盗人騒動 六

 窓からぶら下がった体を縮め、飛んできた苦無をかわす。かけ声で投げたのが判れば、造作無い。避けた序でに、ふと遠くを見やると、文次郎に留三郎、それに他の五年三人がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
「んん、何かしたか?」下から小平太が訊ねた。
「七松先輩、皆がこっちに来てます」
「ほお」
「何だか全員、やたら上を見ているような」
「皆って、雷蔵もか? 雷蔵が酒を持ってたんだろ。何故文次郎達と一緒にこちらに来るんだ」
「その筈なんですけど、おかしいな、何も持っていない」
「あ、鳥だ」
 小平太が突然空を指差した。鳥がどうした、古典的な注意の逸らし方だな、と兵助が呆れていると、空から突然水が降ってきた。
 落ちてきた水は、雨ではない。琥珀色の水で、一瞬鼻先で甘い匂いがした気がする。何より、雨なら空全体から落ちるだろう。水は一カ所にだけ落ちた。
 鳥が雨を降らすだろうか? 嫌な予感がしてきた所で、その鳥を追っていた五人が到着した。
「あっ、おい、小平太ァ! その鳥を捕まえてくれ!」
 留三郎が空を指差す。その先にはあの大鷲が悠々と旋回していた。
「捕まえろっつっても、飛んでんじゃん」
「お前も飛べ!」
「無茶言うなよ文次郎。お前が飛べ」
 騒ぎ始めた六年を尻目に、兵助は咄嗟に煙硝倉を昇り始めた。大鷲が足にあの玻璃の筒を掴んでいるのが見えた気がしたのだ。見えずとも、落ちてきた水が酒であったのだから、予想は出来た。
 壁を跳ね上がるように登る。取っ掛かりも碌にないただの白壁なのだから、捕まっていた窓から飛び、さらにその窓へ足をかけて飛び上がり、とそうする他はない。二度跳躍し、煙硝倉の屋根瓦へ手が届いた。
「こうなったら、打ち落とす他無いな」
 留三郎が片腕を空に向かって伸ばした。
「あ、ちょっと、先輩何するんですか!」
 八左ヱ門が留三郎に掴み掛かろうとする。だが、小平太と文次郎が立ちふさがって阻止した。もみ合いつつ、留三郎の攻撃を阻止しようとするが、届かない。
 留三郎の袖から細い矢が飛んだ。
「あー!」
 八左ヱ門が悲鳴を上げた。
 矢は旋回する大鷲の羽を掠め、何とか命中は免れる。
「しまった、外したか」
「中ったらどうするんですか!」
「中てるつもりだったんだ!」
「いや待て、盗品を落としたぞ」
 文次郎が指差した先を、地面にいた全員が注目した。矢に驚いた鷲が、足に掴んでいた瓶を空中に投げ出している。
 高い上空から小さな筒が落下する。落下地点は煙硝倉の屋根かその向こうか、走っても間に合いそうに無い。屋根だろうが地面だろうが、打ち付けられては木っ端微塵だ。もはやこれまでか、と皆が息を呑んだ時、煙硝倉の屋根に、兵助が飛び乗った。
 猛然と屋根瓦の上を走り過ぎり、速度を緩めることなく棟の端まで辿り着く。しかし、酒瓶が落下するのはさらにその先だった。これ以上足場は無い、だのに勢いそのままに棟の先端に踏み込んだ。
 飛ぶ。宙で空へ手を伸ばし、そのまま隣の倉の屋根へ着地した。
 両腕にしっかりと玻璃の筒を受け止めている。中身の半分程は、空で霧散してしまったが。
「でかした兵助!」
 三郎が叫んだ。
 しかし、六年二人の行動も早い。兵助の飛び乗った倉の脇に、ある仕掛けがあった。屋根の上にまで繋がる、不審な縄がある。
「馬鹿め、そこにはこいつがある」
 文次郎がその縄を力一杯引っ張った。縄の先は屋根の上にある、巨大な桶を支える留め具に繋がっている。
 その留め具が外れ、傾いた桶から勢いよく多量の水が屋根に流れ出た。
「火災用の水桶だ! 以前は煙硝倉のみだったが、先日他の倉にも設置しておいたのが貴様の運の尽きだ」
「設置したのは用具委員会だろうが」
「予算を出したのは会計委員会だ」
 瓦が濡れると、よく滑る。足下を取られた兵助は、山形の形状をした倉の屋根から勢いよく滑り落ちる。
 地面へ向かって、落下する。しかし、何とか屋根の縁に両手の指を引っかけた。
 屋根にぶら下がって、落下は免れたものの、何かおかしい。はっと気がつくと、腕に抱いていた筈の酒が無い。当たり前だ、滑った弾みでそれを取り落としていたのだから。
 再び玻璃が重力に任せ、落下。
「む、いかん。留三郎!」
「お? おう!」
 文次郎が慌てて盗品を指さし、より近い位置にいた留三郎が、それを受け止めようと滑り込んだ。
 だが受け止めるには僅かに間に合わない。滑り込んだ留三郎の拳の先に玻璃は当たり、ぽーんと宙に飛び上がった。
