彼女(一)の選択

 日が落ちる。前日は小雨が落ちる時間帯も有ったが、この日は良く晴れていた。晴れ渡った空に赤い日が落ちていく。陽光が全てを赤くした。
 放課後の人気のない廊下も、例外なく赤く変わった。人の無い教室が熱の色を受け入れている。
 人は、ない。教卓の影に、小さな少女が蹲っている。だけど彼女は人ではない。人ではなく、何かに変質してしまった少女が、膝を抱えて震えている。追われているからだ。
 追っ手が来る。
「そっち、居なかった?」
「何所にも」
 足音が廊下を遠ざかって行った。血の匂いのする息を、ふう、と吐いた。
 胸元に大きな切り傷が開き、そこから流れた血が白い制服に染みこんでいる。手首の片方が、変に大きく膨れ上がり、真っ青に変わっていた。額にも大きな腫れが有り、その脇に傷口も開いている。細い糸の様に、赤が垂れた。
 ずっとここに隠れていられる訳がなかった。夜が訪れ、朝へ繋がれば、学生達が登校してくる。それ以前に、失血死してしまう可能性だってある。
 ひとまず、追っ手は来ない。少女はそろりと教室を抜け出した。
 夕日が近い。この赤い色が続いている場所はどこでも、太陽が覗き込んでいる。
 どこに逃げよう。行く当ては無いが、夕日の続く場所ならば歩いて行けるような、俄な希望が心に浮かんだ。両目に熱い涙。
 疲れた足取りでふらふらと廊下を歩く。階段まで辿り着いた時、誰かが彼女の膨らんだ手首を掴んだ。
 激痛が神経を駆けめぐる。叫び声にも、ならなかった。
「どこへ行くの」
 年同じ頃の少女が、彼女を近くの教室へ引きずり込んだ。
「どこにも行けないでしょう、今あなたは死ぬのだから」
 その少女は赤い振り袖に袴を着用していた。胸元に花喰鳥が羽ばたいている。今まで彼女を追っていた人々では、なかった。が、手に刃物を握り、やらんとしている事は大差ないと判る。
 殺される。
「いや」
 死にたくは無かった。震える唇から、微弱な命乞いが溢れた。
「折角外に出られたのに、やっと特別になれたのに」
「そんなことはどうでもいい! いい、私は今からあなたを殺すの。嫌でしょう?」
「いや、いや、いやだ、いやだ!」
「だったら、鬼を私に渡しなさい!」
 夕日の色が、袴姿の少女の瞳に移り込んでいる。血の色に燃えていた。
「いやだああああああ!」
 少女が泣き叫んだ。傷だらけ、血まみれの姿で、真に絶望しきった顔色で、掴まれたままの腕を力一杯振り回した。掴まれた手首は、骨が折れている。だのに、痛みも忘れて、暴れた。それこそ何かに取り憑かれたかのように。
「絶対、やだあああ! 誰にも渡すもんか、やっと手に入れたのにぃ」
「うるさい! 死にたくないんでしょ!? 渡さないなら、殺すって言ってるの!」
「死ぬのも、やだ! でも、あの部屋に戻るのも、やだあああ!!」
「なら、死ぬのね!」
 袴姿の少女が、手にした刃物を振り上げる。赤い教室に、赤い着物の袖が、胸元の花喰鳥が、羽ばたく。
 安っぽく光る刃物が振り下ろされるまで、そのシルエットを見上げて、少女は永遠に近い孤独を感じた。
 相手は自分の折れた手首を、しっかりと握っている。暴れた拍子に皮膚が千切れて、血が噴き出していた。それは以前に二年へ組の教室で血の雨が降った時と、同じ傷跡だ。
 刃物が自分を狙っている。振り下ろされた時、死ぬのだ。必ず死ぬのだ。振り下ろされない可能性は、無い。
 刃物を構える袴姿の少女の手が、何らかの感情に寄って、震えた。
 間違いなく、もうすぐ私は死んでしまう!
