路傍で死んでしまったコルヴィ・ネーリ

 私たちは精神に天秤を準備している。どのような行動を取る時にも、天秤を用いる。心の傾く方に進む。
 心に浮かぶ正義と欲望をカテゴリ毎に配置し、中心に線を引く。右と左を、それぞれ慎重に天秤に乗せていく。一つ乗せるたびに、天秤は右左と傾き揺れる。錘の有る限り、どちらにでも揺れることが出来る。
 そして最後の錘を皿に乗せた後は、選択を誤らない。
 今回のことは、そもそも秤に掛ける時間すら僅かで済む、非常に単純な問題だった。要素がとても少ない。要素とは真実全てではなく、私の内部の正義と欲望の明確な認識の塊である。それら全てが右或いは左、片方だけに片寄っていた。秤に乗せれば、片方は地に着いて、逆の皿の上からは錘が溢れた。
 だから私は其方を迷い無く選択することができる。反対意見、一つも無し。
 秤は理性。
 つまり、理性の赴くところ、何所へなりと――。
 何所へだって行ける。

 日が落ちる。目の奥が痛む様な、赤い色が壮絶だった。空の半分は晴れ渡った赤、半分は鬱々と暗い雲。雨の降りそうな、濡れた空気が漂っている。
 まず一つ、私と晴美は友人関係に有るということ。
 次に一つ、晴美が彼女により精神的、肉体的被害を受けていた事。
 次に一つ、彼女は晴美以外にも鴉、その他クラスメイトに被害を拡大させたこと。
 次に一つ、彼女は人類の天敵、鬼であること。
 最後に一つ、彼女が死んでも、悲しむ人間は、最早何所にも存在しないと、存在しないのだと判ってしまったので。
 これらの要素が、私の行動を決定付けた。
 日が落ちる。空が赤い光を失い始めた。
 私たちは晴美に届いた手紙の一通から、あの少女の住所を突き止めた。殆どの手紙は晴美が捨ててしまっていたのだけれども、あの子が豹変してしまうより以前に、同人誌の通販に使われたという封筒を、晴美の部屋を大掃除した結果見つけることができた。これに一晩かかった。
 東池袋の住宅街だった。サンシャイン通りを通り抜けてずっと奥の、平たく薄汚れた町並みの中に、ゆったりと日が落ちていく。
 六月も半ばを過ぎ、太陽は空に長い間居座っていた。だからもう、時刻は七時過ぎ。空の赤が消えたら、動き回るのに都合が良い。
 私たちは待って、待って、ようやく影の落ちた道端から、その家に侵入した。木造の、今にも朽ち果てそうな建物だった。窓枠が斜めに歪んでいる。まず最初に、体の小さいマリアがその窓から家の中に入った。
「ダレもいないヨ」
「マリア、一人じゃ危ないわ。まず他の入れそうな場所を開けて」
「ういス」
 窓越しに一人だけの声。もう夜なのに、誰も居ない質素な家が不気味。晴美の話じゃ、あの子には両親と妹がいるはずなのに。
 あの子もいない、大人もいない、子供もいない。
 やがてマリアが玄関から出てきた。
「ホントにダレもいないヨ。でも、ヘンなのある」
「私、それ見たいわ」
 何を見たって私たちの今後選択するべき行動に変わりはないのだけど、情報は多く持っていた方が良い。
「全員入るのはまずいよな」
「そうね、木野君の言うとおり。誰か見張りで残っていてくれる?」
「じゃ、私が残るよ」
「僕も」
 奈美と青山君が手を挙げた。
「なあ、ほんとに誰もいないのか?」
 言ったのは、芳賀君だ。
「ほんとだヨ。ナカまっくらネ。それに人いたら、マリア入ったのばれてるよ」
「あいつ、居ないんだな」
「不満ね」
「待ってりゃ、帰ってくるかもな。おれも残る」
 慎重な選択。彼女の血液を間近で見たのだ。芳賀君は、因縁めいたものを感じているのかもしれない。
「じゃ、入るのは私とマリア、カエレ、あびるちゃん、木野君」
 皆頷く。共犯者になっている気分。悪い事しようとしてるわけじゃないけど。
 周囲を警戒する三人を残し、私たちはギィと嫌な音を立てる玄関の扉を開いた。錆びた蝶番が泣いている。乱暴に開け閉めしたら壊れそうだ。
 家は、ちょっと外から見ると廃屋にしかみえない。周りは都合良く広い庭になっていて、樹木や草が手入れされずに生い茂っている。建物の中で多少の異変が起こっても、外には漏れないだろう。
 だけどそれと引き替えに、庭の植物たちが外の光を遮って、家の中は異常に暗かった。
「お化け屋敷みたい」
 あびるちゃんが、家に入るなり言った。
「廊下、歩くとミシミシ言うヨ」
「全然人が住んでるって感じしないわ」
「でも、あんまり狭くないね。日本人は狭い家に住んでると思ってたよ」
「戦前からある家なのかもな」
「どうして?」
「都心に家持ってるってことは、金持ちか、昔から先祖代々の土地を持ってたかのどっちかだろ? どう見ても、この家は金持ちにゃ見えないからな。で、この辺は第二次世界大戦の時に空襲を受けてない地域なんだよ。このボロさからして、そのぐらいの年代物でもおかしくない」
「なるほど。木野君、結構博識なのね」
「伊達に本読んでるわけじゃねーよ」
「先祖代々、ね。確かに古い家だけど。それも、鬼に取り憑かれちゃったらお終い、か」
「え?」あびるちゃんの言い方が、なんだか妙に重かった。
「何でもない」
「ここだよ、ヘンなの」
 マリアが襖が開きっぱなしの部屋を指差した。薄暗くて中が見えない。雨戸が閉まってるいらしい。日は落ちたとはいえ、外には人工的な灯りが沢山灯っているのに、この家は取り残された様に、或いは隠れ潜む様に、文明を拒否している。
「奥に、ある。見えないか?」
「マリアは暗い中でも、よく見えるのね」
 だけど私たちは無理。
「灯りは」
「持ってきたわ」
 携帯ストラップの小さな懐中電灯を灯した。結構、強い光を放つ。
 室内がパッと明るくなった。部屋全部が見えるぐらいだ。暗い中に慣れていた目には眩しすぎた。
「何あれ」
「お仏壇かしら」
