羽のないコルヴィ・ネーリ

 小さな背中が前を走っている。火炎を避ける薄い膜を纏っているかのように、軽い体の彼女は火に阻まれることなく真っ直ぐに走ってゆく。何度か名前を叫ぼうとしたが、全く届かないような気がした。
 あの細いからだは、血の失せるまで動き続けるつもりなのだろうか。彼女はこのまま火炎を乗り越えて、さらに手の届かない遠くまで消え入ってしまいそうだった。
 後を追う准は、何故だか判らないが、彼女に両腕を絡めて引き留めなければならないと焦っていた。
 しかし名前を叫ぶ事も出来ない。校舎に入ってから、何度か名前を呼んだが、彼女は振り返らなかった。
 彼女の走る先に、本当に彼女の望むものがあるのか?
 准がいくら訝ろうが、彼女が走り止むことはない。強引に絡め取らないかぎりは。留めるにしても、彼女は火炎にすら少しも怯んでいない。追う准も炎の中で耐えているという点では同じだが。
 再び侵入した校舎は、さっきにも増して火の海だ。火に好まれた木造の外殻が、黒く焼け爛れて尚燃えている。
 崩れそうな建物の骨格が、悲しげに軋む泣き声を聞かせていた。
 その廊下を走る可符香に、准は中々追いつくことができない。可符香の体は背に羽の生えた生き物のように軽く早い。対して准の足のひらは無理が祟って傷口が開き、点々と血が吹き出している。その赤い血も、火炎に飲まれて乾いていく。
 足の裏から火が染みこんでくるようで、回復が全く追いつかなかった。
 それでも准は可符香を追い、望の向かった先へ走っている。走らずにはいられない。
 床も壁も天井も一面の赤く照らし出された校舎の中だ。この校舎に存在しているのは、あと四人。
 二階に上がる階段を可符香が駆け上る。踊り場へ向かって跳ねる彼女の背中に、准が手を伸ばした。あと、少しで手が届く!
 轟音。
 火炎の爆発ではない。天井が崩れたのだ。既の所で可符香の腕を掴んだ准は、力強くその体を引き寄せた。
 二つの体が階段を転がり落ちる。必死で少女の体を抱き寄せた准は、階下に背中を打ち付けた。
 大した痛みでもない。それよりも、
「風浦さん!」
 慌てて腕の中の少女を確かめる。二つの目がやや驚いたように准を見上げた。
 無事だ。
 不思議な事に、可符香は服の端が多少汚れている他は、傷一つ、火傷一つ追っていない。
「久藤君……」驚いている、のではない。呆然としているのだ。
 心ばかりが焦って遙か遠くへ走っていき、体だけが取り残された抜け殻であるかのように見える。
「先生を、追わないと」
「判ってる。でも、こっちは――」
「この先に居るから」
「この先って」
 可符香が視線を持ち上げる。視線は真っ直ぐに、ある点で止まった。
「三階の資料室」
 迷いがない。彼女は、まといがそこに逃げ込んだ後に学校に到着したはずなのに。
「何でも、知ってるんだね」
「そうかな」
 整った顔が曖昧に微笑んだ。准の胸に凭れていた体が、短い間だけ暖かさと重さを増したような気がした。
 炎が迫る。その熱さとも違う体温が、自分の体に凭り掛かったままであることに、妙な痛みを感じてしまった。
 慌てて可符香の体を支えて、立ち上がらせる。
「こっちの階段は爆破されてるんだ」
「そうなの?」
「うん。だから回り道になるけど、向こうからしか行けない」
 廊下の逆端にある階段を指差す。
「ありがとう」
 わからない。再び走り出した彼女の隣に並んで歩調を合わせ、横目で無傷の姿を見ながらそう思った。
 なぜ望の居場所を知っているのか、わからない。自分でさっき言ったとおり、彼女は何でも知っているのかのように見えた。しかしその割には明らかに破壊されている階段を駆け上がろうとした。
 彼女の考えと存在が、わからない。
 それに、錯覚だろうか。可符香の走る速度が少し遅くなっている。まるで本当に、准の手に絡め取られてしまったかのようだ。
 遅くなったといっても、ごくわずかだが。落ちてきた天井に潰されそうになったのだ、多少慎重になっているのかもしれない。
 相変わらず彼女の両眼は淀みなく、走る先を見ている。