 それを真実と思いこんだ時、少女は体温が急に下がったように感じた。全ての血液が流れ出てしまったかのような感覚。体の熱を保つ体液が、傷口から、或いは毛穴から、口から鼻から目から耳から、とかく全身の穴という穴から吹き出したかのように。
 彼女の精神は、瞬間的に空虚になった。死とは精神の消滅だろうか。もしそうだとすれば、彼女は瞬き一回の間にも満たない短い間、死滅してしまったのだ。
 しかし肉体は生きている。初夏の温い大気が教室の窓から吹き込み、肌を撫でた。
 そして刃物を握ったままの腕の、赤い袖がひらりと揺れる。袴姿の少女の腕は振り下ろされる気配は無く、その運動は硬直し、動かない。
 彼女は今は暗く輝く双眼が何度も瞬きを繰り返し、鈍い動きで腕を降ろした。
 いや、刃物を落とした。何故? 少女には相手が刃物を取り落とした理由が判らない。ただしかし床の木材の上をバウンドする刃物の動きが、滑稽に見えた。
 床に落ちた刃物を拾い上げ、反撃に出るべきだろうか。しかし辛うじて命が有る少女には、小さな刃物を拾い上げ程の体力も残っていない。
 ただ荒い呼吸を繰り返し、唖然と事の成り行きを見守ることしか出来ない。
 袴姿の少女は両手でぎこちなく自らの顔を撫で、その指の隙間を透かして、少女の顔を覗き見た。
 血走った暗い目は、明らかに瘋癲の色をしている。見覚えがあった。
 それは鬼憑きの人間が得物を見る時の、目つきだ。
 自分の手首から、血が溢れている。先程まで感じていた恐怖とは、また別な身の危険が迫っている事に気がつき、彼女の碌に力の入らない体が、さらに縮こまった。
 鬼は、人の血を吸うのだ。今や人となってしまった、彼女の身にも、禍が鎌首擡げている。
 だが鬼となった袴姿の少女は、それ以上彼女に興味を示さなかった。すぐに立ち上がり、ちらりと後ろを見ると、逃げるように教室を出て行った。
 助かったのだろうか? いや、それは甘い考えだ。少女は元々追われているのだ。同じ高校に通う、数人の少年少女に、そして、今当に教室へ飛び込んできた、怪異の人物般若面に。
 教室の扉を乱暴に開いた音に、心臓が縮こまった。
 黒い塗料の染みこんだ木面に学生服、彼は少女を追う他の少年少女と違い、放課後になり人知れず校舎内に現れた。表情の窺う事の出来ない面の皮に素顔を隠し、碌に物も言わず他と交わらずに鬼を追う。その様は、人の皮を被った血吸いの化け物よりも、ずっと幽鬼めいて見えた。
 彼は黒板の下に座り込んだままの少女に早足で駆け寄り、少女の首を両手で掴んだ。
 息の根を止めようと、その指に力が入る。最早抵抗する気力も体力も、そして意味も感じられなくなった少女は、相手のなすがまま、目を閉じた。届かない声で、別れの言葉を誰かに囁きながら。
 おかしい。
 殺傷してしまう前に少女の異常に気がついたのは、彼が数多の鬼を殺し慣れていたからなのか、それとも心に二日前の事がつっかえていたからなのか。
 ともかく急に彼は手を少女の首から外した。
 少女が激しく咳き込む。その傍らに、刃物が落ちているのを見つけた。
 誰の物かは判らない。だが、今目の前にいる少女のものでは、無いらしい。もし彼女のものであるのなら、それを構えて身を守ろうとするのが道理であるように思えた。
 その刃物を拾い上げる。すると、ぐったりと項垂れていた少女が突然震え始めた。
「切らないで、もう血は出てるよぅ……」
 自分が斬りつけられると思ったろうか。しかし、彼が行ったのは真逆の行為だ。
 刃を自らの左の掌に押し当て、すっと引いた。
 少年の親指の付け根から、小指の根まで、赤い一直線の糸が伸びる。やがてじわりと、しかし多量の血が流れ出した。
 何故自らを傷つけたのか? 鬼ならば、血液に反応するはずであるからだ。得に、自分の血液が特別鬼を惹き付けうる事を経験的に知っている。謂わば自分自身を鬼憑きの踏み絵として使用しているのだ。
 その血液が手首へ伝い、教室の床へ雫を落とした。
 だが少女は反応しない。それどころか、益々怯えきった様子で両腕で顔を庇い、彼を見ようともしない。
