無害な境界線

 映画のチケットが有るんですけど、と常識的で当たり障りのない理由で彼女に誘われた。夏休み目前の日曜日。彼は迷った。当たり障りのない理由でも、嬉しかった。だけど少し迷った。彼女が自分に笑いかけるのは、純粋な好意からというだけでは、ないのではないかと感じていたからだ。
「先生、行ってきなよ」
 彼の仮の住まいである宿直室で、そこに引きこもる小森霧が同意したのは意外だった。猛烈に反対するのではないかと糸色望は内心で心配していた。以前住んでいた家の隣人だった女子大生、その彼女が突然宿直室に現れた際、霧がはっきりと彼女を睨んでいたのを目撃していた。どうも険悪な様相を感じて、喧嘩を始めてしまうのではないかと思ったのだ。
 しかし、彼女が望に外出を提案しに来たと知ると、霧は望に彼女と出かける事を勧めた。
「先生が居ない間に部屋の大掃除したいし」
 それも、尤もな理由だった。毎日だらだらと過ごす望が居ては、部屋の掃除も行き届かない。
 だが霧がそんな事を言うのに、何となく居心地の悪さを感じた。いつもなら引き留めるだろう所、普通の反応ではない。霧には何か思うところがあるのだろうかとの不審。誘いに来た彼女の笑顔にも、不透明な意図が隠されているような気がする。どうにも疑り深くていけない。
「行ってらっしゃい」
 霧に半ば押し出されるようにして、望は彼女と出かけた。
「お休みの日に突然お邪魔して、ご迷惑じゃありませんでしたか?」
 誘い出した彼女は始終静かに微笑み、必要なタイミングで望と会話を交わし、完全に自然な発音で言葉を喋る。演技めいた彼女の言動は、しかしそれでいて不審さや不自然さは無く、内心で戸惑っている望にとって心地よいものだった。にも関わらず、望は抱いている疑念で会話も気が気でない。彼女の隣で見た映画の内容も、碌に覚えられなかった。
 映画館のを出てすぐ、大通りに面した喫茶店があった。硝子越しに賑やかな人混みを眺める立地でありながら、店内は静かだ。穏やかな音楽がスピーカーから流れている。
 二人はアイスコーヒーを注文した。クーラーの効いた映画館から放り出され、短い距離でも夏に近い気温の中を歩いた彼の咽に、ストローから冷たい液体が流れ込んだ。背の高いグラスの中で氷の崩れる涼しい音が鳴る。
 望は、彼女の水滴の付着したグラスに添えられた手、そこから伸びる剥き出しの白い腕、薄い布で覆われた肩、そしてまた剥き出しの咽を順繰りに見た。ストローから吸い上げられたコーヒーが、ささやかな動きで彼女の咽に飲み込まれていく。視線の先で滑らかに動く肌に、望の脳髄が、痺れた。その奥に蠢く生命のうねりに。
 いいや、そんな事を考えている場合じゃない。折角二人っきりなのだから、訊きたいことが山とあった。しかし、何と切り出せばいいのか判らない。
 彼女を疑っている。疑うといっても、彼女の精神に悪意が宿っているなどと言いたいのではない。ただ、どうしようもなく不安なのだ。彼自身が不自然な存在であるのに、それを知りながら善意を見せる彼女の真意が不安なのだ。
 善意であると思う。それは疑わなかった。というよりも、真実であって欲しいと縋るような気持ちだった。
 でも本当の所は判らない。疑い出すとどんな些細なことでも疑わしく、今日こうして誘われて出かけていることから、春に近所の桜の名所で初めて出会ったことまで溯って疑い出す。今まで何も考えずに交わした会話だとか、以前差し入れてもらった彼女の手作りの肉じゃがだとかカレーだとかまで。
 こうしてる彼女の振るまいが演技だとは判っていても、疑いたくは無い。だけど裏切られているのではないかと、しきりに不安に思う。
「先生?」
 じっと目を伏せて黙っている望に、彼女は少し不安げに問い掛けた。
「あんまり面白くありませんでしたね、映画」
「あ、ええ。確かに……」
 覚えていない。彼女は当たり障りのない内容の会話で様子を探っているように見えた。
「今度はもっと面白いのを観に行きましょう」
「今度?」
「嫌、ですか? 先生と、またこうして一緒にお出掛けできたら、いいなって」
「嫌なものですか。是非またご一緒させて下さい」
「良かった。嬉しい」