「危ないよ」火炎に包まれた廊下を走りながら。「ここまで来て、今更だけど」
「危ないって、私が?」
「うん。さっきも、危なかったじゃないか」
「私なら大丈夫。それより先生を助けないと」
「僕一人でも平気だよ。今からでも遅くないから、戻った方がいい」
 もう一つの階段に辿り着く。幸いにも、火の手はまだあまり及んでいない。
「私は、行かなきゃいけないから」
 可符香は准よりも先に階段を一段跳んだ。准は慌てて一段飛ばしに飛び上がる。追い越した。
 可符香が一段、二段、三段と駆け上がる。准は二段、四段、六段と先に進む。
 踊り場で、准は可符香を振り返った。
「風浦さんが?」
「私は」
 そこで、可符香は言葉を切った。後に何も続けず、無言で少し笑ったまま階段を登ってくる。
 跳ぶように階段を登る可符香は、すぐに足を止めた准に追いついた。また並んで走る。
「久藤君こそ、そんなに大怪我してるのに危ないよ」
「僕は頑丈にできてるんだ」
「そう。何のために?」
「何のため」
 二階まで登り切る。だが二階に用はない。可符香も准も、迷わずそのまま階段を登っていく。
 わからなかった。自分自身のことなのに、何故自分がそのような構造になっているのか、彼は全く知りもしなかったし、これまで疑問を抱いたこともなかった。
「多分、こういうことするためじゃ、ないな」
「こういうことって?」
「常月さんを助けに行くとか」
 彼はただ得体の知れない感情に突き動かされて、鬼を殺して廻っているだけだ。そのために、何故だか判らないが常人よりも少しだけ便利な自分の体が用意されているのだと思っていた。
 従って、鬼であるまといを助けに行くのは、使い道として正しくない。
「久藤君はまといちゃんを助けに行くの?」
 准の答えに、可符香は少し驚いたように聞き返した。彼女が驚いたことに、准は驚き返す。
「そうだよ。おかしいかな」
「だって久藤君は鬼を憎んでるんでしょ?」
「うん」もう、さして驚かなかった。誰にも吐露したことのない感情だったが、彼女にそれを見透かされていたとしても、不思議と嫌悪感も湧かない。
 やっと三階まで辿り着いた。一度、准達が暴れたせいで、廊下は崩壊が激しく、また火の手も強い。
 廊下の奥、資料室の方は陽炎に揺れてよく見えない。火炎が激しく暴れていた。
「先生!」
 可符香が悲痛な声で叫んだかと思うと、火炎の奥から二つの影が飛び出してきた。
 可符香が駆け寄る。
「あなたたち、どうして」
 望が、気を失っているまといを背負って炎の中から現れた。可符香と准の姿を発見して、酷く驚いている。
「助けに来たんです、先生を。言いましたよね、私は先生を生き存えさせたいんだって」
「ですが風浦さん、それであなたが危険な目に遭うことはないのですよ」
「このくらいは、別に」
 まといの袴に燃え移った小さな火を、可符香は無造作に握りつぶした。一カ所だけではない。望の袴にも火が燃え移っている。望の足下にしゃがんだ可符香は、その全ての火を自らの手で握り、引き千切った。
「風浦さん!」
「平気です。それに、私一人で来たわけじゃありませんから」
「いえ、手が……」
「先生、こっちです」
 全ての火を消した後、可符香は握った手を開かない。そのやり取りを、准は少し離れた場所から険しい顔で見ていた。可符香と望が自分の方へ近付いてくる。遠くにあっては陽炎のように不安定だが、近付く程にはっきりとした輪郭と色彩を認識させる。
 近付いてくる。
「く、久藤君、あなたも助けに来て下さったんですか」
「常月さんを助けに来たんです」
 碌に望の方を見ずに言った。
「常月さんをですか?」
「そうです」
 望達を先導するように、准は廊下を走り出す。途中、落ちてきた天井のパネルを右拳で跳ね飛ばした。
「僕は、常月さんがどこに居るか知ってましたから」
 准は振り返らずに先を進む。後に望と可符香が着いてきているかどうか、足音でしか知ることが出来ない。まといの状態も、まともに見ては居ない。それでも自ら振り返ることが出来ない。
