少年少女討伐隊
この世界には喰われる者と喰う者が同居している。同じ顔をして同居している。
喰われる側の子供が、ある時、その存在を垣間見る事がある。それは閑静な住宅街の密やかな窖。知らずに生きて死ねれば幸せ。だけど知ったら知ったで、別な楽しみがあるのかもしれない。
放課後の夕暮れの中、想い人の影を踏むように、捕食者の後を追って笑う。被食の少年少女、スリルに満ちた遊び。僕はあんまり好きじゃない。
全世界でかなり頻繁に利用される引用句によると、長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた等しく見つめ返す。
だから僕らは怪物になる。爪を研いだ兎なんて、笑える話じゃないか。
「そっち逃げたよ」
小節さんが上の方で囁いた声が、僕の頭に溶けた。彼女が指差した先の、校門から続く途に陽が落ちていた。
「追いかけないの?」
「木津さんが行ったから、いいかなと思って」
「そう」
鬼は同じ顔をしている。信じていた隣人と同じ顔をしているのに、気味が悪くならない方がおかしい。使命感とか正義感とかそういうものを、逃げ惑うにしても、腹に抱えておかないと疲れてしまう。
「疲れた」
視線の先に、べっとりと血を塗りつけた二本の足があった。太股から膝へ、粘度の高い血液がこびりついている。血の匂いは、他人のでも、自分のでも、気持ちが悪い。
「怪我、大丈夫?」
「うん。千里ちゃんが助けに来てくれたから」
そう言いつつ、彼女はゆっくりと座り込んだ。開いた文庫の横に、彼女の顔が半分並ぶ。
「変だね」
「何が?」
「久藤君。前に見た時は、必死だったのに」
前って何時のことだろう。僕は誰かに見られたという記憶はない。
「それっていつの話?」
思い当たる節が無いので問い返すと、片目が思惑するように揺らいだ。かと思うと、
「しっ」包帯だらけの手が、僕の腕を掴んだ。「悲鳴が聞こえた」
確かに、遠くから女の細い悲鳴が響いたような気がする。本の影で片目が物言いたげにこちらを見ている。彼女は行けと言っているんだろう。だけど、僕は何所にも行ける気がしない。
「そのために残ってたんじゃないの」
「そうかも」
校庭の隅に座り込んで、何かが起こるのを待っているうちに目的は忘れてしまっていたけど。なにしろ、開いたページの方が面白い。
「帰ろう。送っていくよ」
「どういうこと?」
「立てるなら、いいんだけど」
座り込んだままの彼女の手を軽く引いた。足の傷口は閉じたばかりなのだろう。彼女は立ち上がろうとしない。
できるだけ傷に響かないように、腰と膝に腕を回して持ち上げた。
「やめてよ」
「こんな怪我人を放っておけないよ。家、どこだったっけ」
小節さんは困った顔をして、少し黙った。
「重くない?」
「この間、図書室の整理をしたときに運んだ段ボール箱の方が重かったかな」
「ね、やっぱり、変」
「さっきの話?」
「そう。久藤君が倫ちゃんと喧嘩してた時」
「あ。あの時か。よく僕だって判ったね。こっちの道でいい?」
「うん。その後、信号があるから左……必死だったよね。あの後どうなったの?」
「どうって。どうにもならなかったよ。今日だって、学校に来てたじゃないか」
「仕留め損なったの?」
どきっとするような事を言う。
「彼女は鬼じゃないよ」
「でもこっち側じゃ無かったってことでしょ」
「そうだね。……目下休戦中なんだ。小節さん、この先って行き止まりなんだけど」
「そうみたい」全く涼しい顔で言う。「こっちから悲鳴が聞こえたから」
いつの間にか入り込んでいた袋小路に、僅かに差し込んでいた夕日の残りが、夜に飲まれて消えた。
「どうして助けないの? 助けられるのに」
腹を掬うような一言。そんな、助けたいとか助けたくないとか、まるでまともな精神を持った人間に語りかけてるみたいじゃないか。ちゃんとした正義感を持った男なら、そりゃ助けたいと思うだろうけどさぁ!
