影の落ちる部屋

「は? 逃げた?」
「うん、そう。残念だね、良い実験台だと思ったのに」
「……別に」
 おれは努めて興味のないふりをした。つけこまれる、と思ったのだ。
「聞いてると思うけど、かなり異常な体質だったらしいよ。そもそも治療の必要がなかったんじゃないかってぐらいにね……。こういうのは、君の方が詳しいかな」
「まあ、噂にはなっていたよ」
「医者の間で? それとも、そっちの筋で?」
「そっちって何だよ。医者の間でさ」
 急に電話が掛かってきたのだった。珍しいことではない。おれは医者としての立場の反面、ある超常現象の「火消し」役をやっている。こっちに出てきてからだ。その「火」の関係で、こいつから連絡が来ることは度々ある。こいつは情報屋なんだ。
「噂のもみ消しの方は気にしなくていいよ。もっとでっかい所が動いている」
「ふーん」
「なんだ、訊いてくれないのか」
「いや、あまり興味がないから」
 嘘を言う。興味がないわけがない。おれが火消し役になるのを選んだのは、あっち側の動向を探るためでもある。あっち側――つまり、人間側。おれは火のついた化け物側。ああ、そうか。それじゃおれは三つ目の顔があることになるな。
 しかもその三つ目が本命だ。
「そうかい。意外だなあ」
「用は、それだけかい」
「うん。命さんが知りたいって言う前に、連絡しようと思ったんだ。親切でしょ?」
「いやあ、あんまり興味ない話だったよ」
「嘘はね、よくないよ」
 嘘。
 おれは口を閉じて、その二つの音を頭で反芻する。
 嘘。
 真実がない。
 こいつに、おれの真実はばれているのか?
「何の話かな」
「とぼけるなよ、糸色先生。先日病院に運ばれた彼に、結構興味津々だったろ?」
「弟の生徒だったからね……」
「ま、きっかけはそうでしょ。でもその異常性は噂で聞いてたんだろ? もちろん興味を持ったよね」
「いや、だから」
「あいつ、鬼じゃないの?」
 心臓が、鋭く冷えた。鬼、とその化け物の名を、耳にしたからだ。
「なんか、証拠があるのか」
 携帯を握った指先がピリピリ痺れる。全身の神経が敏感になっているんだ。何しろおれは、鬼だから。その名前を聞くと、我がことのように震える……。正体を知られはしないかと、恐れるからだ。
 馬鹿な話と思うだろう。自分で鬼に関わる火消し役になっておきながら、自分の正体の名前を聞くだけで震えるなんて。でも、火消しなんてやってなくても、震えて生きていかなきゃならないのは一緒だ。その場合はいつ誰が、自分の寝首を狙っているか判らないんだから。
「証拠ね。異常体質で充分じゃないか」
「憑かれた人間の体質が変化するかどうかはまだ判っていない」
「だからさ、良い実験台だったんじゃないかって」
「どうかな」
 もしもこいつが言う通り、あの少年が鬼だとしたらやばいことになる。人間側に、鬼の情報を与えてやることに、なってしまう。
 鬼の生体はおれたちにも判っていない。その存在が人間社会の中にひっそりと姿を現してから、百年単位で年月が経っているのに、だ。推測するに、取り憑かれた連中で自分を医学的に検査するような冷静さを保った奴は、これまで異常に少なかったからだろう。
 でもおれは違う。食事を求めて人間を見境無く襲うほど血迷っていないし、自分の状態を的確に判断出来る冷静さを、まだ保っている。
 そのために医者にまでなった。
「まあどっちにしろマークされるだろうと思ったんだけどね」
「けど?」
「お、興味示した」
「話に乗ってやってるだけだよ」
「つまらないな。まあ、いいよ。彼についてだけど、私はてっきりあっち側だと思ってね、次の討伐指令は彼かなと思ってたんだよ。だけど」
「勿体振るなよ」
「やっぱり興味あるんじゃないか」
「一応、聞いてやってるだけだって」
「暇なのかい」
「今何時だと思ってる。二時半だぞ、二時半。こんな深夜に電話してきやがって。目が覚めてきたから、話聞いてやってるんだよ」
「命さん、ツンデレだね」
「君にデレた覚えはない。で」
「で、彼について調べようとした矢先にね、釘を刺された」
「釘を?」
「彼に限ってはそんな必要はないってさ。誰にだと思う? びっくりするよ」
「勿体振るなって」
「勿体振りたくもなるよ。聞いておどろいてくれ。甚六先生だよ」
「は」
 思わず、声を出してしまった。
 不味い。おれはあの先生については、詳しく知らないことになっているんだ。
「知ってるんだね」
 目敏い。
「いや、少しだけだよ」
「どの辺までかな」
「子供たちに戦いを教え込んでるってことぐらいかな」
「あれ、そこまでかい」
 そこまで、はこの役目に就いた時に知らされた。あの初老の教師は、裏の顔は自分の生徒たちに鬼との戦いを指導する老獪なのだ。しかし実際は、それ以上に鬼と深く関わっているだろう。これはおれが独自に調べたことだが、彼は教え子のみならず、もっと広い範囲に強い影響力を持っているらしい。
 それを調べていることを、こいつに悟られている?