 階段を下りる。一番上の段から、一気に踊り場まで飛び降りた。
 助けに来た、等と言いつつ、自分に出来ることなど結局何一つ無さそうだ。飛び降りた下の、踊り場に転がる割れたガラス片と、外れて転がり落ちてきていた階段の手すりを足で蹴り飛ばし、火を蹴散らしながら、後から来る二人の通り道を開く。出来ることはこのぐらいしかない。他に何にも思いつかなかった。それが虚しく、また後ろめたく思う。
 まといを背負った望は階段を下りるのも容易ではない。可符香がまといの体を支え、望の手助けをしている。その二人が階段を下りてくる音を聴き、背後に近くなったら、また階段を飛び降りる。
 自分は他人を傷つけるのには慣れていても、助けるのには不慣れらしい。その点逆に、鬼に憑かれていると疑わしい望は何の見返りもなく自分の生徒を助けようとしている。
 皮肉ですらない。自分が空虚なだけだ。
 一階の廊下が見えた。あと少しだ。准はこれまでと同じように、踊り場から廊下へ飛び降りた。
 少し、気が逸っていた。飛び降りた下の廊下が全く完全に黒く焼け焦げていたのを、見落としていた。
 片足を着いた場所が、バキンと音を立てて床が抜ける。
「久藤君! 大丈夫ですか!?」
「え?」
 着地した場所で体勢を崩しながらも、殆ど反射的に准は望の方を振り返った。
「何が起こったんですか!? 今そっちに行きますから!」
「な、何でも」無い、と呆然として答えた。驚きのあまり、全く声量が出なかった。
 まさか、自分が心配されるとは思っていなかった。何しろ彼は望を疑っているのだし、その癖私利私欲から常月まといを見捨てたのだし、望から心配される謂われはないし、心配されていいはずもない。
 躓きそうになりながらも、望は可符香に支えられて階段を駆け下りてくる。
「片足が嵌っただけです。大したことはありませんから」
 隣まで近付かれる前に、准は慌てて言いつくろった。
「そうですか? それなら、良かった」
 良かった、だって? 自分が無事で良かったと、本心からこの人は言っているのか?
 混乱する。准の精神には虚しさと後ろめたさがあるのに、望がそれを絶無にするかのような、透き通った何気ない言葉をかけるからだ。
 准はまた望達から目をそらし、先を急ぐために床から足を引き抜いた。追いつかれないように。

「火が、凄いですね」
 その場を和ませようとして、判りきったことを望が言った。言った後に、熱い煙を吸い込んで激しく咳き込む。可符香が望にハンカチを差し出し、両手の塞がっている彼に代わって口元に当てた。
「でも、あと少しで外に出られます」
「そうでしょうか」
 熱気の中の会話を、准は背中で聞いていた。
 あと少し、だ。一階の廊下まで来て、もう外までは校舎の外壁一枚しかない。
 あと一枚。頑丈な壁が、あと一枚だ。木材が燃焼し、鉄骨が赤々と輝いている頑丈な壁が彼らを取り囲んでいる。熱に炙られた窓ガラスが奇妙に歪み、黒ずんでもう外も見えない。
 そう簡単じゃない。出口が、無いのだ。
 天井が崩れた。燃え続ける大量の破片と膨大な火炎が、廊下を塞ぐ。
「ああ、道が……」
「大丈夫ですよ。こっちが駄目なら、あっちがあります!」
「だけど、校舎の出口はもう他には」
「先生、あきらめるんですか?」
 背後の足音が止まった。進む先が無いのだから、仕方がない。それでも火の壁の中に逃げ道を探そうとしていた准と、望の距離が少しずつ広がる。可符香が間に立っていた。
「私が足手まといなんですね」
「先生?」
「よくよく考えれば、どうして私なんかが常月さんを助けられると思ったのでしょうか。風浦さん、あなたがさっき言ったように、虚弱で貧弱な私が火災現場で人助けが出来るなんて思い上がりもいいところです」
「私はそこまでは言いませんでしたが」
「どうぞ私を置いていって下さい。あなた方と、常月さんだけなら助かる見込みがあります」
「先生、本心ですか?」
「ええ、もちろん。私はここで天寿を全うします」
「先生がそれを望のなら、私は」
「馬鹿なことを言わないで下さい」
