ずっと前に、小さな部屋で彼女は言った
私が知っているのはこの人が飢えているのだということ。私は与えたいのだということ。そればっかり考えてる毎日。理由はいくつもあるけど、シンプルに私はそれだけが生き甲斐。であることは明白である。
貴方のためだったら何だって出来るよ、ってそんなのおかしいよ。いくつもある理由のどれが本当ですか。教えて、先生。
先生は肉じゃがを満足そうに食べた。
「ありがとうございます。男所帯だと、日頃こんな手の込んだ料理しませんから」
「そんな大げさなものじゃないですよ。でも、嬉しい」
先生は喜ばしい笑顔で顔を赤くした。でも私は知っている。先生が飢えているのを知っている。
顔色、悪いなあ。ちゃんと食べてないから。
「あの」
「はい」
「今日は、交がよそに泊まりに行ってるんですよ」
「そうなんですか。また、生徒さんの所ですか?」
「ええ。それでですね、もし宜しければ……」と言い淀んで、俯いた。
空っぽの胃袋が泣いている。私の心臓はときめいた。
「やっぱりなんでもありません!」
先生は、飢えているのに。この姿じゃ、だめ?
「暗くなりました。そろそろ帰った方がいいですよ、お、送って行きましょうか」
「……大丈夫です。すぐ隣なんですから」
「あ。そう、そうですよね」
「また、何か作って持ってきますね」
「いつもありがとうございます」
唇を噛んで耐えている姿が見るに見かねないので、私は席を立った。
私が先生の家を出ると、先生は胸を撫で下ろすのだろう。私なら、大丈夫ですよ。言おうかな、言ってしまった方が上手くやれるかな。
鬘を取って着替えて化粧を落として、また先生の家の前に来た。言おうかな、何を? いちばん簡単な方法を見つけるにはどうしたらいいのかな。だぁれも教えてくれなかった。
でも飢えてる先生を見るのはつらい。心配。ちょっと無理してでも、食べてもらった方がいい。無理をしよう。先生が危なくないように、私が無理をしよう。いいえ、先生のためなら別に無理なことなんてない。
呼び鈴を鳴らした。
静かな夜。夏に入る前に鳴く虫が騒いでいる。
ややあってから、廊下を歩く足音が聞こえた。戸は開かなかった。もう一度呼び鈴を鳴らした。先生の影が戸に映った。それから、開いた。
「風浦さん」
「こんばんは、先生。おじゃまします」
「どうしたんですか?」
「先生に差し入れです」
「はい?」
私は何も持っていなかったので、先生は怪訝そうな顔をした。青い顔で。
「先生、顔色が悪いですよ」
「そんなことはありません」
「鏡」
ポケットに入っていた手鏡を先生の前にかざすと、先生は一瞬だけ泣きそうな顔をした。
「こんな夜更けに、若い娘さんが歩き回るものじゃあありませんよ」
最近、先生は私を警戒しているのだった。久藤君と一緒にいることが多いからかな。やっぱり変装のままの方が怪しまれないで良かった。でも疑われるのは、先生がそうしたいならそうして良いけど、でも少し悲しいような気がする。
「立ち話も何なので、家に入りましょうよ」
先生が困った顔をする。でも外で話しているのはとても危険です。どこで誰が聞いているか判らない。
「おじゃまします」
「はあ」先生がため息を吐いた。「あなたはいつも強引ですね」
それでも私は与えないといけないのです。
数時間前に出た部屋で、私はもう一度先生と向き合った。きちんと正座した二人は畏まった形でしばらくの間何も言わなかった。先生は俯いて目を合わせてくれない。
どうしよう。私はこの人に与えたいのだけど、やっぱりこの人は受け取らないかもしれない。
「あなたは知っていると言いましたね」
ぽつりと先生がこぼした。
「覚えていますか、五日前、図書室の」
「はい」
「知っていて、なぜ一人で私の所に来たのですか」
「なぜ?」
「なぜって、危ないでしょう……」
ぐったりと項垂れた首は疲労している。
「私は先生に食べられたってかまいませんよ」
そのために来た。そのために生きた。先生の体は小刻みに震えている。
「先生?」
