彼女(二)の選択

 魔が差した。窓の一つしかない狭く暗い部屋に、あなたの笑顔の光がなくて、深い闇が、綺麗な宝石を縫いつけた帳であるかのような顔をして、そっと窓に覆いをかけた。
 闇に支配された小さな部屋にあって、私はそれが闇だと気がつかなかった。
 早朝、学校で首を吊っていた名前も知らない少女の手首に傷を付け、水槽用の排水ポンプで血を抜き取り、血は充分に薄めて下水に流した。使ったポンプとチューブもきれいに洗って解体してから、生ゴミに混ぜて今朝の燃えるゴミの回収に出した。
 こんなに動き回ったのは久しぶりだった。でも、きつくはなかった。行動していれば行為に疑問を持つ余裕もない。
 私がやったのは、それだけだけど。殺した訳じゃない。もう既に死んでいたのを、少しだけ傷つけただけ。血にも直接は触れてない。
 でも、なんだか両手に血の染みがついている気がする。何度も洗ったのに、ずっと染み着いて落ちない。
 そうなって初めて、魔が差していたんだと気がついた。
 だけどもうやってしまったことは、元には戻らない。一度やると決めてしまった以上、自分の乳を吸う赤ん坊であっても、微笑みかけてくる顔を乳首から引きはがし、頭蓋を叩き割ってその中身を引きずり出してみせる。
 あなたのために、そうしたいと思ってしまったのなら。
 心に醜い鬼が住み着いた。あなたのために。
 あなたは沢山の女に愛されていて、それでいて全員に平等だ。
 貧血で倒れたというあなたを心配したのは、私だけじゃなかった。教師なのだから、受け持ちのクラスの生徒に心配されるのは、おかしな事ではないけれど。
「大丈夫ですか?」
「先生って貧血持ちだったんですね」
「ちゃんと食事を取っていますか? 一人暮らしだと、偏りがちでしょう」
 あなたの横たわるベッドに生徒が詰めかけて、口々に見舞いの言葉を投げかける。その時はあなたの他に、体調を崩した人間の収容はなかった。だから私たちは遠慮なく口を動かす。保健室は賑やかだった。
「貧血というか、その……ちょっと色々な事が起こって」
「現実逃避ですね」
「風浦さん、人聞きの悪い事を言わないで下さい」
「現実逃避、悪い事じゃないですよ。自分の身を守る、立派な選択肢の一つです」
「いやそもそも現実に臆したわけでは無くてですね」
「判ります。先生は勇気を持って立ち向かっているのですね。今は逃避するのも手段の一つだと」
「だから、立ち向かう相手なんて別に」
 誰よりも早く、あなたの隣に辿り着いていた女生徒が、楽しげに笑いながらあなたと話している。顔色の悪いあなたは、それでも彼女の言葉に答える。苦笑いをする。困惑している。でも、話をする、という行為があなたを元気づけるのか、頬にうっすら赤い生気が戻り始めた。
 悔しい。
「先生、その現実というのは、事件のことですか」
「木津さん」
 当たり障りの無い雑談をしていたあなたとその他の生徒の間に、また別な女生徒が口を挟んだ。
 突然に重い話題。事件、私が少し関わったこと。それがあなたの心を憂わせているのは、わかる。それも私が意図したこと。
「私が疑われていること、ご存知ですね」
「ま、まあ一応、担任ですので」
「クラスでは私を含めて五人が被害者とトラブルを起こしていたとして、事情聴取を受けました。まだ最後の一人は戻ってきていませんけど……」
 あなたは集まった生徒の顔を見渡した。二年へ組から、二人足りない。一人はあの女生徒、みんなには加わらずに、きっとどこかの物影からあなたを見ている。だから足りないもう一人が、警察に事情聴取を受けている最中の生徒。
 あなたはどう言えばいいのか判らずに閉口した。
「やったのは、私じゃありません。同じく事情聴取を受けた、晴美、大草さん、芳賀君、久藤君でもありません」
 名前を挙げられた生徒が顔を強張らせた。一人はここにいないけれど。
「先生、信じて下さい」
 生徒の訴えに、あなたはどうしてか肯かなかった。信じたいのは山々だが、と顔に書いてある。
「先生が疑うのも無理はありません。でも、怪しい人物を目撃した人がいるんです」
「そう。だからせんせ、安心していいよ。犯人はここにはいない」
 あなたはギクリと顔を強張らせ、私たちを見つめた。あなたの隣にいた女生徒が、無表情にあなたと私たちを眺めている。
「そ、そういう話は、警察にしていただけませんか。私を面倒に巻き込まないで下さい」
「警察に言えば先生が面倒に巻き込まれます」
「だって犯人は先生の近くにいるから」
 いよいよ困惑したあなたの表情は、不安と嫌悪に歪む。
 守りたかった、あなたを。手段を選んでいるいとまはない。私が一番に、あなたを守りたかったから。
「心配なさらないで下さい。これは私たち自身の問題でもあります。自分の問題ぐらい、先生にご迷惑おかけすることなくきっちり自分で責任を取ってみせますから」
「木津さん、皆さんも、無茶なことはしないで下さい。事件は警察が解決してくれます。それに、あなた方が日頃どんな遊びをしているのか、人づてに聞いているんですよ」
「討伐のことですね。なら、私たちがちゃんと責任を取れること、お判りでしょう。鬼は倒します。例え相手が知り合いだからって、正義を前にして許す事は出来ない」
 私は、魔が差していた。あなたを守りたくて、他人を陥れるようなことを目論んで。

さよなら絶望先生 目次

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