ロングタイム

 死体を見つけたのは、一年の女子だったという。血なまぐさい話は、嫌いだ。だからあまり、詳しい話は聞かないようにしていた。
「校内で殺人なんて、初めてじゃないですか」
 甚六先生が、隣の席で茶を啜りながら言った。大変な事態だというのに、存外落ちついている。
「まだ殺人と決まった訳じゃありませんよ」
 近くの机に着いていた智恵先生が答える。彼女も、あまり慌てた様子がない。とは言っても、この二人はいつでも落ちついているが。
「しかし殺しで無くとも、あとから死体を弄ったモンが居るのは確定でしょう」
「嫌だわ、本当に物騒な時代で」
 私は会話に加わらず、奇妙に遽しく浮ついた職員室を、黙って眺めていた。職員室は基本的に教師と数人の職員が詰める部屋なのに、今は全く別な職業の人間が出入りしている。
 警察だ。発見された首吊り死体の、調査をしている。職員は事情聴取その他の面倒事の為に、職員室で待機を余儀なくされた。
「まあ、もみ消すんでしょうな」
 事件を。甚六先生は、出入りする警察にも隠しもせずに、平常の音量でそう言ってのけた。周囲の視線がピリリと強張るが、咎める事の出来る者など居ない。
 誰しも面倒な仕事は避けたかった。
「良かったですね」
 智恵先生が急に話の矛先を向けた。
「え?」
「面倒な事にはならなそうですよ。糸色先生ったら、酷く不安げな顔してるんだもの」
「あ、ああ、そうですね。早く授業が再開できると良いんですが」
「あら。度々登校拒否なさる糸色先生から、そんな言葉が聞けるなんて」
 智恵先生と甚六先生が揃って和やかに笑った。そんな場面でもないのに。
 血だ。首吊りの少女の体からは、血が抜かれていた。少女は私が担任を務めるクラスの生徒と、関わりがあった。誰かが彼女の体から血を抜いて殺した。殺してから血を抜いた。順序は判らない。
 犯人は誰だ? 少女は私のクラスの生徒と数回に渡ってトラブルを起こしていた。関係者に、私のクラスから数人の生徒の名前が挙がった。
 しかし少女の手首には度重なるリストカットの疵痕が有り、自殺の可能性も高い。
 だが血を抜いた後に、首を吊る事は不可能だ。首を吊った後に、自らの血を抜く事も、同じく不可能だ。殺しではなくとも、血を抜いた犯人が、居る。
 ここまでが一般的な容疑。
 私の頭の中で疼くのは、もっと不自然で超常現象的な考え。
 血を抜いたのは、鬼じゃないか?
 血吸いの鬼が、その少女を喰らったのかもしれない。私は恐い。鬼という存在が恐い。自らもそれに取り憑かれて育ったのに、同種の鬼が恐い。
 それは彼らのグロテスクな生態が恐ろしいのではなくて、もしも彼らが周囲にあっては、とばっちりを食らうのではないかという卑怯な理由からだ。
 すなわち鬼を狩る人間から、私まで目を付けられてしまうのではないかと。
 さっき、四時間目の前に廊下で顔を合わせた生徒のことが思い出された。誤解は――いや、誤解でも無いが、疑いは、晴れない。暗い闇の縁を覗き込むような、二つの目が射すように私を見ていた。
 彼の目を見ていると、死や殺されることに対しての恐怖が、じわじわと背筋を伝って昇ってくる。それになんだか、息苦しい。
 思い出しただけでも。
「糸色先生、顔色が悪いですな。こういう話は苦手とみえる」
「あ、いえ。ちょっと別な事を考えていました。何のお話ですか?」
「それがね、どうやったら死体から大量の血を抜けるのかって、甚六先生が仰るんですよ」
 血。
 血なまぐさい話は、嫌いだ。
 ずっと飢えている。その上今は、胸が詰まって息苦しい。
「確かに、死体って血液の循環は止まっているんですものね。ポンプみたいな物を使って、吸い上げるしかないかしら」
 血を思うと、咽が渇く。
 それに彼が見ているような気がする。ここに居るはずがない。大人しく教室で待機しているはずだ。彼は真面目な生徒だから。
 だけど、数時間前に見た、光のない目が頭蓋に張り付いて離れない。まるでずっと前から、その視線を感じていたような感覚さえ覚える。
「しかし現場にはそういった類の道具は残っていなかった。となると、やっぱり他殺でしょうなぁ」
 被害者は小柄な少女だったらしい。どの位の量の血を流したのか。
 血を抜いて、それをどうしたんだろう。飲まれた。鬼なら、飲んだだろう。鬼だとは決まっていない。人間がそれをやったとしたら、血は校内に、少なくともそう離れていない場所に、捨てられたとか。
 ああ、咽が渇く。近くに?