それに、僕が助けられるっていうのは、間違いだ。楽観的な予測をしないでくれ。
胸の所で片目が瞬いた。睨み返すこともできない。
「たっ、助けて下さい!」
絹を引き裂く悲鳴。僕らの後を追うように袋小路に入ってきたのは、加賀さんだった。
「あ、あっちに、鬼が」
血の気の引いた腕が、彼女の来た方向を震えながら指し示した。小節さんが僕の腕をきゅうと握る。殆どそれと同時に、僕は両手を離してしまっていた。
「痛ぁっ」
「ごめん!」
地面に強かに打ち付けられたに違いない彼女を振り返ることも出来なかった。何度も、こんな風に自動的な選択を繰り返している。小節さんの悲鳴で、重い罪悪感と虚無感を感じた。
それでも、飢えた獣の様に鬼を追って走る。
別に僕は飢えている側ではないし、鬼を殺したからって腹が膨れるわけでもないのに。
薄暗くなっていく町中に、憎悪の対象を探した。実を言うと、どれだけ追いかけ回しても奴らの正体はよく判らない。十七年如きの感覚では鬼憑きの人間を見定めることが出ない。こんなに強烈な意志に駆られているにも拘わらず。
「きゃあああああ!」
背後から悲鳴! 何にも足りない、浅い判断ばかり繰り返す僕の思考。確かに抱えている筈の欲望を満たす能力すら無いことに、絶望した後に酷い怒りが湧き上がる。
慌てて駆け戻った袋小路に、鬼とその獲物を見つけた。薄くけぶる影の真ん中から新しい血の匂いがする。
ちょうど日の沈みきった時刻、時計仕掛けの街頭が自動的に灯された。
淡い茜色の照明の下、そこに存在来した真っ赤な疼き、流れる少女の鮮血、舌なめずりの口元。小節さんの太股に唇を這わせていた鬼が、こちらを見た。狼狽の色で瞳が揺れる。
獲物を見つけた。血が逆巻くようだ。
自動的に足は地面を蹴り、餌にむしゃぶりつく鬼の首を掴んで少女から引き離した。細いからだは軽い。首を掴む左腕一本で宙に浮いた。浮いた足がばたばたと藻掻く。
「ぐっ」
潰れかけた咽から呼吸が詰まる音がする。片手で渾身の力を込めているのに、存外彼女の首は硬い。この首をへし折りたい。鬼がか弱い手の平で、僕の手首を掴んだ。それを引きはがそうと爪を立てる。肉に食い込ませ、引っ掻く。僅かに血が垂れた。
でも彼女に一分の勝機もあるとは思えない。血塗れの唇から泡が垂れる。この首はもうもたない。
それなりに見慣れた顔は苦悶の表情で、死に抗う絶望を睨んでいた。その向こうに小さな月。
「てめええええ久藤おおおおお!」
背後から絶叫と、シュッと風を切るような音がした。それは木野の、ナイフを投げる際の口癖だ。その認識は、浮いた神経を打ち落とすように、脳の中で閃いた。
同時に左腕に走る冷たい感触。切り裂かれた神経の間を走る鉄の感触! その鋭い痛みで首を握っていた手が緩んだ。
そして間を置かずに横っ腹を打ち付ける大きな衝撃。何一つ躊躇いのない当て身に弾かれて、二メートルほど離れた塀に強かに打ち付けられた。腹と背中の痛みで、一瞬呼吸が止まる。
「加賀さんに何やってんだ! くそっ! てめえが鬼かよ!」
木野が多分そう言った。怒りのあまり聞き取れないレベルで単語を噛みまくっていたから、よく判らなかった。
言われて気がついたが、彼女はクラスメイトの加賀さんだった。
「おい、聞いてんのかよ!」
木野が僕の胸ぐらを掴んだ。袖口から二本目のナイフが見える。
その木野の向こうに、加賀さんが倒れている。地面に打ち付けられた彼女は虫のように手足を曲げて縮こまり、小刻みに震えている。両手は咽を押さえて、その口からは激しい咳が聞こえた。
あれは僕がやったんだ。ぞおっと背中が寒くなる。
「答えろよ! なあ、もう俺の事もわかんないのかよ」
何故だか、僕を激しく揺さぶりながら叫ぶ木野のまなじりに、涙がにじんでいた。どんな悲しみが彼の現象を起こさせているのだろう? 僕には思いも寄らないことだ。
だけどそれを見た途端、咽の奥の方で止まっていた感情が、熱く体を巡り始めた。
いつも恐れていたことだった! この手が、良く知った人間を打ち殺すことを。だからあまり他人と親しくなりすぎないようにしていたつもりだった。もしその事象が避けられないとしても、慣れたこととして処理できるつもりだった。
本当は、考えないようにしていた。諦めはついていると、目を逸らしていた。
木野の袖口から、ナイフが見える。それは他人と正義感を共有出来るという妄想を抱くためのナイフだ。それは今僕の左肩に刺さったままのナイフと同じものだ。人殺しを打ち倒すためのナイフ。
「久藤君!」
小節さんの声!