 本心だ。望は本心から彼女の誘いを喜んだし、彼女が自分に善意を向けてくれる事実は、心臓を切なくしめつけられる程に嬉しい。その感覚は真実だった。
「じゃあ、次はどこに行きます? あ、そうだ映画。映画ですよね。もっと面白いのって自分で言ったのに。いつなら、お時間ありますか? 先生は来週から夏休みなんですよね」
 はしゃいでいるように見えるのが、演技だと判っていても嬉しい。演技だとしても、彼女は本当に自分と共にいることを喜んでくれているのだと感じられて。それが本当なら、と幻想を抱く。
 しかし幻想が膨らむ程に、疑いも増す。
「ええ、でもその前に」
「はい」
 不安が口を吐いて、出た。
「次も変装して来ますか? 風浦さん」
 彼女が目を丸くした。薄い化粧の奥でぴくりと神経が張りつめるのが見て取れる。彼女はグラスに添えていた手を離し、少し水滴に濡れた指で自らの頬に触れた。
「いつから気付いてたんですか?」
「いつから……というのではありません。薄々感じていたんですよ」
「でも、確信を持てなくては言い出せないでしょう」
「逆にお訊ね致しますが、あなたは私を騙し通せると思っていたんですか?」
 風浦可符香は望を見つめたまま何度か瞬きをして、唇を振るわせた。鬘で髪型を変え、化粧と服装で大人びて見せているけれども、彼女は確かに可符香だった。見事なまでに整然と並べられた目鼻立ちは、髪型や化粧では誤魔化されない。しかしあまりにもきちんと並べられているがために、その容貌は何度見つめても記憶に残せない映像になる。まるで眩く光を放っている太陽のようで、それ故に風浦可符香は風浦可符香だった。
 その作り物じみた顔が――実際、誰にも作られないで存在を得る生物はあり得ないのだが――少しばかり歪んで、そこに意志が存在するのだということを示す。
 望の質問は可符香を困惑させた。追いつめるつもりなど全く無かったが、彼女が人間らしい反応を返したのに、望は微かな歓びを感じた。
「思っていました」
「あなたの行動は、どちらの姿でも一貫していましたよ。私に食事を取らせたいのですね」
 望は今ようやく彼女に微笑みかけた。彼女に誘われて、二人並んで宿直室を出てから、一度もの望は笑っていなかった。
 可符香が頷き返す。望とは逆に、それまで笑っていた顔が無表情に変わっていたが、それは無理に作った表情よりも美しく見えた。彼女も驚いたり不安になったりするのだ。
「どうしても嫌ですか」
「嫌、ですねえ。得にあなたなんかを食べるのは嫌ですよ」
「私以外ではどうですか。千里ちゃんとか、奈美ちゃんとか。正直に事情を話せば了承してくれると思いますよ」
「そんな問題ではありません」
 彼女があっさりと他の人間の名前を出したのに、望は些か驚いた。驚いた? いや、それよりも悲しみというか苛立ちというか、そんな感情のような気もする。
「何なら捕まえてきましょうか。久藤君とか、多分とっても美味しいですよ」
 嫉妬なんだろうか。思い上がりなんだろうか。彼女が好意的に接してくるのが、本当に好意からなのなら、と。やはり幻想なんだろうか。
「彼は相当抵抗するでしょう」
「難しいですね」
「あなたは腕も細いのだから、あまり暴力的な事は向いていませんよ。それに私は平穏に暮らしたいのです」
「しかし死んではそれもできません」
「現世で幸せを掴めないなら来世で幸せになります」
「現世の幸福はちょっとした努力や工夫で得られますが」
「あなたが言うと、何かの宗教みたいですね」
 苛立ち、か。彼女の真意が見えないのに、自分だけが彼女に近付きたくなってしまっている。彼女も近付いて来てくれているような気もするけど、真意がわからないからそれを真実と取って良いのか不安。また、自分がおぞましくて罪深いのだと常日頃から思い詰めているだけに、不用意に近付いていっては彼女に被害がでるのではないかと不安。
 不安と苛立ちは繋がっている。不安に対面してどうすることも出来ない不甲斐ない自分に、苛立っている。
