわ」
「あ、じゃあ私、この校舎に残る」
あびるがさっと手を挙げた。まだイライラしている。議論が長引く、時計の針が進む。
彼と自分の目的を果たすためのチャンスと時間的猶予が無くなる。
「校舎見回って、異常あったら連絡するから」
「一人で大丈夫?」
「やばかったら逃げる。小森さんもこの校舎にいるし」
千里とその他が視線を交わして頷きあう。一言二言、誰かと誰かが議論を交わす。
それからあびるに向かって木野が、
「任せた!」
と妙に意気込んで言った。千里やカエレも、何も言わなかったが頷いて同意を示す。
それでやっと、あびるを除いた全員が教室を出て行った。
彼らの後ろ姿が見えなくなるまであびるは動かず、警戒して廊下まで出て行き、辺りから完全に人の気配が無くなるのを待った。校舎内に響く足音が消えて無くなるまで警戒を解くことができない。
また時間が経過する。時計が、午後三時二十分を通り過ぎた。
そしてようやくあびるは大股で三年は組の教室の中を横切り、さっきまで寄りかかっていた窓を素早く開いた。
開いた窓のすぐ下を見下ろす。
「で、どういうこと?」
あまり表情には出ないが、言葉には棘が立った。
苛立ちは時間の経過もそうだし、相手が自分の理解出来ない行動を取っていることにも、訳の判らない焦燥を抱いていた。何も知らされていないのが、どうしてだか判らないが悔しかった。
窓から見下ろした校舎の壁に、人間が張り付いている。あびるを見上げているが、表情は判らない。
あびるは手を伸ばして、彼の付けている面を取り上げた。
「小節さん、あの、フォローして貰ってごめん」
准だった。右手を窓枠の出っ張りに、左手を校舎外側を伝う空調機のパイプの節目に、ぎりぎり引っかけて、教室の外側に張り付いて隠れていたのだった。
「後で木野君にも言っといて。多分、木野君の位置から手見えてた」
「ほんとに? やだな、また貸し作ったみたいで」
指の力だけで全体重を支え続けるのは、辛い。准はもう三十分近くもこの体勢でぶら下がっている。
わざと目に付くように、掃除用具入れ上の天井のパネルをずらしたのは良かった。千里たちの注意をそちらに上手く引きつけることが出来た。
しかしまさかあんなに長話をして行くとは思わなかった。
途中でもう下へ降りてしまおうかとも思ったが、彼らの動向も気になったし、何より、
「ていうか窓もちょっと開いてたし」
あびると何回も目があった。あびるは何気なくガラスに触れるふりをしながら、数センチ開いた窓を閉じたり、校庭を見るふりをしながら眼球だけが下を向いて准を睨んだりしていた。
何となく、逃げるに逃げられない。結果、こんな不自由な体勢で窓の外にぶら下がり続けることになった。
「で、どういうこと」
やはり言葉に刺が出た。
ぶら下がり続けた疲労と、夏場の暑さで准の肌に汗が湧いては垂れる。ついでにあびるに睨まれて、冷や汗まで出た。
「上、上がってからでいい?」
「好きにしたら」
あびるが冷静に返す。手を貸すかと思ったら、黙って立っているだけだった。
「ごめん、もうちょっと窓開けて、後ろ下がってもらって、いいかな」
さすがに准も息が上がってきて、言葉が跡切れ跡切れになってきた。
変な状況だ、と思いながらあびるは言われたとおり窓を開けるだけ開いて、後ろに下がった。
准は窓枠を握っていた指に力を入れて握り直し、パイプを握っていた方の手を離して片手になった。
その手で素早く窓枠を教室の内側まで深く掴むと、「はっ」と息を吐くと共に身を縮めて壁を蹴り、窓枠の下よりも高く飛び上がり、今度は上側の窓枠を片手で掴んで教室内へ飛び込んできた。
目測を誤ったのか、後ろに下がっていたあびるのすぐ目の前に着地する。
息の掛かりそうな距離で立ち上がって、何歩か後ろに後じさった。
あびるの肺の中に、むっとするような汗の臭いが強く残る。
准は肩で息をしている。妙に人間的だ。あびるには、教室で話をする時のクラスメイトと変わらないように見えた。
それが妙なのだ。
最初にあびるが般若面をつけた准を見たのは、六月の雨の日の事だった。一家三人惨殺事件が起こったあの日のことだ。大雨の降る道を帰宅するその道すがら、件の事件の有った家から准が飛び出してくるのを見た。
その直後、同じクラスの糸色倫の声が家の中から聞こえたような気がして、今のは自分の知り合いでもあるのではないかと思ったのだ。
相手はあびるに気がつかなかったが、風采や同じ学校の制服を着ていたこと、走り去る姿から准だったのではないかと予測が付いた。
その後、加賀愛の事件の時に鎌を掛けてみて、予測が当たっていたことを知る。
そして東池袋の裏路地で再び般若面を目撃し、その正体に確信を持った。
しかし、しかしだ。あの般若面の無機質な風貌と様相、刃を向けあって対峙した時に感じた冷徹な存在感、そういったものと今目の前で息を整えている相手とが結びつかない。
窓の外にぶら下がっているのを見つけた瞬間からだ。
相変わらず表情の判らない面を着けてはいたが、必死な様子と些か間の抜けた対処に、あびるには急に彼が人間に戻ったかのように思われた。
それが妙だ、変だ、と思わせる要因。また焦燥の要因。普通の人間の方の久藤准については、友人として知っているつもりだったが、無機質な方の久藤准が一体何なのか判らない。
判らないことに苛立った。
つまり知りたかったのだ。総合すると久藤准という少年は、あびるにとって正体不明の存在すぎたから。
「何でまといちゃんを庇うの? 鬼、なんでしょ」
「それは」
准が深く息を飲み込む。乱れた息を整える最後の一呼吸だ。
「約束したんだ、常月さんと」
「約束?」
あびるは准の背後に太陽の光を見る。傾き始めた初夏の太陽が、白く眩しく光指す。背後の火炎よりも強く熱い光。
「久藤君がまといちゃんを守るって?」
准は答えに詰まった。彼はまといの企てを助けているに過ぎない。彼女の命を守ろうとは、していない。
「そう、なるね」
准は、真実とは真逆の返答をしながら、矛盾を多く胎みすぎた自分の行動に寒気のようなものを覚えていた。
暑い。背後から西日の強い光を浴びる准の全身の皮膚から、汗が吹き出す。
こんな気温の中、寒気なんてものではない。不安定な精神の心臓を鷲掴みにされるような衝動。
准は平時と殆ど変わらない表情をしている。だが、その暗い双眼の配置された顔の中心よりも僅か上、眉間に僅かな皺を寄せ、奥歯を堅く食いしばっているのを、あびるは見て取った。
僅かな違いがわかる程、二人は近い距離に立っていたのだ。
表情の変化、息の荒さ、汗の臭い、それらが准が人間である証明であるかのように、あびるの五感に染み着いて残る。
先日目撃した、相手を機械的に殺傷する般若面と同一人物であるとは思えない。
「どうして」
理由、の問い掛けに、再び准は返答に窮した。
彼がまといを助けるのは、まといが見つけたいという鬼を殺す方法を知りたいからだ。まといを見殺しにしても、その方法を知りたいと考えてしまっているからだ。
それは、それは良い。それは彼女が自分で選んだ道なのだから。
しかしそのまといの行動が、担任の糸色望のためであるというのを、あびるに告げて良いのかと慮った。
あびるも望に思いを寄せているはずだし、それ以前にあびるは望が鬼であるかも知れないという疑いを知らないはずだ。
彼がまといを殺さずにいられる理由は、もう一つ、ある。あびるに告げることが出来るのは、その一つしか無い。証拠もないが、それを告げるしかない。
「常月さんは鬼だけど、彼女は誰も殺していない」
「嘘」
「嘘じゃない。そう約束したんだ」
准はまといを監視していた訳ではないから、それが本当に真実なのかどうか判らない。
だがついさっき、最初の爆発の直前に、彼女を信じることに決めたのだ。乾いた蝋人形のような彼女の横顔が、准の記憶に蘇る。
