後追い、殺人未遂
「ちょっと晴美、漫画読みながら食べるの止めなさいよ」
「んー、待って、今良いところだから」
「行儀悪い。どっちか一つにしなさい」
「わかったわかった」
生返事。晴美は片手に漫画、片手に購買のパン。器用にページを捲りながら、やはり器用に昼食をとっている。いや、あまり器用でもないか。口元からパンくずがぽろぽろ落ちた。
「わかったの、わかってないの? はっきりしない返事は止めてよ」
「うんうん」
「晴美!」
そんなに面白いのだろうか? 私は晴美とは明らかに趣味が合わないから、彼女が読むような漫画は殆ど読まないから判らない。
「ねえ、藤吉さん」
「ん?」
クラスの子が話しかけてきた。そんなに話さない子だ。
晴美が返事をしないので、代わりに私がその子の方を見た。
「変な子が呼んでるんだけど」
彼女が指差した、教室の入り口の方を見ると、小柄な女の子が立っていた。妙ににこにこ笑ってるだけで、変な子って感じではない。私の知らない子だ。
「知り合い?」
と、前の机に座っていた晴美に問い掛けてみるも、なぜかいない。一瞬のうちに消えた。
「わたしいないから」
「なにやってるの」
「わたし、いないから!」
私と私の机の影で晴美が言った。教室の入り口からはちょうど視覚になっている場所で、若干怯えた感じで隠れている。訊ねてきた女の子は、そのことには気付いていないらしい。
仕方ない。
「いないってことにしといて」
私が言うと、伝言を持ってきた子が苦い笑い方をした。
「どうしたの」
「ごめん、あたしあの子と喋るのもうやだ……」
「はあ?」
変な子、だから? そんなに変には見えないけど。何のこと、って聞こうとしたのに、その子はすぐに自分の席に戻ってしまった。
「晴美お姉様はいらっしゃいますか?」
私が話しかけると、その子は変に芝居がかった台詞を吐いた。なるほど、変だ。でも晴美の知り合いってこういうの多いし。
「ごめんね、ちょっと席外してるみたい」
「どちらへ?」
「え」ちょっと考えて、「図書室」と吐いて出た。
「昼休みが始まったばっかりなのに、でございますか。ご昼食はどうなさりましたか?」
変に鋭いな。確かに、昼休みに入って十分足らず。だけどこんな場合って、深く追求しないのが普通じゃないの?
「新しい本が入ったって言ってたもの。戻ってきてから食べるんじゃない」
「晴美お姉様が好んで読まれる内容の図書は、この学舎の図書室には入っていないはずでございます」
はずでございますって変な言い方。変なのは言い方だけじゃないけど。
「まあ良いですわ。取り合えず、行って参ることとしましょう」
彼女は誰もいない廊下に向かって、同意を求める様に言った。それから「うふふ」と言った。笑ったわけじゃなくて、はっきりと、う、ふ、ふの三つの音を発音した。
「なにあれ」
どっと疲れてしまった。確かに、あんまり会話したい感じじゃない。
「晴美、行ったわよ」
「あーもう、ほんとありがとう!」
「そんなに嫌なの?」判らないでもないけど。
「うん。最近すっごいしつこくて」
「ふーん。何なの、友達?」
「友達の、友達の妹のクラスの子」
「殆ど他人じゃない」
「そうなんだよね。一回、イベントで会っただけだし」
「なのに、お姉様、なのね」
「そうそう。でもね、最初は『神』って呼ばれてたの」
「かみぃ?」
吹き出した。
「私のね、同人誌を見てファンになったんだって。それは嬉しいんだけどさ」
晴美は大きくため息を吐いた。心底迷惑そうだ。
「めちゃくちゃ思い込み激しいんだよね。千里もかかわんないほうが良いよ」
晴美の存在が無ければ、関わることは一生無いと思う。
でも逆に言えば、今後関わる可能性が有るってことだ。晴美の存在が無いって状況、ありえないし。
それから、彼女は休み時間や昼休みの度に現れるようになった。晴美が嫌がるので、教室に来た時は誰かが晴美をこっそり逃がす。
クラス全員が協力するような形になったのは、一度彼女が教室でペットボトルに入った謎の液体をぶちまけるという事件が有ってからだ。中身はただの紅茶だったが、彼女曰くそれは特別なお茶らしい。購買で売っている紙パックのレモンティーと同じ匂いがした。それは部屋の入り口などに撒くと霊験あらたかな効果があるとのことで、教室の入り口付近と教室内の壁沿いに散布しようとしていた。しかし異常に気付いた男子が止めに入り、彼女の試みは未遂に終わった。当然レモンティーは加糖タイプの紅茶なので、放課後には蟻が湧いた。迷惑千万。
しかしもっと強烈な事件はその後に数回発生することになる。
ともかく、思い込みが激しい、の詳細についてはそんな形で彼女自身が触れ回ることになった。
晴美は彼女の前世の恋人らしい。
なぜ?