 悪い予想の通りとなった。いいや、誰が鬼に変わったとしても、その総数は変動していないのだけれども。
「誰かに感染したな」
 般若面が低い声で囁く。ひっと短い悲鳴を上げ、少女は身を固くした。
 顔を庇う両腕の、怪我のない方を強く掴み、顔の前から引きはがす。涙の溜まった瞳が揺れた。
「私はぁ、特別になってあそこを出て、他の人達と暮らしたかっただけなんです。晴美お姉様みたいな優しい人と……」
「は?」
「やっとあれが死んで、私が特別になる番が来たのに、盗られたあぁぁぁ」
「お前の事情なんてどうでも良い」
 低く感情の無い声で言いながら、少女の胸座を鷲掴み、仮面を近づけその奥の双眸できつく睨む。
「誰に盗られた」
「し、知らない……」
 その暗い目が、彼女の身に連続的に続く恐怖の極めつけだった。長い間続いた被食の危機と、数日前から発生した被殺の危機が次々と連なった。そして終には残酷な手段で殺されてしまう、予兆。
 想像を絶するような絶望的な手法で……。
「顔も見なかったのか」
「う、あ、うん、見た」
「どんな」
「おぼえて、ない」
 節榑立った指が力を込め、彼女の制服を強く握り直す。
 ああ、殺される。質問に答えないと。今日も昨日もその前も死にそうで、まともに物を考える暇もなく、スカスカのスポンジのような頭でも、見たことを、思い出さないと。
 何か。
「女の人があ、髪が短くて、変な服着てた。赤い、袖がちょうちょみたいな、ひらひらの……」
 そして彼女の胸元には花を銜えた黒い鴉。
 断片的な情報でも、予測と組み合わせれば事足りる。今日この場に存在した可能性があって、髪が短く、袖の長い赤い服の女性。彼が危惧した通りだった。
 これは偶然の結果か?
 違う。彼女はこれを狙って、一昨日の図書館での一件からずっと、この少女を追跡していたのだ。そして彼女が自称討伐隊のクラスメイト達によって死の直前まで痛めつけられるのを、待っていた。上手く自分が鬼を得られるように。
 彼女の意図する所が判らない。だけど殺さなくてはいけない。
 少女の胸座を掴んでいた手をそっと離し、立ち上がった。
 既にただの人間となった少女が、怯えて彼を見上げている。これ以上の苦痛を与えないで欲しい、と。死ぬのなら、出来るだけ穏やかに消してしまって欲しい。
 だけど鬼でないのなら、彼は殺す必要性を欠片も感じない。
「死にたくないんだったら、ここで夜まで静かに隠れていればいい」
「え」
「鬼でなくなったみたいだけど、他の連中の狙いは鬼じゃなくて君らしいから」
 冷徹な面の奥が、突然人間くさくなり、あまつさえ優しげな声で自分を気遣うような事を言った。恐ろしい般若の面のままで。少女は当惑する。そもそも、他人にあまり優しくされた事のない人生を送っていたから。
 だけどそれが反って残酷だった。急に与えられた厚情が、今まで自分に与えられた絶望が如何に深いものだったのかを、縁取るのだ。
「その着物の女の人は、どっちに行った?」
「あ、あっち」
「そう。ありがとう」
 彼女が指差した方の教室の出口へ、踵を返して去っていく。遠のいていく背中が絶望の象徴として、目眩の中に霞んでいく。

 常々疑問に思っている事がある。
 四階と三階を繋ぐ階段を降りた。
 物心ついた頃から理解出来ない事がある。
 人の無い廊下を走った。一直線に見渡すあちら側まで、影一つ無い。
 自分は彼女を殺すつもりでいるらしい。同じクラスに所属していたが、殆ど会話をしたこともなく、名前の他に彼女について知っている事など殆どない。クラスの担任教師をストーカーしている、とそれぐらいだ。姓名を漢字で正しく書けるかどうかも自信がない。
 廊下を過ぎりながら、一つ一つの教室を窓から覗いた。人影を探して。
 赤の他人だ。名前を知っていて、会話をしたことがある。
 居ない。学校内であからさまな隠れ方などしないだろう。彼に見つからなくとも、他に鬼を追っている人間が校内を彷徨いている。彼女が鬼となったのを知っているのは、差し当たって彼だけなのだから、他の人間に知られる前に校内から脱出すべきだ。