 今日、こうして彼女の誘いにのったのは、不安をどうにかするための行動を、どうにかやってみようと思ったからでもあった。ここは白昼の街中で、自分も彼女も間違いを起こしそうにない時間帯で、できるだけ理性的に受け答えが出来る状況。この機会を逃したら、次を得られるかどうか判らない。夏休みに入れば、彼女と顔を合わせる理由も減る。
 今しかない。今ちゃんと話をしないと。
「風浦さん、あなたはどうして私なんかを気に掛けるのです」
「そうしたいからです」
「理由になっていませんよ」
「全ての行動には理由が存在しますか? 例えば神に操られての行動だとしたら、その理由は人間には理解出来ません」
「また煙に巻こうと言うのですか」
「先生はコーヒーがお好きですね。職員室や宿直室でも良く飲んでいるし、今も飲んでいます。飲んでいる理由は? コーヒーが好きだから。コーヒーが好きな理由は? 私にはその先は判りません。何故なら先生はその理由が判っていないので、私は先生からその理由を聞き出す事ができないからです」
「はあ」
「つまり、理由はそういうことです」
「コーヒーと同じ?」
「そうです。先生がコーヒーを好きなので愛飲する、その理由を突き詰めて説明できないのと同じです」
「あなたは、また……」
 可符香は漠然とした理由を語り終え、たおやかに口元を緩めた。微笑んでいるようにも見えるが、微笑んでいないようにも見える。望を柔らかく見つめていた。
 それにしても可符香が言った理由は、何と漠然として強烈なのだろう。彼女が望の生命に好意的な行動を取るのは、つまり説明の付かない一つの意志に基づくのだと言うのか。言語化不可能な人間の精神の根幹から産まれるもの、もっと言えば生物全ての原意識に存在する一つの意向。彼女はごく普通の例え話を選んだのだども、少なくとも望はそう解釈した。
 望は二の句が告げられずに、可符香から目をそらした。彼女にそこまでの意志があったのかと、胸を押しつぶされるような気持ちだった。彼はその容姿からしても、女性からそのような感情を向けられることは多いのだけど、いやしかし慣れない。女性から擦り寄られるとすぐに不安が勝って、慌てて身を引いてしまうからだ。それは望の出生の秘密による所よりも、元々の性分によるところが大きいのかもしれない。
 しかしそれにしたって、彼女は格別だった。今までに感じた不安などよりも深い、切ない息苦しさだ。それは彼女が何度も望の秘密を受け入れると言明しているからなのか何なのか。
「質問を、変えましょう」
 短い沈黙の後、望は慌てて提案した。このまま黙っていては彼の望んだ真実の解明には至らないし、何より早く脈打つ自信の心臓が間違いを起こしてしまいそうな気がした。
「あなたの目的は何ですか?」
「先生の寿命を延ばすことですよ」
「それは私に食事を取らせることの、目的ですよね」
「そうです」
「では、他は?」
「他というと」
「幾つも、有りますよ。まず今変装していることの、目的」
「だって先生、生徒に手を出すことを躊躇ってたじゃないですか」
「私が生徒に手を出す意志を持っていることを前提に話さないで下さい」
「生徒に手を出してしまうと、流石に教育委員会に訴えられますものね。学校からも解雇されてしまいます」
「その上多数のメディアでロリコン変態教師として大々的に祭り上げられてしまうに違いない! 高校生でロリコン認定はあんまりだ」
「つまりこれはリスク回避です。先生、絶望的な事を言ってちょっと元気出ましたね」
「気のせいですよ。茶化さないで下さい、質問はまだ有るんです」
「はい、どうぞ」
 望はふうとため息を吐いた。彼女の言うとおり、馬鹿馬鹿しいことを言ってみると、少し気が晴れた。彼女はその時々で必要なように会話を誘導してみせる。元気づけようとしてくれているのは判るけども、そっと話を誤魔化されそうにもなる。惑わされないように、と望は自分に言い聞かせた。
「あなたは私を生かしたいのですよね」
「その通りです」
「つまり私の事情に詳しいのですね。何故ですか?」
「それは答えられないことになっています」
 望は可符香の口元から、二つの目へと視線を動かした。彼女は以前からある物語を読み上げるかのように返答した。読み上げた本人の目は、はっきりとこちらを見ている。物語は、望の顔に記されていたのだろうか?