 探しに……いや、だけど彼が見ている、ような。
「糸色先生? お顔、真っ白ですよ。大丈夫ですか?」
「え、そんなことは」
 智恵先生が、私の手に触れた。あまりの熱さに、ぎょっとした。逆だ。私の体温が、異常に下がっている。
 血が足りない所為なのか――。全身が乾いている。肌も脳も内臓も全てが正常に働かない。
 目の前が、でたらめなモザイク模様に、滲む。
「先生、先生」
 大きな声で私を呼ぶ、何人もの声を聞いた。返事が出来ない。意識が稀薄になっていく。

 夢を見た。自らの記憶を、覗き見るような夢を。
 幾つの頃かは覚えていない。十に満たないぐらいだろうか。広い実家の庭で、私は度々使用人の少女と遊んでいた。彼女と遊んでいるのが見つかると、大人達からは咎められたが、見つかりさえしなければ大丈夫だと思っていた。子供の目線からは、私の生まれた家は果てしなく広がっているように見えていたからだ。隠れるのに、充分すぎる程に。
 幼心にも、美しい娘だった記憶がある。彼女は遠い遠い血縁が有るとか無いとかの子で、両親が亡くなっただとかの理由で引き取られてきた。その頃まだ生きていた曾祖母の身の回りの世話が彼女の仕事だった。彼女は大切にされていたのだと思う。ひょっとすると、私よりも彼女の方が、曾祖母にとっては大切だったのかもしれない。彼女と関わってはいけないと、両親や祖父母が言っていたのは、そのためだろうか。
 その日は家の中がとてもとても騒がしかった。何か事業の方で問題が起こったのか、大人達が頻繁に家を出入りする。大人といっても、その日慌てていたのは、極々身内の者だけだったように思う。しかめっ面をした、血縁の者達が走り回っているのを覚えている。
 母は相手にしてくれないし、兄三人は慌てる大人達に連れられてどこかに行ってしまったし、妹は一緒に遊ぶには幼すぎたし、つまらなかった。それに、苛々と目を血走らせた大人は恐かった。そう思うと、少女の事が頭に浮かんだ。私と同じくらいの年齢なのに身寄りのない境遇で、与えられた仕事を必死にこなす彼女が私にはいじらしく、また儚く感じられていた。
 こんな嫌な家の中に、彼女が居てはいけない。曾祖母の住む離れ座敷の一室で所在なげにしていた彼女を見つけて、遊びに行こうと誘った。
「今日は大人達の様子がおかしいから、うんと遠くへ行こう」
 そんな風に言った記憶がある。
 彼女は何も判っていない様子で、首を傾げた。
「でも、お世ばあが、今日は外に出るなと言ったよ」
「大祖母様はもうろくしてるんだ。少し前に食事を取った事だって、いつも忘れちゃうじゃないか。杏に言った事なんて、もう忘れちゃってるよ」
「うーん、そうかな」
 江戸の生まれだという曾祖母は殆ど寝たきりで、まだ意識はあったが、かなり認知症が進んでおり、喋る内容も一定でなかった。
「でも、今日はかなりはっきり喋ってた」
 その時、廊下を誰かが走ってくる足音が聞こえた。
 離れ座敷は、いつもは彼女しか出入りしない。曾祖母は寝たきりのはずだし、いくら慌てているからといって、一族の宗主の座敷で走り回る人間がいるだろうか。
 何だか恐ろしくなり、半ば強引に少女の手を取って、窓から外に出た。
「望、望だね?」
 嗄れた声が後ろから呼ぶ。
「駄目だよ、杏は、お前にはやらないよ」
 その叫びが何を意味していたのか、その時は判らなかった。しかし、寝たきりの筈の曾祖母の声だというのは、理解出来た。
 日頃、あんな大声を出すとは聞いていない。自分で起きあがる事が出来ない老体のはずなのに。ぞくっとした。
「おばあ、今日は元気でしょ?」
 私に手を引かれて走りながらも、少女が嬉しそうに笑った。彼女には曾祖母が全てで、あの座敷の閉鎖した空間が、生きるために与えられた箱なのだ。
