かきま

 貸し出しカウンターの外側に、彼女が立っていた。こちらを睨んでいる。当然だった。
「この間はごめん」
 彼女は首を横に振り、何も言わずにまだ僕を睨んだ。四日前よりも、少し痩せたように見える。
「ねえ久藤君、私あっちで作業してるから」
 一緒に図書委員の作業を行っていた大草さんが、そう断ってからカウンターを出た。
 放課後の図書室内はいつも通り静かだ。今日も、図書室を訪れる生徒は数える程しかいない。後ろの作業室は賑やかだったけれど。
「気を使わせたみたいね」
 常月さんがぽつりと言った。本当に言いたいことは他にあるのだと言いたげだ。早く訊け、と顔に書いてある。
「何の用?」
「この間の事」
「うん」それは、判っている。
「私、考えたんだけど」
 言葉を止めた。常月さんは僕よりも身長が低い。彼女の目線は、僕の胸ぐらいの位置にある。カウンターを挟んで、零点五メートルの距離に立ち、そこから暗い目で僕を見上げている。
 暗いと言い切ってしまって良いのだろうか。少なくとも、明るくはない。思い詰めた顔だった。これは、僕の所為か?
「どうしたら良いと思う?」
「先生の事?」
「そうよ。他には何もないわ」
「僕はやらなきゃいけない事をやるだけだよ」
「殺すのね」
「うん」
 殺す、と発音した時に、嫌悪感全てを押しつぶした結果、彼女の声は酷く平坦な音調に変わっていた。
「殺さないといけないのね」
「うん」
 そのなだらかな言葉でもう一度確認する。
「許さないから」
 そして静かに言った。許されようとは、思いもしなかったけど。
「だって、助ける方法を私が先に見つけてみせるから」
「そう。どうやって?」
「他の人に移すっていうのは?」
「先生を死ぬ直前まで痛めつけて良いんだったら、やってみせようか」
「だめ。そして、身代わりが必要だものね」
「手は無いよ」
「あるわ。私、考えたの」
「まさか、常月さんが身代わりになるつもり?」
「いいえ」
 首を振る。暗い双眼で僕を見上げる。
「でも、私なら、できると思う」
 思い詰めた顔が僅かに笑う。何を、と問い掛けることが出来なかった。
 彼女は長い時間躊躇った。今までの会話も全部、彼女の躊躇いの表れだった。
 彼女を今日の内に止めておけば、最終的な結果はどのように変わっただろう。直接繋がる結果として判っているのは、彼女のこの決断が、彼女自身の命を危うくしたことだけだ。
 その他の要素は、判らない。この一つの切っ掛けは事態を好転させたのか、それとも僕らがより深い絶望に転がり落ちていく要因の一つだったのか。
 未来の話はどうでもいい。僕はこの時、猛烈に彼女を止めたかった。彼女が考えた方法というのが、「私が首を吊って死ねば全て上手くいく」だとか、そんな内容であるような気がしてならなかったからだ。そういう顔をしていた。
 あと数秒の猶予があれば、止める事ができた。或いは相手の悪い考えを漠然と想像しながら、何と言えば思いとどまらせる事が出来るだろうと漠然と考えていた、そのただひたすら睨み合う数秒が、もっと短ければ。
 僕がもっと素直に言葉が出る人間なら、良かったんだろうけど。
「きゃああああ!」
 悲鳴! 常月さんが驚いて後ろを振り返った。彼女だけではなく、図書室に居た生徒全員が悲鳴の聞こえた方向へ、あわただしく視線を向けた。
 そういう風景を横目で認識しているような、していないような感覚で、自分の体は自動的に動いていた。貸し出しカウンターに片手を置き、飛び越える。悲鳴が聞こえたのは、図書室の奥の方だ。幾つも並ぶ本棚が邪魔で何が起こっているのか判らない。
 図書室中がざわついている。
 その誘因は、どの本棚の影に潜んでいる?