「答えられない理由も、答えられませんか」
「そうですね」彼女は少し考え込んだ。「知らないことは、答えられませんね。調べましょうか?」
「調べましょうかって、それを私に言うんですか」
「お望みでしたら」
 何だかよく判らない。不明瞭な事実の塊に、少しでも解明できればとメスを入てみたが、切り込んだ傷口から訳の判らないものが溢れ出てきた。それは事実の臓物に違いないが、形状も色彩も捉え所がない。従って名付けようもない。あやふやな結果ばかりで、目の前にいる少女が、幻のように消えてしまいそうに思えた。
「今すぐに判らないのでしたら結構です」
「では、後ほど結果をお伝えします。それで良いですか」
 望が頷く。可符香が、「いつになるか判りませんが」と付け加えた。
「話が逸れました。目的、という話でしたね。もう一度確認しますが、あなたは私を生かしたいのですよね」
「それはもう」
「ということは、あなたが私に対して取るアクションは、結果的に私の生命に関わることなのですね?」
「どういうことでしょう」
 可符香が首を傾げた。
「些細な行為にも、理由があったのかどうかが知りたいんです。さっきのような、その……、大きな理由ではなくてですね、目先の目的というか」
「ある、んじゃないでしょうか」
「また曖昧な」
「だって先生も、自分の行うあらゆる行動の一つ一つに、自ら目的を明確に理解してますか。或いは考えていますか。なぜ手前側の席に座ったんですか? なぜ座ってから暫くして荷物を窓側に置いたんですか? なぜ店員さんが同時に持ってきた二つアイスコーヒーを、私の方に先に進めて下さったんですか?」
「それは確かに考えてはいないこともあります」
「でしょう」
「しかし、考えていることもありますよ。あなたの方に先にコーヒーを出して貰ったのは、その方が常識的だと思ったからです。このように、些細なことでも答えられる理由もあるでしょう?」
「そう、ですね」
「判らないのであれば、判らないと答えて頂いて結構です。一つ一つ、教えて下さい、理由を」
「長い話になりそうですね。コーヒー、お代わりしますか?」
「いいえ結構です。あなたは……」
 望はもう一度、視線を彼女の両目へ向けた。やはり真っ直ぐにこちらを見ている。一点の曇りもなく、悪意など僅かも含まない、清んだ目線だ。何故自分はこのような純粋な相手を疑っているのだろう、とこちらがやましい気持ちになってしまいそうだ。根掘り葉掘り質問したりして、卑しい行為のような、気がする。
 訊ねるのは最小限にしよう、とまた気弱なことを考えた。ここまでも、無遠慮に聞きすぎた。
「まず最初に、そう。初めて会った時」
「桜の木の下でしたね。先生は首に縄を掛け、大木の力を借りる事で身長を伸ばそうとしていました」
「そうではなくてですねえ。いや、それは今は良いのです。あなたは、私を待っていたんですか?」
「はい。学校に行くには、あそこを通らなければいけませんね」
「あの時点で私に会わなくてはならなかった理由は?」
「会いたかったからです」
「そんな、また」望は続ける言葉を見つけられず、息を呑んだ。
「次の質問は?」
 可符香は表情を変えない。やはり既に決まっている物語を読み上げているだけのような、そんな様子だ。
「あなたは私が他人と接する時に、仲介をするかのように間に入ってくることが多々ありましたね」
「例えば?」
「有り体に言ってしまえば、常月さんや小森さん、その他二のへの生徒達ですよ。それ以外にも居ますが」
「それは先生の食事に合うのかどうかを考えていたからですよ。それは、判って言っているでしょう?」