はっとして顔を上げると、加賀さんが立ち上がってこちらを見ていた。手にはカッターナイフ。振り上げられて鈍く光る刃の色が、鈍っていた思考をクリアに変えた。
「木野、邪魔!」
「え?」
右手で木野の制服を掴んで横に飛ぶ。同時に小節さんの腕から白い包帯がするりと伸び、それは意志を持っているかのように加賀さんの足首に巻き付いた。
カッターナイフは宙を落ちる。足を取られた加賀さんはバランスを崩して再び倒れた。その隙に小節さんの方へ駆け寄った。
「大丈夫?」
「うん」
と、擦れた声で小節さんは答えたが、その顔は蒼白で、全身にびっしょりと汗をかいている。傷の痛みと恐怖のあまり体は堅く硬直していた。
「ごめん、気付くの遅くて」
「いいよ。危ないの判って、私が久藤君を連れてきたんだし。それより、加賀ちゃんが」
小節さんが右手の包帯を引く。その先で、加賀さんは黒い目で僕らを見ていた。いや、僕を見ているのか。食欲の対象が映ったのだ。今、この場で最も出血しているのは僕だから。
「どうする?」
横で木野がなんだこれ、とか、どうしたらいいんだ、とか譫言の様に言っている。
とにかく、今は動けない小節さんが一番危険だ。
僕は左の二の腕に刺さったままのナイフに手を当てる。指先まで痺れるような痛みがあるが、だからってその痛みは僕の何かを疎外するものにはならない。
ナイフの柄を握り、肘の方へ向かって剔るように引っ掻いて引き抜いた。肉と血管を切り裂く音と感触、木野と小節さんの「あっ」と息を呑む音、加賀さんが大きく目を見開いて、そして僕の腕からは血が溢れた。
「あ、ああっ、あの、それっ、く」粘つく口元で加賀さんが喘いだ。「久藤君、それ……」
血の滴る腕を彼女に向けて真っ直ぐに伸ばす。痛覚を伴って、血が垂れた。
「それ、下さい……」
八の字に眉を下げて呟く彼女は、なるほど良く知った顔に違いない。知った人間に殺されるのに、或いは殺すのに躊躇する意味は何だろう。考えれば考えるほどバカバカしい。傷ましい涙を浮かべ、狂おしげに嘆く彼女を、救う術を僕は持たないのだ。僕だけじゃない、木野も、小節さんもそうだ。
どんなに人道を翳して嘆いたって、二つに一つ。彼女が人殺しになるか、僕らが人殺しになるか。
「久藤君」彼女は呟いた。彼女はちゃんと僕を知り合いと認識している。捕食者は白痴ではない。
ふらりと覚束無い足取りで、歩み寄ってくる。
僕は踵を返し、走り出した。
「あっ、オイ!」
目を白黒させながら、木野が僕に着いて走る。
「どうすんだよ」
「取り合えず移動する」
ちらりと後ろを見ると、小節さんの投げた包帯は容易く引きちぎられ、加賀さんは僕を追って走り出していた。でも少女の肉体は弱い。疲弊した体でふらふらと走る彼女が、僕に追いつけるわけがない。それでも彼女は他の何も目に入らない様子で、「待って、お願い、待って」などと言いながら追い縋る。
「ちくしょう」横を見ると木野が走りながら泣いていた。「どうすりゃ良いんだ? 何か良い案があるんだろ?」
残念ながら何も思いつかない。木野の「良い案」には、彼女を殺害することは入っていないだろうから。僕らの走る後に、道標のように血が落ち続けた。
誰とも擦れ違わなかったのが幸いだった。いや、もしかしたら僕が気がつかなかっただけかもしれないけど。
「木野はさ、加賀さんをどうしたいわけ?」
「あぁ?」
「今この状況で、どうしたいのかってことだよ」
最初の問いで異常な狼狽を見せた木野が、今度はサッと青くなった。
「僕は」言おうとして、口にするとあんまり残酷だから止めた。
