コープス

 私の中に異常を胎んだまま、日常が通り過ぎていく。夜を越える毎に、指先から体温が消えていく。爪は乾燥して不意に剥がれ落ち、伸ばした髪が抜けていく。金の髪が霧のように、毎夜、毎夜、まるで頭皮は腐っていくようだ。
 私の外側は、次第に死んでいく。

「元気ないね」
「体調悪いよ」
「そう。帰る?」
「……そうだね」
 私は一人でカフェを出た。安いチェーン店だ。クーラーが効きすぎていて、寒かった。きっと私は青い顔をしているだろう。足下がふらつく。
 家に帰らないといけない。一人の家に。
「木村さん、大丈夫?」
 小節さんが後を追って出てきた。
 私は振り返る。酷い眩暈が、する。
 カフェのガラス張りの冷たい壁の向こうに、複数人のクラスメイトの顔が滲んだ。
 その中に彼女は居た。
 私は膝を折る。
 倒れそうだ。

 大して特別な日じゃない。先日私たちが起こした騒動で、校舎が一棟燃えてしまったから、通常よりも早く夏休みが始まった。だから特別に休みになった平日の午後、クラスの女子で集まって、夏休みの宿題を分担する話をしていた。
 何事も一人でこなすよりも、いい。
 私は数日前から体調が悪かった。嘘だ。もっと前からだ。ここ一月ほど、次第に、しかし確実に一段一段階段を降りていくように、私の体は不調を訴えた。
 変化は、非常にゆっくりと。一ヶ月の間、次第に弱っていく私に気がついたクラスメイトは一人もいないだろう。私もつい最近まで気がつかなかった。私が次第に死んでいくことに。
 気がついた時にはもう手遅れ。私の顔面は蒼白で、全身の皮膚は病人の冷たさで、頻繁に眩暈に襲われて、思考は正常に働かなくて、ボロボロだ。
 この二、三日で病状は加速度的に悪化しているような気がする。
 それなのに友人と約束したカフェまで出歩いていったのは、どうしてだろう。
 私は、何となく、みんなに会えば少し元気が出るんじゃないかと、思ったからだ。
 だけど結局、一人体調が悪くて家に帰ることになって、そしてカフェを出たところで倒れた。小節さんにもたれかかるようにして気を失ったのを覚えている。
 目が覚めると一人の部屋だった。
 私の生活するマンションの一人部屋。小節さんたちが運んでくれたのだろうか。私はその日の服を着たまま、ベッドの中で眠っていた。
 時計を見ると、夜中の三時だった。長針と短針の先に塗られた緑の蛍光塗料が、薄らぼんやりと光っている。
 誰もいない。孤独。私は、全身を真っ黒な感情が包んでいくのを感じた。
 一人に慣れない。何故か、私は一月ほどの間、ずっと一人だ。私は小学生ぐらいの頃から、一人になったことはなかったはずなのに。
 何故私は、今孤独でなくてはいけないの?
 この黒い、熱のない感情の名前を知っている。
 死に至る病、絶望だ。
 寝返りをうつ力もなく、再び眠るのも恐ろしく、私は暗い部屋の中をただ見つめていた。見つめながら、私の心は呼びかける。私の心の中には、私が沢山いる。いるはずだった。
 沢山の私はいつでも私の味方で、私と苦しみを分かち合っていた。私はずっと一人じゃなかった。
 私が呼びかけるのは、一番最初に私の中に生まれた彼女。私の生まれて初めての苦しみから、それからずっと私の隣にいてくれた彼女。
 呼びかければいつでも返事が返ってきた。それは言葉じゃない。温度もない。だけど隣にいる。私の心の隣にいる。
 そのはずだったのに、どうして今は、返事がない?