 判っていた。というよりも、望が他人を見る時には、相手が健康そうな人間であるならば大抵は心の何所かで薄汚い欲望を滾らせている。食えるかどうか、本能の穢れ。どんなに押さえていても心に棲み着く悪鬼が舌嘗めずりして獲物を待っている。
 可符香は望に食事を取れと言う。食材について、それが望の好みに合うかどうかを彼女が逐一確認していたのだと、既に勘付いてはいた。
「笑顔で言うようなことじゃ、ないと思いますけどねぇ」
「そうですか?」
 可符香は、そう表情を変えないのだ。望にとって食事を取ることは恐ろしい行為に違いないのに、それを勧める可符香は微笑み、悪意の欠片も見せない。望は彼女の勧める行為が彼女と同じように清潔なものであるような、そうでないにしても少なくとも悪行ではないかのような気がしてしまう。
「食事といっても、何も相手を殺さなくたってできますよ。ちょっとだけ血を吸わせてもらえばいいんです。そんなに罪悪感で凝り固まることはないんじゃないですか」
「駄目です! 何度も、同じことを言わせないで下さい」
「気が変わらないこと、残念です」
「話を逸らすのも止めて下さい。次、先月の図書館の一件は覚えていますか?」
「大草さんのことですか」
「違います。何の話ですか?」
「あれ、違いましたか。六月の二十二日、大草さんと久藤君が一緒に委員会をさぼって帰っちゃったことがありましたよね。あれ、嘘ですよ」
「嘘?」
「別に二人とも用事があったわけじゃないんです」
「というか、あの二人が一緒に帰ったんですか」
「そうなんですよ。まあ、それは些細なこと。先生にも私にも、そんなに関係は無いですね」
「待って下さい、二十二日に何があったのか思い出せません。確か、その翌日にあなたが初めて私の家に訪れて、その……」
「訪れたのは初めてではありませんでしたが、初めて直接的に食事を取って貰おうとした日でしたね」
「そのことと、大草さんと久藤君のことが関係あるのですか」
「ありません。私があの日に先生のお宅に訪れたのは、ちょうど交君がお泊まりで出かけていたからです」
「それだけではなく、周辺にクラスの皆が居ないことを知っていたからでは」
「ああ、そうです。そうすると、全く無関係でも無いです。図書室で事件が有ったから、皆が出かけていたので」
「私は、何にも知らないんですね」酷く情けない気分になった。
「説明しましょうか? あんまり先生に関係のある話じゃないですけど。それに、もう済んだことです」
「いいえ、結構です。何となく判っているつもりですから。それよりも今はあなたの話を聞きたい」
「図書館でしたね。その前のことですか? まといちゃんと久藤君が喧嘩した日のこと」
「そうです。それにしても、あなたは何でも知っているんですね。私とはまるで逆だ」
 可符香はふと考え込むように首を傾げ、「そうなんでしょうか」と誰に対してでもない疑問を呟いた。
「あそこに現れたのは何故ですか」
「危ないと思ったからです。先生、あのままだと久藤君に殺されてましたよ」
「まさか。いや……」
「本当に、まさかと思います?」
「やっぱり、そう、なんでしょうね」
 望は項垂れて首を振った。
「不思議ですねえ。あんなに疑っている素振りを見せているのに、実行に移したのは一度だけです」
「わ、私は、あの時は明確に殺すつもりは」
「久藤君の話です。もちろん先生は殺すつもりなんて、ありませんでしたよね?」
 あった。あの時彼は、正体が知られてしまった以上はその口を封じるしかないと、追い詰められた犯罪者然とした思考に挙動を支配されていた。
 それだけでは、ない。
「だって食べさせてもらうにしたって、完全に息の根を止める必要はありませんから」