 彼女は僕から逃げ切れるだろうか? 彼がそのように考えたという事は、彼は本心では逃げ切って欲しいと思っているのか。
 同じクラスだから知り合いではあるし、何度か会話をしたこともある。積極的に死んで欲しいと思うわけがない。
 解せないのは殺意の方だった。いや、逆か。殺意を抱くのはまともな人間として当然だ。多少見知った相手だからといって、殺人鬼を許せるわけがない。
 そうは言っても、これまで殺人の後に必ず襲ってきた罪悪感は何なのか。
 判らない。どちら側に立って考えても、自分自身の感覚が異常である事は理解してある。
 しかし何にしろ、他の誰かが残酷に殺されてしまう前に、駆逐しなければいけない。それが純粋な正義感であるのは判るが、腹の底から熱く湧き上がるのは、極々個人的な憎悪に近い。
 何しろ彼は自分の判断で他者の生き死にを決めたいだけだから。
 長い廊下の果てに、四階と三階、三階と二階を繋ぐ階段があった。その踊り場が視界に映り込んだ時、赤い夕日の中に羽ばたく赤い翼を目にした。
 瞬間、踊り場で少女が振り返った。逃げ足が緩む。
 逃げられない、だろう。
 十数段の階段を飛び降りた。少女のすぐ目の前に。
「ひっ」
 赤い着物の少女が後じさりする。詰め寄られ、背中が壁にぶつかった。すぐ側には下りの階段がある。しかし、逃げられはしない。
 少年が藻掻くように手を伸ばした。攻撃的に差し出されたそれは、彼女の頬を掠めて壁を打ち付ける。
 固い壁に響く鈍い音。
 喉の奥で苦痛が踊った。迷わず頭を潰してしまえなかったから。腕を出した時から、大した力も、籠められなかった。
 少女が夕日の映った瞳で彼の顔を見上げる。面の奥からその瞳の赤さを感じた。彼女の唇が物言いたげに震えている。しかし、言う事は出来ない。今当に自らが残虐な怪異に組み込まれた事を理解した頭では。
 同じように、少年も面の奥で唇を振るわせた。何を言えばいいのか判らない。何を言ったって、自らの感情は変わらず、選ぶべき道は酷く狭い。憎悪と罪悪感とその他諸々、およそ人間らしい感情と言えない性質の代物と、人間らしい情感が彼の中で綯い交ぜになる。普段ならば、憎悪が何よりも強く働くのだけど。いや、今だって憎悪が彼の背中に取り憑いている。
 直ぐ近くに少女の顔がある。壁に付いた手が震える。それを首にかけるか、それともさっき拾った刃物を使うか。やり方は色々。どれを選んだって構わない立場にある。
 なのに、動けない。
「何で」
 と、押し殺した声で呟いた。体を蝕む感情が解せない。そして、目の前の少女が、どうして鬼と変わったのかが判らない。
 少女の赤い袖が揺れ、二本の細い腕が彼の顔に向かって差し出された。面に触れる。ゆったり動くその腕を、振り払うことが出来ない。
「似合わないね、久藤君」
 彼女はぎこちなく口元だけ笑い、そしてそっと彼の面を外した。
 階段の踊り場に、陽が射している。般若の仮面の下から、少年の顔が強い陰影を抱いて浮かび上がった。少女も良く知った、同じクラスの生徒の顔で間違いない。
 だが教室で見ていたものとは様子が違う。常なら無感情なその顔は、今は目つき鋭く眉間に皺を寄せ、きつく口を食いしばっている。
 激しい衝動から耐えているかのように。
「常月さん」
 噛み締めた歯の間から、絞り出すように声を出す。面を外された瞬間、少年と少女の目線が重なった。だけどすぐに居たたまれなくなり、今は少年は微かに俯いて視線を逸らしていた。
 項垂れた顔は影になり、より一層陰影を強くする。
「話を、聞いてよ」
 少女の声は振るえていた。無理もない。目の前の少年が、何のために自分の前へ立ちふさがったのか、よく判っていた。それでも身に迫る死の恐怖に耐え、気丈に振る舞おうとしている。
「私、鬼についてかなり詳しく調べたの。先生を助けたいから、助ける方法を見つけるために……。でも、そんな方法存在しなかった。誰も知らないし、どんな本にも載ってない。でも! でも、まだ全てを調べ上げたわけじゃない」
「だから、何だ」
 少年の問いは呻り声に近かった。
