ラビリンス・ヒーロー 001

01 ヒーロー不在の時代と、子供たちは勘違いしている

 世界で一番複雑な迷路がどこにあるのか、知っているか?
 どんなに複雑な迷路にも、解法がある。ゴールが無限に遠いのでなければ、その結末へ向かうための有効なアルゴリズムがあり、時間さえかければ解法へたどり着ける。
 例えば、右手法。左右どちらかの壁沿いにひたすら進めばいい。但しスタート地点で手をついた側の壁がゴールへ繋がっていなかった場合、永遠にたどり着けない堂々巡り。他に、有限のあらゆる迷路を解決するトレモー・アルゴリズム、最短経路を調べるオーアのアルゴリズム。
 複雑であればそれだけ手間と時間が掛かる。だけど無限でない限り、いつか終わりが来る。
 そう、時間の経過と引き替えに。三次元の迷路、立体だろうが平面だろうが、時間軸の移動を伴って解法を知る事が出来る。
 では四次元的迷路ではどうだ? 立体の三軸に加え、時間軸が加わる。時間的にねじ曲がった難儀な迷宮。時間軸の移動を伴う方法で、果たしてゴールへたどり着けるのか。
 だが迷路図を全て正しく把握出来るというのならば、もう一つ強引な解法が存在する。
 行き止まりの道を、黒く塗りつぶすのだ。二次元だろうが四次元だろうが、すぐにゴールまでの一本道を造り出す。
 そこで最初の問いだが、世界で一番複雑な迷路はどこにある?
 私の考える限り、それはここだ。生ける者の脳。私たちの思考。記憶。
 終点は何所にある? 見失った目的の記録を探るのに、これほど複雑な迷宮が有ろうか。
 しかし一体誰が、思考を黒く塗りつぶしてしまえるのだろうか。誰が記憶を排除してしまえるだろう。これから先も生きていかなくてはいけないのに。

 ここに一人の不幸な男がいる。血色の良い面構えを、これみよがしに下へ向け、注文の一品がテーブルへ届けられた事など何所吹く風だ。自然への見せかけのアットランダム木目のテーブルに、白い湯気を上げる掛け蕎麦が鎮座。私は基本的にこういう商売の存在意義が判らない。
 何でネット上で物を食うんだ。わざわざ金を消費して。
 しかし人間というのは基本物好きで、余裕が有れば無駄をしたい。余裕が無くとも無駄をしたい。最近の仮想での大流行が「食事」である奇妙さは、まあもうどうでもいい。日本経済が潤うなら娯楽が流行してもいいだろう。たった五年でここまで復旧した国、と考えると無駄な消費に走るのも全く判らないでもない。嘗ての第二次世界大戦後もそうであったように。但し、時の流れ方が大いに違っているわけだが。
 しかし復旧したと言ってもネットの世界だけだ。外に出れば汗水垂らして、瓜に包丁を当てたりしなきゃいけないわけで、何とも奇妙な話だ。私はどちらかというとネットで飯を食った気分になるよりも、現実に西瓜でも食った方が良い。もう夏も終わったが。
「食わんのか」
「そういう気分じゃない……」
「ならば何故注文する」
「……腹が減った」
 顔を上げるその動作が弱り切ったように見えなくもない。白い靄の中で虚しげに視線揺らす。如何にも良い香りのしそうな映像だが、全くの無臭だ。視覚以外の感覚は休止している。
 それにしても、腹が減ったというのは肉体的な事だ。ということは、現実の事だ。
 一体TAMURAがどうしてしまったのかというと、これも変な話で、
「どうしても、ログアウトできない……」
 のだそうだ。眉唾な話だが、これは本当の事だった。