「じゃあ、あの一年生を殺したのは誰」
「彼女は他殺じゃない。自殺をしたんだ、そう言ってたじゃないか」
「誰が?」
「風浦さん」
あ、とあびるが呟いた。准に言われるまで、記憶の内から事実が消失していたことに、たった今気がついたという風に。
「思い出した。そうだ、可符香ちゃんが自殺だって言ってた」
「首を吊って死んでたんだ。血を抜かれたのは、その後」
「でも、それも確証無いよね。死んでから血を飲んだのかも知れないし」
誰が、とはあびるは言わなかった。同じクラスの生徒が死体に唇を這わせている様を想像して、流石に吐き気が込み上げる。
「いや、鬼が喰ったのなら、噛み千切られた跡が残るはずだ。それに血は完全には抜き取られていなかった」
「鬼だったら」
「可能な限り吸い上げる。一カ所の傷口で足りなければ、噛み跡は複数残る。それでも血液が残っていそうなら、死体を解体してでも腹が満たされるまで喰い続ける。首吊りの死体は原型を留めていたはずだから」
「も、もういい」
耳を塞ぎたくなるような血なまぐさい単語の羅列、そこからイメージされるグロテスクな映像に、あびるは首を振って抗議した。
「判った、信じる。誰も、その……被害者、が居ないんだったら、こっちも大義名分がないし」
「ありがとう」
准は頷いて、それから火炎が少しずつ浸食していく隣の校舎に目をやった。
「でも、どうするの? もう私一人が説得しても止められない」
「助けに行くよ」
言いながらまた矛盾だ。まといの手助けには行くが、まといの命を助けには行かない。
ただ彼は、火炎が彼女を焼き殺す前に、他の方法で殺害されるのを妨害するだけ。
「千里ちゃんたち、呼び戻そうか」
「いや、いい」
彼女らが一所に集まっている方が、妨害もし易い。
「やっぱり、さ」
教室から出て行く准に、あびるが後ろから声をかけた。
准は彼女から手渡された黒い般若面を、再び面に付けつつ振り返った。
「鬼だとしても、誰も殺してない人殺すのって、良くないよね。加賀ちゃんの時も思ったけど」
それは懺悔にも似た響きだった。無邪気な鬼ごっこを省みて、人倫の見解に基づいた一つの正しさ。
しかし、准には、自分が責められているかのように聞こえた。
何しろ、彼はこれからまといの自殺を幇助しに行くのだから。
隣の校舎の三階の窓から、炎の隙間を走り抜ける赤い人影が見えた。
まといだ。准は面の奥から、死に向かって走る彼女を見上げた。走る彼女が妙に近くに居るように感じた。
記憶の浅い部分から蘇る、彼女の蝋造りの横顔。既に死ぬことを決めてしまった彼女の肉体は、人間の外枠だけを保った屍蝋に似ていた。
その肉体が叫んだ。愛する人のためなら死んでもいい。だのに恐い。愛する人のためなのに、恐れるのは何故か。
准にはその疑問の根幹から末端まで全て理解できない。何故愛する相手のために死ねるのか。何故死を恐れるのか。そもそも心から愛するというのは何だろう?
ただ、走り抜ける彼女の決死の顔を遠く見上げ、その決意を信じることを決めた腑の意志の突き動かす方へ、准も走った。正しさがどこにあるのかは、判らないままに。
渡り廊下が破壊されてしまっているから、一度校舎の一階まで降りて、外に出てから隣へ移らなければならない。
准がまといを見掛けたのは、二階から一階へ下りる階段の途中、駆け下りた階段向かいの廊下の窓をふと見上げた時だった。
また階段を下りる。電灯のない昼間の薄ら暗い靴箱の辺りで、准は足を止めた。
止めざるを得なかった。
「久藤君」
靴箱の影から、少女の声に呼び止められたからだ。
少女は真夏だというのに、全身を毛布で覆っている。
「助けに行ったって、もう無駄だよ」
「小森さん」
准は自ら面を上にずらして、険しく尖らせた表情を相手に見せた。周囲に、彼女以外の気配は無い。
准を待ち構えていたらしい霧は、吐息だけの密やかな声のない笑いを、面に浮かべている。しかし顔の殆どを覆う長い髪の間から見える双眼の光は、笑ってなどいない。
燃えている。真っ赤に、火炎の色に燃えている。
「いつ、気がついた?」
「何に?」
「全部」
「全部は、知らないよ」
「君が知っている全部だよ」
もどかしい。彼女が准の足止めをするために話を長引かせようとしているのは判りきっているのに。
「そんなことより、久藤君は正体を知られたら困ることでもあるの?」
「判った。あの時だ。常月さんが鬼になった時、君は偶然近くの教室に引きこもっていて、僕と常月さんの会話を聞いていた」
「盗み聞きとかじゃないよ。偶然。ねえ、正体、隠したいの?」
「出来ればね。誰にも話さないと約束してくれたら、嬉しいんだけど」
「何で隠してるの?」
「小森さんには関係のない理由でだよ」
「じゃあ、私に知られても困ってないんだね」
准の眼光が鋭くなる。正体を知られるのが最も厄介な相手は、理由は判らないが敵視されている糸色倫だ。小森霧は糸色倫の兄、糸色望と事実上同棲している。
情報の経路が近い。
いや、既に倫だけではなくても、千里や芳賀らに知られても、面倒なことになるのは目に見えている。般若面という人物は今や久藤准とは完全に切りはなされた人物として認識され、そして彼らに敵と見なされている。
クラスメイトとしても霧は情報の経路が近すぎる。その上、彼女はもう既に味方じゃない。准がまといの側に居る限り、そして彼女が思いを寄せる糸色望に殺意を向けている限り、霧は准と敵対するだろう。
「困る? じゃあ、誰にも話さないって約束してもいいけど」
「条件は」
「判りきったこと、訊くんだね。ねえ、もう邪魔しないでよ」
「それは、常月さんを殺すことを、だよね」
霧の瞳の炎が、黒い髪の艶に紛れて、揺れた。
吐息が溢れる。これは笑い声ではない。
「そう」
一呼吸の間があって、霧は肯いた。
「そういう話なら」代わりに、准が笑った。眉を顰めて自嘲するような浅い笑い。「僕はこれから彼女を殺しに行くんだ」
「え?」
霧が目を瞬かせる。
「今日彼女と話をして結論を出したんだ。先生を救うためだなんて体の良い言い訳、信じられるわけないじゃないか。やっぱり彼女は死ぬしかない。鬼、なんだから」
「そ、そうだけど」
「で、僕は自分の手でしっかり息の根を止めないと納得がいかない性分なんだ。だから自分で殺しに行く。これで、小森さんの条件を呑んだのと同義だよね」
薄ら笑いながら口から出任せ、あびるに吐いたのとは真逆の嘘。彼は作り話ばかりが上手くできて、自分の感情の向かう先がどこにあるのか、何を正しさと認識しているのかも判らない。
やはり駄目だ、まだ無様だ。迷う様を、自ら意識の中で自嘲した。
「信じられないよ」
「いいよ、今は信じなくても。結果的に常月さんが死んだら、信じてくれればいい」
「死んだら……」
霧の虹彩が光って彷徨った。
この校舎の入り口からは、隣の校舎が見えない。彼女たちが仕掛けた焔の光も、届かない。薄暗い中に立ち並ぶ靴箱の影が、影の中に影を作っている。
死んだら、ともう一度霧は口の中で繰り返し呟いた。
准が平然と口にした、死という単語に覆い被さる薄い膜を感じる。霧が考えていた結末と同じ意味なのに、彼が口にしたらそれは自分の認識とは薄い隔たりがあるように、思えたのだ。
小森霧は生体である。恐らく、死体に変質してしまうまでにはまだ猶予があるだろう。長い長い猶予があるだろう。自分ではそう思っている。
だから死なんて遠く非現実的だと認識する。軽々しく口にしてしまうのも、馬鹿馬鹿しいと思うぐらいの遠くにあるものだからだ。
しかし、霧は常月まといの死を計画した。そのために死体に触れた。人を欺いた。
そんな悪事を働いてまで望んだ結末は、本当に准が口にした死と同じものだったろうか?