 部屋の奥に、質素な黒い棚がある。上に写真と、壺が置いてあった。
「仏壇ってこんな形してるの?」
「ちょっと、違うみたい」
 私たちは摺り足で棚に近付いた。明かりを灯して気がついたけど、床が異常に汚い。動物の体毛のようなものや黒くこびり付いた汚れが、そこかしこに付いている。不可解で、気持ちが悪い。
「女の人の写真だ」
「壺は、何かしら」
「変な匂い……」
 あびるちゃんの言うとおり、壺から饐えた匂いが漂っていた。すごく嫌な予感がする。
「なあ、この写真、あの子に似てないか?」
「見せて」
 木野君から写真を受け取って、明かりの下に見た。写真は簡素な額縁に入れられている。映っている女の人の髪型や画像の感じからして、撮られたのはかなり昔みたい。
 小柄な女性が一人で映っている。隣に男性が立っているみたいだけれど、そこは切り取られたらしく、額に入れられているのは彼女の部分だけだった。無理矢理一人分の写真を用意したように見える。
「目の辺りとか」
 木野君の指摘の通り、確かに彼女に似ている。でもこの写真は古い。それに、彼女よりも年上に見える。
「親じゃないの?」
「母親? ってことは、もしかしてこれ」
 饐えた匂いのする壺の蓋に手を伸ばした。嫌な気分だったけど、きっちり確認しないと、と私の中で強制力が発生している。
 僅かに蓋をずらす。臭い匂いが、溢れ出た。
「開けるわよ」
 皆が、頷く。私は中身を見ないといけない。
 今、六月だ。夏に入る前、ここのところ暖かい日が続いた。肉の腐る匂いというのは、鼻に突き刺さり不快に甘い。
 壺の中身は悪い予想に反して、腐って然るべき部分はかなり少なかった。だけど、ほんの少しでも水分を含んだ部分が残っていれば、腐敗は免れない。
 いや、そもそも残ったほんの少し意外の部分は、何所に消えたんだろう。
「骨だ」
 木野君が言った。他の誰も、口にするのを躊躇ってしまっていたから。不快な想像が頭に浮かんでいた。
 まず間違いなく人骨。不自然な形で死んだと、誰だって判るような形状の死体。
 それは壺にみっしりと詰められているためか、あまり原形を留めていない。断ち切られ、砕かれて、入れてある。断面に見たくもないような粘液がこびり付いている。骨髄が半ば乾燥しているのだ。表面には黴が生えている。
 ふと棚の上を見ると、写真の横に熔け崩れた小さな蝋燭と、灰の溜まった小皿が置いてあった。灰はよく見ると、細長い形元の形を留めている部分がある。
 線香をあげる分別はあるらしい。
「つまり、お墓なのね」
「なるほど、骨壺か。どうして墓に入れないんだろうな」
「おカネ無いと、墓も買えないヨ。マリアの友達も家の中にお墓置いてる」
 確かに一利ある。この一家がさほど裕福であるようには思えなかったし。でもだからって、こんな異臭を放つ状態で置いておくなんてどうかしている。
「こんなのおかしいよ」カエレが言った。「日本人、骨をそのままお墓にするなんて」
「日本は火葬文化なのよ」
「うーん、ちょっと違うと思う」
「あびるちゃん?」
「これって骨、そのまま、だよね。火葬にしたら腐んないし、黴とかも生えないんじゃないの?」
「そうだよ、おかしいよ。これじゃまるで、フライドチキンの食べ残しじゃない」
 嫌なことを、言う。この骨をしゃぶる想像までして、吐き気がした。多分、皆同じ事を考えたのだ。これは恐怖というよりも、嫌悪だ。自分の理性の天秤を跳ね上がらせ、怒りを湧き上がらせる想像。ここに入って私が見聞きしたもの、全てあくまでも想像。
「変な想像させないでよ」
「見たまま、言っただけだろう」
「言っていい事と悪いことがあるわ」
 私は壺の蓋を元に戻した。あまり開け放しておくと、饐えた匂いが肺に染みこんでいく気がする。しかし蓋を閉じても匂いが辺りに残っている。
「マリア、他に何か見た?」
「小さい地下室、有ったよ」
「ここに居たってしょうがないわ。行ってみましょ」
 部屋を出る際で、あびるちゃんが更に嫌なことを言った。
「わたしバイト先、動物園なんだけど、肉食動物の食べ残しもあんな感じ」
 益々、胸の奥に悪寒が湧いた。この家には猛獣が住んでいるとでも言うのかしら? それは、あの子なのだろうか。
 鬼が血を吸うのは知っているし、現場も見たことがあるけど、死体を食べるだなんて。考えてみれば、醜悪さはどちらも変わらないのだけど、その時私は何故か後者は途方もなく許せない行為と感じた。
 人殺しのやり方なんて、五十歩百歩、熟し柿がうみ柿を笑い、どんぐりの背比べも良いところ。まして、私は人を殺すのが目的で、ここへ不法侵入してきたというのに。
「この下」
 次にマリアが誘導した先に、下りの階段があった。廊下の途中に突然現れている。妙に段差が大きく、コンクリートが剥き出しになっており、二人が横に並んで通れるかもしれない、という程度の狭さだ。下の方まで灯りが届かなくて、階段の途中からは真っ暗だ。何も存在しないみたいに見える。
「マリアは下に降りたの?」
「うん。でも何もなかったよ」
「何にも」驚いた。
「さっきの骨を見た後だと、逆に不安になるわね」
「確かに」
「この足跡、マリアのだよな」
 木野君の指差した先に、小さな子供の足跡が残っている。階段は埃だらけで、マリアの通ったところだけ埃が無くなっていた。
「ずっと使ってなかったみたいね」
「ええ。地下室、どんな感じだったの?」
「四角いだけだった。でも、入り口に鉄格子はまってたヨ。牢屋ダナ」
「座敷牢ね」
 次から次に、嫌なものが出てくる。今私が見ているのは夢じゃないだろうか。私の意志も通用しないし、出来が悪すぎる。

 卑怯だと誰かが言った。私に対して誰かが言った。手の平の上に、誰かの命を乗せることが卑怯だとか。誰だったっけ?