 確かに手を振り上げた時に、喉の奥から込み上げてくる熱い欲望を感じていたのだ。彼がこの場に居ない今でさえ思い出すと胃がねじれそうになる。あの落ち窪んだ暗い目、左右対称の顔の上に整然と二つ並び、深井戸のように松明の灯りも届かない双眼。何故だかさっぱり判らないが、あの目を見ていると腹の虫が疼く。それは他人にとっては驚異であり、自分にとっては恐怖の対象である食欲に他ならない。彼の視線が望の欲望をつつく。
 だから望は前々から彼が苦手だったし、意識せずにはいられなかった。授業に向かえば、否応なくあの目が待っている。表面的な精神の変化は即座には現れず、じわじわと浸食されていくように欲が湧いた。彼が直接望に対して働きかけたことは、殆ど無い。望の方が勝手に、おぞましい欲望を抱いているのだ。それをはっきりと認識したのは、あの図書館での一件からだったが、薄々勘付いてはいた。後ろめたさと恐ろしさで、気がつかないふりをしていただけだ。
 しかし、それを認識した契機と同時に、彼が自分の命を狙っている可能性を知った。大義名分のある殺意を、向けられている。被殺の恐怖。鬼畜生にも悖る自らのおぞましさ。彼の目を認識するたび、その二つが混沌と合わさって不安を煽る。
「先生? 大丈夫ですか」
 力を込めてグラスを握っていた手に、可符香が触れた。冷たい。結露の滴るガラス体よりももっと、熱が存在しなかった。
 その冷たさに、不安が吸い取られていくようだ。しかしこれは人間の肉体だろうか。耐熱性合成樹脂のように完成されたうそ寂しさで、不変の滑らかさを持っている。
「落ちついて、今現在先生の置かれている状況を、確認しましょうか」
 望が顔を上げると、やはり可符香は笑っていた。今は実年齢よりも年上に見える装いをしているが、いつもと不変の存在だ。
「まず、先生は鬼ですね」
「風浦さん、さっきから言動に周囲への配慮が成されていないようですが」
「誰も人の話に聞き耳立てたりしてませんよ」
「世間では壁に耳あり障子に目ありと言います」
「大丈夫です」
 可符香は冷や汗の滲んだ望の手を、一度軽く握ると、手を離してしまった。
「先生のお父上とご兄弟も鬼ですね。倫ちゃんは違います」
「はい」
「そしてご存知の通り、二のへの生徒はどこで覚えたのか、暴力でもって鬼を退治する遊びを日常的に行っています。これに荷担しない生徒も、もちろん居ます」
「それは何となく把握しています」
「先生ご自身の事情を踏まえた上で、みんなの話を聞いていれば想像付きますよね。しかし基本的には、誰も先生や先生のお兄さん達が鬼であるとは気付いていないようです」
「例外がある……」
「はい。先生のことに気がついているのは、久藤君とまといちゃん、倫ちゃんと私」
「どうして勘付かれたのでしょう。常月さんは久藤君に警告を受けたからでしょうが」
「倫ちゃんからじゃないですかね。何だか最近、突っ掛かってるみたいですよ。久藤君が鬼を退治する側なので、先生達を心配してるんじゃないでしょうか」
「ああ、成る程。それなら合点が行きます。倫は倫で突っ走る所があるから」
「でも、久藤君は確信があるわけじゃ無いみたいですね。だから躊躇っている」
「躊躇っているんでしょうか、あれで」
「躊躇ってますよ。他の鬼を殺すところ、何度か見ましたけどそれはそれは壮絶です。有無を言わさず手口を選ばず効率最優先。本気で殺しにかかってきてたら、先生なんて命乞いをする間もなく締め上げられます」
 自分の咽が潰される苦痛を想像して、食道と気管が揃って縮んだ。
「そんな、それじゃまるで私がひ弱で最弱の存在みたいじゃないですか。いくらなんでも自分よりも小柄な生徒に、無抵抗に殺されたりはしませんよ」
