嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』 002
彼女が一体何者であるのかという話は、まあ、ゆっくりと。 まずは取り残された一人の部屋で、おれは生真面目に宿題に手を出していた。少し時間を稼ぐつもりで。
深夜一時半。片田舎のこの町では、この位の時間になると外には誰もいない。少ない街灯はそれよりも数の多い街路樹や元々生えている街路樹とは呼びがたい植物の覆いかぶさってくる勢力には全く無駄な抵抗で、要するに真っ暗。
こんな時間に外出するのは不良と犯罪者と相場が決まっている。どうせ外に出ても遊ぶ場所なんてないし。田舎っていうのはそういうものだ。
しかしながら、あーちゃんは、一人でふらふらと外に出ていった。
不良か犯罪者かのどちらか。
彼女は犯罪者の方だ。
点けっ放しのテレビでは、色っぽい女子アナが低い声で最近起こっている事件のあらましを説明している。
こんな平和な田舎でも、たまには陰惨な事件が起こったりする。
「今朝、早朝の五時頃、付近の住民により発見された女子児童の体の一部とみられる物体ですが、検死とDNA判定の結果現在行方不明となっている××ちゃんの左足と判明し……」
彼女が原稿に視線を落とすたびに、白いブラウスの胸元から谷間が見える。きっちりした黒スーツを着ている割には、ブラウスのボタンは開放的だ。今、このニュースを見ている男なら誰でも、事件の内容なんてものよりも彼女の胸元の方が重大な問題だろう。暗いニュースだからか知らないが、一つ前のどこかの島でのうどんによる村おこしのニュースよりもうつむき加減で喋っているから、カメラに映る肌が余計に気になる。ブラジャー見えそう。
そんなことを考えていると、彼女の読み上げる原稿の内容まで色っぽいような気がしてくるから、不思議だ。
見えそうで見えない谷間と年端も行かない幼女のバラバラ死体と白いレース(多分)のブラジャー。これがフィクションなら興味を惹かれる。
倒錯の世界ですか。
「一昨日発見された腕に続き、××ちゃんの安否は……」
片腕と片足のない幼女がまだ生きていると信じているやつは、果たしているのだろうか? 親ですらもう、判ってるだろう。
そんな暗い話を艶かしい美女が詳細に報道しているという、深夜のニュース番組の構成に問題がある。この事件で猟奇的な性癖に目覚める少年も一人ぐらいはいるに違いない。
おれは別にそうでもない。
「××県××市での連続児童誘拐殺傷事件は依然として解決の糸口は見えてこないようです。現在も行方不明のままとなっております、児童二名の安否が気遣われます」
気休めの嘘だ。
もう一人はともかく、次々と部品が発見される一人の方は、安否なんて判り切ってる。気遣っても意味が無い。
痛ましい彼女の表情も、非常に誠実な嘘。イメージ戦略は大事。何しろ最近結婚したばかりの彼女の夫は、次の衆議院総選挙に出馬するつもりだからだ。
誰でも簡単に嘘をつく。悲惨な事件に対する感覚は嘘じゃないかもしれないけど、この女性アナが同情を誘うような表情で事件を解説した背景には、当然いくらかの嘘がある。
嘘と本当の境目なんてわからない。というのがおれの持論。嘘つき、です。
さて、そろそろ追いかけた方がいいかな。
全然進まない宿題は机に広げたまま、おれはソファーから立ち上がった。外は少し肌寒い。特にストーキングなどという静かな行為では体は温まらないことが予想されるので、ジャケットを羽織って行くことにした。
宿題はできるだけ早く帰ってきて、それからやることにする。これは自分に対して、体の良い嘘。
あーちゃんはこのぐらいの時間になると、錯乱する。暗闇の中が非常に苦手らしい。当然ながら、そのトラウマの形成には過去の犯罪被害が一役買っている。