 それを私に言った彼女は、私から遙か遠くに立っている。私なんて豆粒のように小さく見えているに違いない。だけど彼女は眩しいので、私は彼女を眺めると、明るく縁取りのない彼女の姿形が目に焼け付く。遠く離れた場所にいるのに、彼女ははっきりと見える。だけど裸眼では彼女のはっきりとした形を見る事は出来ない。縁のない彼女は世界と同化している。
 太陽。
 太陽は夜の前に沈む。空を赤く変えて、血の色の翼を広げて、世界から消滅する。それも昔のこと。今はもう、街は闇の中だった。
「でもね、千里ちゃん、ちょっと卑怯じゃない?」
 携帯がやさしい声で囁いた。
「何を言っているの?」
「だって、お父さんはそうだったけれど、あの子はまだ誰も殺していないじゃない」
「母親の骨があったわ」
 さっき見た、食い残しの人骨。白い骨の肌に生えた青い黴と、腐った体液のまとわりつく様が、記憶に新しいのだけど、逆に現実味の無い映像に変わって頭の中に残っている。
「それは、誰が殺したのか、千里ちゃんには判るの?」
 判らない。あの家にあったのだから、あの家に住んでいる誰かが殺したのに違いないことは、判る。だけど下手人は判らない。
「そういうアナタこそ、判らないでしょう」
「私がそれを判る必要なんて無いから」
「おかしいわ」
 走っていた私は足を止めて、きっちりと街灯の並んだ道の奥を睨んだ。あの家から慌てて出て、ずっと走り通しだった。他のみんなは、それぞれの方向へ探しに出ている。空は不穏に曇っていた。
 知る必要もないと、つまり私は無関係だと、彼女は言った。私とは違う場所に立っていると言いたいらしい。
「どうして私に電話をして、情報をくれたの?」
 私が今一番知らなくてはいけないのはそんな事じゃない。けれど疑問が溢れすぎて、何から口にしたらいいのか判らなくなった。
 思考を右へ、左へ、きっちり天秤に振り分けて、何を成すべきか判断しなくては。
「危なかったからだよ」
「危ないこと、知ってたのね。私たちがあの子の家に侵入してたこと」
「不思議なことなんて何もないよ。昨日の放課後、学校で色々相談してたじゃない」
 図書室で大草さんが襲われた日のことだ。あの後、大草さんはショックが大きくて、図書委員の仕事を続けられそうになかったから、久藤君に付き添われて家に帰った。それを見送って、私たちは教室に戻って今後どうすべきか話し合った。それで、晴美の持ち物から彼女の住居が判るものが有るんじゃないかって話になって、そう、そして討伐の日取りとメンバーが決まったのだ。
 風浦さんは、その場にいたかしら?
 思い出せない。いたとしても、おかしくはない。いなくっても、おかしくない。どちらが正解なのか判らない。
 でもおかしいことは、それじゃない。
「どうして、父親も鬼だって知ってたの?」
「妹さんもだよ。周辺の事件とかを調べてたら、判ること」
 確かに、調べて判らないようなら、討伐なんてできやしない。彼女の言うことは筋が通っている。
「早く言ってくれたら良かったのに」
「今日、結論が出たから」
 偶然? 言い訳じみている。だけど筋も通っている。
 私が疑問に思っていること、その核心は、どこ。聞き出さないと、すっきりしない。
「あなたは、来ないの?」
「私は何も出来ないから。足手まといになっちゃうよ」
「この間はついてきたじゃない」
「うん。でも何も出来なかったから」
 これも、本当。あの時、加賀さんが鬼に取り憑かれた時、風浦さんは珍しく討伐に出る私についてきたけど、結局何をするわけでもなく、ぼうっと私たちを眺めていただけだった。久藤君が加賀さんを誘導してどこかに行ってしまった後も、何もしなかったって久藤君が言ってたし。
「千里ちゃん、あのね」
 赤子に言い聞かせるように、優しい声で言う。
「お父さんと妹さんが鬼で、人を殺してるっていうのは、調べて何となく判るんだけど、あの女の子自身が人殺しをした証拠は無いの」
「だから、何なの? 証拠がないだけでしょう」
「そうだね。でも、疑いだけで殺されるのって、どうかなあ」
「私が卑怯だってことね」
 さっき、そう言われた。卑怯って、そんな考えは全く私の中になかった。天秤がぐらつく。
 右へ左へ、はっきりしない揺れ方。ああ、イライラする。
「殺人を目撃してからなら、フェアになるのかしら」
「同じ事を言った人がいたね」
「なんですって?」
「何でもない。えっと、つまりね、お父さんの方と妹さんの方を殺すのは、良いんだけど、あの女の子の方はちょっと考えてあげてもいいんじゃないかなって」
「何を考えるというの。どうせ放っておけば、人を殺すわ。それは、晴美かもしれない!」
「悪い予測だよ。その前に、憑きものが落ちるかもしれないよ」
 それはポジティブすぎる考えだ。
 それに、そうなったとして、私は彼女の振る舞いを許せはしない。晴美にやったのよりも、ずっと酷い目に遭わないと、きっと許せない。
「ねえ、何が言いたいの?」
「別に。さっき言ったと思うけど、ご近所の奥さんの話だと、その家のお父さんはそろそろ会社から帰ってくる時間だっていうのと、その時に保育園に立ち寄って、もう一人の娘を連れて帰ってくるよっていうのと」
「それは聞いたわ。そして二人が鬼なのね。私が判らないのは、風浦さんが言ってること」
「うん、だから、調べて判ったって」
「違う! そうじゃなくて、アナタが何を言いたいのか、判らないの!」
「もしも家に侵入してるとしたら、危ないんじゃないのかな。あ、でももうみんな、家から出てるよね」
「からかってるの!?」
 いつの間にか空は曇りで、月明かりもない。風がやたらと湿気り始めたと思ったら、冷たい粒が落ちてきた。雨。
「おかしいわ。情報を与えながら、アナタはどうして私を卑怯と罵るの?」
 小雨だった。
 やっと口から吐き出した違和感の心臓だけど、本当にこれは心臓なのかしら。誤作動を起こしているんじゃないかしら。違和感に見える、別なものにも思える。はっきりと正体が掴めない、不安。
 答えがあれば、輪郭を掴めるだろうか。
 早く答えて!