「私が知りたいのは鬼に取り憑かれた先生を助ける方法。誰も知らないなら、私が見つけ出さないと」
「それで、自ら鬼になったって?」
「そうよ! だって先生と同じにならないと、先生を助けることなんてできない! 信じてよ、もう他に方法が無いの」
「そんなの……」
 少年の額から冷や汗が吹き出した。全く、今日は暑い日だ。夕日は太陽の遺物、消えていく間際の燃え上がる熱の温度。
「い」
 少年の唇が激しくわなないた。
「命乞いをしているようにしか、聞こえない、な……」
 少年の顔は面の皮が薄いが為に、その下でこの世の物とは思えない程醜い怪物が暴れ回るのが、ありありと浮かび上がっている。
 歪んだ表情が窓から射す夕日に彩られて、益々皺に深く影を刻む。
「命乞いなんて、するわけないじゃない」
「だけどね、常月さん。どんな人間でも、自分が殺されそうになったら、必死に命乞いをするものなんだ」
「それは久藤君の体験談?」
「そう。鬼でもおんなじ」
「世の中には例外ってものもあるの。だいたい、私は鬼の意識には飲まれやしないから」
「はっ」
 少年の、腹の底から笑いが込み上げてくる。いや、これは笑いなのか? ちっとも愉快じゃない。息が詰まって、咽から笑い声にも聴こえる喘ぎが溢れる。
「何かおかしい?」
「いや、何も」
 少年は壁に着いた手を離し、その掌にこびり付いた自分の血液をまじまじと見た。数分前に吹き出した血だというのに、既に黒く乾燥し、あまつさえその傷口は完全に閉じきっている。
「だけど何も信じられない」
 そう言うと、少年は懐から先程拾った刃物を取り出し、突然自らの掌に突き刺した。
 ぎょっと少女は目を見開き、手に持ったままの面を床に落とした。
 十五センチほどの刃が、掌から手の甲へ貫通する。それを少年はすぐに抜き取り、夕日の射す、木造の校舎に血がはじけ飛んだ。
 傷口から吹き出した血は、床に転がる面や少女の頬にも付着した。生温い体温を所有したまま。
 見慣れた校舎を浸食する体液の色が、少女の視界に汚らしい染みのように広がっていく。
 愛おしいと思った。
 食欲だ。それを体内に取り込む用意があるのだと、内臓が喚いている。五臓六腑が唾液を垂らして待っている。
 だけど同時に、身を焦がすような怒りを感じる。目の前の少年が、目を細めて少女を見ていた。強く睨み付けていた。少女にとって愛おしくてたまらない、人の血を思う様垂れ流しながら、嘲るように。
 少年は少女の主張を少しも信じていない。それは、少女がたった一人に捧げたい感情を、信じていないことだ。
 許せない。精神に取り憑いた怪物の身勝手な本能など、全く問題にならなかった。咽の渇きなんて怒りの向こうに消えてしまう。
「バカにしないで!」
 腕を振り上げた。いつか、図書室でやったのと同じように。
 平手が少年の頬を激しく叩いた。ばあん、と小気味よい音が鳴る。
 打ち付けた少女の掌が充血し、じんと痛んだ。少年の打たれた頬も、赤く腫れた。二つの余韻が、二人の神経に木霊する。
 前は避けたのに、今度は身動きしなかった。
 何より驚いたのは少年自身で、叩かれた頬に自分の手を当て、目を丸くしている。ひりひりと痛い。
 何故叩かれたのか、何故避けられなかったのか、そもそも彼女が怒る意味も、何もかもが理解出来ず、そして頬に感じる現実的で控えめな痛みが、ここ最近絶えてなかった日常的な感覚であるような気がして、その幾つもの共通性のない疑問や感覚が頭の中で綯い交ぜになり、訳が判らなくなった。
 混乱のあまり言葉も出ない。丸くした目を瞬かせて、自分を引っ叩いた少女を眺めている。
 少女も驚いてはいた。まさか本当に叩いてしまうとは思わなかった。手を挙げたはいいが、どうせまた避けられてしまうだろうと、頭の冷静な部分で諦めていた。
 それに、女に叩かれたからといって少年がこんなに驚くというのも、全くの予想外。ついさっきまで、百戦錬磨の殺人鬼みたいな顔をしていた相手が、今は頬に手を当てポカンと口を開いている。