「お前はそればっかりしか考えられないのかよ」吐き捨てる様に言った。「本当に冷たい奴だな。いくら鬼になったからって、人も殺してない、とっ友達を、倒すってのか」
まだ、が付く。
「じゃあ小節さんが殺されるのを待ってからなら良かった?」
「んなっわけ」
また木野に殴られる。覚悟して目を閉じた。
「木野君、それに久藤君!」
木野の手が出る前に、出し抜けに木津さんの声が聞こえた。見ると、道の向こう側に木津さんと風浦さんがいた。
木津さんは夜目の利く方らしい。道路を挟んで離れた歩道の上で、僕と木野を険しい顔で睨むと、「あっ」と小さな声を上げた。
「見つけたのね」
と、走り寄ってきた僕らに言った。
「酷い傷」
そう言ったのは風浦さんの方だ。作り物のような悲しい顔をして、僕の腕を覗き込んだ。
「見つけたら連絡してって言ったじゃない」
「余裕が無かったんだよ!」木野は肩で息をしている。
「で、鬼は?」
背後に彼女はいる。点々と、どころではなく大量に垂れ流した血痕が、彼女にとっての道標だった。遥か後方でふらつきながら走っている。もう殆ど歩いているのと変わらないような速度で。
「千里ちゃん、あれって」
「加賀さんだよ」
「うそ」
僕が言うと、木津さんは目を見開いた。木野が俯く。
「じゃあ、さっきの人から逃げた鬼が加賀さんに憑いたってこと? どうして」
「理由なんて知らねえよ」
「きっと近くに居たってだけだよ」
木野が苦しげに唸った。「俺がついてたのに。先にあいつを倒してりゃ」木野は鬼を追う途中で加賀さんの悲鳴を聞いて駆けつけたんだろうけど、取り憑かれる前に彼女を探し当てていたとして、間違いなく元の捕食者を――今は加賀さんに鬼を受け渡し、ただの人間となったはずの他人を――殺せたのだろうか?
いや、殺せるから、こんな危ない遊びを僕らは正義と呼んでいる。
「加賀ちゃんを放っておくわけにはいかないよね」
「さっきの奴みたいに、鬼が脱けるようにし向けるか」
「でも、それじゃ根本的な解決にはならないわ。鬼が人に取り憑いてる間にきっちり殺さないと」
そうでもしないと、捕食者の数は減らない。鬼に憑かれた人間を殺すと、鬼も死ぬ。これも、状況から考えて多分そうなんだろう、っていう予測でしかないんだけど。
「そんなのできねえよ! 加賀さんが可哀想だ」
「なら、その辺の他人に取り憑くのを待とうか?」
木津さんと木野がきつい目で僕を見た。風浦さんの顔は暗い影になって、表情を窺い知ることは出来ない。
「お前、さっきからホントに何なんだよ」
また、木野に胸ぐらを掴まれる。ひどい事を言っているのは判っている。
「木野君」と、風浦さんが小さな声で囁いた。それは僕らにとっては、物悲しい響きに思えた。
「手を離せ」
緩んだ手を振り払うと、その勢いで袖口からナイフが落ちた。足下に落ちた正義は、耳に鈍い囁きを残す。
「あ、やっと追いついた……」
道の向こう側に、加賀さんが立っていた。ここで論議している余裕なんて無い。木野のナイフを右手で拾った。
どう行動するのが一番まともなのかは、判っている。
「僕が鬼になる」
僕の右手に二本のナイフがある。一つはさっき拾い上げたもの、もう一つは左腕から抜いて血まみれのまま握っていたもの。木野のことだから、予備は幾つも持っているだろう。だけど念のため。
「加賀さんの鬼が僕に移るようにし向ける。その後に殺せばいい」
半端に口を開いたまま固まった木野の手を取り、その二本を握らせた。
「そ、そんなの簡単なことじゃないわ」
「あの鬼は」一歩ごとに、確かめるように歩み寄ってくる少女の精神は、「さっきも、痛めつけたら簡単に人から人に移ったんだよね? 加賀さんも弱ってるし、多分やれると思う」
「そうじゃなくて!」
「簡単だよ」
