原罪を追って

 ふと職員室の窓から外を見ると、体育の授業を受けるうちのクラスの生徒が見えた。男子はサッカー、女子はハンドボールをしている。騒がしい。皆、教室で見るものとは違う顔をしている。
 意味もなく生徒の数を数える。暇なのだ。仕事はあるが、飽きたので暇だ。
 どいつもこいつも動き回って、正確な数が数えられない。今日は加賀さんがお休みだから、三十人いなければいけない。足りないならサボリがいるという事になる。その件で後々体育の先生から叱られるのは嫌だ。
 しかし何度数え直しても上手くいかない。人を覚えて数えてみようか? 女子から、木津さん、小節さん、三珠さん、音無さん、日塔さん、藤吉さん、倫、木村さん、小森さんが体育倉庫に引きこもっていて、三珠さん……はもう数えたか? やっぱり判らなくなった。
 ようく見ると、他の生徒のように運動していない生徒がいる。あれは風浦さんだ。教師にはばれない程度に手を抜いているらしい。でも遠目に見ればすぐに判る。
 男子は、当たり前だが女子以上に動き回っているために数えるのは無理だ。私のクラスの生徒は運動なんて出来なそうに見えるけど、こうして眺めていると中々様になっているじゃないか。
 そのうち、一人の生徒の背中が気になった。風浦さんほどあからさまではないが、どうやら彼も幾分手を抜いているらしい。運動が苦手だというわけでもないだろうに。
 一度気にし始めると、目が離せなくなった。何故だろう、最近頓に彼の挙動が気になる。そういえば、最近変な噂を聞いた。一年の女子が話していたのだ。
 と、彼が足を止めた。他の生徒はボールを追って走っている。立ち止まった背中をじっと見ていると、彼は少しだけ顔を動かしてこちらを見た。
 目が合った。
 何なんだ、あの目は。危うく椅子から転げ落ちるかと思った。
「どうしました、糸色先生」隣でプリントを作っていた甚六先生が怪訝な顔をした。
「いえ……」
 目が合うような、そんな距離じゃない。彼は校舎の方を何気なく見ただけだ。だけど目が合った気がした。
 というか、睨まれた。
 卑しい私の本心が読まれたのか? まさか私がよこしまな気持ちで生徒を眺めているとか、そんな風に思われたのだろうか。
「絶望した……」
「はは、またそれですか」
 甚六先生が笑うので、深く考えないことにした。仕事に戻ろう。
「あっ」
「どうしましたか?」
「誰か倒れましたよ。あれ、糸色先生のクラスですよね」
 続いて、女子生徒の悲鳴が聞こえた。運動場の真ん中で、生徒が一人倒れている。大騒ぎする生徒達に向かって体育教諭が笛を吹き、手際よく数人に指示を出している。
「久藤君」
 倒れたのは間違いなく、私のクラスの久藤准だった。
「ほお、この距離でよく判りますねぇ」
 男子生徒数人が校舎に向かって走っていった。体育教諭は女子生徒に向かって何か叫んでいる。騒ぐなと言っているのだろう。

 四限の授業に行くと、やはり久藤君の席は空いていた。その空間をちょっと見ていると、木津さんがさっと手を挙げた。
「先生、久藤君は三時間目の体育の授業中に倒れて、保健室に運ばれました」
「そうですか。珍しいですね、何かあったんですか?」
「知りません」
「知らねーよ!」
 小節さんと木野君が、ほぼ同時に答えた。
「なぜあなた方が答えるのですか」
「知りません」
「俺も知りません!」
 木野君は、彼と喧嘩でもしたのだろうか。いつもそんな感じだが。気になったのは小節さんだ。離れた場所で授業を受けていたはずの彼女が、知っていると言わんばかりにこちらを見ている。
 訊くのを期待されている?