 私たちは風浦さんからかかってきた電話で、父親が帰ってくる時刻が近付いている事を知らされ、慌ててあの家を出た。その私たちに協力的な電話で、細かい情報を教えてくれた。それなのにどうして、今更私を止めるような言い方をするの?
 等間隔に並んだ街灯が、同じ分量の照明を私の上に落としている。私の足下から幾つもの影が光源の距離に応じた角度で分離する。影の濃さは夜の間変わることはない。
 それをじっと眺めている。携帯電話のスピーカーから、少女の吐息が微かに聞こえ続けている。
 答えを待っているのに。私に不都合な真実は、私には知らされない?
「鳥が空を飛んでいるとすると、大気がなければ飛べません」
 突然声の調子が変わった。変に節が付いていて、歌っているみたいだ。
「は?」
「鴉は羽が黒いので、お日様の元では目立ってしまいますね。羽がなかったら飛べないけれど夕日の色になれますね。でも私は嫌だなぁ」
「何の話をしているの?」
「空の上のお話。そんなことより、ダイヤの乱れが無ければ、十五分前は東池袋駅に下りの電車が到着した時刻です。雨が降っているから、もう少し遅くなるかもしれないけれど、大人の足で歩けば、駅から千里ちゃん達の待機している場所まで十五分ほどかかるよね。小さい女の子を連れてるから、もうちょっと遅くなるかな?」
 今度は、機械で合成されたみたいな、きっちりした声で話し始めた。車のナビゲーション、駅の案内、それよりも少女すぎるけれど。
 雨が、小雨から本降りに切り替わった。
「武器は大丈夫?」
 私の手には愛用のスコップがある。そのまま持っていると人目に付くから、普段は持ち手の部分とスプーン状の刃の部分を分解して、通学鞄に入るようにしてある。あの家を出た時点で、いつ戦闘になっても良いように準備しておいた。
 いつだって私の行いに迷いなんてない。だって天秤を持っているもの。
「駅からまっすぐ帰ってくるとしたら、千里ちゃんのいる道を通るだろうけど」
 風浦さんは答えない。答えが知りたい。だけど今は、彼女の言う通り、私のすぐ側に危険が迫っているような、気がする。
「でも、お母さんが死んでしまったから、晩ご飯のためにスーパーへ寄って帰るのかもしれない。きっとお父さんは料理が出来ないね。沢山はお買い物しない。だからやっぱり、もうすぐ家に帰り着く。スーパーは千里ちゃんのいる見ている一番近いの曲がり角を、右に曲がってまっすぐだね」
 奈美が向かった方向!
 どうして信じてしまうのかわからないけど、私は彼女の予言に従って、右側の角へ走った。
 細長い道路は両側がコンクリートの塀で固めてある。壁の向こうには命が暮らしている。なのに私たちはこの細長いコンクリートの幽室に閉じこもっている。少なくとも雨の今日は。
 どうして彼女は正確なのだろう。私が曲がり角から新しく切り替わる風景を見た時が、奈美が悲鳴を上げた、きっちりその瞬間だった。
「た、あああ! で、でで出たああ!」
 奈美は鞄を取り落とし、道にへたり込んで、その姿勢のままどうにかして後退しようとしているらしかった。
 まったく、恐いのならどうして着いてきたのかしら?
 奈美の前に、一人の草臥れたサラリーマンが立ちつくしている。血走った目で奈美を睨んでいる。確かに、あの女の子そっくり。間違いない。
 目の前に証拠を突きつけられたなら、誰も迷わない。私は奈美に駆け寄る。
 だけど、男が動き出す方が、早かった。
 その手が奈美に伸びる。私から奈美まで三十メートルぐらい。私じゃ、間に合わない!
「木津さん、伏せて!」
 反射的に体を縮こめた。私の後ろから声と足音。
 その一瞬の後、男が片目を押さえて仰け反った。
 奈美の顔の上に、血の赤い雫が何滴か降り注ぐ。
「奈美、早く逃げるのよ!」
 返事の代わりに、ひ、と吐息混じりの悲鳴を上げた。だけど立ち上がらない。だめ、腰が抜けてるみたい。
 片目を潰された男は、残った片目をぎらつかせて、私たちを見回した。彼の頭の中で膨れ上がるのは、痛覚への焦りとか、私たちへの怒りとか、生存への焦りとか。全て言葉にならなず、男は口から呻り声を漏らした。
 すぐに踵を返し、逃げ出す。
 逃がすものか!
「追うわよ」
 私が言うまでもなく、青山君も走り出した。走りながら、再び男の背中を狙って、再び狙いを定める。
 眼鏡の奥の片目を閉じ、右手を真っ直ぐ伸ばして、視線、それと人差し指と薬指の間の空間、そして男の背中がきっちり直線で結ばれる。
 中指を丸く曲げ、親指で押さえて引き金にする。
 人差し指と薬指の間に、小さな礫を挟んでいる。なんて事はない、道端に落ちている石。だけど、それが弾丸になる。
 降り続ける雨が眼鏡のレンズに打ち付けていたけど、そんなのは大した問題じゃないらしい。さっきの射撃もきっちり正確だった。
 男が角を曲がろうと足を緩めた時、青山君は引き金を解放した。
 中指で勢いよく小石を弾き飛ばす。
 彼の指先から狙った的まで、残像の細い糸が真っ直ぐに伸びた。目標まで、十メートル以上の距離。
「ぎゃっ」
 命中!
 男が首の後ろを押さえて、呻いた。足が止まる。
 追いつける。
 私は手にしたスコップを振り上げ、男に向かって突進した。
 男が振り返り、憎悪の目。開いた口が血そのもののように赤い。そこから、悲鳴のような怒号のような叫び声を上げる。
 彼らは食物連鎖で私たちの上位にある。私たちに牙を向く。
 自然の理? 本当に?
 本当はイレギュラーなんじゃないの?
 自然に反する存在なんじゃないの?