 呼びかけても呼びかけても答えがない。こんなことは始めてだ。
 私がいつでも強気に笑っていられるのは、彼女がいるからなのに。
 瞼の裂け目から、いやに冷たい涙がにじみ出た。右目から先に出て、遅れて左目からも出た。右目の涙はすぐに眼球の沈む窪みから溢れ、こめかみに伝い落ちた。枕が濡れて、汚らしく冷たい。
 ベッドに横たわる体は、石の様に硬く凍り付き、私はこのまま身動き一つ出来ないただの物に変わってしまうのではないか、と思った。
 その時だ。突然、部屋の電気がついた。
 まぶしい。
 急に真っ白に変わった世界に、私は驚いて目を閉じた。目を閉じても眩しい。急に生まれた光が、私の眼球を攻撃する。
「カエレちゃん? 起きてる?」
 攻撃的な光の世界の中心から、あの子の声が聞こえた。
 身動きできない私は、うっすらと瞼を開いて、眼球を回して部屋の入り口へ視線を移す。
 風浦さんだった。
「あ、起こしちゃった? ごめんね、急に電気つけて」
 彼女はそこに居るのか居ないのか判らない透明なあやふやさで、私の寝室へ入ってきた。あまりにもあやふやな存在で、私はこの深夜に現れた彼女の異常性に、この時はこれっぽっちも気がつかなかった。
 起きてた、と私は息だけの声で答えた。唇を動かすのも億劫だった。
 彼女にそれは聞こえたのかどうかわからないけど、私が答えるのを待って、彼女は小さく頷いた。
「体は大丈夫かな。変な時間になっちゃったけど、お医者さん連れてきたよ」
 彼女はそう言い、ふっと後ろに視線を移す。私もつられて、そちらを見た。
 そしてやっと気がついたが、この時部屋に入ってきたのは彼女だけではなかった。あと二人いる。
 糸色医院の命先生と、スクールカウンセラーの智恵先生だった。この二人が私の風景の中に入ってきたとき、そのあまりの生々しい違和感に、急に現実に引き戻された。それまで眺めていたあやふやな彼女とは、大きく違っていた。まるで太陽の強い光を眺めた後に、光の差さない洞窟の中へ視線を移すような、急激な色彩の変化を感じた。私は大きく目を見張ったと思う。
「随分、顔色が悪いな」
 命先生は手にした診療用の器具の入った鞄を開きながら、非常に落ち着いた声で言った。
 私は消え入りそうな声で「はい」と答えた。
 智恵先生が腕を組んで、難しい顔で私を見下ろしていた。
 それから私は一通りの診察を受けた。
 腕を持ち上げることも辛い私は、人形のようにされるがままだった。先生は診察しながら、体調が悪くなったのはいつ頃からか、どのような症状があるか、と問い掛けてきたが、私はまだまともな返事が返せなかった。
「うん」と先生は静かに頷いた。私の要領を得ない返答への解答ではない。どこか悲しげな、同情的な調子を感じた。
「……智恵先生、どう思われます?」
「そうね」
 腕を組んだまま、智恵先生は冷めた表情で私を見る。医者でもない彼女がここに来たことは、なんだか悪い予感がする。
「具合が悪くなったの、六月の十七日からでしょ?」
 覚えていない。ある日を皮切りにはっきりとした変化が現れたわけではなく、私は次第に時間をかけて衰弱していったのだ。
 私は乾いた唇をゆっくりと動かして、時間を掛けて、わからないと答えた。
 答えながら思い出そうと、脳を回す。六月十七日、何があった日だろう?
「六月十七日? 何かあったんですか」
 私の代わりに命先生が訊ねた。
「いえね、大したことじゃないんですよ。その日、私木村さんにちょっと頼み事をしたんだけど……覚えてる?」
 冷めた両目が覗き込む。
 智恵先生からの頼み事。ああ、思い出した。あの陰気な小雨の降る日だ。日は沈んで、昼の尾が空を掠める時刻。私は銃を持っていた。一人の女を殺すためだった。何故か? それは、その女が血吸いの、鬼だったから。智恵先生が発見して、私にその始末を依頼した。何でもない日常の出来事。
「その時に何か?」
「うーん、私は見てただけだから、はっきりとしたことは判らないんですけど」
 智恵先生に呼び出されて、駅から少し離れた団地の横を流れる河原に来て、私は二つの小銃に弾薬を込め、敵が来るのを待った。しばらくして、鬼の女は現れ、私は銃の照準を合わせた。日常の中に割り込む暴力。私は一度躊躇い、だけど意を決して引き金にかけた指に力を入れた。何度も力を込めた。女は私に覆い被さるように倒れ、血を流した。やったと思った。私の全身から力が抜ける。なのに、死んだはずの女の体が急に動いて、私の首へ手を掛けた。それから。それから?