 さてその飛んだ先に、のっそりと現れたのは中在家長次だ。
「中在家先輩、それをトスしたり」雷蔵が言った。
 しかし長次はそれを両腕で天へ打ち上げ、
「しないで下さいね、って言おうとしたのに」
「こうなりゃお約束だな!」
 小平太が飛んできた玻璃を、軽く飛び上がりながら右手の平で叩き付けた。
 勢いよく飛んでいく酒瓶が、長次に遅れてその場所へ到着した人物の額に強かにぶち当たる。
 バリン、とそれまで聞いたこともないようなけたたましい騒音が響いた。
「き、喜八郎……」
 ぶら下がっていた屋根から飛び降りた兵助が、喜八郎に駆け寄る。玻璃が割れたと同時に、当然ながら中身が飛び散っていた。
 酒を頭からかぶった状態で、喜八郎は何度も目を瞬かせ、ぼうっと突っ立っている。流石に唖然としていた。
「大丈夫か?」
「何だか、非常に甘い匂いが」
 と言うと、突然眼球だけ上を向き、勢いよく地面に倒れた。
 うわっと誰とはなしに叫んだ。頭の打ち所が悪かったのか、と一連の騒ぎに関わった全員が冷や汗をかいたその側で、中在家長次が誰にも聞き取れないような小声でぼそっと、
「文次郎と留三郎の負け」
 と呟いた。

 医務室の厚い布団から体を起こすと、頭蓋を打ち付けるような痛みを感じた。
「頭が非常に痛いのですが」
「それは打撲と、二日酔いですね」
「二日酔い? そんなに寝ていましたか」
「いいえ、半刻ほどですよ」
 新野先生がにこにこと笑って対応した。その向こうに善法寺伊作と立花仙蔵、中在家長次もいる。喜八郎の他に怪我人、病人もなく、医務室は空いていた。
 騒動の顛末はどうなったのだろうか。訊ねようと思ったが、酷い頭痛のために言語を構成するのが億劫だった。
 額を触ってみると、包帯が巻いてあった。湿布が当てられているようで、触れた指先に薄荷の匂いが移った。
「喜八郎の一人勝ちだな」
 仙蔵が皮肉って言った。確かに、南蛮の酒を盗んだ五年も、それを召し捕ろうとした文次郎と留三郎も、結局は目的の物を得られなかったのだ。喜八郎だけが、僅かでも酒を味わう事が出来た。頭から被って、匂いを嗅いだだけだが。
 その匂いも、手に移った薄荷の匂いを嗅いだ瞬間に忘れてしまった。
「しかし、あの二人は喧嘩をしていても鬱陶しいけど、手を組んでもろくな事にならないなあ」
「確かに、伊作の言う通り。そもそも手を組んだというのも、あいつらが喧嘩で備品を壊したのが発端らしいじゃないか」
「他に被害が出る様な喧嘩はちょっとね」
 仙蔵と伊作が話し、長次が無言で頷いているその会話の内容は、喜八郎にはよく判らない。
 五年が南蛮渡来の酒を盗み出し、それを追ってきた先輩二人との間で騒動が起こったのは知っている。が、何故また文次郎と留三郎は彼らを追う事になったのか、そしてその結果どんな道理で自分の額に玻璃が飛んできたのか、それがよく判らない。しかし、積極的に追求する気持ちも湧かなかった。
「飲み過ぎには水ですね」
 新野先生が生暖かい白湯の入った湯飲み茶碗を差し出した。それを受け取り、時間を掛けて飲み干していると、廊下を走ってくる足音が聞こえた。
「小平太と、誰だ?」
「足音じゃわかんないよ」
「いや、一人は小平太だ。残りが何人か。長次、判るか?」
 仙蔵の問い掛けに、長次が首を振る。
「判らないなら、文次郎や留三郎じゃないだろうさ」
「それもそうだ。となると」
「久々知先輩達です」
 喜八郎がぼそりと呟いたのと同時に、医務室の戸が勢いよく開いた。
「ただいま!」
 戸を開いたのは七松小平太だった。
「ここは小平太の家でも長屋の部屋でもないぞ。医務室では静かにな」
「こってり絞られたか」
「いや、おれは別に」
 小平太に遅れて、五年生の鉢屋三郎が顔を出した。
「木下先生は、よくよく半刻近くも話続けられると感心しました」
「その様子では、有り難い説教も馬耳東風だな」
 三郎に続いて、竹谷八左ヱ門、不破雷蔵、久々知兵助も到着し、無遠慮に医務室へ入り込む。
「有り難いなんて事少しもありませんよ、立花先輩」
「きちんと叱ってくれる教師ほど有り難いものは無いぞ」
「ですねえ。それに、僕らは叱られるのを覚悟の上でやったんだったよね?」
「しかし結局戦利品も無かったわけだしな」
「それは運が無かったってことさ。むしろ半刻の説教で済んで良かったじゃないか」
 雷蔵の言葉に、三郎と八左ヱ門は不満そうに口をとがらせ、肩を竦めた。その様子に苦笑しつつ、兵助は喜八郎の布団の側へ腰を下ろした。
「怪我はどうだ?」
「はあ、まあ。どうも」
「平気なのか、平気でないのか」
「どうでしょう。計りかねます」