 それは、淘汰されるべき。これは自己防衛の正義。
 私は走る速度を乗せて、スコップを振り下ろした。
 男が体を捻る。狙いが逸れ、スコップの刃は彼の腕を打ち付けた。何かを砕く鈍い音。男の持っていた鞄が道端へ飛んでいった。
 足を狙えば良かった。
 男は折れた腕を庇いながらも、ふらつく足で尚も逃げ藻掻く。一瞬振り向いて見せた顔は、潰された片目から溢れた血で真っ赤に染まっていた。雨に滲んで顔中に流れて広がる。
 罪悪感なんて微塵も湧かない。
 角を曲がって、街灯の少ない裏路地。青山君の石鉄砲が男の足を追撃した。
「あっ」
 鋭い痛みが膝の裏に突き刺さって、男は足を縺れさせた。不器用に走るつま先がアスファルトの隆起に躓き、顔面から道路につんのめった。
 それでも地面をよたよたと這いずり回る。
 私は地面でうねる男の足に向かって、スコップを垂直に突き刺した。
 また悲鳴、そして骨の折れた手応え。足が動かなければ、もう逃げられない。
「観念なさい」
 男は振り返り、私たちを見た。片目が潰れているだけでなく、さっき顔面から転んだために鼻の頭の皮が剥げ、顔面はぐちゃぐちゃになっていた。地面にも血が流れ落ち、そこに雨が打ち付ける。その様子を弱い街灯がグロテスクに照らしている。
「娘二人がいるでしょう? その子達、どこに居るのかしら」
 男の口は開いたまま、荒い呼吸を繰り返している。あー、と低い呻り声を上げている。顔が痛みと怒りの為に歪んでいる。
 鬼は、バカではない。正体を隠したまま人間生活を続けるぐらいの器用さはある。当然、私の質問の意味も判っているはずだ。
 だが答えない。ただ片目が激しい感情に燃えているだけだ。答えない唇が、言葉を忘れてしまったかのように、カクカクと動いた。
「早く答えなさい。どうなるか、判るでしょう」
 私は威嚇のためにスコップを高く掲げた。
 ひっと咽が空気を飲み込み、男の体全体が小刻みに震え始めた。
「だ、誰があああ……し」
「何?」
 聞き取れない。唇が震えているために、酷く不明瞭な発音になっている。
「……ばれたんだ……あ……」
「楽に死にたいのなら、きっちりきちんと答えなさい」
「あいつが、やっぱりぃ、……が、ああ」
 感情の溢れすぎた片目は、瞳孔が開いて、焦点が定まらず、空ろに彷徨っている。
「誰の話をしているの?」
「……だ。…敗だった。やっぱり、餌なんか外に出すんじゃなかったあああ!」
 男の声は次第に狂おしく、大きくなってきた。
「余計なこと言いやがって! 俺は俺の命が一番大切なんだよう!」
 急に、男の体が起きあがった。折れた骨の痛みなんか何も感じないみたいに、両手を私の首に向かって突き出した!
 首。首を掴まれる!
「木津さん!」
 青山君が咄嗟に私の腕を引いた。
 視界が斜めに倒れる。男の両手は空を掴んだ。でも駄目だ、勢いづいた男の体が、私の上に、倒れて来る――。
「うおりゃあっ」
 声と共に、何かが男の頭を弾き飛ばした。道路脇の塀に、男の体は激突した。
 頭蓋に大きな陥没。悲鳴も無い程、一瞬の絶命。雨に混じって血が降った。
 ああ、雨が弱まってくる。だけど血が混じっている。
 その汚れた雨の中を、芳賀君が駆け込んできたのだった。手に自分の身長と同じぐらいの鉄の棒を握っている。さっき、これが男の頭を強かに打ち付けた。
「大丈夫か?」
「芳賀、遅いよ」
 芳賀君は死体を一瞥し、力強く頷いて、私たちに声をかけた。呼吸が荒く、見開いた両目が爛々と輝いている。
 私も心拍数と呼吸が激しく上昇していた。殺されるかもしれないと、本気で思ったから。ほんの少しの油断が命取りになる。
「だって連絡も無かったじゃん。鬼が変な絶叫しなかったら、判んなかったっつーの」
「余裕無かったんだよ」
「はぁ」ため息、というより上がった息を整えるための深呼吸。「鬼を見つけたら連絡、って取り決め、あんま意味無いな」
「見つけた時には、基本的にそんな悠長なことしてられないからね。別な方法を考えた方がいいなあ」
 言いながら、青山君が私の腕を引いて、立ち上がらせた。
「まあ、今回は無事だったからいっか」
「次も無事とは限らないよ」
「その時はその時」
 芳賀君と青山君の会話が意識の上を滑っていく感じ。他に気になることが沢山あるから。
 つい今し方まで感じていたスリルの名残を意識に沈めていく。この瞬間が好きだった。冷静に冷えていく脳で、周囲を見渡す感覚が。
 薄暗い街灯の道端、塀に死んだ男が寄りかかっている。頭蓋の中身を散らして、顔全体に流れ出ていた。体液が雨と共に水溜まりを形成する。グロテスク、だけど慣れって恐いものだ。何も感じない。
「ねえ、あの男は何を言っていたのかしら」
「え? なんだって、木津さん?」
「変なこと口走ってたでしょ」
「俺ちゃんと聞いてねーからわっかんないよ」
「青山君は」
「ごめん、僕もよく聞き取れなかったんだ」
「そうよね」
 初めは一番近くに居た私にも聞こえないぐらいの声で呻き、次第に叫びとなった彼の言葉は、訳が判らなかった。何となく気になる。だけど、死に際に意味不明な言動をするのって、結構普通の事ではある。
「それより、小節さんとか大丈夫かな。あと二人いるはずだろ?」
「風浦さんが言うには、彼は下の娘を連れて帰宅する途中だったはずなのよね」
「……いないね」
「街の中を徘徊してる可能性が高いわ。まず、奈美の所に戻りましょう。青山君はあびるちゃんかカエレに連絡を取って」
 ふと思い出して、自分の携帯を制服のポケットから取り出して画面を見ると、通話は既に切れていた。誰と話をしていたんだっけ、思い出せなくて着信履歴を見たけど、知らない番号だった。今度かかってきたら登録しておかないと。
「ねえねえ、俺はあ? どうしたらいい?」
「引き続き警戒態勢」
「おうよ。何かあれだね、木津さんって軍隊の人みたいだね」
 手を額の前に持ってきて、敬礼のようなものをしてみせた。バカにされてるのか何なのか判らない。
「どういう意味」
「や、そう思っただけ」
「誉めてるのか貶してるのか、はっきりしてよ」