「まあいいよ。で、その先生に釘を刺された。何かあると思わないか?」
「単に甚六先生は彼が鬼じゃないと知ってるってだけじゃないのか」
「だって調べるなって言われたんだよ? 鬼じゃないってだけなら、別に調べたって構わないじゃないか」
「ふむ」
 確かに興味深い。あの老教師は、自ら動くタイプではない。影で人にあれこれと指図するのが、常の形だ。それが、わざわざこいつに釘を刺したって? 末端の情報屋風情のこいつに。よっぽど重要な意味があるのか、あの異常体質の彼に。
「気になるよね。あ、いいよ、何も言わなくても。命さんには命さんなりの事情があって、あんまり派手に行動出来ない。違うかい」
 おれは何も答えなかった。壁にかけた丸い時計が、深夜の静寂を刻んでいる。午前三時十分前。まだ窓の外は暗い闇だろう。おれは電話を耳に当てたまま、ベッドの中で寝返りを打つ。
「でも、一つ信じて欲しい。僕はね、命さんの敵じゃあない」
「……は?」
「蝙蝠と罵られるかもしれないね。しかしそれも、甘んじて受けよう」
「待て、どういうことだ」
「情報屋ですから」
 含み笑いを電話回線の奥に響かせ、それ以上言おうとしない。
 蝙蝠だと? こいつは、あちら側ではないのか。こちら側の一面を?
「ま、僕の話はいい。それで結局、この電話で何を言いたかったかというと」
 勿体振って、長い沈黙を作った。おれは電話を耳と口にぴったりくっつけていながら、何も言わない。反応のない電話回線に語りかけることは、不安ではないのだろうか。おれなら電話が切れたのではないかと不安になる。だがもしかしたら、おれの呼吸音がこいつには聞こえているのかもしれない。
 浅い呼吸を繰り返している。
「彼は鬼ではないが、無関係ではないだろう。鬼と密接な関係があるに違いない。僕はそれが気になる。命さんも、気になるよね。でも甚六先生に釘を刺されてしまった。とはいえそれで引き下がるのも口惜しい」
 すらすらと言葉が電話口から流れ出る。あまりに流暢なため、それは建前で裏があるのではないかと思えるほどだ。それこそ、こいつが自分で言った「蝙蝠」のようにこちらとあちらに馴れ合う二面性。
 しかしおれはそれを咎めることも、何もできない。何故ならおれも「蝙蝠」であるからだ。
 同じ穴の狢。
「そこで依頼したいんだけど、彼について秘密裏に調べることはできないかな? もちろん僅かばかりだけどお礼もするよ」
「あの先生に逆らえって言うのか」
「怖い?」
「怖いな」
「でも、この話を聞いたら僕に協力せざるを得ないでしょ。もう一度言うけど、ぼくは蝙蝠で、有る意味命さんの味方だ」
「それはつまり――」最後まで言うべきかどうか、一瞬だけ逡巡した。「おれがあっち側だって、知っているってことか」
「あっち側?」
 自嘲にも聞こえる浅い笑い声。
「深くは追求出来ないでしょ。お互い様。ま、そういう話は追々で」
「ふん」
 おれの口からも、自嘲のような笑いが溢れた。
 虚しい欺き合い。
「それでどう? 依頼は受けてもらえるかな」
「ノーと答えられると思うか」
「思わない。弱味握っちゃってるからね。でも忘れないで欲しいな、命さんこそ僕の秘密を知ってしまったんだ」
「そっちが勝手に話したんだろう」
 ぶつっと音がして、一方的に電話を切られた。話すだけ話して、勝手な奴だ。
 蝙蝠め。おれ自身とこいつに向かって、腹の中で舌を打つ。お互いの秘密を晒して、拘束し合ったようなものか。
 ばかばかしい。何の意味もない行為だ。
 しかしそうと判っていても、お互い相手には逆らえない。
 お互いの秘密を知り合った、言うなれば同胞ということか。望む望まないにかかわらず。
 おれはあの少年についての調査を、奴に明かさなければならなくなった。もともと調べようとは思っていたのだ。
 しかし、奴はそれを知って一体どうしようと言うのだろう。
 蝙蝠の腹の底は、知れない。

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