 そんな間抜けな顔をして、急に同年代の少年に戻ってしまっている。同年代、よりも幼いかもしれない。そう思うと、怒りも何も、悪い感情はきれいに失せてしまった。
 逆に食欲がはっきり感じられたが、歯を食いしばって耐えられない程でもない。何のためにこの本能を得ようと思ったのか、それを思い出せば、耐える事など何でもなかった。こんな感覚を抱き続ける人の事を思うと、少し悲しくはあったけれど。
 少女は微笑む。
「どう? 私なら耐えられるわ」
 少年はその言葉にも驚き、何度か口をパクパクと動かし、何秒か経って漸く、「だけど」と意味もない逆接を繋いだ。
「私は誰の血も飲まない。ただ、先生を助ける方法を探すだけよ」
「本当に?」
「本当。久藤君だって、鬼に憑かれた人を助ける方法が有るなら、知りたいでしょ? 私が見つけてあげる。信じたら、今は見逃して」
 少年は力なく頭を振る。
「そんな泣きそうな顔しないでよ。どうして? 私のために悲しむ必要なんか、無いじゃない」
 少女は答えを待たず、床に落とした少年の面を拾い上げた。血の黒い染みの、仮面は憎しみの形。
 彼女は既に答えを見つけたような気分になっていた。
「はい。私も久藤君も、やるべき事、やるだけ」
 面を押しつけ、少年の顔を見上げた。俯き気味で、深刻に悲しげな表情をしていた。先程までの憎しみの表情とは違うが、やはり眉間に鋭い皺を刻んでいる。
「そこまで、するほどの相手とは思えないな」
「判らなくてもいいの。私だけの、気持ちだから」
 三階の廊下を、走る足音が聴こえる。
 少女の顔から微笑みが消え、少年を見上げる目がふっと暗い目になった。
「私の事は誰にも言わないで」
 少年はますます眉を顰め、答えなかった。だけど少女は彼を信じ、すぐに踵を返し、階段を駆け下りる。赤い鳥がはためくような、振り袖の揺れる影が、あっと言う間に見えなくなる。
 追おうとしなかった自分の意志が信じられなかった。殺人の衝動は有り続けるのに、彼女が見えなくなるまできちんと耐えきった。
 少女の探し出すという方法に、希望を持ったからだろうか。別に助けたい相手など、彼には無かったのに。むしろ彼女が何も見つけられず、結局自分が彼女を殺して仕舞いになる、という絶望的な予測の方が現実的なのに。
 手渡された仮面が重い。
「あ、久藤! てめえ来てたなら来てたと言えよ!」
 三階から、友人の少年が駆け下りてきた。彼は少年が学校に居たことを知らなかったが、すんなりと受け止めた。彼自身は本日の自称討伐隊の一員だった。
 そして少年の掌からの出血を見て、目を見張る。
「お前、鬼を見つけたのか?」
「逃がした」
「あん?」
「鬼は、逃がした!」
 友人を振り返り叫んだ顔は、面を着けているわけでもないのに、怒りで酷く歪んでいた。だけど、あの少女が憎いわけではない。
「何だよ、久藤にしちゃ珍しいな」
 そう言う間に、階段の付近に人の気配が増える。
「今の声、誰!?」
 少女の声だ。「木津さん」、と後から現れた少年が階段の上に呼びかけた。
「誰か居たの?」
 呼びかけに答えて、数人の少年少女達がそこへ現れる。
 彼らは階段の踊り場に返り血のようなものを浴びて立ちつくす、般若面の少年を見て、あっと声を上げた。
 少年は逃げるように、踊り場の窓から飛び降りる。
「あ、ちょっと待て、ここ三階だぞ!」
 友人の声にも振り返らない。地面へ着地すると、そのまま走ってどこかへ消えた。
「木野君、今の人が逃がしたって」
 先程現れた少年少女のうち、一人が声をかける。
「ああ、何か言ってたな」
「鬼を逃がすなんて、どういうことなの?」
「さあ、良くわかんねえ」
 この少年は、あの般若面の正体を知っている。だから彼が悪意に向かっているわけではないことを、判っている。
 だが、正体を知らない人間は、どう思ったろう。何人かが、懐疑心で眉を潜めた。

 それから、もう一人。階段の下の、狭い特別教室の扉が、細く開いていた。
「見ちゃった」
 床に座り込み、ささやかに呟いた少女が居た。

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