 本と本の隙間を走りながら、そこに隠れているであろう異物を探すのに必死になる。
 変な確信が有った。直前まで、その事を考えていたから、というのもあるだろうか。予想の怪物を捻り潰す必要性を、やたら明確に感じていた。誰が何のために悲鳴を上げたのか、事実を見たわけでもないのに。
 だのに実際に見てしまったかのように、憎悪が肌を粟立たせた。訳も判らず、僅かな予測だけでも思考を支配するこの事象は、物心付いた時には既に慣れた現象になっていた。
 ただ湧き上がる怒りだけが現実で、その引き金となる予感が事実に即している場合も、全くの間違いである場合もある。
 今回は、正解だった。
 奥から二番目の本棚、全集などの重厚な本が集められた区画に、人が蹲っている。二人だ。縺れ合う様に、本棚の間にある。
 片方が顔を上げた。口元に、血の滲み!
 頭の中で光が弾けた。
「あっ」
 鬼が小さな悲鳴をあげ、慌てて飛び上がった。狭い図書室内の通路の中、背中を本棚にぶつける。
 何を考えるよりも早く、倒れたもう一人を飛び越え、彼女の首に向かって拳を伸ばす。素手ででなら、首を狙えば楽にやれると判っている。
 殺し損ねる様な相手じゃない。それは自惚れではなくて、経験からの勘だ。そう思っていたのに、拳は本棚を力一杯殴りつけてしまった。
 腕が届く直前に、相手が予測しなかった動きを取った。全身の力が抜けたかのように、膝を折って崩れ落ちたのだ。
 砕けた本棚の一部と、そこに並んでいた蔵書が彼女の上に落ちる。
「うっ、ああっ」
 破片の下敷きになり、彼女は呻き声を上げた。
 動かない、いや、鈍い動きをしている。さっきの動きには驚いたけれど、これなら簡単に殺せる。
 倒れた彼女の頭を掴もうと、しゃがみ込んだ。
「く、久藤君!」
 背後から、声。振り返って、はっとした。一度頭の中で弾けた異常な光が収束し、思考が元来の明度を取り戻すような感覚。倒れていたもう一人を、今やっと認識できた。
「大草さん、怪我は無い?」
 倒れたままで、首を振る。右の手の甲を左手で庇う様に覆っている。その隙間から、血が見えた。
「本棚の整理をしてたら、突然あの子が」
 大草さんが怪我のない方の手で鬼を指差した。彼女は本の瓦礫からのっそりと起きあがり、青白い顔に薄ら笑いを浮かべている。
「なれた、やっとなれた」
 体全体の血の気が無い。痩せた両手で自らの口の周りを撫でた。付着していた血がうっすら赤くこすれる。
「やっぱり特別になれた!」
 錯乱しているな。殺すのは簡単だろうけど、ここでやると後が面倒だ。人目もある。でも殺さないなんてあり得ないし。出来るなら、今が良い。今すぐに、殺したい。
 後ろで大草さんが震えている。それは今は関係ない。どうでもいいから、すぐに殺したい。
「もう誰にも殺されないよぉ」
 不安定な声で呟く鬼の両目から涙が垂れた。彼女はこっちが見えてない。今が都合が良い。殺したい。
 首を捻ろう。簡単だ。何歩か前に出て、腕を伸ばせば殺せる。
 腕を伸ばして――。
「大草さん!」
 再び背後から声が聞こえた。木津さんの声だ。一人じゃない、何人かが走ってきた気配がする。
 そうだ、ここは図書館だった。これだけ騒げば野次馬が集まってくるのも当然だと思い出し、腕を伸ばすのを躊躇ってしまった。
 鬼が踵を返し、本棚の向こう側へ逃げ出す。追わないと。
「私が行くから」
 僕の横を赤い幾何学紋様の振り袖が通り抜けた。袴を履いた動き辛そうな恰好のままで、予想も出来ない様な早さで鬼を追って行く。
 常月さん? どうして彼女が。考えがあるって、言っていた。まさか、鬼を追いかけて何をするつもりだ?
