センセイ、アノネ。

 しかしながら最近どうも、彼女は首が痒いようです。それは特別な症状なので、治せません。
 何度も同じ場所を象牙質の塊が上下から磨り潰すように圧力をかけるので治りにくい傷になるのです。首を。首筋の皮膚を。薄い脂肪の層を。神経の束と毛細血管の網を。筋肉を。肉食動物であるにも拘わらず草食動物並みの臼型象牙質を持つセンセイが。彼女の首を。首筋の皮膚を。薄い脂肪の層を。神経の束と毛細血管の網を。筋肉を。磨り潰すように噛むのです。そして吸い上げます。襤褸布のように無惨に破壊された血管の束を。潰れた毛細血管に滞る血溜まりを。吸い上げます。入れ替わりにセンセイの口の中の雑菌が彼女の血管へ逆流します。だから痒くなるのです。
 私は知っています。
 私は見ています。
 衝動的にセンセイが彼女を口にするから、彼女は弱っていくでしょう。傷が治らないのです。血が減っていくのです。彼女は弱っていくでしょう。最後には死ぬでしょう。センセイに残りカスもないほど血を吸われて、乾涸らびて死ぬでしょう。
 その前に輸血して助けてあげなければならないでしょう。
 私は知っています。
 私の血は誰にでも合うのです。
 センセイにも合うのです。
 彼女にも合うのです。
 センセイ、アノネ。だけど私は気高いのですよ。ご存知ないでしょうけれども、私は大変気高いのですよ。だから私の血は彼女には合わないでしょう。
 そして彼女も気高いのですよ。ご存知ないでしょうけれども、彼女は大変気高いのですよ。だから私の血は彼女には合わないでしょう。
 どうして私が彼女を救う必要があるのか、その理由を私が問うと同時に。
 どうして彼女は私に救われなければならないのか、彼女がその理由を問うでしょう。
 それは決まっているのです。何億光年も彼方にある宇宙の記録に記されています。数百年前に死海のほとりで書かれた予言書に記されています。日本海溝の底から引き上げられた石版に記されています。ナスカの地上絵も、それを示しています。
 センセイは私の言うことをウソだと言うでしょう。私は決して口にしませんが。ウソになってしまうから。
 ……ねばいいのに。
 ……ねばいいのに。
 ……ねばいいのに。
 一つの真実を核にして、真実を覆い隠すために、ウソが、虚実が、膨らみます。
 一つの真実は、誰も知らなくていいのです。
 膨らんだ私のウソが真実を守ります。
 センセイは私の真実を知ることはないでしょう。私は決して口にしないからです。真実は言葉にない。
 だけどセンセイ、私は知っています。
 私は見ています。
 転落していくセンセイを、見ています。
 やがて彼女の血が乾あがると、センセイは新たな血を求めて飢えるでしょう。そして見る者皆が怖気で気を失ってしまうような獣に変貌するでしょう。
 私は見ています。
 その側で見ています。
 一部始終を見ています。

さよなら絶望先生 目次

index