木野が二本のナイフを握りしめ、僕を睨んだ。
「僕は今月に入ってから、もう三人は殺した。木野の理論で言えば、僕は裁かれるのに充分な罪深さだと思うな」
言葉の綾だけど。
「殺せるかよ」
「そうだね。多分相当しぶといから、首を切り落とすぐらいしないと無理かも」
加賀さんが僕らの前に立った。やるべきことをやるしかない。
木津さんと風浦さんでは体力的にきついかもしれないけど、木野なら多分できるだろう。
とにかく、鬼が僕以外の人間を選べない状況に持って行けばいい。簡単だ。まだ僕の左腕の血は止まっていない。
「加賀さん、こっち」
左手を翳しながら移動すると、やっぱり彼女はつられるように追ってきた。
また鬼ごっこだ。今度は彼女が離れすぎてもいけないし、ちょうどいい場所を探さないといけないから、時々立ち止まったりしながらさっきよりも遅い速度で逃げる。
少し頭が朦朧とした。血を流しすぎたのかもしれない。でもこの後木野に殺されることを考えたら、僕の方もだいぶ弱っていた方が好都合だ。
木野達がちょうど見えなくなったぐらいで、目的に適った場所を見つけた。
廃墟のアパート。三階建てで、硝子の脱けた窓の奧に剥き出しの鉄骨が見える。都合の良いことに、入り口は封鎖され、周囲は高い塀に囲まれていた。加賀さんの体力では塀すら乗り越えられないだろうけど、僕なら問題無い。
右手を塀の上にかけ、まずそこへ飛び上がる。すぐ後ろを着いていた加賀さんが、僕の足を掴もうと手を伸ばした。
その手が伸びきる前にもう一段飛び、三階の窓の部分へ手をかけた。このまま二階の窓へ入っても良いが、どうせならと思って右手と壁を蹴った反動でそのまま上へ上がった。
月の綺麗な夜だった。小さく煌めく星座も見える。小石川区は時代に珍しく星が幾らかは見える地域だ。アパートの屋上から、まだ何カ所か電気の付いた学校が見えた。これも見納め。
廃墟の下で加賀さんが立ちつくしている。どう頑張ったってここへは届かない。でも鬼の奴はどうだ? その正体不明の存在は、人から抜け出して飛べるだろう。
周囲に人はいない。きっと、僕に取り憑こうとするはずだ。
屋上の縁に立った僕は、まだ血の流れ続ける左腕を彼女の上に翳した。黒い液体が落ちていく。
「あぁ、あ、あ、あ……」
加賀さんが小さく唸る。彼女は震えているようにも見える。それはほんの短い間だった。いかにも悲しげに眉を下げた顔に、変化が起こった。
大きく目を開いたかと思うと、まるで糸が切れた人形のように倒れた。
夜の闇の中には何にも見えない。でもきっと、鬼は彼女から逃げ出した。
新しい褥を得るためだ。そして僕は木野に殺される。きっと上手くいく。
「だめだよ、久藤君」
「え?」
風が、強い風が全身に当たったように感じた。誰もいないはずの、廃墟の屋上に少女の声!
「そんなことになったら、悲しむ人がいるから」
登ってきた時に見た。屋上には、確かに誰もいなかった。廃墟の内部にも人気は無かった。背後から近づいてくるのは、誰だ? 聞いたことのある声、だけど脳が上手く働かない。思い出せない。
「だから助けて上げる、ね」
彼女が僕の隣に並び、真っ直ぐに虚空を見つめた時、何かが弾けた音が聞こえた。眩しく乾いた音。聞いたことの無い音。
それが本当に音だったのか、もう僕には思い出せない。本当にそんな音が鳴ったのかも判らない。
でも、あの忌々しい捕食者の存在が消えたことが、はっきりと感じられた。こんなことは初めてだった。
今夜は、温い風が吹く。
「何で」
呟いた僕に、彼女は僕の方を向いてにっこりと笑って見せた。
「だって先生が悲しむから」
それは同じクラスの風浦可符香だった。