 それがどうしようもなく、儚い。
「どこで遊ぼうか」
 大人達の目を避け、庭を駆け回りながら彼女に話しかけた。
「いつもの林檎の木の下がいいな」
 敷地の奥まった所に、一本の林檎の木があった。私たちはその側で遊んでいることが多かった。その木の見える所にいると、なんだか、何か優しいものに見守られているような気持ちになって、安心したのだ。私はあの木が大好きだった。
「今日は、花が咲いてるかな」
 話しかけながら、ふと、曾祖母が死んだらこの娘はどうなるのだろう、と不安が湧いた。
 彼女を大切にしているのは曾祖母だけで、他の大人達は彼女に興味はない。いや、有ると言えばある。若い娘なのだ、その体には意味がある。
 もし、曾祖母が死んでその庇護を失ったとしたら、彼女はどうなってしまうんだろう。
 恐くなった。父や祖父が簡単に人を殺しているのを、目撃した事がある。単に殺しているだけではなく、その死体から滴る血を啜っていたのだ。兄達も、その傍らに居た。その時は知らなかったが、あれは鬼というものだ。糸色家には鬼が憑いている。
 鬼は人の生き血を糧として生きていて、得に若い娘を好んでいるように見えた。幼い頃からそんな家で育てられたのだから、格別恐ろしいとは思わなかったが、彼女がその毒牙にかかるとなると、話は別だった。
 自分の前からいなくなってしまうかもしれない。誰かに殺されて、いなくなってしまうかもしれない。
 そうでなくとも、曾祖母がいなくなったら彼女がここに居る理由は無くなる。
「あ、ちょっと待って」
 彼女が急に足を止めた。敷地は平坦でなく、沼や小高い丘が、広い庭に点在している。危険な場所も、あった。今彼女が走って行った、その先はあまり高くはないが、崖のようになっている。
「おばあに花を持って行ってあげる」
 地面に小さな黄色い花が咲いていた。
 屈んで、それを摘み取ろうとする。彼女が着物の裾をたくし上げた拍子に、その袂から真っ白い太股が眩しく見えた。
 あまり、体が強い方じゃない。色の白さは、その証だ。
 儚い。あんまりにも、彼女は儚い。その儚い彼女は、曾祖母が死んだなら、いつか父とか兄とかに、殺されて食べられてしまうかもしれない。
 そんなのは嫌だ。誰かに奪われてしまうなんてことは、絶対に嫌だ。
 そんな事になってしまうのなら、いっそのこと自分の手で。
 考えた時には、手を伸ばしていた。
 少女の柔らかい体を、渾身の力を込めて突き飛ばした。その感触を覚えている。
 なぜそんな恐ろしいことをしてしまったのだろう。あの日から自分が恐ろしくてたまらない。崖の下に転がり落ち、動かなくなった彼女を抱えて、逃げ場も無いのに庭を彷徨い歩き、そうしてあの林檎の木の下へ向かった。いつでも見守っていてくれたあの木なら、助けてくれるんじゃないかと思って。
 だけどいなくなってしまっていた。木は怒って愛想を尽かしてしまったのだと、思った。

「先生?」
 呼んでいる。少女の細い声が呼んでいる。
「先生」
 少女は虚脱した肉体で残った命を振り絞り、私の手を握った。握り替えしたかった、けれど、私はさっきのように力加減を誤ってしまいそうで、また彼女の肉体を破壊してしまうのを恐れて、できなかった。
「先生」
 せめて咎めてくれたなら気が楽なのに。浅い眠りに存する呼吸困難を伴う悪夢が、私に与えられた戒めだというのなら、あまりに軽すぎやしないだろうか。首を絞めるのなら、もっと指に力を込め、情け容赦なく喉笛を押しつぶしてしまえばいいのに。
 いつか誰かが私にそうする。彼だろうか? でも彼は、ずっと私を見ていて……見ていて、くれない。