ぞわぞわと寒くなる。この気温の中で、毛布を羽織っているのに、霧の臓腑に不快な寒気が泉のごとく湧き出す。
准の騙りは、時々こうやって他人の精神を不安に陥れる。
時計が三時半を指差した。
「他に条件は無いよね」
霧はびくっと体を震わせて、息を呑んだ。
彼女に答えがないことは判っている。准は頭上にずらしていた面を下げ、立ちふさがる彼女の横を通り過ぎた。走るでもなく、殊更遅くもなく、日常と同じ速度で。
そのまま靴箱の並びを抜け、校舎の出口へ差し掛かる。夏の日が黄色く射し込んでいる。
霧はその背中を見ながら、歯を食いしばった。今更、どうして心が怯える。他人の血でぬかるんだ足下では、もう後戻りなんてできない。血の付いた両手は、いくら洗っても元通り綺麗にはならない。
「待て!」
精一杯、叫んだ。
両足が何日かぶりに、地面を強く蹴る。羽織った白布をはためかせながら、霧は走った。
般若面が振り返る。両眼に開いた穴からでは、横の視界が酷く狭いだろうことを霧は直感的に理解できた。神経が尖っている。
片手を毛布の一端から外し、相手に向かって強く差し出す。恐らく視界の範囲内にちらつく位置まで、ギリギリの計算。
完全に相手が振り返る前に、霧はもう片方の手で布を翻した。相手の視界を全て奪うように、その頭部へ布を覆い被せる。
どうしてこんな破壊衝動を覚えたのか、霧自身にもよくわからなかった。准は霧と同じ目的で行動しているのだと聞いたばかりなのに。
思うのはただ不快だということだけだ。腹の底から寒気が昇り、攻撃の衝動を押さえきれなかった。
何に対しての寒気なのか、何に対しての破壊衝動なのかも判らない。
ただ、確かに目の前に居る異形に恐れを覚えてはいた。だからか? そんな自問自答をする余裕すら無い。
理性の介入する余地もなく、相手を壊すために次の手を考える。
すぐ近くの靴箱の並びの隙間から、隣の列へ移った。准と霧は鉄製の靴箱の列を隔てて、対峙する。
校内で生活している霧は、この部分の靴箱と床を打ち付ける釘が錆びて、壊れそうになっているのを知っていた。
錆びた釘は折れやすい。だからといって、それを折る程の力が自分にあるかどうかは判らない。そもそも、そんなことを判断できる冷静さが今の霧には無い。
それでも霧は渾身の力を込めて、靴箱を蹴りつけた。
こんな時は、人間は平時よりもずっと強い力を出してしまうものだ。
一クラス分ぐらいの靴箱が、向こう側にぐらりと倒れる。その反動で、霧は後ろに転んだ。後ろも鉄製の靴箱だ。背中と頭を強かに打ち付けて、一瞬目の前が白く輝いた。
轟音。同時に、霧の頭の中がゼロになる。
靴箱が土埃を舞い上がらせながら倒れた。煙たい。細かい土が咽に引っ掛かって、霧は何度か咳き込んだ。尻餅を付いたまま、立ち上がることができない。
足と頭と背中と喉が痛い。咳き込んでいる自分が、一体何者なのかも判らなくなるような、意識の混濁。痛みが体中に拡散していくのと反比例に、思考が晴れ始めた。
意識の明瞭は眩い光を見るのに似ている。そういえば、広いガラス張りの校舎の入り口からは、眩しすぎる陽光が射していた。
その陽光の中に誰か立っている。混濁した意識の内では、それが誰だか瞬時には判らなかった。
准だ。動き慣れていない霧よりも、いつも走り回っている准の方が当然動きが早い。霧がいくら不意を突いた攻撃をした所で、全くの無駄だったのだ。
霧が隣の靴箱の列を蹴りつけた頃には、准も元居た靴箱の列から抜け出し、倒れる鉄の塊を悠々とかわしていた。
准は何も言わずに霧へ近寄り、半ばまでばっさりと切り裂かれた毛布を片手で差し出した。
逆の手にちらりと煌めくものを持っている。刃物だ。
「ひっ」
吸い込んだ酸素が咽に引っ掛かる。以前は己が他人に向けたにも拘わらず、霧はその刃の切っ先に怯えた。座ったまま、指で木造の床を節を引っ掻き、背を後ろに躙り下がる。
面の奥の瞳と、長い前髪に隠された瞳が各々二つずつ、交わりそうで交わらない。
霧が毛布を受け取る様子を見せないでいると、准は少し屈んでそれを彼女の膝に掛けた。
お互い何も言わない。視線も交わらない。
准がもう一度、面を上に外した。顔が顕わになる。
だが、霧の顔は殆ど前髪で覆われていて、隠されている。虹彩が弱々しく光る。
やはり、交わらない睨み合いだった。一秒、二秒、数える程あったろうか。
准はすぐに面を付け直し、霧を残して校舎を後にしようとした。
「待って」と、霧が口の奥の方で、擦れた声で叫んだ。いや、声にはならなかった。
行ってしまう。そして彼女は一人、校舎に取り残される。届く筈もない手を伸ばした。
准はもう振り返らなかった。呼び止められもしなかったのだから、致し方がない。
隣の校舎に移るには、三階の渡り廊下を通るか、一旦校舎を出て裏手まで一回りするかどちらかしかない。
准は迷わず最短のルートを選んだ。校舎を右手に曲がると、炎の浸食するもう一棟がすぐに目に入る。
炎自体は、准が来た方向の遠方を集中的に燃やしている。だが、校舎の入り口は爆破された後があり、ガラスと瓦礫が積み上がっていた。
千里やカエレ達はどこから侵入したのか?
