さびしい

 真実の前に心が幾重にも引き裂かれそうになる。粉々になった私の心は、貴女と貴女の中の沢山の貴女たちの上に、雪のように降り積もるでしょう。
 私が消えてなくなること。恐ろしいけど、それでもいいのかもしれない。
 私一人が消えてしまうことで、貴女と沢山の貴女たちが救われるのなら。

 この国に来て、恐ろしい遊びを貴女は覚えました。この世には、人知れず、恐ろしい化け物が生息している。その化け物の名前は鬼と言って、人の生き血を啜るのです。人を襲う恐ろしきは髑髏検校。その怪異との戦いに、貴女は望んで足を踏み入れました。貴女は正義感が強いから。
 私はそれを好ましく思わなかったけれど、貴女が決めたのだから、私たちは従う他にありません。
 銃を手にとった貴女が、始めてその引き金を引いたのは、六月の雨の日でした。
 この国に来たのが五月の初めでしたから、鬼の存在を知ってから一月程経ってからのことです。その一月の間、貴女は戦いの練習をしていました。戦いを選んだ他の生徒たちと同じように、密かな放課後、あの老いた方を先生と仰いで。
 その日、生徒は貴女一人で、戦いの指導者とは別の、女性の先生が同行していました。
「ごめんなさいね、急に手伝って貰っちゃって。今日は、そんなに大変じゃないと思うんだけど」
「いいよ、智恵先生。ワタシ結構銃の腕には自信あるんだから」
「そう? たよりにしてるわ、木村さん」
 雨がしとしと振っていて、まだ夕方の六時なのに空はどんよりと暗い、そんな日でした。
 場所は小石川駅から少し離れた、水の殆ど流れていない枯れた川の薄汚い土手。近くに古い団地があるところ。恐ろしい瞬間を待っていました。
 人を撃つ瞬間とはどんなものだろう。貴女は、その時になって始めてそんなことを考えました。老いた先生から戦い方を教わっている間は、非日常と正義感に浸るのに一生懸命で、自分のしようとしていることに現実味などこれっぽっちも考えていませんでしたから。
 撃てば、相手は傷つくでしょう。私は誰かを傷つけるのは、嫌いです。でも、その相手が絶対悪だとしたらどうでしょう。この世の中のみんながみんな、その人を傷つけることを良しとする場合。社会から絶対に必要ないとされるような相手だとしたら。
 撃った貴女は、みんなから褒め称えられるでしょうか。
 貴女の級友には、鬼を本当に討ち取ったことがある人が二人いることを知っていました。一人は気の強い几帳面な女子。一人は正義感の強い負けず嫌いな男子。打ち倒した鬼のことを、二人が誇らしげに話しているのを貴女は聞いたことがありました。その二人は貴女よりも先に老いた先生の元で指導を受けていたのですから、先輩ですね。貴女はその二人の先輩の活躍を、輝かしいく感じていました。だからきっと、貴女が鬼を撃ったら、それは輝かしいことになるでしょうね。
 そんな輝かしい未来が待っているようには、とても思えないどんよりと暗い六月の夕方。
 獲物を待って、貴女は草むらに隠れていました。一人で。女性の先生は、邪魔になるだろうからと言って、その瞬間はどこかに消えてしまっていました。
 でも、獲物の特徴はしっかりと聞いていました。貴女が待つのは、派手な身形の女性です。夜に務める彼女は、この夕方に目を覚まし、仕事に出かけるのが生活の習慣だそうです。まるで、本当に髑髏検校ですね。それに銃を向ける貴女は、差詰め狩人でしょうか。獲物を撃ち落とせば栄光が待っているはずなのに、今はうら淋しい住宅街の綻びのような場所に潜んで、孤独。
 貴女は息を潜める。川沿いの道には、時折、仕事を終えて草臥れた様子の大人たちが、通り過ぎて行きました。
 時計の針の音が、予定の時間が近付いていくことを知らせます。彼女が現れた時、貴女は上手く撃つことができるでしょうか。引き金の抵抗に打ち勝つことができるでしょうか。その瞬間、貴女は孤独でいられるでしょうか。
 そう、そうです。そう、だから。だって孤独じゃなければ、銃の引き金を引く事なんてできない。
 鬼は社会に潜んでいる。同じように、狩人も社会から隠れなければ、いけない。だって人殺しだもの。どちらも、人殺しだもの。貴女の心には正義が燃えているけれども。
 でも、正義は孤独に打ち勝つことができるでしょうか。
 私や、沢山の貴女たちに囲まれて生きる貴女は、銃口と相手の間にできる果てしない孤独に、耐えることが、できるの?
 貴女に私の声は届かない。
 貴女の鼓動が早くなる。耳に煩いほど心臓が脈打っている。体中を流れる血液が、血管の中でさざめく波のように音を立てて体を巡る。熱を持って私たちの体を巡る。
 貴女は口を食いしばっていた。貴女は唇から細い息を吐いていた。心臓が震える。銃を握った手が震える。
「撃てる」
 貴女は誰にともなく呟いた。
 本当にそうなのでしょうか? 本当に撃てるのでしょうか?