 准がやっと足を止めた。張り上げた声で叫ぶ。そうしないと、後ろに離れた二人に届かないような気がした。
 錯覚だ。実際はそこまで距離が離れていなかったことに、振り返ってから気がついた。
「動けない常月さんを自動的に運ぶ人間がいなくなると困ります。先生は自分が辛いだけでしょう。ベラベラ喋ってる間があるなら、逃げる方法の一つでも考えて下さい」
「それは……」
「ともかく、勝手に諦めたりしないで下さい」
「は、はい。でも、どうしましょうか」
 視界が熱さに揺れて、お互いの顔も見えない。准は早口で言いたいことを捲し立てた後に一息ついて、やっと自分から望の方へ歩み寄った。
 頭に血が上っていた。そうでなくとも、全身の血が沸騰しそうな温度なのに。
 望の目尻に涙が浮かんでいるのを見て、准の体で逆巻いていた血が戸惑って血管の中で滞った。
 なにを、言っているのだろう。言い合っている場合じゃないと自分で言ったじゃないか。
「考えがあります」
「はい」
 可符香が黙って准の方に目を向けた。可符香は、笑っていた。微笑んでいた。何も言わないが――。
 望が大人しく頷いた。
「あそこ視聴覚室の教室後方に、校庭に出るドアがあったはずです」
「ああ! 確かに! 普段入らないから忘れていました」
 望が、早速とばかりに視聴覚室に向かって駆け出そうとした。
「待って下さい」呼び止める。
 望が足を止めた。
「視聴覚室のような密閉された部屋のドアを不用意に開くと、バックドラフトの危険性があります」
 准のこめかみから、大きな汗の粒が滴り落ちた。汗は次から次に溢れ出してくる。
 バックドラフトとは、火災現場で起こる爆発現象の一つである。室内など密閉された空間で火災が生じ、室内で不完全燃によって火の勢いが衰え一酸化炭素が溜まった状態で窓やドアを開く事によって、大量の酸素が送り込まれた場合、激しい爆発が起こることがある。
「では?」
「僕が先に行きます。先生と風浦さんは、ここで待っていて下さい」
「もし爆発が起きたとしたら、久藤君が巻き込まれてしまいますよ!?」
「いいえ、寧ろ爆発を起こすのが目的です。爆風で出口のドアを吹っ飛ばします。そうでもしないと、熱で歪んで開けなくなっていると思います」
 准は、前方の教室の扉を指差した。金属製の扉が拉げて、枠と歪に絡み合っている。教室の扉は引き戸だ。その戸の、ちょうど准や望の目線辺りには、虚ろな窓が空いている。ガラスの落ちた窓から果てしない火の海が覗いている。時折、火の波がこちらにはみ出して、火の粉を飛ばす。
「まあ、視聴覚室のドアもこんな状態だったら、終わりですけど」
 准は押しとどめようとする望を無視して、歩き出した。
 別に自己犠牲の精神ではない。留まっていては、皆死ぬだけだ。結末としては最悪のパターンだろう。それを回避するのに、尤も単純で手の届きやすい方法を考えたに過ぎない。第一、准の体は他者よりも幾分丈夫にできている。爆発に耐える可能性も、無くはない。
 いや、やはり自ら犠牲になろうとしているろうか。彼は一度まといを見捨てたことが後ろめたいのである。償い、なんど陳腐かもしれないが。
「それなら、私が先に行くよ」
「え」
 准が振り返ると、可符香が微笑んでいた。彼の胸中を知ってか知らずか、少し小首を傾げて、涼しげに微笑んでいた。
 可符香は、その陶器のような肌に汗の一滴も浮かばせていない。今、准と向き合って間二メートルほど、確かにその距離の向こうに居るはずなのに、しかしそれはレンズに映した虚像であり、実像は果てしなく遠くにあるかのように思える。
 元々不思議な少女だったが、今当に言った言葉によって、尚更幻めいて、認識にノイズが走った。
「そういうことなら、私の方が適任だよ」
「適任って」
「ドア開けて、出口を吹っ飛ばせばいいんだよね? うん、簡単簡単」
 可符香は、遠い。実像はここにない。死に瀕して息の詰まる薄ら明るいこの場所には無く、もっと遥か遠いところで確固たる存在として光を放っている。太陽のように。
 彼女なら、できるのではないか?