校舎の入り口は一つではない。裏に回れば幾つかの非常口があるし、一階の教室の窓を破壊して侵入することもできるだろう。
それから、まといの逃げたであろう方向へ向かったはずだ。まといはこの校舎の三階の渡り廊下を通り、しかしその後は判らない。
鋭利に尖ったガラスの破片の転がる校舎の前で、ふっと准は足を止めた。その身の奥の方から赤くなる木造校舎を見上げる。
炎がまといの命を奪うが先か、千里達がまといを殺すが先か。
前者を望むが、どちらにしろ結末は同じだった。火の粉が宙を漂い、准の目の前に至るより先に白い灰に変わった。
信じたのなら行くしかない。准は面の下で唇を噛んだ。
遠くで響く爆発音。まだまといは追い詰められている。
准は留めていた足を再び、前へと差し出した。
また、同時に爆発音。いいや、違う。頭蓋を軋み響く轟音。後頭部に痺れるような強烈な痛み。鈍器で強かに打ち付けられたのだ。
完全に油断していた。全員がこの校舎に突入したわけでは無かったのだ。
准は思わず前につんのめり、ガラスと瓦礫の山に両手をついて転んだ。
鋭く尖ったガラスが手の平、腕を突き破る。神経を連続して引き裂かれる痛覚。悲鳴を上げるわけにもいかず、歯を食いしばって耐えた。
ついた両手を利用して前へくるりと一回転し、屈んで背後へ向き直る。
片足に全体重を預けて地面を踏み直したその場所に、運悪く尖ったガラスが突き立っていた。スニーカーの薄い靴底を突き破って、足の甲へ食い込む。
白いスニーカーに赤い血が見る見る間に滲んだ。
「絶対ここ来ると思ってたぜ」
「まあ、基本ここが入り口だからね」
芳賀と青山、そして木野だった。
芳賀は准の後頭部を打ち付けた鉄パイプを肩に背負っている。鈍く光る長い棒の所々に、血の跡があった。渡り廊下での攻防の際に、手の平の傷口が塞ぎきっていないままで准が握ったせいだ。
青山は既に礫の照準を准に合わせている。この距離は、彼の得意とする射程範囲内だ。眼鏡の奥で眼球がしっかりと准の額辺りを睨んでいる。
木野だけは二人から一歩引いて、非常に複雑そうな表情をしていた。迷っている。木野はどちらかというと准の方を信用しているが、それをこの場で示していいものかどうかと、手も足も血だらけの友人を眉を顰めて見ている。
よくよく見ると、准の出血は全身に及んでいる。今現在転がった拍子に、瓦礫の細かい破片でTシャツごと皮膚を裂かれた箇所が幾つもあり、その上それまでの攻防で負った傷もある。既に血の止まった傷口も多いとはいえ、
「満身創痍だな」芳賀が挑発するように言った。「オレもまだ横っ腹が超イテェの。でもまあ、要するにこれでイーブンだろ?」
芳賀が背負っていた鉄パイプを構え直し、応じるように准も立ち上がって片足を引いた。
その拍子に足に刺さっていたガラス片が抜けて、靴底からも血がどろりと流れ落ちる。スニーカーの片方はもう殆ど完全に赤く染まってしまった。
「げっ」と、木野が言った。
それが合図になった。
准が走る。地面に転がる瓦礫やガラス片など、既にものともしない。転がる破片が靴底にめり込み、傷口の開いた足に痛みが走るが、留まれない。彼が身を挺して庇いたい死は、残る三人の追っ手の行方にも左右される。
待ち構えていたように、青山が礫を撃つ。仮面を狙った鉛球が着弾する前に、准は左手で顔を庇う。
礫は手の平を貫いたままだったガラス片の脇に中り、その衝撃で歪んだ傷口からガラスの破片が抜け落ちた。
准の視界を、己の血が塞ぐ。咄嗟に手を堅く握った。
准が瓦礫の山を飛び越えた所だ。握った手を透かして、芳賀が鈍器を振りかぶっているのが見えた。
芳賀も走って、准へ向かってくる。あと三メートル。互いに、二歩も無い。
さらに芳賀の背後へ飛び退きながら、青山が二発目の礫を撃った。的も発射口も動きながらの射的は、定規で計ったように正確にはいかない。
顔を狙ったつもりの二発目は、准の心臓の上辺りにめり込んだ。
射す痛みに准が怯む。僅かに後ろにたじろいだ瞬間、芳賀が二歩飛んだ。
剣道の上段打ち下ろしのように、脳天を狙った一撃。
しかし、左胸を撃たれて体の軸がぶれていた准の脳天には僅か逸れてしまう。右耳を引っ掻きながら、肩に堅い鉄パイプが打ち下ろされる。
骨が軋む。布越しに、肌が擦れる。この芳賀の一撃は、本日二度目だ。
知った痛み、予想の範疇無いの衝撃。撃たれた痛みは一度目ほどではない。打ち下ろされた速度とほぼ同じ早さで、准は膝を折って前屈みに屈んだ。
背を屈め滑るように前へ進み、芳賀の懐に侵入する。
准が芳賀の目前に立ちふさがった。長い得物は、至近距離では役に立たない。
般若面の窪んだ双眸から覗く真っ黒な虹彩に睨み付けられ、芳賀は息を呑んだ。その瞳孔は死体のように真広く開いている。面の影が見せた錯覚か?
その瞳の色が見知った同級生と同じだという事実を、芳賀の脳内が結論づける前に、彼の目の前は生々しい赤色に染まった。
「うあっ」
短い悲鳴を上げた瞬間は、自分の肉体の何所かが破壊されたのかと錯覚してしまっていた。
血は恐ろしいものだ。生々しいものだ。気色の悪いものだ。それは自身の肉体が破壊された時に溢れ出る、体液であるからだ。生き物はそれを恐怖する。
しかし今、芳賀の目の前に散った血は彼のものではない。
准のものだった。准はガラスの破片によって貫かれた片手を、芳賀の前で勢いよく広げたのだ。堅く握りしめていた圧力で止められていた血液が解放され、一気にはじけ飛ぶ。
飛び散った血液は、広く見開いていた芳賀の両眼へ付着する。
芳賀は意表を付かれた目潰しに両目を瞬かせ、武器を落とした手で顔を覆った。
こうなれば最早無力だ。准は青山と木野に向き直る。
木野はともかくとして、眼鏡をかけた青山に同じ手は通用しないだろう。
青山は准と距離を充分に取り、人差し指と薬指の間に礫を挟んで狙いを定めている。もう片方の手には礫の予備を幾つも握っているし、その気になれば足下の小石も武器にできる。
強力な殺傷力は無いとはいえ、准の付けている白木の面を割る事ぐらいは造作無い。
面と向かって、あちらの得意とする距離で戦っていい相手ではない。
准は迷わず踵を返し、また瓦礫の山を走り超えた。その間にも二、三発の礫が、背中と首筋に撃たれる。
傷は痛むし血は滲むが、構ってはいられない。
校舎入り口の、瓦礫と化した靴箱の欠片をさっと拾い上げると、振り向き態に青山に向かって投げつけた。
中らない。距離もあるし、投げた手が負傷した痛みで上手く動かない。だが威嚇にはなった。
准は元靴箱の間を走り回り、一時でも隠れられる影が無いかと捜すが、爆破された瓦礫の山は逆に見通しが良く、身を隠す場所もない。
いや、一本、入り口の広い戸を支える柱が、残っている。
それは准が身を隠せる程の太さは無いが。しかし、爆破によって鉄筋コンクリートの柱は罅を走らせている。
あれだ。あれしかない。引き返せないのを感じながら、准はその柱へ駆け寄った。
「どうした? 逃げるのはもう止め、か!?」
そう言いながら、青山は礫を撃つ手を止めない。准との距離を適度に保ちつつ、一定の間隔を開けて打ち続ける。もちろん狙いは顔か、首だ。
それを准は両腕で塞ぎながら、罅の間から鉄筋が覗いて見えている柱に向かって走った。そして准が柱の前に至った時、
「やるなら、やってみせろよ!」
木野がどちらとも取れるような言葉を叫んだ。その手に握った短いナイフが飛ぶ。
ナイフは准の体には中らず、足下に落ちる。木野がそう狙いを付けて投げたのだから、当然だ。
准は血まみれの足を踏みしかって、比較的傷の浅い方の手を堅く握り、引いた。
やるなら、やるしかない。信じたければ、信じるしかないのだ。
面の奥で歯を食いしばり、准は堅く握った握り拳で、力の限り柱を殴りつけた。両足をざらつくコンクリートの床に踏みしめ、足の指は靴底越しに地面を引っ掴む。
それでも殴りつけた反動で、体が後ろに派ね飛びそうになった。自身の血で足下はぬかるんでいるのだ。
いいやしかし、それよりも轟音だ。
殴りつけた一点を中心に、コンクリートの装甲が粉々に砕ける音、その内部の鉄筋の軋み折れる音。
鼓膜を激しく振動させる音の刃と同期して、准は殴りつけた拳の骨の痺れを感じた。
脳髄まで痺れていく。彼の目の前では、校舎入り口の天井部分が支えを失って崩れだしていた。
落ちる校舎の鋭く重い破片が、准と対峙する三人を隔てる。耳を劈く轟音と共に、准の狙いの通りに広い戸の上部の天井が殆ど崩れ落ちた。
校舎の入り口を塞ぐ堆い瓦礫の山。准が屈むと、向こう側からは見えなくなる。足下に落ちていた木野の二本目のナイフを拾った。
視界が狭められた青山が、次の目標を彷徨わせている。だがそれには構わず、准はその封鎖した入り口の奥へ迷わず走っていく。
「おい、どうするつもりだ!」
木野がその背中に向かって叫んだ。校舎の中は、火炎が息づいている。
先に侵入した千里やカエレ、真夜がまといを追い詰めるために所々を爆破し、内部は日常とは火炎で隔絶された混沌の金殿玉楼だ。
そこへ突入して、准は何をする?