「ただの貧血ですよ」風浦さんだった。
 彼女の有無を言わさぬ断定で、その話は終わった。小節さんが何を言いたかったのかは、判らなかった。

 久藤君についての噂というのは、彼の生活態度からは想像出来ないような下世話なもので、しかし根も葉もないという訳でもないらしい。
「それとなく聞いてみてはいかがですか」と、数日前に智恵先生に言われた。
 ずっとそれが引っかかっている。それとなく、と智恵先生は言ったが、内容が内容なので遠回しに言うにしても何を言えばいいのやら。だいたい、そういった話で生徒の生活に関わりたくない。面倒に決まっている。
 そう思う反面、他に何も言うことは無いな、と虚しく思う。件の噂とその周辺のいざこざを除けば、彼は絵に描いたような優等生で私が口出しすることは何もない。要するに関わる必要が本当に無いのだ。
 また矛盾するが、できれば自分の生徒であるわけだし、当たり障りのない程度には関わっていきたいわけである。
 しかし当たり障りのない理由なんて、などと日頃考えていると今日の事件だった。
 体育の授業中に倒れた。これはその絶好のチャンスではないか、と妙に勇んで来た。来て保健室のドアの前に立った途端、何で自分がそんなにも生徒の不調に喜び勇んでいるのかと不安になった。ただの貧血で倒れた生徒に、わざわざ昼休みを費やしてお見舞いになんて行かなくても良いじゃないか。よっぽど重体で無い限り、担任とはいえそこまでする必要はない。
 そこでまた件の話を思い出し、聞くとしたら今を逃して他にないと、理由を見つけ出した。
 このように鬱と躁を繰り返してしまうのは、さっき睨まれた衝撃が残っているからだろう。
「失礼しますよ」
 白いカーテンに警備されたベッドに彼は横たわっていた。顔色が少し悪い、だろうか? 遮られた陽光と白い蛍光灯の光が混ざり合って、色彩感を奪われている気がする。
「わざわざ来て下さったんですか」
 言いながら、彼は上体を起こした。手には薄い単行本が握られている。非常に彼らしかった。
「軽い貧血ですよ」
 と、保険の教諭が教えてくれた。
「珍しいですね、君が倒れるなんて。貧血持ちだなんて聞いていませんよ」
 そういう指導に関わるようなことは、クラスを受け持った時点で知っておきたかった。面倒が起きないように色々と気を遣わなければいけない。
「いつも血が足りないわけでは無いんです」
「は?」変な言い方だ。
「少し眩しいですね。カーテン、閉めて頂けませんか」
 保険教諭が開けたままにしていたカーテンの端を指差した。教諭はこのベッドからちょうど対角線上にある、自身の机に座って何やら書き物をしている。それを久藤君は目を細めて眺めた。
 おかしい。
 私か? この生徒か? どちらが異常か判らないが、私は心臓が凍り付くような感覚を覚えた。高鳴っているのかもしれない。良い感覚か悪い感覚かも判らない。
 彼はカーテンを閉めるまで口を利かないつもりらしい。これは要するに、正しくあの噂について聞くチャンスではないだろうか。冷静になるつもりで、噂の子細を思い出し、何を言うべきか考えた。滞る。カーテンを必要以上に時間を掛けて引いた。
「噂を聞きました」遂に何も思い浮かばず、そのままを口にしてしまった。
「噂?」
 冷えた表情で、彼は復唱する。仄白くなった狭い空間で彼はじっと私を睨んでいる。目を合わせようとしているだけだ。
「あまり好ましくない噂で」
 上手く喋ることが出来ず、言葉を跡切れ跡切れにしてしまう。私はこんな話をするために来たのではない、のに。
「はっきり仰って下さい」
 穏やかな声だったが、優しい物言いとは言い難い。そのように言われる筋合いは無く、無性に腹が立った。
「だから君が売りをやっている、という噂のことです!」
 しまった。あまりにも不躾だ。それに、必要以上に大きな声。今日は他に保健室の利用者は居なかったが、保険教諭には聞こえただろう。「これ以上噂を広めないように」とも、智恵先生に言われていた。
 しかし何より、私は自分の生徒に対して何ということを言ってしまったのか! 噂は噂、確定したわけでもないのに。あまりの事に今度は腹が冷えて、弁解も浮かばない。これでは彼が怒り出したって文句は言えない。
 頭に自戒ばかりがひしめき合う中、よくよく久藤君の顔を見ると、呆れて物も言えない、という表情だった。
「何の話かと思えば」笑った。「意味が判らないな。誰から聞いたんですか?」
 笑ったというのが、自嘲気味な笑いでもなく冷笑でもなく、本当におかしくて笑っているような感じで、私は酷く救われた気分になった。そうだ、彼を問いつめたかった訳ではない。
「一年の女子の間で、そういう噂があるんだそうですよ。私は、大方貴方に振られた子が有ること無いこと言いふらしてるんだと思ってますけどね」
「一年生の女子? 心当たりは無いですけど」
「でしょうね。貴方は自分で気がついていないから、相手も腹を立てるんですよ」
「そういうものでしょうか」
「そうです。まあ、噂なんて当てになりませんね。その子は実際にそういう場面を見た、だなんて言ってるらしいですけど」
「え」
「深夜の繁華街で、かなり年上に見える女性と何かをやり取りしてたって。よく考えれば、それだけでそう判断するのも」
 ふと久藤君を見ると、酷く深刻な顔をしていた。
「ひ、人違いかもしれませんしね」
 答えない。真面目腐った顔でこちらを見ている。
 まさか、本当に?
