間狂言 - ロング、ロング アゴー

 急がないと、四時間目の授業に間に合わない。慌てて教室に向かっている生徒や教師が、廊下を足早に歩いていた。
 ふと前を見ると、人混みの中を華やかな着物が歩いている。振り袖に、袴姿。常月さんだった。と言うことは、その彼女の前を歩いている人物は、糸色先生で間違いない。
 次の授業は糸色先生の現国だった。追い越せば、遅刻にならない。
 足を速めて、袴姿の二人を追い越した。
 擦れ違い態に少しだけ、横目で先生の姿を確認する。両手に教科書とプリントを抱えていた。そういえばもうすぐ期末だ。
「あ、久藤君」
 多分先生が何かを言った。声を掛けられただけだろう。なんだか全く、興味を持てない。だから聞こえなかった。そのように処理しておこうと思っている。
 追い越してしまった後で、先生が「あー」と素っ頓狂な叫び声を上げたのを聞いた。書物に類するものが床に落ちる音も。
 振り向こうか振り向くまいか、考えた。先生が授業に遅れるのなら、急がなくても構わないのではないか、と短い間に結論が出た。
 言い訳がましい思考をしている。先ず間違いなく、先生の所為だ。こんなの普通に考えればいいのに、普通の場合と異常の場合の中間にあって、判断が鈍る。
 振り返ってみると、思った通り、廊下に荷物をぶちまけていた。
「大丈夫ですか?」
 近寄って声を掛けると、ぎょっとした様に目を見開いた。怯えられている、らしい。当然だ。
 そういえば、二週間ぐらい前に図書室で揉めた後で、面と向かって話をするのは初めてだった。
「どうもすみません、ちょっと手が滑ってしまいまして」
 強張った顔は直ぐに仕舞い込み、大人らしい社交辞令の微笑みを浮かべた。器用な人だ。多分僕は笑っていない。
 落ちたプリント類は廊下の広範囲に広がって、床にぴったり張り付いているために拾い上げるのも手間が掛かる。あまり適当に拾おうとすると、折り目が付いてしまって、元の持ち主に申し訳ない。昨日やった小テストだった。名前と点数が大きく記されているので、これも申し訳ない気持ちになった。やっぱり振り返らない方が良かったかもしれない。
 ふと顔を上げると、糸色先生も同じように床に落ちたプリントを拾い回っている。必死だ。常月さんは先生から死角になる位置に隠れて、じっと見ているだけだった。手伝えばいいのに、と思ったが、後をつけ回すのにも彼女なりにルールがあるんだろう。
 それにしても彼女は先生の回りで一体何をやっているんだろう。先週の放課後のことを思い出す。彼女が自ら鬼になることを選んで、暫く経った。本当に人間を食していないのかどうか、ずっと彼女を見ているわけではないのだから判らない。ただ、確かに日に日に顔色が悪くなっているような気はする。食事を取らずに、どのくらい耐えられるものなのか。普通の人間なら、じっとしていれば一ヶ月ぐらいは持つらしいけれど。でも一応生きているだけ、という状態になってしまう。彼女はそれだけでは駄目だ。取り憑いた鬼を何とかする方法を、探すのだと言っていたのだから。
 先生の後ろを追いかけ回す様子を、学校に居る間は度々目撃するが、その方法が見つかったという様子はない。
 どうするつもりだろう。見つかるとの保証もないのに。
 一応僕は最悪の結果を考えてある。それしか、考えられない。彼女の投げ出した命も、虚しい結果によって失われる予測。彼女だってその可能性は判っているはずだ。それでも、実行した。
 糸色先生のために。
 突然、先生が顔を上げた。目が合う。
 この顔のために、この髪のために、この腕のために、この足のために、この胴のために、この目のために、この耳のために、この口のために、この臓腑のために、一体どれほどの価値があるのか。
 ただの人間で、しかも多分鬼が取り憑いている。
 早めに、何かへまをやらかせば良いのに。鬼だと証明のつくことを。そうすれば殺せるし、それがもっと以前だったなら、常月さんも無茶をしなくてすんだ。死体の総数も減らせたかもしれないのに、この人は。
「あの、久藤君」
「はい」
「返して下さい」
 言われて、そういえばプリントを拾い集めていたのだと思い出した。
 集めたプリントを手渡す際、やはり少し先生の顔が強張った。そんなに恐いならもっと回避する行動を取ればいいのに。攻撃した側の自分がそう言うのも、おかしいけど。
 でももっと極力関わらないようにする手段も有るはずだ。さっきも呼び止めようとした。普通の教師なら、そうするかもしれない。でも糸色先生は異常性の疑いがある。
 疑い、つまりしそれは中間部分であって、判断が鈍る。
「この間の図書室でのことなのですが」
 抱え直したプリントと教科書を整理しながら、言った。
「何か誤解を与えてしまっているような気がします。風浦さんには、……お話したんですが」
 言い逃れ?
 でも、今抱えているのは疑い。先生が鬼であると、確信をもって事実と考えているわけではない。先生が証言する内容が、中間部分で鈍る判断の結果に、不可か良かのどちらかに針を進めようとする。
 でも僕はあまり精度の良い天秤を持っていない。
「二週間ぐらい前の話ですか?」
「そうです。できればきちんと」先生が周囲を見回した。人が多い。「お話をしておきたいのですが」
 この人は、話して判る内容だと思っているのか。
「二週間も前の事なんて、詳しく覚えていません」
 話して判る相手に見えてるんだろうか? 証拠も無いのに殺す準備を整えている僕が。酷くお人好しらしい。
 授業開始のチャイムが鳴った。
 だけど僕は疑うばかりだ。

さよなら絶望先生 目次

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