「そうですか? 体格で言うのなら、先生の方が劣っているように見えます。勝っているのは身長だけですね。第一、先生は実際に攻撃されたことは無いじゃないですか」
 確かにそうだ。あの時も、望が手を振り上げたというのに、彼は攻撃を仕掛けてはこなかった。渾身の力を込めた一撃が難無くかわされた事実に驚き、そのことを見落としていた。しかし、殺意のようなものが、あの目に宿っているような気がしたのだ。
 可符香の目があったから、とも考えられる。久藤准が風浦可符香を慮る必要があるのかどうか、説明は付かないが。
「迷っているんです。調査によると、久藤君は鬼だという証拠を確認するまでは、基本的に手出ししません」
「しらばっくれたら逃れられるでしょうか」
「可能性は高いですね。もっと言いつくろってみます?」
「止めておきます。話す機会も無いですし……」
 先日、望はそれを試みたが、話す事など無いと言いたげにすげなく断られた。まだ疑われている段階なら、相手もこちらの話を聞く余地はあるのではないかと思ったのだが、返ってきた反応が、真に軽蔑されているような、鬱陶しがられているような感じで、益々准の考えていることが判らない。不安になる。
「近付かない方が懸命だとお考えなんですね。本心から?」含みがあった。
「どういう意味ですか」
「先生が本当にそう望んでいるのでしたら、構いません」首を振った。「で、ここまでの話をまとめると、先生の目下の危険は餓死と久藤君なわけです」
「危険と言ったって、私はいつでも死ぬ準備はできているのです。毎日ちゃんと心中セットを携帯してますし」
「その発言は実際の言動との矛盾が生じているためにスルーします。久藤君はどうやら基本的には単独で行動しているようです。鬼を追っているのは千里ちゃんを初めとしたクラスのみんなも同じですが、みんなが先生の敵に回ることは心情的にあり得ないでしょうし、久藤君もみんなを巻き込んで先生を襲ったりはしないでしょう」
「何故そんなに前向きに言い切るのですか」
「先生は意外と人望があるんですよ。なぜか」
 望は可符香から目線を逸らした。妙な褒められ方をして何と答えればいいのか判らなかったし、それが真実とほど遠い気がして後ろ暗かった。何しろ彼は自らの正体を偽り、周囲を騙して人望を勝ち得ているのだ。彼自身はそう信じていた。
「じゃあ、あなたは何なんですか。他の人の話ばかりしますけど」
「私ですか? 私は先生の味方です」
 また、返答に、窮する。可符香は意に介さない。
「だから、先生は先程から私の行動の意図について問いただしているわけですが、だいたいは先生の利益に繋がると考えての行動なので答えは全て同一です。聞くだけ無駄ですよ」
「自分の利益は?」
「考えていません。誰かのために何かができる、素敵なことじゃありませんか」
 可符香は、唇の右と左の両方をきれいな鏡面対象に持ち上げて、笑った。
 望には、その笑顔と発言を、どう捕らえて良いのか判別が着かない。感情は歓び、思考は不安がる。
「じゃあ、今日私を連れ出したことも、私のために?」
「はい。もちろんです。今日は、暫く学校に帰らない方が安全です」
「安全?」
 逆なら、危険。また自分の知らない何かが、身近で展開している。だが、目の前に座る自分よりも無垢に見える少女は、それを知っているのだ。
 道理の歪曲。彼の知っている世界は、生まれつき世間とはねじ曲がった場所にあったけれど、今また視界はランダマイズされた渦に捻り回されている。そういえば、この学校に赴任して来てからだ。彼女に会ってからか? それとも、彼に会ってからか?