突然、先生の片腕が、私の顔の前に突き出された。起きた風で髪が少し揺れて、私の視界は先生の掌でいっぱいになる。先生の顔があんまり見えない。
強く、食いしばった口元がちょっとだけ見える。
「私を嵌めようったってそうはいきませんよ。あなたも他の生徒達と同じなんでしょう?」
「違います」
「そうじゃなきゃ、わざわざ鬼に喰われたがる人間なんていません! 私があなたの首筋にかぶりついた所を証拠にして、私を殺すつもりだ……」
「先生、疑心暗鬼ですよ」
先生の手に触れた。血の気の引いた白い手。だけど暖かい。
「先生の仰るとおり、久藤君の狙いはそこです。気をつけて下さいね。気付いてらっしゃると思いますけど、一ヶ月前ぐらいから先生のことを疑ってるみたいです」
翳した手の向こうで、先生が自嘲する。
「どうせあなたも彼らの味方なんでしょう?」
「私は先生の味方です」
「見張りがどこかにいるはずです」
「この近くには誰もいません。少なくとも、クラスのみんなは二駅先まで遊びに行っています。久藤君も一緒に。一緒というか、行き先が被ったんです。どういうことか、わかりますよね。それに交君はお泊まりで、まといちゃんも数日前から姿が見えません。彼女はあの日から授業にも出ていません。私も行き先は知りませんが、先生は気になりますか? 私、探してきましょうか?」
「あなたは一体何が狙いなんですか」
「いやだなあ、先生。そんなに恐い顔しないでください」
私はただ与えたいだけなのに。
「顔色が悪いですよ。食べてないんですよね?」
痩せ細った体と不安定な精神。私はこの人が飢えていることを知っているし、私はこの人の腹を満たすことが出来るし、そうしたい。理由は細かく見ていけば幾つでも数えることができて、そのどれもが不確定で不安定。細分化した動機は霧のように心に漂う。
「どうぞ。差し入れです」
先生の口元に手を伸ばした。この手首に口を付けてくれたら、いいんだけどな。
「風浦さん」
温かい二つの掌が私の手を包み込んだ。泣きそうだ。私、先生、私は苦しくはない、嬉しい、先生は、痛ましく顔を歪める。
「少しぐらい血を吸われても、私は平気です」
どうしてこの人は、飢えているのに拒絶するのだろう。
「やめてください、……やめてください、お願いですから。どうしてですか……あなたは」
「私は」先生が私を決めてください。
「あなたはおかしいですよ。あなたの話が真実なのかどうか、判らない。嘘、吐いてるんでしょう? 信用させて、安心しきった私を、絶望にたたき落としたいんでしょう? もし真実だとしたら、あなたの意図がわからない」
「意図」先生が私に教えてください。
「そんな、心配している素振りなんか」
「心配」それは私の動機の名前ですか?
「あたなが私を気遣う理由なんて無いでしょう?」
「理由」私はその子細を知りたい。
「風浦さん、あなたは間違っていますよ。どっちにしろ、私なんかの為に危険を冒す必要は、一つもありません。この綺麗な手はもっと、心から愛しいと思える人の為に差し出しなさい」
「愛しい」それは、心の名前ですか? 私が抱いているのは、それですか?
「先生は死にます」
「そうですね」
「飢えて死にます」
「本望です」
「苦しんで死にます」
「今でも充分苦しんでいます。でも、私はそれでいいんです。信じて下さい」
「このままでは、死にます」
それはいけない。えいえんと続く命の地平に、先生は立っていてほしい。そのためだったら私は何だってできるのに。でももし、先生がそれを望まないとしたら、どうだろう?
「信じて下さい。私は、生まれてから一度も人を食した事なんてありません。もしも私の心が鬼に喰われるようなことがあれば、その時にどうぞ木津さんなり久藤君なりを呼んで、殺してもらって下さい」
先生がそれで幸せになれるのなら。例えば先生が言うように、近くに死んでしまうとしても、それとも私を選ばなかったとしても、悲しくない。
「じゃあ、そうしますね」
わたしはそれを選択するべきだから。