木野の問い掛けに、准は答えるわけにはいかなかった。声を知られるわけにはいかない。
そして目的も、決して晴れやかなものではない。
少女が死ぬのを、見届けに行く。誰にも邪魔されずに命を終わらせることのできるように。
それを決心した彼女の横顔を、准は信じたかった。しかし同時に心苦しい決断だ。それこそ、本来の面を晒すのを恥じて、面で隠して行動してしまうような。
その仮面は憎しみの形をしている。
准は振り返らず、全身まだらに血を流したまま、校舎内を走った。先程三階の廊下を走るまといを見掛けた。まずは階段だ。通り抜けることの出来る階段を探して、校舎の長い直線の廊下を走る。
一階は、二階三階からの火炎を真上から浴びせられていて、廊下全てが陰陽に揺らめいて、灰が散り、この時点で酷く熱い。
入り口から一番近い階段が無事だった。そこを駆け上る。階段は最上階の三階まで繋がっている。
だが一度状況を確認するために、准は二階に上がった時点で廊下に出た。
二階の廊下は無秩序に爆破されており、廊下をさらに進むともう一つ階段があるのだが、その手前に火の壁がある。
さっきまでいた渡り廊下に近いのは、そちらの方の階段なのだが、准はやむなくそれまで登ってきた階段に戻った。二段、三段跳ばしに駆け上がる。
何秒も、かからない。全身出血も足の裏の痛みも、もうどうでも良かった。ただ熱い。段を上がる度、温度が上がるような気がする。全身から出る汗が、あっと言う間に蒸発してしまう程だ。
夏の陽光よりもずっと強い熱が、三階の廊下を支配していた。熱による蒸気と目眩で視界が歪む。
その熱さの中に、四人の少女達が立っている。一人の少女が廊下の奥に孤立して立ち、彼女の眼前で焔は激しく燃え、残りの三人との間を隔てていた。
廊下の奥に立ち止まっていた少女は、まといだ。階段から駆け上ってきた准に真っ先に気がつき、「あっ」と短く声を上げた。
はっきりとしない視界の先で、炎に囲まれた少女は泣き出しそうな表情をしているようにも見えるし、朗らかに笑っているようにも見える。
そして彼女と睨み合っていた残る三人が、まといの声で准の出現に気がついた。
刃物のような燃える瞳が六つ、勢いよく振り返って准を睨む。
千里、カエレ、真夜だ。
「やっぱり来たね、般若面!」
炎の中で、カエレが叫んだ。
彼女らはまといを追ってここまで来たは良いものの、炎に阻まれて手を下せずにいたのだろう。
「もう逃げ場なんて無いわ。二人とも――」
酷い熱さの中で彼女ら三人は准を睨む。
准は、千里が語りかけたのには応じず、まといの方へ視線を移した。
やはり泣いているようにも見える。笑っているようにも見える。
「ここまで来てくれたんだ。ありがとう」
まといも三人を無視し、准へ語りかける。炎をまたいで聞こえた声は、やはり啜り泣きのように擦れて、笑い声のように揺れていた。
准は黙し、肯いて答えた。
それを確認すると、まといはすぐに踵を返し、廊下の奥へ駆け出した。
「バカだね! そっちの階段はもう爆破済みよ」
カエレが額から汗を流しながら挑発する。金髪の細い髪が、汗で濡れてしなやかな体に絡み付いていた。
まといは元より逃げるつもりは無い。廊下の突き当たりにある、狭い小部屋に向かって走る。社会科の授業で使う教材などが収められている資料室だ。普段は鍵が掛かっているはずなのだが、今に限って何故か扉が開け放たれていた。
まといはそこに追い込まれる、かのように見せかける。
「もう、終わりだわ。残るはアナタだけ」
千里が准へと振り返った。
当然だが彼女らはまといが自ら追い込まれようとしている事実を知らない。知っていた所で、どうなる。結末は何も変わらない。
千里がスコップを構え直し、カエレが銃口を掲げ、真夜は鉄のバットを無言で振りかぶった。
熱い。まといを追い込むだけのためだった筈の火炎が、今この場にいる者全員を追い立てている。いや、この場に居ない者ですらも追い立てているだろう。
例えば、望とか。彼は三時半頃に喫茶店で可符香と別れ、大慌てで学校へ引き返している。もう、燃え上がっている校舎を目撃しているかもしれない。
残された可符香も、彼に遅れて学校へやってくるだろう。どこにあるのか判らない心が痛んでも、彼女は望を気遣わずにはいられない。
隣の校舎に一人取り残された霧もそうだ。他人よりも少し多くの情報を持っていながら、何も出来なかったあびると木野も。信じた暴力と正義の無力を知らされた芳賀と青山も。
そして何も知らない他のクラスメイト達、倫も、交や命も、知らず知らずこの火炎に追い詰められている。
その炎の実体の中で、久藤准は罪のない少女達と向き合って、両手にナイフを握った。
既に彼女たちは准にとって降りかかる火の粉でしか無いのに、ナイフの刃は鋭利に尖っている。
准は焦っていた。もう、まといの目的は達成されたも同然だ。今や彼に出来るのは、この三人を引き留めることだけだ。しかしだからといって、彼女らを長くここに引き留めるわけにはいかない。命の危険を、火炎が追い立てる。
千里達も焦っていた。ここに留まっていては、自分達の命が危ない。だけど目の前に敵がいる。何故敵対しているのか、不明瞭なままに。
妙な巡り合わせだ。最悪の状況だ。真実、意味など無いのに、各々の思い込みで刃を向け合っている。
互いに逃げ場もない。迷っても答えがない。
「いくよ」
低い声でカエレが言った。二丁拳銃の二つの黒い穴が揺れる。
准が走った。直後に、発砲音。
銃弾は准の耳元を掠め、廊下の壁に小さな穴が二つ空く。
カエレは青山と同じタイプだ。射程は広いが、あまりに間合いが近すぎると発砲し辛くなる。得物の二丁拳銃自体は、小型すぎるために至近距離で発砲しないと致命傷は与えられないのだが、その暴力的な理論と相反して、至近距離では倫理のために銃を持つ者の精神が鈍る。
今、准に間近に迫られたカエレは、その見知らぬ誰かの額に合わせた照準を、躊躇うように少し揺らした。
銃口が面にぶつかる勢いで、准はカエレに迫る。
無機物の面の下の有機物を打ち抜く想像に、カエレの正義は判断を迷わせた。
隙が生じる。
准は勢いよく拳を天に伸ばし、頭上にあったカエレの両手を弾いた。
二丁の拳銃が彼女の手を離れて飛び上がり、天井で跳ね返る。落ちた片方が、真夜の足下近くへ転がった。
真夜がそれを拾い上げる。一つの暗い銃口が、遠くから准とカエレの方を向く。
カエレが両手を打たれた痛みでその場にしゃがみ込んだ。准はそれをすり抜けて、真夜に向かって両手のナイフを投げた。
それぞれが真っ直ぐな線を描いて跳ぶが、片方は狙いが逸れて、真夜の後方の炎へ飲み込まれる。片方は、狙い通りに行った。銃口に細長い刃が飲み込まれる。真夜は慌てて握っていた銃を取り落とした。空中で暴発。