暗闇が怖い。ありがちな傷跡。なぜかおれはそうでもない。似たような状況にあっても、壊れ方は様々。
彼女の異常な錯乱の一部始終が知りたいのなら、教えてあげよう。ここのところのストーキングの成果により、おれはあーちゃんの生体にとても詳しくなっているのだ。
ともかく、地球上のこの辺に夜が来る。暗くなる。室内に蛍光灯。一人暮らし(昨日まで)の一軒家、あーちゃんが使っているのは真っ白な一部屋だけ。白い部屋に蛍光灯の強烈な光。雨戸は閉め切っている。隙間から侵入する暗闇。金属製の雨戸が閉められているのに、夜とか朝とかわかるわけないって? それが、ずっとそういう部屋にいると判るようになってくる。慣れってやつで。
夜が来ると知れたら、夜が怖い少女は、当然の成り行きで恐慌状態に陥る。具体的には自傷癖とかが出る。一度、住宅街の人気のない道のど真ん中で、持っていたスコップで自分の頭を殴り始めた時には本当にどうしようかと思った。もちろん尖った部分で。衝撃的な血まみれ事件だった。当たり前だけど通りすがりのフリをして止めて救急車を呼んだ。その夜は曇りで星も月もなく、その上周囲の数少ない街灯が、ついたり消えたりしていたのが原因だったんじゃないかと思う。
でも毎日夜が来るたびに、そんな風に壊れていたんじゃ、社会復帰なんて到底できない。彼女はきちんとした手順を踏んで精神病院から退院しているわけだから、一応普段の生活ではそのトラウマに耐えることができる。気を紛らわせるとか、素早く寝てしまうとか何とかして。
そんなわけで彼女はものすごく早い時間にベッドに向かう。夕方の薄暗くなる時間には既に。
目を閉じて、その暗さは大丈夫なんだろうか。彼女にとっての暗さというのは、周囲の総合的な状況なのか、網膜に映る光の量なのか。どんなクオリアを得たら、あーちゃんは恐れるところの暗さを感じるのか? そんな深い部分の心理なんて知らないが、多分大丈夫じゃない。だからこのぐらいの時間に、一度目を覚ます。
そしてふらふらと夢遊病者のようにして外に出ていってしまう。
もちろん今日も出ていった。心配だ。またその辺で流血沙汰になっているかもしれない。既に何らかのご近所迷惑かもしれない。
だったら出て行く前に止めればいいと思うかもしれないけど、それはそれで抑圧された彼女のストレスが蓄積されてくかもしれないので、気が引けるわけだ。言い訳だけど。
深夜徘徊がここのところの彼女にとっての大きなストレス発散であるのは間違いないようなので、泳がせておく。
そして頃合いを見て、様子を見に行く。場合によっては救急車やお巡りさんを呼ぶ。彼女の脛に傷が付く前に。こんなに献身的なストーカー、そうはいないだろう。
しかしながら、ストーカーを自称するおれだが、実際のところのストーキングはこのように深夜が主であり、昼間、学校での行為はお遊び程度のものである。四六時中張り付いているわけでもないし、無限FAXもしないし、携帯の着歴を自分の番号で埋めることもしないし、ドアの前に鳩の死体を置いたりもしないし、望遠鏡は持ってないし、カメラ持ってないし、はっきり言ってストーキングその筋の方から言わせればヒヨッ子以下である。未熟者めとの謗りも甘んじて受けなくてはならない。正しいストーキングの作法のご指導もいただこう。とはいえ、おれはちゃんと理性に基づいて言い返すだろう。「でもそれって犯罪ですよね」
そんな未熟なストーカーではあるが、あーちゃんの最近のお散歩コースは把握済みだ。だから慌てることはない。でもちょっとゆっくりしすぎたかもしれない。実はあの女子アナの大ファンで、おれの起こした凶悪事件をニュースで解説してくれるのを楽しみにしていたのだ。まあ嘘なんだけど。
あーちゃんは閑散とした住宅街を出て、閑散とした駅前を通りすぎて、また別な閑散とした住宅街へ向かう。田舎だし深夜だから閑散としてない場所がない。