「……中々の美人だったとかいう噂ですが」
 煽るように言ってしまったのは、何故だろう。私はまた、少し腹を立ててしまったのかもしれない。でもこの言葉は本当に失敗だった。
 久藤君は感情を失ったような顔つきで静かに私を見ていた。ほんの短い間、しかし怯えて待つには長すぎる。
「彼女は死にました」
 次に彼が口にした言葉は冷たかった。もしかして、触れてはいけない話題だったのか。
「それは……」
 すみません、と言い損ねて口篭もると、久藤君は演技がかった気味の悪い薄ら笑いを浮かべた。
「良いんです。僕としても引き際でしたから。ただ、旦那と出くわしてしまったのは失敗でした。それで揉めちゃって、間の悪いことに、その日僕は技術の時間に友達から借りたナイフを持ってたんですよ」
「は?」
「過剰防衛に、なりますよね。口封じに奥さんと子供も殺しちゃったし」
 行きすぎた冗談だ。しかし行きすぎているだけに冗談にしか聞こえない。
 過剰演出のため息まで吐いて、久藤君は声色を元に戻した。
「やっぱり面白くありませんか? 先生の好きなミステリー作家なら、ここからどう持って行くんでしょうか」
 普段通りだ。
「い、いや、私はあんまりミステリーは。でも今の筋書きだと、私が、探偵役にはなれませんねぇ。真相を初めっから聞いてしまったら、推理する余地がありません」
「でも犯人の僕は嘘を吐いているんです。それを暴くという展開もありますよ」
「嘘を吐いているとしたら、何のため、誰のため? になりますね。庇いたい人間が居るとか」
「僕はこの犯行の裏で、もっと不味い真実を隠そうとしているのかもしれません」
「成る程、そういう展開もアリですね。しかしやっぱり、私は探偵役は嫌です。面倒ですし、命の危険がありますから」
「では何役がご所望ですか」
「殺す役と殺される役でなければ」
「先生らしい」
 笑った。
「所で先生、二週間ぐらい前の新聞はご覧になりましたか?」
 二週間? 記憶にあるような、無いような。何か特別な記事があっただろうか。
「それがどうかしたんですか」
 やはり少しおかしい。
「見てないなのなら……ああ、こうなると、話が続かないなぁ。やっぱり頭に血が回って無いのかな。上手くお話を作ることができません」
「そうでしょう。もう少し休んでおくべきですよ」
 血が、血が足りない。変な表現だ。引っかかる。血が。彼は血なまぐさい話をする。
「どこか怪我でもしたんですか」
「どうしたんですか、急に。倒れた時に出来た擦り傷なら、保険の先生に見てもらいましたけど」
「そんな小さな怪我じゃなくて。貴方が血が足りないと言ったのではないですか」
 血。その言葉を繰り返すな。口に出さない方が良い。血が足りないのは私の方だ。今の今まで考えないようにしていたのに、どうしたのだろう。
 そういえば、今日の朝、コンビニに出かけた時に、警察と野次馬がいて、
「大量の血痕が見つかったって」
「あ、それは僕です」
 事も無げに言う。これも変な冗談?