「誉めてる誉めてる」
「ホントに?」
「女軍人っていうのもエロい感じでいいよね!」
「はあ?」
「芳賀の言動なんてあんまり気にしない方が良いよ」
 青山君が携帯を耳に当てたまま言った。真横に立っているから、スピーカーから漏れる呼び出し音が何となく聴こえる。
 相手が電話を取った際に再生される電子音も。
「あ、小節さん?」
 青山君が電話口に話しかけた。どうやらあびるちゃんの携帯に連絡したらしい。
「私たちにも聴こえる音量にして」
「うん。ちょっと待って」
「……ね、ねえ、そういうのって、こっちが電話取る前に設定しとくもんじゃない」
 あびるちゃんの声が、次第にはっきり聴こえるようになる。こっちの声は、既に聞こえていたようだ。
「まあいいか。それより何の用?」
「私と青山君と芳賀君で、一人倒したわ。でも娘二人は不在」
「おめでとう。丁度、私も電話しようと思ってた」
「何かあったの?」
「下の娘を見つけた。逃げ回ってるから、気をつけて。マリアとカエレが追いかけて行ったけど」
 私たちの間に緊張が走った。
 雨が上がる。空気は変わりない。
「急いで、奈美の所に戻りましょ」
 のろのろ歩いていた私たちは、慌てて走り出す。奈美はまさか、まだあの場所で動けないままだったりするのかしら。そうだとしたら、危ない。二匹目に襲われる可能性がある。
「私も合流したい」
「その方が良いわね」走りながらの会話。少し息が上がった。「あの家を出てから奈美が行った方向、判る?」
「何となく。目印とかある?」
 奈美が襲われていた場所まで、何百メートルもあるわけじゃない。角を曲がって直ぐに、地面に座り込んだ奈美の姿が見えた。とりあえずは、無事。
「三階建て、赤い屋根の家の近く」
「判った」
 電話が切れた。
 少なくとも、あと一人は確認。マリアもカエレも、簡単に負けたりしないだろうけど、大丈夫だろうか。


「すんごい、血の匂い」
 程なくして現れたあびるちゃんが言った。不快そうに鼻の辺りを手で覆った。
「そう? 雨の匂い、の間違いじゃない?」
「麻痺して来てるんじゃないの。嗅覚って、人間の感覚の中で一番、慣れが早いらしいし」
「そんなに匂うかな」
「俺のこれかも」
 芳賀君が手に持った鉄パイプを軽く振り回した。雨に濡れて、明日には錆びそう。
「鉄の匂い? じゃなくって、ほんとに血の匂い。その辺で殺したんだよね」
「そうよ」
 あびるちゃんは口元に指を当てて、少し考え込んだかと思ったら、思いも寄らない事を言い出した。
「ねえ、それって囮に出来るよね」
 死体とそれから滴る真っ赤な血。鬼の死体が鬼をおびき寄せる事なんて、できるのかしら?
 それって、共食い、よね。でも、
「出来るかも」
 静かな住宅街だ。碌に人も通らない。仮に人が来ても、すれ違うだけの人々は、私たちのしていることなんかに興味は無い。犯行現場さえ見られなければ大騒ぎにはならない。見られたとしても、私たちの方に正当性があるのだから、問題ない。
 それにしたってこの街は静かだ。薄暗くて湿っぽい、陰気な町並み。雨の所為か、元からそうなのか。
「あの死体の所で、待ってようか。上手くいけば一カ所で仕留められるかもね。その方が後片付けも楽だろうし」
 青山君が言った。後片付けをするのは私たちではないけど。
「し、死体って、グロい?」
「当たり前でしょ」
「えー……やっぱ、来なきゃ良かったぁ」
「ここでずっと座ってても良いわよ」
「それもヤだあ」
 まだ奈美はまともに立ち上がれなかった。あびるちゃんに肩を支えられて、のろのろと着いてくる。
「まったく、どうして付いてきたのよ」
「だって晴美ちゃんのこと気になったし。それに、面白いかと思って」
「面白いわよ」
 晴美は嫌がって、来なかったけど。
「面白くないよ! 恐いだけ、じゃん」
「私は面白いわ」
「げ」
 角を曲がった直ぐの所に、死体が道端に座り込んでいる。当たり前だけどさっきと変わりない。奈美がそれを見て、心底嫌そうな顔をした。
「うぇえええええ……」
 死体と反対側の塀に向かってしゃがみ込んで、嘔吐の真似。人間って、意外と摂取した食物を簡単には吐き出せないような作りになっている。っていうか、奈美が最後に食事を取ってから相当時間が経ってるだろうし、吐こうとしても、吐く物がない。
「大丈夫?」
 あびるちゃんが背中をさすっている。それで一度見た映像が消えるわけじゃないんだから、気休めも良いところ。
「そういえば、木野君は大丈夫かしら」
「メール送っといた。ここ来るか、木村さんたちを探すかどっちかしたら、って」
「おお、手際が良いのね青山君」
「芳賀のノリがびっくりするほど気持ち悪い」
「酷くない? それ酷くない?」
「ちょっと、静かにしてよ」
 死体が側にあるとは思えない様な、ノリの軽さ。静かにしてないと、ご近所の人に迷惑じゃない。
「えー、でも、静かにしてるとさぁ」
「静かにしないでよ!」奈美が振るえる声で急に叫んだ。「こんな、死体の側でみんな黙ってたら、恐いからぁ」
 そう、だろうか? この場合は静かにしてないと、近所の人に疑われるし、何より敵が来た時に素早く対応出来ない。合理的に考えて、あまり騒ぐべき時じゃない。
 でも奈美の反応が、普通、なんだろうか。そんな考えが頭を過ぎり、正しいものが判らない。
 何が当たり前なのか考えると、何となく不安定になる。そうか、あまり考えない方が良いのか。そういう意味では、何か会話をしていた方が、楽。
「ねえ、妹の方ってどの辺で出たの?」
「かなり近く。あっちに郵便局があって、その前辺りで見た」
「見た感じ、あの子と似てたの?」
「似てた。というか、あの写真の女の人と似てた」
「じゃあ、間違いないみたいだね」
「攻撃してきたの?」
「ううん。こっちが威嚇しようとしたら、逃げた。足早かったよ。私じゃ追いつけないから」
「でも、子供でしょう?」
「鬼だからじゃない。追いかけられてるし」
「はい?」
「鬼ごっこ」
 それってあびるちゃんなりの冗談のつもり?