あーちゃんが住んでいる住宅街は、新興の住宅街だった。十年前に、新しく計算された美しい住宅街という計画で開発が始まったらしいけど、未だに入居者が少なくてマンションも、建売の一戸建ても土地も余っている。それはおれにとって好都合だった。
おれはそんな閑散とした住宅街から、最寄りの駅に向かう。これはあーちゃんが通ったであろう道をなぞっている。途中で追い越しちゃうと面倒なので。
最寄りの駅は徒歩で三十分ぐらいかかる。かなり急いで三十分。あーちゃんが家を出たのが、おれが家を出る二十分前。駅を通過するより前に、とりあえず追いついておきたい。
やっぱり少し出遅れた。走れば追いつくだろうけど、深夜に走っている少年は結構目立つと思うので、自重する。
駅前のスーパーを通過。夜十時で閉まるスーパーには全く人影というものはない。この少し先に、二十四時間営業のファミレスがある。そこが最大の難関である。
何しろ犯罪者とそのストーカーなので、目撃証言にはとても弱い。有罪、無罪の分かれ道。目撃証言さえあれば、他にどんな物的証拠も必要ないわけだから。
田舎のファミレスなので、深夜に客なんていない。店内にはウェイトレスが一人と厨房に男が一人。二人は暇そうに、厨房のカウンター越しに喋っている。一応、ウェイトレスは入り口に視線を向けている。店の前を通る人間は、誰であろうと彼女の視界に入るだろう。ちょっとした記憶に残るだろう。なにしろ、夜に歩く人間なんてほとんどいないんだから。
店の少し前で、追いついた。あーちゃんは目撃者への警戒など全く頭にないようで、ファミレスの前を何の造作もなく通りすぎていく。昼間みたいに明るい一角を、薄い緑色のジャージを着た彼女が通りすぎる。それはパジャマですか?
ウェイトレスが、ふと厨房の方を向いた。何か言っているのだろう。すると厨房の男は顔を上げ、ガラス張りの店の壁から、通りの方を眺めた。物珍しく思っているに違いない。きっとこの後の二人の話題になるだろう。目撃者二人。
おれはそういうリスクは嫌いなので、素早く店の裏側へ迂回する道へ入った。表側の無意味な明るさがバカみたいに思える、真っ暗な住宅街の裏道だ。油の匂いがする。
また通りに出る交差点で、おれは少し足を止めた。建物と電柱の影に隠れて、彼女が目の前を通過するのを確認。
あーちゃんは前だけを見ていて、おれがこのような至近距離にいることには気が付かない。
そうしてやり過ごした後、おれはさらに距離を詰めて、彼女の背後を追い始める。
彼女の足取りははっきりしている。したがって夢遊病とかじゃ、ない。起きているように淀みなく行動する夢遊病患者もいるらしいけど。
あーちゃんの深夜徘徊には、目的地がある。
無言で歩き続ける彼女。無言で追うおれ。気がつくと、周囲はまた非常に閑散とした住宅街へ変わっていた。一応駅前はこの辺では栄えている場所、だ。深夜に人はいないけど。
この辺りは、あーちゃんの家がある所とはまた別な田舎具合で、畑とか林とかが小規模にいくつか点在している。並んでいる家も、大きくて古い。どの家も、電灯は消えている。幸せなご家庭は眠っている時間だから。街灯も少ない。とても暗い。幸せな人々には、夜の街灯なんて必要ない。
あーちゃんは、懐中電灯で足元を照らしながら、歩いていた。
実はおれも持ってきてる。準備がいいので。でもおれは結構夜目がきくので、この程度の暗さは気にならない。
そして彼女は、畑と古い大きなマンションと並んでいる雑木林の中へ進んでいった。
林と森の中間ぐらいの、結構鬱蒼とした場所だ。その中に入ると、もっと暗くなる。こういうの大丈夫なのかな、と疑問に思うのだが、しかし自ら向かっていったんだから大丈夫なんだろう。自分の意志じゃなくて暗くなるのが駄目なのか?
