対話(二)

 バカな事をしたと思う。ベッドに体を縛り付けられたまま、眼球だけ動かして厚手のカーテンの襞を見た。薄明るい病室に、人間の呼吸が三つ反響している。見えない隣のベッドの横に、人が腰掛けているのが、シルエットだけ見えている。
 泣いているようだ。彼は長い時間をかけて、泣いているようだ。
 影は片腕をベッドに向かって伸ばしている。
 この体勢では時計が見えない。もうどのくらい、彼は泣いているだろうか。一時間も二時間も経過している気がする。
 隣のベッドに横たわる彼女に何か語りかけているように聞こえるが、よく聞き取れない。耳の中まで火傷で爛れてしまったからだろう。全ての音が遠く離れて聞こえる。
 彼の声は、他の全ての音よりももっと、遠くに聞こえた。錯覚。
 やがて影が立ち上がった。カーテンの開く音、閉じては、開く音。気配がすぐ側まで近付く。
 カーテンを開いて現れた望は、泣きはらした赤い目で准を見下ろした。
 准は包帯の隙間から薄目を開けて、彼を見上げる。意識のあることを悟られたくなかった。
「酷い怪我だ」
 遠くに、聞こえる。
「バカな事をしましたね。私なんかを助けるために、落ちてきた天井の下敷きになって」
 准の視界から望が消える。彼は先程までと同じように、ベッド脇に置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。准の視線は彼を追わない。ただ天井を見ている。
 遠くに声が聞こえる。
「いえ、私のためではありませんでしたね。常月さんのため、風浦さんのため、ですね」
 返事を待つように、望は押し黙った。
 准は答えない。口にあてられた人工呼吸器の存在がありがたかった。
「だけどこんな無茶をしてはいけませんよ。常月さんや風浦さんも大切な私の生徒ですが、あなただってそうなんですからね」
 この人は、自分が命を狙われていると判っていながら、こんなことを言えるのか。
 怯えていたのでは、ないのか。警戒されていたのではないのか。
 この場には、望の声を聞いている者は誰もいない。悲しく静かな病室の中、隣のベッドには意識のないまとい、望が語りかけているのは意識のないふりをしている准。
 彼の遠い声は、誰かに聞かせるための声ではない。ただ静かに自分の中へ響かせている。
「二度とこんなことはしないと約束して下さい。あなただけじゃない、常月さんも、風浦さんも、木津さんも……」
 震える声はどんどん遠くなる。
 これは下らない三文芝居だと、准の心の浅いところが笑った。何も信じられないと浅く笑った。だが笑えたのは薄皮一枚だけで、酷く虚しい。
 望が何か喋っている。いかに自分が心を痛めているか、心配しているか、と弱い声で語っている。准は黙って目を閉じて、それがあまりにも遠すぎて聞こえないふりをし続けている。
 聞こえていたって理解出来なかった。
 彼がどうして自分のために泣いているのか。
 判らない割には、薄目を開けて天井を睨み続けていた。疲れているのだから、もう眠ってしまえばいいのに。
 望が泣いている。顔を見なくても判る。声が弱く波打っている。嗚咽が聞こえる。
「あなたの上半身に火が燃え移っているのを見た時の私の心が、判りますか。代わりに死にたいと思うぐらい、ショックでしたよ。それでもあなたは私に向かって先に外に出ろと言う。怪我をした生徒を残して自分だけ逃げる教師があるものか」
 彼は理性と理想を語っているだけだと、准の意識の外側が安い判断を下す。
 だってそうだ、実際に望はまといと共に、准と可符香を残して先に外へ逃げたのだ。校舎に残った可符香と准が互いに支え合って辛うじて逃げられたのであって、そうでなければ彼は未だ焼け崩れた校舎の中だったかもしれない。
「だけど私は常月さんを背負っていた。彼女とあなた方を天秤にかけたわけではありません。でも、天秤は……」
 傾いた。重体のまといと、まといを助けに入った望と、その望を助けに入った可符香と、助けに入った二人の行為に背を押されてやっと、まといを見殺しにすることの浅ましさを知った准と、まといを背負った望と、無傷の可符香と、大火傷を負いながらまといを優先しろと望に言う准と、何が、天秤にかけられたのか。
