この世界は複雑すぎる

 身動き取れない体に風は冷たかった。暮れた夜が憎らしかった。こうなったのも、自分に責任があるのだとは判っているけど。
 ため息を幾つか吐けば、いつかは解決すると思う。
 制服のポケットから携帯を取り出す。親を呼んだら卒倒するだろうし、救急車を呼んであれこれ聞かれるのも嫌だ。友達は、今はみんな忙しいかもしれない。
 待ち受けでヒラヒラ揺れるケラマジカの尾を三秒ぐらい見つめて、閉じた。
 誰か知り合いが通りかかるか、足が動くようになるのを待とう。少なくとも骨は無事だから。
 ため息を吐いた。時間が流れた。
 何とかなったのだろうか? 普通に考えて出る結果は、あまり考えたくなかった。
 だから何も考えずに、ため息を吐いた。
「すみません、すみません、私なんかを助けて頂いて」
 よく聞く、弱々しい声が聞こえた。袋小路の入り口に人影だ。
「小節さん!」と、五人が口々に言うものだから、
「……どうも」と拍子抜けした気持ちで答えた。
「ああ! 小節さん、ごめんなさい、ごめんなさい」
 加賀ちゃんが息も絶え絶えの様子で言う。木野君に背負われていた。何度も謝ったりしているのを見ると、それがいつも通りの姿だったので、ほっとした。心が溶けるみたい。
「何とかなったんだ」
「ええ、何とかね」
 千里ちゃんが言った。解せないと言いたげに。
「ホントに鬼になってないんだろうな」
 木野君は明らかに敵意を持った言い方をした。言われた方、久藤君は鬱々とした無表情で、皆と少し離れて歩いている。
「本当だよ」
「信じられねぇな。証拠も無い」
「私が見てた」風浦さんが久藤君の横に顔を見せた。「どこもおかしなところは無かったよ。きっと鬼は逃げちゃったんだよ」
「どういうこと?」
「加賀さんも助かったし、鬼もいなくなったの」
 と風浦さんは言ったが、
「わかんないわ。何にもはっきりしない!」
 千里ちゃんは不満そうだった。
 そういう事もあるんだろう。未だに立ち上がれない私を、久藤君がまた持ち上げようとした。血まみれの手で。
「やめてってば」
「あ、ごめん。気付かなくて。汚れるよね」
 それを言うなら、私の下半身は既に結構血まみれ。他人の血でも変わんない。
「怪我人がそんなことしなくて良いのよ」
 結果、千里ちゃんの肩を借りることになった。傷、痛くないのって聞こうと思ったけどタイミングを逃した。
 怪我人三人を含む集団は、歩みが遅かった。一番の原因は私、二番目は加賀ちゃん。久藤君はそうでもない。肉が切り開かれた光景は重体に見えたけど、不思議だ。
 それぞれの家にたどり着くまでの長い間、それほど重大でもない会話と重大な会話を色々取り混ぜながら、交わした。
「加賀さん、鬼に憑かれるってどんな感じだった?」
 誰かが言った。
「それがその、あまり覚えていなくて。あの、もう一人で歩けます」
「いやいやいやいや危ないから」
「その割には、”助けて頂いて”って言ったじゃない」
「あ、それは……その……」
 目を伏せた。覚えてるのかもいれない。覚えてるから、さっきから久藤君の影がかかるだけで怯えているのかもしれない。
 あれは、きっとあまりにも酷いショック。見ていた私も、彼に助けられた私も、恐ろしくて身動きを取ることができなかった。
 あれが間違った選択だなんて言い切ることは、できないけど。それで命が助かった私が。
「断片的にしか思い出せない、って感じかな?」
「そう……です。ぼんやりしてて……」
「そう。残念。少しは情報が得られると思ったけど」
「ああっすみません、何のお役にも立てなくて」
「いいの。ごめんね、変なこと言っちゃって」
「すみません……」
 消え入るように呟いた彼女の目が閉じた。気を失った? 眠っただけ、だろうか。まさか、ここに来て死んだ……ってことはないだろう。心臓の音には、背負っている木野君が気付く筈。
「おい、久藤」
「何」
「俺はお前を本当に許せない。わかるか?」
 遠くを走っていく車のライトに、みんなの横顔が照らされた。眩しい。オレンジの光が眩しい。暫く誰も何も言わなかった。
「まず、お前は加賀さんを平気で攻撃した」
 木野君は、いい。守る物を考えられるなら、とてもいいと思う。ある時、久藤君がそう打ち明けた。私もこの時、木野君が喋るのを聞きながら、似たような感覚だった。そんな風に生きたいし、生きて欲しいと思った。
「あとな、もう一つ! これはいらねえ!」
 加賀さんを背負ったままで、木野君が不器用に久藤君へ突きつけたのは、血のこびりついたナイフ。
「そんな簡単に死ぬとか言うお前が、マジでむかついたんだ」
 久藤君はナイフと木野君の顔を交互に見た。やっぱり無表情。でも泣きそうな、笑いそうな無表情。
 何があったのか詳しく聞きたいけど、誰か正しい話をしてくれるだろうか。

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