「あなた、男でしょ!? 女の子に手を上げて情けないと思わないの?」
言いながら、千里はスコップを構えて突進してきた。これも、さっき芳賀とやりあった時と同じように、本日二度目の攻撃パターンだ。全力で殴りかかってくる千里の力の強さも、知らないではない。
准は片手でスコップの柄を受け止め、膝と足の裏に力を込めて耐えた。ぎりぎり、と骨が摺り合わされて軋むような気がする。
「答えなさいよ」
答えられない。声を出して、正体を知られるわけにはいかない。いつの間にかそうなってしまった。こうして敵対してしまったのだから、いつもの教室でいつも通り生活したいのなら、もう隠し通す他道は無い。
炎に煽られた明るいこの廊下では、面の奥など見えてしまっているのではないだろうか、と准は内心不安に思った。しかし明るすぎる光は目眩ましになる。その上、この場の誰しも冷静ではない。
ただ目の前の悪意を払おうと必死だ。己が悪意だと信じてしまった相手を。
千里がスコップに力を込める。押し返そうとする准の腕の筋肉が隆起する。
力比べなら、普通に考えて男性である准の方に利がある。しかし燃え上がった火炎の中では千里も極限状態で、重たい重力が准の腕にのし掛かり、上手く払い除けられない。
その上にだ。この場で、准と対峙しているのは、千里だけではなかったのだ。
千里の影から、真夜がゆっくりとバットを振りかぶっているのが見えた。
あっと声を上げそうになる。明るい中なのに、准の瞳孔がかっと開いた。真夜が殴りかかろうとしてきていたことに対してではない。
彼女の後ろで燻っていた炎が、突如として哮りを上げて燃え上がった!
爆発!
准は夢中で千里をなぎ払い、真夜の方へと駆け跳ねる。
自分よりも一回りも二回りも小さな彼女の腰を片腕で抱き、校庭を覗き見ている窓へ向き直り、跳ぶ。空いた腕の肘で窓ガラスを破壊し、そのまま三階の窓から諸共に飛び出した。
すぐ背後に続く、爆音。准が割ったガラスが地面に落ちる。それ以外の窓も、一気に割れて後を追うように砕けて落下してきた。
准と真夜が地面へ着地するより前か後かで、千里とカエレの悲鳴も聞こえた。
真夜を庇って三階から飛び降りた准は、足の裏にじんと痺れを感じたが、それ所ではない。
腕に抱いていた真夜を地面に降ろすと、准は即座に校舎を振り返り、三階の廊下で二つの影が慌てて退却しているのを確認した。
自分の立場も不明瞭なまま、胸を撫で下ろす。
真夜の後ろで爆発が起こるのを見た瞬間から止まっていた呼吸が、今やっと再開した。
ともかくも、全員が無事だ。
まといを覗いては。准の思考はまだ冷静ではない。
熱から解放されたはずなのに、全身から汗が噴き出す感触を感じた。肌にまとわりついていた、自分自身の血が滲んで体を垂れ落ちる。
その様子を目撃した者が、あった。
二棟の校舎の間を駆け込んできて、飛び降りてきた准と真夜を見た彼は思わず叫び声を上げた。
悲鳴のように。
「久藤君!」
名前を呼ばれて、ぎょっとして振り向いた。同時に顔に手を当てる。
無い。付けていた筈の面が無い。
「どういうことですか、これは!?」
ここまで必死で走り、やっと到着したらしい望がそこに居た。肩で息をしている。
「校舎は燃えているし久藤君も三珠さんも酷い怪我をしているし」
「先生、いつから……」
「あなた達があそこから飛び降りてきてからですよ」
望が三階を指差した。
准は内心ぞっとした。面が取れたのは、いつだったのか? 爆発の衝撃で取れたのか、それ以前なのか。千里達に知られてしまったのか? でなければ、望に知られてしまったか。
どちらにしろ、真夜には知られた。が、彼女はいつも通り黙している。
再び爆音が鳴る。残った窓の破片、窓枠までもが吹き飛んで落ちてきた。
「とにかくここから逃げましょう!」
望は准の焦燥など全く意に介していないように見えた。
准は走り逃げながら、焼け焦げて破れ破れになったTシャツをはぎ取って、熔けた自分の血を拭った。血の匂いよりも、灰の匂いの方が強い。だからか? 望は血液に興味を示さない。
そういう振りをしているだけかもしれない。
望に疑いの目を向け続ける准の後ろで、真夜が低い声で何かを言った。誰にも聞こえなかった。そして彼女は、後ろ手に隠していた般若の面を校舎脇の植え込みの中にそっと隠した。
三人が校舎入り口まで駆け戻ると、木野や芳賀、青山と共に、あびるもそこに来ていた。
「先生」
「小節さん、これはいったいどういう事ですか」
「一応許可取って行動してたんですが」
「誰に、何の?」
「校舎の、こういう目的での」炎上する校舎を指差して、「使用許可」
「そんなこと、あるはずが」
とまで言いかけて、望は続きを飲み込んだ。彼女らを追求しすぎると、自分が襤褸を出してしまいそうだったからだ。
「てゆうか久藤、お前なんでここに居んだよ」
芳賀が目敏く久藤の存在を指摘した。目の回りも血の跡が残って赤く、眼球自体も充血して赤い。
准は上半身の服は今までの攻防で破けて捨ててしまった。そして全身は傷だらけ、血だらけ、痣だらけだ。芳賀からは見えていないが、背中には彼が殴りつけた跡が青く残っている。
存在を怪しまれるのも当然だった。
「あー」と、あびるが呆れ返ったように言った。
もう諦めたら、とでも言いたげだ。
「いや俺が呼んだんだよ。みんなに言うの忘れてたけど、人数は多い方がいいだろ? でもこいつ、バイトがあるから遅くなるとかって言ってさぁ」
木野が早口に言い繕う。
「バイトって、何やってるの?」
と、青山。彼も怪しんでいる。
「家の近くの銭湯」
嘘を言っても仕方がないので、准は正直に答えた。
「この時間に終わるんだ?」
「今日は営業開始前までのシフトだったから」
「そうそう、でそういう場合って終わるの三時半ぐらいになるんだよな? でも俺来ないかと思ってたわ。お前のことだからさ」
「おい久藤、今までどこ居たんだよ。何でそんな怪我してんだ」
捲し立てる木野を遮って、芳賀が追求する。
真実は言えない。どんな嘘を返そうか、どんな作り話が自然だろうか、いつも通りに准が偽りを語りだそうとした時、
「この校舎のなか」
真夜が、低い声ではっきり言った。
その場にいた全員に聴こえる音量だったので、皆驚いて彼女の方に視線が集中した。
「爆発から助けてもらった」
しんと、辺りが静まる。燃え上がる木造校舎の悲鳴だけが聴こえる。
「と、ともかく、皆無事なんですよね」
望の発言にも、誰も答えない。生徒達はお互いに視線を逃げ合わせて、或いは彷徨わせて、押し黙る。
「木津さんと木村さんが、校舎の中に残っています。逃げているのは確認しましたけど」