 思い出せない。
 霞む意識の向こう側で声が聞こえた気がする。あの、私の隣にいつもいる彼女の声が。
『大丈夫、私はさびしくならないから』
 と言われたような気がする。そこから先が思い出せない。
「鬼を撃ってもらったんです。確かまだ鬼になって日が浅い相手で、そんなに力もなかったから木村さん一人でも大丈夫かと思って」
「苦戦した?」
「いいえ。一発で仕留めてましたよ。心臓に一発。でも、即死じゃなかったみたい」
「と、いうことは」
 命先生は眉を顰めて、痛ましく目を伏せた。
「瀕死になってから、完全に死ぬまで幾らか時間がかかったということか。鬼にとってどの位の猶予があったかは判らないが……」
 そこまで言って、口を鎖した。
 その先に続くのは何か。判る。これだけ状況が揃っていれば、どんな馬鹿でも判る。まして自分の事なんだから。いいや、それどころか、私は薄々勘付いていたかもしれない。最悪の現実を突きつけられても、絶望にたたき落とされたように感じるのではなくて、ずっと前から知っている絶望に浸っているような気分になるぐらいだから。
 私の体は芯から腐り落ちていくだろうか? 私は唇を噛んだ。
「命先生、診断の結果からの見解を聞かせて下さい」
「うん。……いや、でも、はっきりとは判らない。半々だ」
「先生のご経験をもってしても、判らないんですか?」
「ああ」命先生は同情の悲しみで私を見た。「言いにくいからぼかしてるんじゃないよ。こんなこと、隠したって無駄だからね。木村カエレさん、君には鬼が取り憑いている疑いがある」
 判っていた。だから私は返事もせず頷きもせず、ただ一人で天井を見上げていた。
「でも、症状の出方が通常のものとは違う。具体的に言うと、まず循環器の機能低下が見られる。脈が弱くなっているのを感じないか? 全身から血の気が引いているし。血液を持ち帰って検査しないと、詳しいことは判らないが、さっき血を抜いた時の感覚からすると、かなり血漿が減っている」
 さっき、右の腕から血を抜かれた。針が抜けた後に黒々とした血が丸く浮かびあがった。命先生がアルコールの染みたガーゼで拭き取ってくれたが、その血は粘つく濃度を持っていた。
「手足の感覚があまりないようだね。爪も乾いている。一見すると貧血のようだが、その場合に血液から減るのは赤血球だから、これは違う。血漿が減るとね、すごく渇くんだよ。喉が渇いてないかい?」
 私はゆっくり首を振った。確かに、私の体は乾いている。舌も唇も瞳も髪も全身の肌くまなく乾いて、冷たい石像に変質してしまいそうだった。
 だけど、ちっとも喉は渇いていない。
 先生の言う渇きは、ただの喉の渇きじゃないだろう。はっきりと言うのは避けているようだけど、でも言われなくたって判る。だって鬼が取り憑いているんだから。欲しいのはただの水じゃなくて、人間の体液だろう。
「そこが通常とは違う。鬼が、取り憑いているのなら、酷く乾くだろうからね」
「血漿が減っているって、別な病気の疑いはないんですか?」
「もちろんそれだけなら、原因は他に考えられますよ。単純に喉が渇いているだけでも、血漿中の水分は不足する。だから血液を検査機にかけて成分分析しないと、血漿中のどの成分が不足しているかは判らないんですが……でも木村さんにはその他にも疑わしい症状が出ている。例えば、こんなに衰弱しているのに、筋力の低下が見られない、とか」
「渇かない鬼ね」
 智恵先生が口元に手を当てて考え込む。
 命先生も押し黙り、部屋は静かに沈む。私の浅い呼吸の音が耳に煩かった。
 私はこれからどうなるのだろう。殺されるのだろうか。これまでに発症した人々と同じように、人に仇なす化け物として、誅戮されるのだろうか。
 智恵先生も命先生も、私の処分を決めるのに充分な立場だ。先生たちのような大人が、そこの誰かが悪者だから殺しなさいと言えば、子供たちは喜んでそれを行うだろう。正義に後押しされて。
 私も子供たちの一人だった。だけどどうして、こっち側になってしまったんだろう。
 殺されるのは、嫌。
 例え理由が正義のためでも、殺されるのは嫌。
 本当は殺すのもそんなに好きじゃなかったけど。
「大丈夫ですよ」
 急に、それまで黙っていた風浦さんが明るい声を上げた。
「殺されたり、しませんよ。大丈夫です。そのために絶命先生と智恵先生だけに来てもらったんです」