 孤独に馴れていない貴女が、孤独な銃声を響かせることができるのでしょうか?
 耐えられるのなら震えたりしないでしょう。貴女の体が小刻みに震えていること、私にだってわかる。
 この時を願っていたのではなかったのでしょうか。栄光を掴むその瞬間を。それとも、栄光があると信じて、恐怖を忘れていたの? 私はそれを責めたいとは思いません。貴女が恐怖を覚えるのはもっともなこと。人殺しなんて、そんなに簡単な事じゃない。
 ねえ、この国に来て出会ってしまった、恐ろしい習慣に無理に適応しようとして、栄光なんて形のないものを信じて強がっていたんじゃないの?
「撃てる」
 もう一度貴女は呟いた。目は虚ろ、何を見ているのかわからない。
 果たして獲物が現れたとして、貴女は引き金を引くことができるの?
 私の警鐘が何の意味もないことは判っています。だって声が届かない。でも私は貴女が心配。貴女しかいないの。沢山の貴女たちの中の、たった一人の貴女なの。
 カエレさん。
「来た」
 団地の影に、獲物は静かに現れました。
 貴女は潜んだ土手の、背の高い草の間に寝そべって、腕を伸ばして銃の照準を合わせます。
 障害物の多い状況にもかかわらず、銃口から獲物までの間には何も存在しないかの如くクリアに見えていました。深く呼吸を繰り返す毎に、振り落とされていきます。貴女と獲物の間にある全てが。
 私は貴女の後ろに在り、静かに、静かに貴女を見守っています。
 獲物の年の頃は二十代後半。露出の多い服を着ていて、寂しい住宅街には不釣り合いな、派手な身形をです。もり立てた明るい髪の色が、くすんだ風景の中で彼女だけスポットライトを浴びているみたいに輝いていました。
 とてもじゃないけれど、後ろ暗い存在には見えない。
 私には――。貴女には?
 貴女には、あの見知らぬ女が、正義の名の下に鉄槌を食らわせられるに値する姿に見えているの?
 私は貴女の心の後ろにいる。前を向いて、獲物と向き合っている貴女の心は、半分しか見えない。地球から見る月のように、後ろ半分しか、見えていない。
 貴女の後ろ姿は、震えています。
 銃の引き金にかけた指が小刻みに震えています。
 さびしくて。
 貴女は孤独になり、さびしくて震えています。
「撃つ」
 ひとりぼっちで、貴女は言いました。私だけが聞いていました。
 獲物がこちらに近付いてきます。川沿いの狭い道を、足早に歩いてくるのです。彼女は急いでいるのでしょうか。貴女から逃げているのでしょうか。そうなら、よかったと、貴女は思います。
 あの獲物が、己の後ろめたさから、正義の貴女から逃げているのなら、引き金は練習通り軽く引くことができるでしょう。
 でも、違うものね。彼女は、貴女がそこに潜んでいることすら知らないのだから。
 幻想に思いを馳せながら、現実の貴女はその瞬間を待ちます。獲物が貴女の目の前を通り過ぎる瞬間を。
 その時貴女は、本当に孤独になるでしょう。
 近付いてきます。
 孤独が近付いてきます。
 あと、三歩。
 二。
 一。
 貴女は息を止めました。一瞬の、躊躇い。
 引き金が引けない。
 一歩遠ざかる。
 二歩。
 焦った貴女は、狙いもそこそこに、引き金にかけた指に力を込めました。
 だめ、行かないで! 一人遠くに行ってしまわないで!