暫くの間があってから、准が答えた。
「けど?」
望の表情が険しくなる。彼は逆接の後に、あと一人の名前が続くことを知っている。
「他には、誰も来ていないのですか」
望は声を堅くし、自分が受け持つクラスの生徒達の一部を見渡した。准を初めとして、怪我をしている者が多数存在する。
今当に校舎の裏口から逃げ出してきた、千里とカエレも一部火傷や怪我を負っていた。
「先生!」
千里がその存在に驚いて、声を上げる。彼女の予定では、彼が帰ってくる前に全てが終了しているはずだった。
「あなた達で最後ですか」
望に問い詰められ、千里とカエレは臓腑を焼くような後ろめたさに駆られた。
しかし、二人は初め取り決めていたとおりに虚偽を肯定するしかない。
「そうです。この校舎に残っていた最後の人間は、私たちだけ。後は鬼が一匹残ったのみ」
「先生、鬼って知ってる? この世界には、人間を食べる鬼ってヤツらが存在するんだよ」
「そんなことはどうでもいい!」
カエレが話終わらないうちに、望が怒鳴り声を上げた。
いつもの気弱な彼らしからぬことだ。
「常月さんが、残っているのでしょう」
そして、怒りを含んだまま続けられた言葉に、准も含めて、その場にいた全員が神経を真っ白にした。
何故、望がその事実を知っているのか? 酷い後ろめたさから秘密裏に事を進めていたのに、どこから話は溢れたのか。
皆、全身の血液が冷水に取り替えられてしまったかのようだ。目の前で燃えている炎は、勢いを増すばかりだというのに。
この火炎は一方通行の暴力だ。相手は同じクラスの生徒。そこにどんな理屈を並べても、一から十まで全てを正当化できない。まして、千里を筆頭にした少女達の心の内には、いつも望の近くに居座るまといへの嫉妬が燻っていた。
それを見透かされ、氷付けにされたかのような痛みを、彼女たちは感じた。
「どうして誰も助けに行かないのです」
「だ、だって、鬼なんですよ」
頬にこびり付いた煤を払いながら、千里が弁解する。
「だから何だって言うんですか。彼女も、私のクラスの生徒です。鬼だなんて訳の判らない言葉には騙されません」
言いながら、既に望は動き始めていた。着ていた小袖を脱ぎ捨てて、縦衿の洋シャツと袴の軽装になると、千里達が出てきた裏口の方へ走り出した。
「先生!? 一体どうするつもりですか!?」千里が叫ぶ。
「誰も行かないのなら、私が行きます! 私の生徒さんを死なせはしません!」
一同は、愕然として走っていく教師の後ろ姿を見つめた。誰もが引き留めるべきと思いながらも、動く事が出来ない。
火炎はその火を放った少女達の手を離れて、もう誰に求められない勢いで燃え盛っている。その中に駆け込んでいく男の背中と火炎を同時に見ながら、生徒達の心に浮かぶのは驚愕、疑問、罪悪、沈鬱。
「どうして?」
気がつくと、その一同の間に、可符香が居た。化粧を落とし、鬘も取った、いつもの通りの可符香だった。
その可符香にしては珍しく、悲しげな表情で、ネガティブな疑問を口にした。
疑問に答えられる者は一人として居ない。
燃える校舎を見上げて、彼女は呟いた。
准も同じように校舎を見上げる。火の粉が風に乗って、頬を掠める。灰が咽に張り付き、不燃物のとろける不愉快な匂い。
何故だ? 口には出さなかったが、准も同じ疑問を頭の中で繰り返した。望が鬼だから、同じ鬼であるまといを庇うのか?
そんな理由で、火炎の中に飛び込んで行けるものか。何の得がある。
望自身は、まといが彼のために動いている事など知らないはずだ。知っていたら助けには行かないだろう。
いいや、知っていても助けに行ったろうか?
自分の生徒だから助けに行くと言った。鬼であるかどうかは関係ないと言った。利害が判らない。
自分は利害を考えてまといを見殺しにしたのだ。それを思い出して、罪悪感が轟と音を立てて准の精神になだれ込んだ。
「助けに行かなきゃ」
殆ど悲鳴のような声で、可符香が言い、走り出す。
その先に火炎が轟音を立てて待っている。
「風浦さん!」
准がその後を追う。罪悪感が彼を突き動かした。
皮膚が乾く。既に体液全てが汗となって流れ出てしまって、堅い肉と骨ばかりが乾燥していく皮の内側に取り残されているような感覚だった。
見渡す限り辺りは赤く、自分は確かに火炎に追い詰められている。
資料室の中では埃を被った地図や地球儀、古書などに火の粉が飛び、その原型を破壊しながら火炎が拡大する。開いたドアの向こうも、果てしなく真っ赤な火が波打っている。
ただ、資料室の小さな窓からは、いつもと同じ平和そうな校庭が見えていた。
火が及んでいないのはその四角い透明な枠の中だけだ。尤もここは校舎の三階だから、窓を開けて逃げることなんて出来るわけがない。
前にも逃げ道はない、後ろにも戻れない。
炎に炙られて乾涸らびていく体を両手で握り、まといは浅く呼吸を繰り返した。
眩しい火炎の灯りの中で、ただ焼け焦げて死んでしまうのは嫌だ。死ぬのが恐いのではない。もう、恐れなんて一欠片も残っていない。
意味もなく無駄死にしてしまうのだけが、嫌だった。
腹の奥底で暴れ回る自分でない何か、時代と場所によっては鬼と呼ばれるこの意志生命体がこの火炎の中でどう藻掻くのか、それを見届けない限り、これまでの行動が全て無駄となってしまう。
まといは一人でそれと戦っているのだった。
愛しい人が病に苦しんでいると知った時から、彼女がこうして孤独に戦うことは、避けられない流れだったのかも知れない。
鬼に関して過去の膨大な資料を探り、現在それに取り憑かれている者を観察し、己の体に鬼を移して、悪夢より酷い残虐嗜好に耐えながら辿り着いた答えが、結果これなのだ。炎に追い詰められた鬼は、燃焼して死滅してしまうのではないか――ただし、推論。
そこから確信を得るための危険な賭。チップは自分の命だ。勝っても負けても回収されてしまうのだけれども。
繰り返し繰り返し、残虐に焦がれる悪夢に耐えた。生まれて初めて知った、極限の飢えに耐えた。
だからこの火炎の熱さにだって、耐えられる。
まといは廊下から天井から波のように押し寄せてくる火炎を睨み付けた。
負けるものか。この火炎から逃げるものか。
でも、鬼はどうだ?
もうすぐ死んでしまう体にしがみついていたって、良いことはないでしょう。早くこの体から出て行き、そして膨大な熱量に炙られればいい。
燃え上がって消滅していく様をこの世に醜く曝せ!
それをこの目で、必ず見届ける。
まといの瞳に火炎が映る。秩序無く暴れる炎が、彼女の黒い虹彩を赤く色づけた。
その生命力に溢れた真っ赤な目が、炎に負けじと眼光を強くする。
突如、炎が膨らんだ。どこかで爆発が起こったのだ。
爆風が彼女を襲う。
熱い!