 嫌な冗談だ。
「転んで腕に怪我をしてしまいました」
「怪我をしてしまいました、なんて量じゃなかったようですが」
「だから、血が足りないんです」
 その笑い顔さえ不安に思える。やっぱり彼は人の心が読めるのではないか? バカバカしいことを考える。
「大怪我をしているようには見えませんよ。だいたい、救急車も呼ばずに何をやっているのですか」
「だって一人で派手に転んで、その上あの出血ですよ。恥ずかしくって」
「手当はどうしたんですか」
「帰る途中に小節さんに会ったんです。彼女が包帯とかを貸してくれました」
 そうか彼女はさっきその事を告げようとしたのか。聞いておけば良かった。知っていれば来なかった。
「じゃあ、まともな治療は受けていないんですね」
 おかしいのは、私だけか。
「どっちの腕ですか? ちゃんと手当をしないと」
 自動的に腕が伸びる。血に飢えた私は――いや、違う。私は自分の意志で彼に手を伸ばしている。単に心配だ。本当の話なら、相当の大怪我だ。放っておくわけにはいかない。
 首元、ジャージのチャックに手をかけた。
「いいですよ。大丈夫ですから」
 音の配列が耳の奧で木霊する。嘲る呼吸。
 私の手が強引にチャックを引いた。同時に彼の手が抗い、私の肩を突き飛ばした。縺れ合うようにベッドの上から私と、彼の本が転がり落ちた。
 彼はベッドの上で不自由に体を折っている。そのはだけた両腕を見る。
 傷跡一つない。
「え?」何が何だか判らない。不安になる。
 その左腕に手を伸ばして撫でてみる。綺麗な腕だ。生まれてから一度も傷ついた事など無いような腕。
 姿勢を正した久藤君が、ジャージを着直しながら声を立てずに笑った。
「冗談ですよ」
 おかしいのは、私だけ? いや、何もおかしくはない。生徒が怪我をしたと聞いて焦ってしまっただけだ。当然の反応で、仕方のないことだ。
 そしてまんまとからかわれた。
「先生は何でも真に受けますね」
 それだけだ。

 急にカーテンが開いた。
「失礼します。あら、先生」
 風浦さんだった。手に二つの巾着袋を持っている。
「久藤君、お昼食べられる? お弁当持ってきたよ」
 真っ直ぐに歩いて、私の隣に椅子を置いて座った。
 私には保健室の扉の動く音さえ聞こえなかった。彼女は不思議だ。私は心臓が潰されそうなぐらい驚いたのに、彼女は微笑んでそこにいる。誰もここに現れるはずがないと心の底から信じている時にこそ現れる。
「あ、ありがとう」
 久藤君が目を丸くして驚いていた。それも不思議だ。年相応の反応に見えたから。
「机に掛けてあったの勝手に持ってきちゃったけど、久藤君のお弁当ってこれでいいんだよね」
「うん」
「食べれそう?」
「大丈夫。わざわざありがとう」
「一緒に食べよう」
 ベッドの横に置かれていた小さなテーブルに、二人分の弁当が広げられる。ああ、なんだか本当に不思議だ。この空間の色が変わったように思える。
「ほうれん草食べる?」
「ん」
「はい。あげるね」
 私は何歩か後じさった。
「二人とも、仲が良いんですね」
「はい。昨日から」
 昨日から? 彼女の言動が判らないのはいつものことだが。久藤君も不思議そうに彼女を見ていた。
 ふと床に視線を落とすと、あの薄い単行本が床に転がっていた。拾い上げると、それはぼろぼろの古い書物だった。カバーだけが新しい。中身は相当の年代物だ。
 奥付がない。開いたページに「天保八丁酉六月」との書き出しが見えた。
「良いでしょう、それ。希少本なんです」
「古書の価値はよく判りませんが」捲ってみると、ページがごっそり脱けている部分がある。落丁本だ。
 手渡すと、大切そうに枕の隣に置いた。ページの脱けた傷本を後生大事に捲る酔狂物もいるものだ。
 やっぱりこの二人は不思議だ。私がこの二人の挙動が気になって仕方がないのも致し方がない。
 二人を残して保健室を出ようとすると、取り残された少年少女の会話がうっすらと霞んだ。二人っきりで何の話をするのだろう。保険の教諭はいつの間にか席を外していた。本当に鎖された箱になる。
 静かに扉を閉じた。

 昼休みの廊下は生徒で賑わっていた。ぼうっとした気分で職員室へ戻ろうと歩き出すと、さっき閉じたばかりのドアが開く音がした。
「先生」
 振り向くと、やはり風浦さんだった。
「そんなに心配なさらなくても、久藤君の体調はもう殆ど回復していますよ」
 何故そう断定出来るのかは、言わなかった。
「というか怪我なんて昨日のうちに殆ど治っちゃうぐらいのものだったみたいですし、今日は先生の出方を見たかっただけみたいですね」
「どういうことですか」私がからかわれたのを知っているかのような口ぶりだ。
「少しは警戒した方が良いですよ。東京に出てきたからって、安全とは言えません」
 綺麗な目が私を見上げた。やっぱり判らない。
「先生はお腹が空いていたんですね」突然話題を変えた。
「はあ、そうですね。もうお昼休みも半分終わってしまいました」
「私が先生のお食事を持ってきましょうか?」
「は? いえ、職員室で出前を取ってますので、お気遣いなさらずに」
「そうですか。でもお腹が空いた時はいつでも言って下さいね。準備しますから。久藤君の血なら、明日には元通りになっていると思います。先生はそれを心配なさってたんでしょう?」
 にっこり笑って、踵を返して保健室へ戻っていった。
 騒がしく生徒達が通り過ぎていく。そういえば、噂の真実も体調不良の理由もよく判らなかった。

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