「パターンだよね。少女漫画の」
晴美が言った。彼女の得意分野だ。
「あの子、自分を漫画の登場人物だとでも思ってるの?」
「まー、ありがちな妄想だから。なりきりってやつ。元ネタがあるわけじゃないみたいだけど」
「なりきり? 元ネタ?」
「自分設定系かなぁ」
「自分設定?」
言葉自体の意味は判るけど、晴美が言うには狭義の解釈がある言葉なんだろうから、微妙にノリが判らない。
「妄想世界の住人なんだよねぇ」
「それって、晴美が人に言えることじゃないでしょう」
「私はあそこまでは無いって!」
放課後、帰り道でカラスが鳴いた。
「カラスが鳴くと人が死ぬって言うよね」
「それも漫画のイメージでしょ。実際は順番が逆よ。鴉は死肉を啄むから、死体が有る場所に集まるってだけ」
「そうなんだ」
「そうよ。ちょっと考えれば判るでしょう」
「いや、あんまり鴉についてちょっと考える機会無かったから」
夕暮れで赤くなった道の低い位置を鴉が飛ぶ。それが数羽続き、それぞれがカアカアと何度も鳴いた。
「今日やたら鴉多くない」
「死体が有るのかしら」
「えぇー、それはやだ」
鴉が鳴いている。人通りの少ない、住宅街の路地で。両側をコンクリートの塀で囲まれた、ここは人家で密閉された細長い幽室。
「あれ、何で門開けっ放しなんだろ」
晴美の家は、公道から入ってすぐが玄関になっている。黒いレトロチックな格子の門がすでに開け放たれ、キイキイ言って揺れていた。
鴉がカアカア鳴いている。私たちが近付いても、鴉達は逃げない。ちなみにこれが、強烈な事件の一回目。
晴美の金切り声が響いた。
「な、何、何あれ、何あれ何あれ何あれ」
震えながら、晴美は道路に崩れ落ちた。
彼女が指差した先に、私も知っている血の匂い。小汚い鳥の羽がそこら中に飛び散っている。生きた鴉が羽ばたく度、その汚い黒い羽が辺りを舞うのだ。
黒い羽。ああ、だからあの羽のない鳥も鴉なんだろうか?