「今日は学校で捕り物だそうですよ。千里ちゃんやカエレちゃん達が。多分ですけど、久藤君も行ってるんじゃないでしょうか」
「学校って、あの学校ですよね」
「あの学校じゃないと私が先生を連れ出す理由になりませんね」
「校内で、ということは、学校関係者が標的なのですか」
「そうですよ」
 望の全身の動脈が、波打った。不安、衝動的な不安。何しろ、自分が巻き込まれる可能性があるとするのならば、
「それは私の知り合いですね」
 そういうことだ。
「はい、そうです。でも先生が直接疑われているわけではないので、外にいて普通にしていれば」
「そういう問題じゃありません!」
 可符香が微笑んだ顔を解いて、きょとんと望を見返した。大人っぽく見えるように変装して、普段クラスに存在する風浦可符香とは他人風の装いの彼女が。
「誰が狙われているんですか」
「ご存知なかったんですか。私は知っているものとばかり」
「前置きは結構です」
 可符香は二度瞬いた。望が怒鳴る理由が、まるで判らないという様子で。唇を揺らして驚きを飲み込んだ後、彼女は出来るだけなんでもない風を装って答えを返した。
「まといちゃんです」
「なぜもっと早く言わなかった!」
 望が机を強く叩いた。周りの客が一瞬だけ二人を見たが、すぐに興味のない顔つきになって目を逸らされた。
 歯を食いしばり、彼女の前に置いてある殆ど空になっているグラスを、強く睨んだ。
「なぜって、先生聞かなかったじゃないですか」
「そうじゃないでしょう? あなたの行動はすべて自動的に私のためだと言いましたね。少なくともあなた自身はそう考えている」
「それがどうかしましたか?」
「つまりあなたは、常月さんの件は私にとって有害だと考えたわけだ」
「別にまといちゃんが先生に危害を加えることはないと思って」
「そうじゃない。そうじゃないんです。あなたは、私が自分のクラスの生徒が危険な目にあっても、平気でいられると考えたのでしょう」
 可符香の大きな目が、見開かれたまま動かない。望は険しい顔つきで、漸く顔を上げた。
「今、当に常月さんは危険にさらされているんですね」
「鬼に取り憑かれてしまったのだから、仕方ありません」
「それなら私がこの先餓死するのも誰かに殺されるのも仕方のないことですよ」
 可符香は言葉を失った。虚無のような顔だ。今までもずっと、望と初めて会った時からずっと、彼女の顔は幻のような容相を持ち続けていたが、今の望の言葉一つで感情と先の物語を見失ってしまった顔は、虚無を鞣し革で包んだだけの作り物だ。
「私は、自分の命のために教え子を犠牲にするような卑怯者じゃない」
 真実、そうなのかどうか? 臆病で卑屈な自分は、いつか他人を犠牲にして生きようと、残虐な牙を隠そうともしなくなるのではないか?
 常にそう怯えている。だが、それは今ではない。まだ耐えられる。まだ心を押さえつけ、理性の赴くままに動く事が出来る。大事なものを大事なままに、守ることだってできるのだ。
 それを可符香は理解していないのだ、と酷い失望を味わった。彼女は自分の全てを認めて受け入れてくれていると思いこんでいただけに、胸の痛みが強い。単に自惚れていただけだと思えば、幾分楽になれるのか。
「お代は置いておきます。さようなら」
 望の指が、彼女のグラスの前に千円札を二枚、差し出した。真っ直ぐに望を見つめたままの彼女の視界には、入っていない。
 望の顔を見ている。席を立ち、後ろを向いた望の背中を見ている。
「急げば、きっと間に合います」
 細い糸を繋ぐように、言った。
 望はありがとうございますと礼を言ったつもりだったが、咽に詰まって全く聞き取れない音にしかならなかった。
 可符香は、傷ついただろう。背後に残る感情を失った顔、あの瞳の色、傷ついていないわけがない。酷い事を言った。せっかく映画に誘ってくれたのに、そして様々な事柄を打ち明けてくれたのに、礼も言えなかった。
 望の頭の中には後悔の念が灰色になって思考を曇らせていたが、同時に常月まといのことを黙っていた彼女に腹を立ててもいた。彼女がそれを言わなかった理由も、理解はできたのに。
 思考が混沌とする。自分が何を選択すべきなのか、正しい選択はどこにあるのか判らない。自分が歩いている道筋すら定かではない。
 ただ今は学校に戻って、何とかまといと他の生徒達の仲裁をしなければならない。誰も傷つかないように。可符香は望だけを安全な所に置きたがるが、望はそれではだめなのだ。大事なものは、そう、須く大事なままで、そのままに残っていなければ。
 窓際の席に、グラスが二つと少女が一人、取り残された。
「天秤があります。私は先生と他の人を天秤にかけました。選べる道は一つしかないから。間違っていますか? 私の知らない道が、他にありますか?」
 望の出て行った喫茶店の扉に向かって、可符香は小さく呟いた。誰も答えない。店内は静かだ。

さよなら絶望先生 目次

index