一段と強い熱がまといの全身を打ち付ける。
だが、それは一瞬だった。爆発は収束し、熱風はすっと後ろへ引き下がる。
その温度差から、微かな涼しささえ感じられた。幻のように。
その時だ。まといがふと天井へ視線を移すと、炎が歪に揺らいでいた。いや、火炎は常に歪な形を持つものだが、その炎は確かに異常な形状を成している。見ていると気分の悪くなるような、気色の悪い歪み方だ。
まといの目には、その炎の中心に両手両足を縛られ、火炙りにされてのたうち回る罪人の姿が映っていた。
確かな像が見えるわけではない。移ろう透明な炎の中心に、人の形に似た空洞が現れて見える。空洞の形もすぐに移ろい、一定ではなく、人の形から熔けたり、また人の形に戻ったりしている。
奇妙な光景だ。地獄を覗き見してしまったような気分。
さしずめ火炎地獄である。
これが、真実の姿なのか。気がつくと、体の奥底に居座っていた異物が消えている。
そういえば、熱風と共に体から何かが抜け出ていくような感覚があったのを思い出す。
では、あの燃える何かが、真の鬼の姿か。
血に対する異常な食欲も消えている。確かだ。
間違いない。まといは、終に一人きりの戦いに勝ったのだ。
歪な炎が次第に小さくなる。透明な灰が火の粉と共に舞って落ちる。鬼が燃え尽きるのを、まといは歓びと苦しみの入り交じった目でじっと見届けた。
これで仕舞いだ。自分の出来る事はもう、お終い。鬼の殺し方は判った。後は残った人にそれを伝えて、あの人を救って貰えばいい。
あの人を救えるのは私だけだったけど、救われた姿を私は見る事は出来ない。
何だか妙に胸が苦しかった。目的は果たせた筈なのに、何故だろうと自問する。ひたすらに喜べない、この気持ちは何だろう。答えは判っていても、意識の奥底で押しつぶしてしまっている。
まといは震える手で、懐から携帯電話を取り出した。
堅い無機物の四角を開くと、画面は滑らかに光って炎の赤色を反射した。これが最後の望みの糸だ。やはり何故だか胸が痛む。
震える指はぎこちなく、携帯電話のダイヤルボタンを押す。
押す。
もう一度、強く押す。
おかしい。
腕が、心臓が、体が、脳が震える。突然酷く寒い場所に投げ出されたかのように、まといの全身が震える。
画面と頭が真っ黒だ。自ら光を放つ事の出来ない真っ黒な意識と画面を、明るい火炎が覗き込んでいる。
「嘘……」
どのボタンを押しても、何も反応してくれない。俄には信じられず、まといは何度も狂ったようにボタンの上に指を叩き付けた。
壊れて、いるのだ。この高熱に蝕まれて、無理も無い。まといの肉体よりも、機械の構造はずっとひ弱だった。
これが最期の頼りだったのに。自分がこの場で息絶えても、手にした答えを外に伝える事が出来ると思っていた。それが苦痛に耐えて結びつけていた最期の望みだった。
今、糸が切れる。
まといの手から携帯電話が滑り落ちた。
脆くなったそれは、足下の床に衝突して拉げる。原型を残したまま歪に砕ける。本体と画面に走る罅。割れた隙間から見える臓物のような基盤と導線。
寒い。ここは酷く寒い。全身から体温が奪われていく。涙も出ない。血液も乾ききった。心臓は凋み、脈拍は微弱になってゆく。筋肉は全て機能を放棄し、骨と骨の繋がりが断ち切られる。
まといの体を支えるものはもう何もなかった。
立っているのもままならない。燃え盛る火炎を、ぼんやりとした意識で見ている。音も、もう聞こえない。
足下に落ちた機械のように、自分も崩れ落ちて砕けてしまうのだと思った。真っ黒に塗りつぶされた感情の中で。
この感情の名前をよく知っている。
愛しい人が何度も口にしていた。
何所までも続く真っ暗な闇の中で、声にならない声で叫び続けるような感情。
ここは闇ではないのに、まといの心はその感情に支配されている。
だけどそれも致し方のないことだ。もう全ての望みは絶えたのだから。
泣きもせず叫びもせず、まといはゆっくりと死に向かおうとした。どちらにしろ、そうなると判ってはいたのだが。
だけど、ああ、違うだろう。こんなつもりではなかった。本当なら、大切な人のために何かを成せた歓びの中で死に行くはずだった。こんな、光の差さない暗い絶望の中で、火炎に飲まれてしまうはずではなかった。
心が震える。悲しみで震える。何の望みもない瞳が、絶えず逆巻き続ける火炎を見つめた。
まといが意識を手放そうとしたその瞬間、赤い炎の向こうに白い人影が浮かんだ。
幻? ああ、幻であってもいい。意識に白い光が射し込む。微弱な電気がまといを撃った。
見覚えのあるシルエットが、こちらに向かって廊下を走ってくる。まだ遠くて、はっきりと認識する事はできないが、彼女がその人影を見間違えるはずがない。
絶望の中で焼けきってしまいそうだったまといの体と精神が、力強く鼓動を打った。
熱い空気を一つ吸う間に、彼は近付いてくる。まといの目の前の炎が不安定に揺れ、その隙間を裂いて、真っ白い手が彼女に向かって差し伸べられた。
幻じゃない。
「常月さん!」
それは糸色望だった。
火炎を切り裂いて彼女の前に現れたのは、彼女がひたすら愛し、救いを望んだその男だった。
「先生、どうして」
死んでいくばかりだと思っていた体に、急に生気が戻ってくる。
その命の輝きは微弱だが、それでも確実に、希望が彼女の体を繋ぎ止めた。
「助けに来たのです。あなたが校舎に取り残されたと、他の生徒から聞きましたから」
炎に包まれ、崩壊しつつある校舎の中で、一人の生徒を探して回るのは容易い事ではなかったはずだ。服は焼け、皮膚のあちこちに火傷を負っている。
「先生、私は」
「話は後です! 逃げますよ!」
望は熱さに顔を歪めるが、それでも彼女に向かって力強く手を差し伸べる。
これは、死に際のまといが見ている都合の良い夢ではない。
彼女の意識は逆に強く覚醒しつつある。一度は感じられなくなっていた炎の明るさ、熱さ、燃える校舎の悲鳴が、再び彼女の五感を刺激し始めていた。
「先生、私のために来てくれたんですね」
心が震えた。
「そうです。当たり前でしょう」
「当たり前」
心が熱い。精神に火が灯される。弱い声で、望の言葉を繰り返した。
本当なら、彼がここに来てしまってはいけないのだった。まといが望んだのは、自分の命を犠牲にしてでも彼を救うことであり、こんな所で彼の命を脅かしてはいけないのだ。
火炎の中で望が死んでしまっては元も子もない。
だけど、既に今となってはそんな事前の目論見などどうでもよかった。
望が自分を助けるために、ここに来た。命の危険を冒してまで、手を差し伸べてくれる。
それだけで良かった。
「嬉しい」
心が震えるのは、今度は絶望と悲しみのためではなかった。
希望のためでもない。望みは経たれたままだ。しかし、彼女の心は熱く満たされていた。
涙が落ちる。
「常月さん?」
「私、嬉しいんです」
全ての体液が枯れ果ててしまったと思っていたまといの体から、涙が湧き出る。体の中心から湧き出した清い雫が、心臓を満たし、咽と唇を瑞々しく潤し、顔をの中心を溯って、両目からこぼれ落ちた。
「こんな時に何を……」
「だって私、いつも好きな人の背中を見つめてばっかりでした。先生だってそう。いつだって、私が先生を追いかけてた」
涙は頬を伝って、床に落ちる。
火炎に飲まれて直ぐに消えてしまうけれど、その雫は消える直前まで清んで美しく光っていた。
「なのに、今日は初めて、先生の方から来てくれた。それが嬉しいんです、先生」
まといは涙を流しながら、炎の中で花のように綺麗に笑った。
全てが満足な結末ではないけれども、彼女の心は満たされている。そうでなければ、揺らめく炎の中で美しく微笑んではいられない。
そしてその心のままで、まといは目を閉じた。