 そもそもの事の起こりは、三日ほど前だ。もしかしたらそれより前だったかもしれないが、少なくともTAMURAがその状況を困難だとはっきりと示し始めたのは三日前からだった。良くは知らない。
 ネットにログインすると視界を介して意識全てを持って行かれる。眼球に移る世界が全てになり、意識だけで世界を移動出来る。逆に言えば身体は置いて行かれるのだ。大抵の場合、端末は使用者の肉体的負担を考えて就寝用のベッドに取り付けてある。TAMURAの家に置いてあるのも確かにその形だった。
 要するに、TAMURAは少なくとも三日間は飲まず食わずでベッドで眠り続けていることになる。そろそろ命に関わる問題かも知れない。大体目の前の衰弱しきった男を見ると、死期が近いんじゃないかとも思う。ネットに繋がったまま死亡した例というのは、そういえば戦後に限って聞いた事はない。
 そんな事が起こったら大問題だ。そうならない為に、自動的にログアウトする条件が設けられている筈だ。通常なら何らかの原因で――例えば病気、或いは肉体的に事故が起こった場合――意識を失ったら、端末は一旦データを保存した後に自動的にログアウトする。少なくとも接続しながら死ぬ事はないという事だ。
 意識を失う、というのは眠ってしまう場合や軽い気絶の際にも適応される。ということはTAMURAは、肉体的に食事を取っていないだけでなく、睡眠すら取っていない事になる。
 三日間眠らずに過ごすというのは死に至る程でもないだろうが、食事も取っていないとなれば確かに命に関わるだろう。
 とはいえ私も別にTAMURAと毎日顔を合わせている訳ではないし、やつが騙りをしているのではないとは言い切れない。
 しかしそれにしても哀れを誘う話だ。
 愛おしそうに恨めしそうに、しかし作り物のインターフェイスは飯を請うための表情は準備されていないがために単純に悲しげに眉を潜め、TAMURAは(私の考える限りは)とんでもない無駄の象徴である蕎麦を見つめ続けている。
 私に一体何を期待しているのかは手に取るように判るが、せめて頭を下げられなくては思い通りにはなりたくない。
「食わんのならば出るぞ」
 私は席を立った。TAMURAは座り込んだままだ。微動だにせずに。
 勘定は先に済ませている筈だ。私は振り返らずに店を出た。何となく、この手の店にいると腹が立ってくる。最近得にそうだ。1-ハの事件に遭った後ぐらいからだろう。
 通りからやつの座っていた辺りの席を硝子越しに見ると、丁度席を立とうとしているところだった。蕎麦は依然として湯気を立てているが、その丼を片づけに来たウェイトレス・システムは全く何の疑問も持たない様子だった。
 私は何秒かそこに留まって待った。恐らく私に泣きついて来るだろうと思ったのだ。
 しかしTAMURAはふらふらと行き先の定まらない歩き方で店内を歩いたかと思うと、何故か厨房の方へ消えていき、それきり出てこなかった。
 どうしてだろう、私のシステムはTAMURAが未だネット上にログインしている事を示しているのに、何となくやつが消えてしまったように感じた。それと同時に、私はとても異常な場所に立っているような感覚に陥った。
 幼子の頭に宿る、空想世界の精巧な迷路。

 そもそも空想というのは迷路的要素を持ち合わせているとも言える。目的無く彷徨い行く足取りは右へ左へ過去へ未来へ、思考という唯一の現実をひたすら歩きながら、どこへも辿り着けない。
 だけどそんな無意味な空想を繰り返すのは子供だけだ。だからこそ未熟であると逆説的に言える。良く言うじゃないか、人生に迷っているとか、そういう事を。戦中はそんな戯れ言を言い出すやつなんかいなかった。これは逆説的に、子供が滅んでいたと言えるだろうか?
 全くくだらない理論だ。五年前、当然私は八つの子供で、TAMURAもAYABEもそうだった。七松先輩もそうだし、他の六年目を目指す連中もそうだったろう。1-ハの本体達も既に生まれていたに違いない。
 暫く取り留めもない空想に浸りつつ、私は殆ど自動的に人形インターフェースでは実行出来ない細かい操作のためのコントロール画面を開いてTAMURAの足取りを追った。透明な青が視界の一部に平面的な四角形を形成し、その上に黒のメッセージが浪々と流れた。
 やつは蕎麦屋の厨房へ壁を突き破り突入したかと思うと、ふらりふらりと覚束無い足取りでそこら中の店の壁という壁を破壊するか空を飛んで飛び越えるか(でなければ地中へ潜ったり)して、全く作為的に見えないランダムな移動を繰り返した。
 気持ちが悪い。はっきり言って、正気の沙汰とは思えない。遂に疲労が脳へ至ったのか。そう考えている間にもTAMURAはどんどん突き進んでいく。
 その移動のパターンも、全くまともな人間の歩き方からかけ離れている。薬中だろうが泥酔中だろうが斯様に動きはしないだろう。とにかく敢えて言わせて貰えば、幽霊のようなのである。典型的な人魂の動きに似ている気がする。言っておくが私は幽霊も人魂も見た事など無い。ただ、そういうものが存在するとしたら、今のTAMURAのような動きをするに違いないと考えるのだ。
 段々本気で気味が悪くなってきたので、私は片目を瞑ってコントロール画面を閉じた。青く陰っていた街が再び原色に戻る。そうすると有りもしない喧噪が視界と聴覚を賑わして、私は一体何の理由があってわざわざこんなに不快な感覚を得ようとしたのか判らなくなった。
 帰ろう。そう思ってログアウト準備の画面を開いた瞬間、誰かからメールが届いた。

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