「大丈夫ですよ、見てますから」
「誰が?」
 はっと目が覚めた。白い天井と青白い照明が見える。薄い布団をかけられて、ベッドに横たわっていた。
 保健室だ。
「はい。しっかり見ていますので大丈夫です。何かあったら、職員室に連絡します」
 女生徒の声が、ベッドを取り囲む薄いカーテンの膜のすぐ向こうから聞こえた。小柄なシルエットがカーテンの襞の上に映っている。
 保健室の扉の閉まる音が聞こえ、女生徒がカーテンから顔を覘かせた。
「あら、先生、目が覚めたんですか」
「風浦さん」
 担任を受け持っているクラスの、生徒の一人だった。以前も彼女と保健室で顔を合わせた事があった。あの時にベッドで寝ていたのは、私でも彼女でも無かったが。
「ちょうど保健室の先生が出て行ってしまいました。素敵なタイミングですね」
「素敵、ですか。この状況が」
 私の体は冷たく固まり、身を起こすのすら億劫だった。風浦さんが私の冷たい手に触れる。暖かく滑らかだったが、その感触にどうしようもない絶望を感じた。握り返す事ができない。
「水入らずで、素敵ですね。もうすぐクラスのみんなも来ますよ」
「はあ、それはどうも、ご心配をおかけして申し訳ありません」
 微笑んでいる彼女の真意が、相変わらずよく判らない。何となく思わせぶりで不思議な言動に実体が無い。浅い眠りで見る夢の中の登場人物のようだ。
 さっきまで、悪い夢を見ていた。
「疲れているんですね、先生。ちゃんと食べていないから」
「風浦さん、その話はもう」
「判っています」そう言いながらも、少し表情が曇った。「気が変わったら、いつでも言って下さいね」
 言わないよ。彼女が気を使っているのを感じる度、鈍く心臓が痛む。私はまた力加減を誤ってしまいそうで恐い。それは取りも直さず彼女を蹂躙してしまうことだから。
 そう考えながらも同時に、彼女を信じ切れていないのも浅ましい。
「でも少し安心しました。仲直りしたんですね」
「何の話ですか?」
「久藤君です。やっぱり、ちゃんとお話したら判ってくれるんですよ。とっても優しいから」
「いや、何を勘違いしているのか判らないのですが」
「え? 久藤君とお話したんじゃないんですか?」
「したといえば、したんですが」
 四時間目の授業の前に、話しかけるチャンスがあったから、確かに声をかけた。先月の図書館での一件の後、風浦さんにきちんと話せば誤解は晴れますよ、と励まされたから、何かを取り繕うとして。でも考えてみれば、何を言おうとしていたのかもよく判らないのだけど。彼が私にかけている疑惑を必死で否定しても、その疑惑は真実なのだから。
「何か言われましたか」
「話なんてしたくない、と言いたげな感じに一蹴されました……」
「それはそれは」
 心底うざったそうに見返していた目が忘れられない。プリントを落としたのを手伝ってくれたのは、何だか態度が緩和されたかのように思えて、若干嬉しかったのだが。ぬか歓び。
 そういえば私は彼と仲良くしたいんだろうか。彼は私の命を狙っているようである。殺されるのは嫌だが、しかし何とか死ぬべきだとも思い、そのへんと関連性を持った上で彼が苦手であったりするのだけども、しかしそれとは別問題で教え子に邪険に扱われるのは居心地が悪い。
 何だか判らない。いくつかの問題が切って離せない状態でこんがらがっている。
「お昼休みに先生の話をしていたので、てっきり仲直りをしたんだと思っていました」
「話って」
 聞き返そうとした時、それこそタイミング良く保健室に人ががやがやと入ってきて、遮断された。

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