「え?」
 私の唇から小さい疑問の呟きが溢れた。
 智恵先生と命先生が、それぞれに難しい顔をしている。二人とも、誰とも目を合わせないように、視線を明後日の方向へ向けている。
「秘密。これは秘密なんだけど、絶命先生も智恵先生も私たちの敵じゃないから」
「私たちって」
 命先生がかぶりを振った。
「君、最近口が軽くなったね」
「やたらに言いふらしたりはしませんよ。この場合はカエレちゃんを安心させるためにも、仕方ないじゃないですか」
「やれやれ。やっぱり少し変わったよ。まあ、悪い傾向ではないとは思うけど……。僕はもう帰るよ。血液を持ち帰って検査にかけないといけないからね」
「できるだけ早く結果を教えて下さいね」
「はいはい」
 命先生は荷物を畳んで、さっさと部屋を出て行こうとする。
 ドアの所で振り返った。
「木村さん」
 私の名前を呼んだが、私の方は見ていない。私のベッドの横に立つ人を睨んでいる。
「こうなった以上、僕は敵じゃないから信じて欲しい。僕について詳しい事情も言えないのに、厚かましいかもしれないけど。でも、智恵先生は」
「あら、私?」
「信用していいとは思えない」
 そう言い残して、部屋を出て行った。
「嫌われてるのかしら」
「どうですかねえ」
「知ってるクセに」
 風浦さんは、眉を顰めた。
「知りませんよ。私を何だと思ってるんですか」
「何って」
 智恵先生が目を細める。口元が薄く笑う。だけど、何も言わない。
「何でもいいわ。言い争うために来たんじゃないものね。ねえ、木村さん」
「え」
「少し回復してきたみたいね。安心したわ。これでも責任感じてたのよ」
「責任って」
「だって私があの日の用事を押しつけたからじゃない」
 ああ、そうだ。あの薄暗い日に、討伐に出かけていったのは、智恵先生に誘われたからだった。一人でも大丈夫でしょって言われて、私は自尊心を擽られて頷いた。もしかしたら他の誰かに助けを求めていたら、例えば小節さんとか、木津さんとか、風浦さんとか、とにかく一人じゃなければ、失敗はなかったかもしれないのに。
「ごめんなさいね」
 謝罪した、が、その言葉には空虚な違和感があった。
 この人は、ちっとも罪悪感なんて感じていない。私がこんな状態になっていることを、悪しき事態だと認識していないんだ。
 私は今、自分が鬼に取り憑かれたという事実に、薄暗い現実感を抱いているけれど、そのこと事態に絶望しているわけじゃない。
 もっと悪いことがあったからだ。私の中に私しかいなくなってしまったという、絶望。
 この人は、その事を知らない。それでいて、ここに新たな鬼が生まれてしまったことにも、嫌悪や恐怖、驚きを見せない。
 おかしい。この人は、一体何所に立っているんだろう?
「さあ、私も帰るわ。これ以上居座ったって何もできないしね」
「智恵先生、絶命先生はあんな風に言ってましたけど、私は信じてますよ」
「そんな顔で言われても信用無いわね」
 風浦さんも、智恵先生に不審を抱いているんだろうか。蛍光灯の寒い光に縁取られた横顔では、表情がよく見えない。
「心配しなくても、私は鬼になった瞬間に教え子を見捨てるような人間じゃないわ」
「嘘は言わなくていいですよ」
「あら」
 智恵先生の浅い笑い声が部屋に響いた。
「半分は本当よ。そうね、私はずっと前から中立だから、鬼にだって悪いようにはしないわ」
「中立? それってどういう」喉が擦れた。「意味?」
「人間と鬼、その間に立ってるって事」
 そんなことってあるんだろうか? 鬼は人間を食べる、人間にとっての天敵なんだから、分かり合えるはずはないって聞いている。
 引き裂かれた二つの真ん中に立つ場所があるなんて知らない。
「カエレちゃんを討伐の対象にさせないためにも、両者に上手く立ち回れるのは智恵先生だけですよ」
「そうね。上手くやるわ。信じてね」
「そこは信じてるって言ってます」
「だから、そんなに不機嫌そうに言われても、ね」
「鳥は蝙蝠を信じないんですよ」
「鳥。あなた、羽が無いじゃない」
「私から羽を毟った人は地上に居たがってるからいいんです」
「病んでるわ」
 智恵先生は私に謝った時と同じような、罪悪感も何も感じていない目で、風浦さんを見た。

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