 私は貴女の背後から離れがたく、獲物を追って一人駆け出した貴女の心に必死にしがみつきました。
 銃声――。
 打ち捨てられたかのようなうら寂しい団地の隙間に、サプレッサーに抑圧された密やかな銃声。僅かな閃光。近くの橋の上を、電車が通過していきました。
 貴女ははずみで飛び起きる。撃ち損ねて、その失敗を取り戻すために二発目をもっと近くで撃たねばならないとおもったのです。でも、その判断は大きな過ちでした。
 弾丸は女の後頭部に小さな穴を開けていました。少しの血と脳漿が河原に飛び散り、女は撃たれた衝撃で体を不気味にくねらせてていました。膝を折り、地に倒れるかと思った瞬間。
 ぐるりと女の首が回りました。体液を撒き散らしながら、ほぼ百八十度。
 見開いた目が、貴女を見る。
 いいえ、見ていない。もう死んでいるはずの体が、貴女を見るはずがない。
 でも、真っ黒な瞳孔がぬらりと光って、貴女の方を向いた時、死んだはずの体は、首だけをこちらに向けたまま猛然と両手を上げ、貴女に向かってきました。まるで獣のように。
「ひっ!」
 貴女は悲鳴を上げ、ついで歯をきつく食いしばりました。
 時間の僅かな隙間に滲むように湧き上がった恐怖に、恥を覚えたのです。
 貴女は強い。こんな化け物に恐れをなすなんて、自分が許せない。
「死ねっ!」
 怒りに似た声で、貴女は叫びました。
 そして引き金を、三、四度続けて引きました。何発の銃弾が放たれたのか、定かでありません。
 一発は外れて空に飲み込まれ、残りは女の背中と顔面に吸い込まれていきました。
 銃弾が女に中るたび、女の体は奇妙に軋み、跳ねるように歪みました。だけど女の膝は妙な方向に曲がりながらも、貴女に向かうのを止めません。
 貴女は銃を撃ち続けました。
 近付いてくる標的に中て続けるのは容易で、弾丸は次々と女の体を軋ませます。
「死ねっ! 死ねっ!」
 貴女は何度も叫び、打ち続けます。
「死ねっ!」
 そして最後の一発。銃口に触れるほど女の体が迫ってきた時、貴女の撃った最後の一発は、女の首の中心を真っ赤に撃ち抜きました。
 その時始めて動脈を引き裂いたのでしょうか、飛び散る、吹き出す、血の雨。
 女の体は貴女に覆い被さるように、倒れてきました。
「はっ、はっ、やった?」
 貴女にもたれかかる、冷たい血液を流し続ける死体。その重さに、貴女は現実を感じました。
 短い呼吸を繰り返す度に、その死体は重くなっていくような気がして。貴女は銃を握ったまま両手をだらんと落とし、急激に寒気が増すような気分。
 始めて誰か殺したから。流れる体液と重さがそれが現実だと伝えてくる。
 脳を奈落の底へ貶める、その感情の名前は、絶望。
「まだよ」
 貴女の後ろで、いつのまにか姿を現していた女教師がささやきました。貴女には、確かに聞こえたでしょう?
 絶望の淵で脱力していた貴女にもたれかかった女の死体、その両腕が、あなたの首を。
 私は銃を撃ちました。
 その胴体に銃口を押しつけて、違わず心臓の中心を。
 撃たれた死体が僅かに後ろに跳ねる。
 私は存外冷静でした。だって貴女のためだもの。それに私は、孤独には馴れている。
 私の首に絡まった二つの手の平が、最後の力を振り絞ってきつく爪を立てる。
「ぐうっ」
 息が止まる。喉の奥に激しい吐き気。でも、負けるものか。私は歯を食いしばり、まとわりつく死体の頬を銃を握ったままの右手で拳で殴り飛ばした。
 体内に響くような鈍い音。死体の頭蓋骨は片方の頬を砕かれ、血と血以外の体液を吹き出しながら、崩壊していく。
 だけどまだ私の喉に両手がしがみつく。
 もう一発、撃つ。
 息が詰まる苦しみとは別な所で、私の殺意が煌めいた。
 死体の眉間に銃口を打ち付ける。引き金を。
「たすけて」
 女と目があった。
 え? 言葉の意味を、私は一瞬のうちに訝しむ。その一瞬が、命取り。
 私は遅れて引き金を引いたが、その時には全て遅かった。
 眉間を撃ち抜かれて後ろに倒れていく死体に、なんのエネルギーも残っていない。本当に死んでしまったから。その体に巣くっていた獣が、顔の中心に開いた穴から体液と共に抜け出して宙を駆けていた。
 もちろん不可視。だけど私には見えていた。何故なら――。
「木村さん? 大丈夫かしら」
 女教師が誰に聞かせるでもなく独り言ちた。
 私は力を失い、いいえ、背中にのし掛かるような怖気を伴う力を得、耐えきれなくて膝を折った。
 アスファルトの地面が近い。地に手を付き体を支える。だけど銃は手放さない。これは私が貴女を守る牙だから。
 そうだ、貴女は、無事?
「大丈夫じゃないわね……困ったわ。まさか木村さんの方に取り憑くなんて」
 どういうこと? この体を貫く強烈な寒気は、まさか。
「どうしましょう。木村さんも気を失っちゃったみたいだし、私一人で二人を抱えて帰るなんて」
「意識……私、意識は、あります」
 貴女は? 貴女はどこ? 呼んでみたって、元々私の声は届かないのだけど。でも私から貴女が見えないなんて。私と入れ替わりに眠ってしまったのでしょうか。
「あら」
 項垂れた私の顔を、女教師はしゃがんで覗き込んだ。
「あなた、木村さん?」
「はい」
「ウソ」
 彼女は口元だけで微かに笑った。
「体は大丈夫?」
 そして白々しく話を切りかえた。
「大丈夫です」
「そう。なら良かった。ね、折角働いてくれた所に悪いんだけど、もう一つ頼み事していいかしら」
 答えなんて聞いていないという口ぶり。私は体の奥に産まれた寒気を喉の奥で押し殺し、髪を整えながら立ち上がった。貴女のきれいな膝と手が血と泥だらけ。
「片付けも手伝って、ね」
 私はこの時になって始めて、私として世界を見た。眠っている貴女の代わりを務めなければならないと思ったからです。
 霧雨の降る暗い住宅街の片隅。世界はどんよりと重い空に覆われていた。

さよなら絶望先生 目次

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