 頭痛の所為か、酒に酔っているせいか、それとも元々か、喜八郎は不明瞭な返答をした。
「変な所でも打ったかな」伊作が眉を顰めて言った。
「いつもこんな感じですけどね」
「そんなこともないですよ」
「命に別状は無いし、そんなに酷い打撲では無いから心配いらないよ。酒は脱けてないみたいだけど」
 新野先生が二杯目の白湯を喜八郎へ手渡した。
「文次郎と留三郎は?」
「まだ説教されてました」
「あいつらは自業自得だな」
 伊作が言い捨てると、三郎と八左ヱ門が声を上げて笑った。
「説教の長さからして、要するに僕らの勝ちってことで」
「そんな勝負だったか?」
「そんな勝負だったんだよ、兵助」
 八左ヱ門が言い切った。八左ヱ門の懐からは数匹の白い蝙蝠が襟元へよじ登って顔を出し、それを目撃した新野先生に苦い顔をされていた。
「趣旨が変わっているような気がするけど」
「深く考えるなよ雷蔵。ともかく勝ちは勝ちだ」
「そういうものかなあ」
「それにしても、職員室で盗みを働いて、よく半刻の説教で済んだね」
「それなんですよ、善法寺先輩。不思議な事に」三郎が医務室の床に胡座をかき、片手を床について言った。「説教の後半、どうやら僕らは誉められてたみたいなんですよね。碌に聞いちゃ居なかったんですが」
「誉められた?」
「あからさまにではないですけどね。しかし、潮江先輩と食満先輩が未だ解放されてないのに、盗んだ僕らがこんなに早く解放されるってのがまず変な話じゃないですか」
「曰く」と、それまで黙していた長次の唇が動いた。
「ええと、南蛮の書物に曰く」
 声の小さすぎる先輩の喋りを、隣に座った雷蔵が同時通訳して曰く、
「とある古い都では強盗、殺人などは重罪として処罰されていたが、追いはぎ、掏摸、空き巣などの犯罪は反って奨励され、場合に寄っては権力者から賞金が出た程だという。これはそれら盗賊の技術が他の都との紛争において非常に重要な役割を果たしていたからである」
「ほお、何所の国でも変わらんな。私たち忍も盗みの類は御法度ではあるが、帰属する集団の利益となるならば奨励される」
「立花先輩の仰る通り、だそうです。最初は先生方は僕たちが酒を盗み出したのを問題と思ったそうですが、腕前を見る良い機会だという事で――あれ、先生方は最初からご存知だったんですか?」
 長次が頷く。
「敵わないな、やっぱり」
「兵助の手際が悪かったんじゃないのか」
「お前らが騒ぎすぎたんだ」
「良く言うよ。僕らの後方支援がなけりゃ兵助の巾着切りなんて成功しなかったんだぞ」
「その後方支援が怪しまれてちゃ意味がない」
「どうなんだ、長次。しくじったのは五年の誰だ?」
 長次は首を振り、雷蔵曰く先生方は「兵助が立ち去った直後に、酒が無くなっている事に気がついた」らしい。
「それで、折角なので追っ手として潮江先輩と食満先輩を設定して、上手く逃げ切ることができるかを見ようとの趣旨だったそうです。中在家先輩は審判役だったんですね」
 やはり長次は無言で頷いた。
「つまるところ、僕らの勝ちってことだ。先輩達が未だに説教を受けているのがその証だ」
「拘るなあ、三郎」
「そりゃあ雷蔵、結局先生方には捕まったし、酒も飲めなかったんだから。一つぐらい勝っておきたいじゃないか」
「判らなくはないけどね」
「おれは先生方に上手く乗せられたような気がする」
「兵助は考えすぎだって。一応、盗みだけは成功したじゃん」
 彼らは取り留めもなくくだをまいた。
 この場に集まった八人は得に大きな怪我もないのに、喜八郎の様子を見るためだけに何とは無しに集まっていた。様子を見るといっても、重症でないことは判ったのだから、もう得にすることもない。
 喜八郎は打撲と酒の後遺症で頭痛のする頭で、そんな先輩達をぼうっと眺めていた。何杯目かの白湯を新野先生から受け取り、半分ほど飲み干したところで、再び眠たくなってきた。瞼が重い。
「さあ、用事の無い人は出ていって下さい」
 喜八郎を気遣って、新野先生が他の生徒に声を掛ける。怪我人が他にないのだから、用事の有る人間も他にない。健康な人間が居座っていては、問題だ。
 追い立てられてやっと彼らは重い腰を上げた。
「勝ち負けで言ったら、唯一酒を飲んだ人間が勝ちだな」
 気遣いのつもりか、立ち去り際に兵助がそう声を掛けた。先程仙蔵に言われた時には思い出せなかったが、今眠気の中では、あの南蛮の酒に似た、甘い匂いがあるような気がした。

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