 正しい方に傾く天秤。
「傷は痛みますか? ごめんなさい。風浦さんに支えられて校舎から出てきたあなたが、あまりに酷い火傷を負っているのを見て、私は思わず、焼け爛れた頬に触れてしまいました。あなたは喚いたりしませんでしたが、痛かった、でしょうね。風浦さんにも、それは流石に痛いと思いますよと叱られました。決して痛めつけようなどと思ったわけではないのです。ごめんなさい。私の手が、その感触を覚えています」
 准も、触れられたその感覚を覚えていた。焼けつく火傷の痛みを越えて、もっと熱い手の感触。
 瞼まで半分爛れ落ちた目では、一体どうして望が自分の頬に手を当てているのか判らなかった。望の表情が見えなかったから。
 見えたのは、望の手にべっとりこびり付いた自分自身の醜悪な体液の色だけだった。
「痛かったでしょうね。苦しかったのでしょうね。どうして私が代わってあげることができないのでしょうか」
 意識の上っ面だけを現実に残して、その声を聞かないようにしているつもりでも、弱く発音される単語の一つ一つが耳から融け込んでくる。
 意識が拒絶できない。
 どのくらいの間、そんな話をしていたのか判らないが、やがて望が立ち上がった。
 准の瞳の中に切り取られた狭い天井に、再び望の姿が映り込む。窶れたような彼の白い顔を見た時、薄目を開けていたことが酷く浅ましく感ぜられて、准は悟られないように目を閉じた。
 全ての影が消える。蛍光灯の白い灯りが瞼を透かして、薄灰色の世界だった。全身の痛みの他は、何もない。
 立ち上がった望は、何を考えているのか動かない。じっとこちらを見ているような気配だけを感じて、目を瞑ったまま准は何かを待った。
 それは彼がいなくなることだったかもしれないし、それとももっと判りやすい確かな言葉を聞きたかったのかもしれない。
 どちらにしろ、今の准は自ら動くことが出来なかった。不器用に周囲に睨みを利かせながら立ち止まっているのだ。そのくせ、待っている。
 足音が一つ鳴った。カーテンの擦れる音。
 彼は立ち去るのだ。准は悲しいような虚しいような安堵を得、疲れの中に意識を手放そうとした。
 だが次に、すぐ近くで足音が鳴った。
 ぎょっとする。唯一火傷が少なく剥き出しだった左の手に、突然温い物が触れた。
 手だ。一度立ち去ろうとした望が引き返し、准の手に自分の両手を重ねていた。やはり、泣きながら。
 人間らしいその温かさが、准にとっては恐ろしい。
「『勝手に諦めないで下さい』と、言いましたね。私はそれが嬉しかったんです。あなたが私に生きろと言ったことが。……そんなつもりじゃ、なかったのかもしれませんが、私はそう思ってしまったんです。そう勘違いさせて下さい。私なんかを心配してくれるなんて、久藤君は本当に優しいですね。だから、私を心配してくれた久藤君が死んでしまったら、と思うと、悲しくてたまらない。いやですねえ、こんな年になって、まだ泣き虫で」
 悲しいとは、何だろう。優しいとは、何だろう。
 自分は彼を心配、していたのだろうか。望は准に優しいなんて言うが、准には自分の心なんか判らないのだ。
 人並みの感情すら判らない。血の通った人間なら誰だって持っているだろうものも、判らない。
 判らないから恐い。判らない自分が否定されているようで恐い。
 望の手の熱さが、恐ろしかった。
 彼はこんなに温かさを持っている。当然のように他人である准を心配している。自分に敵意を向けていると判っていて尚、准のために泣いている。
 准には判らない。こんな感情というものが、一つも理解できない。
 これなら、心の判らない自分なんかよりも、彼の方がずっと人間らしいじゃないか。
 胸の奥底で鈍い痛みが毒のように広がる。
 もしかしてこれが、悲しみというものなのだろうか?

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