迷いなく入っていった彼女を、当然ながら追う。
あーちゃんが深夜に何をしているのかぐらい、知っている。
茫々に生えた草を掻き分けながら進む。折れた草と、土に残る足あとは、後々の犯人特定に有力な情報と為り得るだろう。彼女は無造作にサンダルを突っ掛けている。土に残った跡は、足繁く現場に通う存在を女性と断定する。その形状から、サンダルであろうと推測される。彼女のサンダルに、この林に生えた草と、同じ性質の土がこびり付いているのが、揺るぎない物的証拠となる。こうなると、さっきの目撃証言と合わさって、犯人像は形成される。
深夜に一人、夢遊病患者のように歩き回っていた少女。近所の高校の生徒。彼女自身も犯罪被害者であり、自分が経験した犯罪と同じような犯行を、繰り返しているのだ。
と、世間様に思われたら、無実を証明するのは困難を極めると思うので、証拠隠滅。
とりあえずここ数日で男の足あとも沢山つけてみた。おれの足あとなんだけど。使った靴はもう焼却済みなので安全です。しかし今日の靴は、自然な言い逃れに必要なので処分しない。
とりあえず今日の分の証拠も曖昧にしておかなければならないので、彼女の足あとの上をなぞるように歩いてみる。忍者かよ。
普通に歩いてると、あーちゃんとおれじゃ歩幅が違うんだけど、今日のあーちゃんは非常に大股で歩いているので、その点の違和感はかなり少ないだろう。
そんなことを気遣いながら歩いてると、どうも遅れを取ってしまう。結構、距離が開いてしまった。
まあ、いいか。見える範囲なら。
あーちゃんはいつの間にか、手にスコップを取っている。それは先日、夜道の真ん中で自分の頭を割るのに使っていたスコップとは違い、長い柄のついた本格的なやつだ。農家とかで使ってそうなやつ。穴を掘るには最適。
それはあーちゃんが林の中にこっそり保管している凶器っぽいものである。保管っていうか、放置してる。
あーちゃんはいつも素手で使ってるけど、この間確認したら指紋だらけだった。心優しいので拭いておいた。
ほんと、人に見つかることとか考えてないんだろうか。多分あーちゃんは破滅的な欲望を抱いているんだろう。知らないけど。
でももし、彼女のこれからの行為が、欲望の導くままのものだとすると、それは完全に破滅的だ。
道もなく、何の目印もない林の中を、ただまっすぐ強い意志で進んでいくあーちゃんの背中を追っていると、確かに彼女は何か本能的なものに頼り切っているのではないかと思う。というか本能でないなら、何を目印に進んでいるんだろう? おれの気が付かなかった手掛かり? これまであんなに細かく探しまわったのに。
おれが彼女よりも遅い速度で歩いているのは、そんなことが気になっているからだ。
あーちゃんは、その場所で立ち止まった。
昨日も今日も、同じ場所だ。そこに在るものに用があるのだから、当然。
持ってきたスコップで、地面を掘る。持参した懐中電灯は、足元に転がしている。弱い光が、足元だけを照らしている。彼女は真っ黒い、でこぼこした影になる。男も女もなく、年齢も消失し、そもそも人であるかどうかも確認できない。ただ変な生き物みたいだ。見慣れた光景。
こんな春先の夜更けでも、地面を掘り返すというのは重労働らしく、その黒い塊はいつの間にか袖をまくって、何度か額の汗を手の甲で拭った。
その作業が終わるまで、じっと待たなくてはいけない。さすがに自分で掘り返すのは面倒だ。あーちゃんがやってくれるならおまかせ。
その行動自体は面白くもなんともない。この場所も、犯人が残した手掛かりもない。何しろストーカーなので、彼女の行動の仔細を調べてある。もちろん穴の中になにがあるのかも、確認済み。見慣れたと言うか、見飽きたというか。