「久藤准」
 唖然としていると、誰かに名前を呼ばれた。
「お前は追わんのか。あれは、鬼だっただろう?」
 この聞き覚えのある声は、顔を見ずとも誰だか判った。険のある物言いも心当たりがある。
 後ろを振り返り見ると、やはり同じクラスの糸色さんだった。腕を組んでこっちを睨んでいる。あの日以来ずっとこの調子だ。僕が親子三人を殺した家の中で、偶然出会ってしまってから。
「久藤君」
 大草さんが僕の袖を引いた。
「追わないよ。何で僕がそんあ危ない事しなくちゃいけないんだ」
「ほお、血の気の多いお前に打って付けだと思ったのだが」
「何の話?」
 糸色さんは、さっきからの僕の行動一部始終を見てたわけじゃないはずだ。
「惚けるな、久藤准」
 睨まれる。あの夜に遭った相手だと、強固に疑っているらしい。間違いじゃないけど。
 でも疑っているという事は、確信が持てないでいるということだ。あの時は顔を隠して喋り方を変えていたから、安易に僕と結びつけられなかったのか。
 やはり僕を殺すつもりが有るんだろう。
 あの時の言動から推測すると、どうやら彼女は鬼を殺す人間が憎いらしいから。理由は身内を守るため、だろう。
 だけど他にも木野とか木津さんとかも同じような事をやっているのに、やたらに僕ばかりを目の敵にする理由は何だ?
 訊いたって答えはしないだろう。だいたい、訊いたら僕があの時の相手だと知られてしまうし。
「大草さん、大丈夫?」
「あんまり……」
 大草さんの右手の甲に、切り傷が開いている。あまり深い傷ではないけど、大きめの血管が千切れたのか、相当な量の血が流れ出していた。そして、それを啜った唾液の後が残っている。
「何かで切られた?」
「ううん、本のページで切っちゃっただけ。そしたら、あの女の子が突然襲ってきて」
 喋りながら思い出したらしく、身を震わせた。
「帰った方が、良いんじゃないかな」
「でも、図書委員の仕事があるし、それに」
「仕事は誰かがやるよ」
「うん、でも、今図書室の外に出るとね」
 あの子が居るかもしれない、か。それは有るかも知れない。大草さんに目をつけている可能性もある。そうすると、追いかけていった常月さんも気になるけど。
「送って行くよ」
「いいの?」
「こんな目に遭ったあとに、女の子一人で帰せないよ」
「ごめんね」
「ついでに保健室行こうか」
 肩を貸して、大草さんはやっと立ち上がる事が出来た。外傷としてはほんの少し失血しているだけだろうけど、それ以上に体験した凶事のショックが大きい。
 生きたまま喰われるのは、恐ろしいのだろう。
「あの鬼の住処を知りたくはないか?」
 擦れ違い態に、糸色さんに言われた。
「別に。怪我人が通るから、どいてもられるかな」
「明日、教えてやろう。休んだりするなよ」
 明日か。今日の間に、何所かで遭遇して始末できたら楽だな。大草さんもいるし、やっぱり待ち伏せでもしてくれてたら、都合が良いんだけど。
 図書室の出口で、木野と会った。そういえば、何故か司書室に他のクラスの生徒と一緒に居たんだった。
「あれ、久藤、何帰ろうとしてんだよ。お前今日の委員会どうすんだ」
「用事があるから帰ったって先生に言っといて。大草さんも」
「ちょっと待てよ」
 追いかけて来た木野が、大草さんの怪我を見てぎょっとした。
「用事ってお前……」
「用事だよ。詳しい話すると、先生に迷惑がかかるだろ」
「お、おう」
 本当は、今日の騒ぎを知られたくないだけだ。あの人は僕が自分を殺そうとしてるんじゃないかと、警戒を初めてしまっているし。
 あんまり殺す相手に警戒されていて良い事はない。抵抗されると面倒なだけだ。大体、糸色先生については、確かな証拠があるわけでもないし。ただ妹の糸色さんがやたらに鬼を庇おうとしているから、もしかしたら、と思ってるだけで。
 本当に鬼に憑かれているのだという証拠を、僅かでもかきま見ないと、ただの人殺しになってしまうから。
 どんな理由を付けたって、人殺しには変わりないんだけど。
 今日これから、さっきの女の子に会えるだろうか。囮に使っているようで大草さんには悪いけど、出来るなら、今日の内に、出来るならすぐにでも、殺してしまえるなら、良い。

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