「でもさ、何でその子は親と一緒じゃなかったんだろ。風浦さんの話じゃ、父親と一緒に帰る途中だっつってたじゃん」
「あたしが見た時は、一緒だったけど」
 奈美はまだ口元を押さえている。しかも涙目。
「どうしてそれを早く言わないの」
「言う暇なんて無かったって……」
「僕ら、そのまんま追いかけてったもんね。じゃあ、妹の方は日塔さんを見て逃げ出したってことかな?」
「じゃなくって、追いかけてった」
「誰を?」
 何それ。今初めて聞く変な話。
「あの女の子を」
「あの子が居たの!?」
「だからあ、出たって言ったじゃん。そこはあたし言ったよ」
「そんなの父親の方だと思ったに決まってるじゃない」
「見知らぬおっさん見て叫んだりしないから!」
「確かにそうだけど。でも、似てたじゃない、あの子と」
「似てるぐらいじゃ叫ばない! ほんとにあの子が居たの」
「だって」
 だって、私は奈美の叫びを頼りに、あいつが鬼だって思って。罪人だと!
「僕ら、勘違いしてたんだ」
 いえ、結果的には間違ってなかった。間違ってなかったはず。彼は最後に自白したようなものだもの。
 私は間違ってはいなかった。
 だけど青山君が虚しく囁いた言葉が耳に残る。そうして、誰かが私を卑怯と責めたことを思い出す。証拠も無しに、殺すのって卑怯じゃない?
 どうしてそんな事を気にしてしまうのか。間違いなんて無かったのに。
「ねえ、その子は何所に行ったの?」
「逃げてったよ。それを、小さい女の子が追いかけて行ったの」
「ふうん。どうして逃げたんだろ」
 奈美もあびるちゃんも何も気にしていないみたい。二人には間違いが無かった。間違いがあったのは私と……いや、私が最初?
 私だけ?
 いいえ、間違いなんて無くて、結果的にはやっぱり私が正義だった。だけど勘違いがあって、でもそれって紛らわしい悲鳴を上げた奈美のせいじゃない?
 そんなの責任転嫁だ。
 私のやったことは正しかった。でも揺らぐのはなぜ。私の天秤を揺らしたのは、誰だったっけ。
 思い出せない事を考えていると、曲がり角の街灯の下に小さな影が見えた。
 いつの間にか、向こうから歩いてきた。こども、だ。五歳ぐらい?
 緑色のワンピースを着ていて、それがさっきの雨で濡れている。傘も鞄も持っていない。
「あ、あの子」
 あびるちゃんが指差して言った。奈美がひっと息を呑んだ。
 私の体に緊張、ではなくて寒気が先に全身を走った。雨に濡れた全身が、急に寒さを訴え出す。
 子供は走り疲れたみたいな姿勢で、ゆっくり歩いてくる。街灯の光が弱すぎて、表情が見えない。
 だけどあびるちゃんが指差したのは間違いではなく、この子がマリアとカエレが追っていった少女に違いない。あびるちゃんは実際に一度見ているのだろうから、間違いようもない。奈美もそうだ。知ってるから、判ってるから、の反応。
 それに、こんな死体の転がっている変な場所に悲鳴も上げずにふらふら現れるなんて、普通じゃない。間違いなく、鬼の取り付いた、あの女の妹だ。
 だけど私達はその場から動かなかった。
 だって、どう見ても小さな子供。
 間違いないと判っていても、万が一の別パターンを考えてしまう。今度こそ間違いではすまされない。相手は小さな子供なんだから。
 子供は俯いている。私たちが見えているのか、見えていないのか。視線の先は、父親の死体、のような気がする。
「やっと追いついたヨ」
 その子供を追って、マリアとカエレ、そして木野君が現れた。
「あ! 芳賀、青山、それに……」
「みんな、その子供が鬼だよ!」
 三人は息が上がっていた。長い距離を追いかけ回して走っていたらしい。ひたすら追いかけ回したということは、今まで攻撃できなかったということ。
 カエレが手にした銃を子供に向ける。
「いい加減、逃げ回るのは終わりよ」
 子供はカエレの方を振り返らない。だから自分が銃で狙われているのは判らない。何が起こっているのかなんて、気にしていないみたいだった。
 そして銃を向けたカエレは引き金にかけた指を動かさない。威嚇射撃すら躊躇われる。
 マリアもじっと子供を見ているだけで、木野君も握ったナイフを振り上げようとはしない。
 その子があどけない子供だとか、無邪気な感じだったりとか、そういうのが感じられるわけでもない。むしろ、血の匂いの立ち籠める道路で、覚束無い足取りの少女は、異常その物だ。
 だけど子供で、人殺しである証拠は、今はない。いや、あった。風浦さんの電話で、証拠がある事を教えて貰った。でも、それは私たちが実際に目にした事象ではない。
 疑いだけで、殺せるかしら。
 ついさっき、この子の父親に対して、それをやってしまったのだけれど。迷うのは、相手が子供の見た目だからという単純な問題が一つ。それが、さっき生まれたばかりの感覚と合わさって、心にブレーキをかける。
 せめてこの子供が、この父親の死体にかぶりつくとかしたなら。血吸いの化け物だって証拠になる。それなら殺すに充分だから。
 時間が止まっている。私たちは皆似たり寄ったりの愚考に囚われ、そして答えは出ない。とにかく、この子が動き出さないと、何を選択するのが正しいのか判らない。
 この子供は武器を持っているようには見えない。凶暴性は今のところ見て取れない。
 そう私たちには思えないだけで、本当は凶暴なのかもしれない。もしそうだとしたら、この子が動き出した時に、色々と手遅れになる可能性があるかもしれない。
 それは判っていたのだけれど。
 子供は父親の死体の側に寄り、じっとその姿を眺めていた。私たちの予想するように、それへ噛み付いたりはしない。
 やがて顔を上げて、私たちを見回した。
 ただの子供の顔なのに、光のない目をしている。地面に口を開けた穴ぼこのように、二つの目は落ち窪んで濁った闇の色をしている。夜だから、目に映る光が無いだけだ。
 何も言わない。三百六十度、見える範囲を全て眺め終わると、子供はまた歩き始めた。
 銃を構えたカエレの方へ。
「な、何よ! これが恐くないのか!?」
 銃口が自分の額を狙っているのに。銃ってものを知らないにしても、無反応なのはおかしい。理不尽な呼びかけをする人間に、少しも恐怖しない。
 銃口の小さく開いた闇を見上げる。
 やっぱり、この子供は異常!