でもほら、犯人は現場に戻るって通説が。
もしかしたら今日かも、と思って張り込んでみているんだけど。
無意味だな。
これ以上は待てない。いくら涼しい春の夜でも、そろそろ期限切れ。最大の証拠が崩壊する。
掘り返したり戻したりを繰り返している地面は、他の部分よりも柔らかい。でも、今日の朝に少し雨が降っていたから、泥は重くなっている。掘り返すのも重労働。
そんな面倒な仕事をやってもらった直後に、意味を全部奪っていくのは申し訳ないが、しかしおれも善良な市民なので。
おれは充分離れた場所から眺めていた。そこから、草むらをかき分けわかりやすく乱暴な足取りで、その場所に近づいた。今、駆けつけたという体。
そんな演技。
息を切らしてみる。走って来た、と無言の演出。
「綾部……」
唖然と、呟く。
あーちゃんは、ぎょっと目を大きく見開いて、振り返った。
ひい、と息を呑む音が聞こえた。声は出ない。
彼女の凍りついた顔と体。暗さの中に浮かび上がる、青白い輪郭。
少し開けた場所だ。もしかしたら彼女か犯人が、草や木を少しかき分けたのかもしれない。そして彼女の足元のあたりの地面には、植物は無く、黒い穴が開いている。
転がった懐中電灯が、穴の入り口を弱々しく照らしている。
おれの手にした懐中電灯は、強い光で、凍りついた彼女の顔を照らした。
「何を、やってるんだ」
おれはまだ気がついていない。穴の中にはまだ気がついていない。彼女の背後に開いた暗い穴。懐中電灯は彼女の顔だけを照らしている。
まだ、あーちゃんは声が出ない。
短い沈黙。おれはこの幕に最適な台詞の間を図っている。
じっと上目遣いにおれを見上げる、二つの目。おれはまるでそれにたじろぐように、目玉だけ動かしてキョトキョトと視線を泳がせる。
唇が乾く。その数秒間がリアリティ。
そろそろ頃合い。
浅い呼吸を飲み込んだ。
「こんな夜中に」
と、言いながら、引きつった顔の彼女の方へ、一歩近づいた。
何も気がついていない? そんな設定、無理があるな。この異臭の中だ。息をするのも、嫌になる臭い。
しかし多分、彼女はおれの違和感には気が付かない。
彼女は犯行の途中だったんだ。まさか、自分のほうが再び被害者になるなんて考えは無いはずだ。
おれが少し近づいただけで、彼女は身を震わせた。
おれは最大でも詐欺罪ぐらいの予定。彼女は被害者。殺人罪や死体遺棄罪に比べれば、可愛いものさ。だからそんなに怖がらなくてもいいんだけど。
まあ、彼女が今もっとも恐ろしいのは、犯罪者よりも、ごく当たり前の倫理観を持った他人だろう。
おれの今の役は、それ。
「おかしいと思ったんだ。こんな夜中に出ていくから」
踏みしめた土と草が、湿った音を立てた。
「こ」
彼女の形の良い唇が、血色の良い小さな唇が、戦慄く。
「こないで、下さい」
搾り出した声で、彼女はおれを強く拒絶した。しかしそんなことを気にするようじゃ、ストーカーの名折れ。
構いもせずに、おれはもう一歩近づいた。
あーちゃんは一歩後退り。穴の淵まであと十センチ。落ちるかな?
「近づかないで下さい」
「どうして」
「見ないで」
「何を」
「は、は、はは」
喘ぐ呼吸。震える声。舌がうまく回らないらしい。そして顔面に興奮して血走った眼球二つ。あーちゃんの青白い肌に、それだけなんだかグロテスクな部品。似合わないな。
「は、話、し、かけないで、下さい」
冷たいことを言うのだが、おれは少し愉快な気分になってきた。
話しかけないでって。
へーくん、はおれなのに。
過去の事件で精神的に壊れてしまった、君が、世界から切り離され、全てへの興味を失って、無感情になった君が、例外的に信頼して甘えて愛している、へーくん。つまりおれ。
愉快に思う気持ちも判るだろう?