 准も望も、口を挟めなかった。可符香は准の横を素通りし、視聴覚室の扉の方へ廊下を進んでいく。道は火炎に包まれているが、彼女の足取りは何の障壁も感じさせない軽いものだ。
 残された二人は、可符香を止めることができなかった。足が竦んだ。自分が前に出ることが、できなかった。弱い、人間、なのだ。
 では可符香は? 彼女は一体、何なのだろう。
「あ。ドア、開きそうですよ」
 扉に手を掛けた可符香が言った。視聴覚室のドアは開き戸になっている。金属製のドアノブは、赤く熱されて鈍く光っている。それを、何でもないように可符香は握った。
 おかしいと思う間も無かった。可符香が望と准を取り残してしまってから、一瞬を感じる隙間も、彼女は二人に与えなかった。

 激しい音と風が通りすぎるまで。
 真っ赤な閃光が弾けた時、准と望の頭の中でも、同じように高熱が爆発した。
「風浦さん!」
 二人は同時に叫んだ。
 熱い風が全身を叩き、痛みに強い痺れが伴った。皮膚裏の神経がチリチリ痛む。脳髄に伝わり、意識まで痺れる。瞬間、体も心も堅く凝り固まった。
 だが体の痺れよりも、意識の痺れの方が先に解放された。行かなければならない!
 二人とも弾かれたように、痺れた体のまま反射的に走り出した。動き出したのはほぼ同時だったが、荷物を持った望が遅れてしまう。
 互いのことなど構えるはずもない。准も望もただ、可符香の消えた視聴覚室に向かって、走った。
 視聴覚室の扉が吹き飛び、大きく口を開いている。
 そこへ駆け込んだ准は、くすぶる火炎と火の粉の中にあった、光景に、はっと息を呑んだ。
 可符香が立っている。
 全身真っ白な肌を露わに、佇んでいる。それまで着ていた服の切れ端が小さな灰になて、爆風の名残に舞っていた。
 彼女が纏っていた全ては燃えて灰になってしまっているのに、彼女自身は美しく無傷だ。
 未だ残っている火炎の名残はむき出しの肌をその舌先で舐め回そうと試みているが、火傷一つ負わせることができない。
 准は茫然と、その白いからだに、見とれた。声も、出ない。
 阿呆のように瞬きを繰り返す准の方を、可符香はゆっくりと振り返った。
 その小ぶりな胸を両腕で覆い、少し恥ずかしそうに笑う。
「私は耐火性なんです」
 外からの風が吹いていた。窓ガラス全てと、校庭へつながる扉が全て無くなっている。
 もう、すぐに外に逃げ出ることができる。まだ多少の火炎が燃えているが。
「君は、一体」
 何なのだろう?
 そこに立っている、人間と同じ形の柔い何か。
 片や、人間と同じ形の堅い何か。
 向き合った可符香と准の視線は、悲しくも確かに交わった。その距離感だけが神経を伝わる信号の全てとなり、辺り全てがまっさらに消滅してしまったかのようだ。
 二人しか存在しない。それでいて、二人の間にははっきりと認識できる距離がある。交わるべき何かがある。見つめ合う視線の交点。
 交点が存在するからこそ、二人は今ここで見つめ合っている。永遠のように。
 ミシミシ、と何かが軋む音が鳴る。天井から、火の粉が降り注ぐ。
 可符香ばかりを見ていた准は、はっと天井に目をやった。天井を支える太い材木の骨が、黒く燃え上がりながら、不気味にゆっくり揺れている。
 可符香の、真上だ。可符香は気付いていない。気付いているのかもしれない。彼女の真相は判らない。
 だが、危ないと思った時には飛び出していた。
 音を立てて、天井が落ちる。

さよなら絶望先生 目次

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