 殺せるかどうかは、今は判らないけど、黙って行動を見ていては――。
 私がスコップを握り直したのと、子供が勢いよく走り出したのと、同時だった。
 小さな体が弾丸の様に撥ねる。牙を向いた獣よりも、早い!
 そんな風に感じたのは、それがあまりにも意外な行動に思えたからかもしれない。実際は子供の動きなんてたかが知れている。だけど、突然凶暴性を発揮するとは思わなかった。まさか、と疑い続けすぎたから。
 カエレの指が引き金を引き、銃口は地面に向かって無意味な暴力を吐き出した。
 子供は飛びかかる、彼女の体に。武器を持っている? 心臓を庇えばいい? 首を守るべき? 襲われたカエレは判断が付かない。
 後ろから取り押さえるべき? それとも殴りつけようか? 勢い余ってカエレまで傷つけたらどうしよう。私だって判断できない。
 それは一瞬すぎた。私たちがまともに考えるには短すぎた。動けない。
 だから私たちは、そこへ突然男が現れた時も、ただ眺めているだけだった。
 不可解に。
 彼はこの薄暗い路地裏に突如現れた。カエレと子供の間を裂き、塀或いは屋根の上から文字通り飛び込んできた。まるで空から現れたかのように。
 着地、同時に子供の頭を片手で掴むと、そのままの速度でやって来たのとは逆の塀へ飛び乗った。
 男というよりも、少年。学生服、私たちと同じくらいの年格好。ただし顔は判らない。黒い面を付けている。
 片手で子供の頭を掴み、逆の手で肩を握る。何の迷いもなく、その幼子の首を、へし折った。
 骨の折れる鈍い音が薄暗い町並みに響く。今日、この音を聴くのは三度目だ。何故か今回に限って、さっき見た食い残しの骨を思い出した。あの気持ちの悪さを。
 幼子は死んだ。その口から液体が垂れたのが見えた。呆気なく、無惨だ。
 そして彼は無造作に、真新しい死体を道端に投げ捨てた。
 その一連の動作を、私たちは言葉もなく見守っていた。
 少年の黒い面の奥に、闇に浸した瞳が覗いている。
「は、般若面……」
 やっとそれだけが口から出た。
 女の怒りと憎しみを模った般若の面。うっすらと灯った街灯の明かりに、その黒い縁取りが僅かに見て取れた。
 こんな事があるんだろうか!?
 雨の止んだ静かな住宅街、鬼というイレギュラー、武器を持つ子供達、二つの死体、そして示し合わせるかの様に現れた般若面の少年。まるで誰かが仕組んだ罠のようだと、殺人の傍観者となって初めて気がついた。
 私たちの現実は遙か昔に浸食されていたけれど、たった今見た不安定な現実が、今後も発生していくであろう残酷な事象を、不可解なものであると証明したのだ。
 だけど今は、その意識は明確でなく、曖昧な形をしていた。
 少年は私たちに少しだけ視線を向けると、現れた時と同じように、直ぐに立ち去ってしまおうとした。
「おいコラ、ちょっと待て!」
 呼び止めたのは木野君だった。
 その見知らぬ怪人に対して、ものすごく気軽に、というとおかしいけれど、旧知の人間に声をかけるみたいな感じで呼びかけたものだから、木野君を除いた皆がぎょっとした。
 驚いたついでに、今まで硬直していた体の力がふっと脱けた。時間が動き出したみたいに。
「突然現れて美味しいとこ持ってってんじゃねーぞ、オイ、くがっ」
 いきなり木野君が蹴られた。言葉尻は変な悲鳴になった。
 塀から飛び降りてきた少年が、木野君のみぞおちを、体が浮くぐらいの勢いで蹴り上げた。
 あんまりな事象に、さっきまでの驚きとは違った意味で、私たちは再び動けなくなった。
 呆気にとられて、というか。
 軽く吹き飛んだ木野君を、腕一本だけを掴んで背負い、そしてやっと立ち去るためにまた同じ塀に飛び乗り、あっと言う間に走り去った。
「何なの、今の」
 突然現れて、子供を捻り殺したかと思ったら、木野君が攫われた。
 子供を殺したのはともかく、何故か木野君が攫われた。そっちの方が訳が判らない。なんだか煙に巻かれたような気分。それぞれ別種な意味で予想しなかったことが、何度も連続で起こった。
「何で木野君が!?」
「いや……そりゃ、まあ。折角顔隠してるのに」
「え?」
「あれじゃ怒るよね」
 あびるちゃんが訳知り顔でうっすら笑った。
「あのお面の人、知り合い?」
「知り合いも何も」
「マリアも正体判ったヨ。隠してんの顔だけだし、判りやすいよナ」
「そうね。でも本人が隠したいみたいだから、内緒ね」
 二人が頷き合う。私を含めた、他の数人は、まだ何が何だか判らない。
「木野、追いかけなくて大丈夫か?」
「全然大丈夫だと思う」
 きっぱり言い切る、その根拠はどこから。はっきりと安全だと言える理由があるなら、きっちりみんなに話せば良いのに。
 しかい結局あびるちゃんは彼の正体を明かさなかった。マリアも同様。
 そういうのって、気になる。
「それより、あの子を探した方がいいんじゃない。生きてれば、だけど」
 尚も問いただそうとすると、あびるちゃんはそう言った。
「生きてれば、ってどういう事」
「あの子が。今の人が、もう始末しちゃってるかもと思って」
 彼はそういう関連の人なの? 訊ねても、あびるちゃんは笑って誤魔化すだけ。
 ともかくその日、私たちは終電近くまで残る鬼の一匹を待ち伏せていた。だけど彼女は現れ無かった。この日は取り逃がし。翌日も取り逃がし。
 結論から言うと、あびるちゃんの予想はきっちり半分が正解だった。彼女は私たちから上手く逃げおおせた。私たちは彼女に天罰を下すことが、永遠に出来ない。

さよなら絶望先生 目次

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