今の彼女はへーくんが判らない。その存在がわからない。おれがそうだと名乗って、彼女のスイッチを入れないから。
でも今は、おれは善意の他人なので名乗らない。
「不快な声で話しかけないで」
それは流石に傷つく。
もう一歩、距離を詰める。
彼女が後退り。穴の淵ギリギリ。別に落ちなくてもいい。
おれが手にした懐中電灯の光は、ここに来てようやく彼女の頬を通りすぎて、背後を照らした。
こうして事件は明るみに出るわけだ。
「あ」
あーちゃんは気がついた。何が何を照らしているのか。
開いた穴ぼこの中の、土の隙間に薄ら青白い塊。事件の重要な証拠。知らない誰かの悲劇。犯人の愛。それは肉の腐った臭いが立ち込める、人気のない真夜中の林の中にあって違和感のない物だ。
少女だ。まだ幼い。仰向けに倒れている。ピンクのスカートを履いている。二つに結んだ長い髪が、土まみれに広がっている。顔はある。だが顔はわからない。腕がない。左足もない。
悲鳴を上げようかと思ったが、やめた。
「よくも、よくも見ましたね。私の穴の中。よくも」
暗い穴の底から聞こえるような、か弱い少女の低い声。
そして彼女は後ろ手に持っていたスコップを、片手で振りかぶった。
認識から攻撃まで存外早い肉体のシグナル伝達。
渾身の力を込めて、軌道はおれの脳天狙い。
おれは反射的に後ろに飛び退いた。
鼻先を掠める錆びた鉄の塊。湿った土と、腐肉まみれの凶器。既の所で、空振り。でも後ろの木に背中を強かにぶつけてしまった。
狭い空間で考えもなしに犯罪者を挑発とかするもんじゃないな。背中の汚れの言い訳はどうしようか。
しかしこの反応は少しだけ予想外。
今後はおれも武器を携帯しようと思った。
「よけないで下さい」
「無理な注文だ」
「じゃあ死んで」
一緒じゃないか。
あーちゃんは再びスコップを握った手に力を込める。今の一撃で刃の部分が完全に土に埋まっている。
馬鹿力だ。何しろ、夜な夜な死体の埋まった穴を掘り返したり埋め直したりするような子だからね。
引きぬいて、また振り回した。今度は横薙ぎ。
どうも頭が狙われている気がする。本気で殺る気か。しかしあんまり動きは早くない。暴れ慣れてない。殺し慣れていない。人間、慣れないことはするもんじゃないな。
しゃがんだおれの頭上を空振りして、背後の木を打ち付ける。軋む音。跳ね返っていく凶器。バランスを崩すあーちゃん。
おれは立ち上がり様、一歩前へ。スコップを握る彼女の手を優しくつかんだ。
「痛っ!」
バランスを崩した彼女へ、ちょっとした追撃のつもり。おれは優しくつかんだだけなので。
それでスコップを取り落としたのは、きっと少し驚いたからだろう。多分ね。
「綾部」
乱れもつれた髪の間から、彼女はきつい目でおれを睨み上げた。
「どうする」
「触らないで下さい!」
パン、と小気味良い音がした。
いや、小気味良くなんかない。よく小説なんかで、そういう表現をされているが、実際その行為を受ける側からしたら痛いだけで全然気持よくない。気持ちいいと思うならマゾだ。
要するにつかんでない方の手で平手打ちされた。
あーちゃんは涙目でおれを見上げ、乱れた髪を両手でかきあげていた。
驚いたおれは彼女の手を取り落としていた。
唇をかんで、あーちゃんが沈黙する数秒。
涙を飲み込むように、ぎゅっと目をつむった。そして開いた両目で、またおれを睨んでから、おれの横をすり抜けるように走り抜けた。
おれは特に引き止めずに、それを見送った。
さっき来た方に、走って戻っていく。植物の影で、もう姿は見えない。取り残された。
あーちゃんはちゃんと家に戻るだろうか? 目撃者は放置でいいのか?
まあ、おれはあーちゃんを警察に突き出す気はないんだけどね。僕らが社会復帰して安全に暮らせるなら、それで。
しかし差し当たってその障害になる、その場に散乱されたままの、スコップ、懐中電灯二つ、あと死体。なんとかしようか。
おれは自分が持ってきた懐中電灯を拾い上げて、その辺の枝に吊るした。
準備のいいことに、おれは他にもウェットティッシュやライターなどの証拠隠滅便利ツールを持ってきている。偶然にも。凶器は持ってなかったけど。
何者かが暴れた痕跡は放おっておこう。地面と周囲の木に残ったもの。
通報は後片付けが済んでからだな。心が痛むけど、しょうがない。どうせ生き返りはしないんだから、ほんの十分ぐらい発見が遅れたって一緒だ。
いや、その前に。斎藤の奴に釘を刺しとこうかな。携帯が圏外じゃなければ。