玄関に大きな釘で打ち付けられた赤い物体、羽を全て毟られた血まみれの鳥と覚しき、肉の塊も。
その死肉に鴉が集っている。
晴美が私の腕にしがみついた。
犯人は誰? 証拠なんて残ってなかった。でも、絶対あいつだ。晴美は半泣きで私の腕を掴み、何でと何度も呟いた。理由なんて、私が知るもんか。ただひたすら腹立たしい。
その翌日の教室で、晴美はやっと彼女が実行した奇行の経緯を説明してくれた。
「最初はね、ほんとにただのファンって感じだったの。かなりたくさん感想メールくれる子で、でも感想の途中で自分語りが入ってきてたから若干ウザイって言うか、若いんだろうなって感じだった。でも何かで、友達の友達の妹がその子と同じクラスだって判って、でガッコも一緒だって言うし、仕方ないから後輩ですねってメールの返信に書いたら、会いたいですっていう流れになって、でも学校で会うのとか嫌だから、一回だけイベントで会った。その後暫くは会うことは無かったんだけど、メールがめっちゃ増えたの。でも中身はまだ普通だったよ。会った時も普通の子だった。妙に懐くし、すっごい思い込み激しいし、時々変なこと言ってたけど」
「変なこと?」
「自分は特別な子供で、いつか悲劇的に死んでしまう運命なんだって。だから今のうちに、愛して下さいって。あ、言ってたんじゃなくてメールに書いてあったの。でも意味わかんないよね」
「そうね」
青ざめた晴美の視線が、机の斜め下をうろうろと彷徨った。
「愛して下さいって、晴美ちゃんもその子も女の子だよね」
横の席のあびるちゃんが言った。晴美につきまとう女の子については件の紅茶の事件でクラス全員が知っている事だ。その他にも晴美が被害を受けているのを、誰もが少なからず目撃しているはず。だから昨日の鳥の話をすると、当然、全員で協力してなんとかしようか、という流れになった。
「私も最初、そのメール読んだときは結構引いたんだけど、別にレズとかじゃないみたいなの。メール読んでるとね、親の愛情に飢えてるみたいな事も書いてあって、だからちゃんとした家族が欲しいとか」
「非行に走るのにありがちな理屈ね」
「うん。でもまあ、それぐらいなら別にいいかなって最初思って、適当にメールも返信してた。そしたら今度は手紙が来るようになって」
「手紙って、今持ってる?」
と、日塔奈美。
「無い。昨日、気持ち悪くなって全部捨てちゃった」
「何で手紙だったのかしら」
「さあねぇ。でも何か、メールより怨念籠もってそうで嫌だった。内容、途中まではメールとそんなに変わんなかったけど」
「途中までって?」
「ちょっと前に、豹変した。手紙の内容も変になったし、直接家とか教室に会いに来るようになったし……」
嫌なことを思い出した。元々青白かった晴美の顔からいっそう色が引いて、言葉はそれ以上は出てこなくなった。
「そんなに恐かったんなら、どうしてもっと早く相談しなかったの」
「だって」
晴美がそこまで言いかけた時、
「失礼致します」
渦中の女が現れた。晴美の席を中心に集まっていた生徒が、みんな一斉にドアを振り返る。注目を集められたことに満足したのか、彼女はまた「うふふ」と言った。少女の見た目はごく普通、だけど晴美の身に起こった事件を知っていたら、妙ににこにこ笑う彼女の面がねじ曲がって見える。
「何しに来たんだよ」
最初に男子が立ち上がった。
「晴美お姉様にお会いしとうございます」
相変わらずどこの人間だか判らない喋り方をする。立った男子が大股で彼女の前へ進んだ。芳賀君だ。
「あんたはとは会えないってさ」
「何故でございますか?」
「理由は自分でわかってるだろ」
「貴方様はお姉様の何だと言うのです」
「同じクラス。だから? そもそもあんたが藤吉さんの、何?」
「わたくし?」
急に彼女の声が震えた。何が彼女の逆鱗に触れた? 全然判らない、彼女の成すこと全てわけが判らない。
「何って」
彼女の体ががたがた震える。明らかに異常。
「わたし、特別なんだから!」
突然、絶叫した。そして教室の中へ押し入ろうと体を震わせた。
「あっ、オイ!」
芳賀君がその彼女の腕を掴む。暴れる。
「特別な愛のためなの」と宣い、狂った様に暴れる。
腕をねじり上げられたままに、暴れた。これが強烈な二回目の事件。
芳賀君が掴んでいた彼女の手首が、ぶちっと音を立てて切れた。
血が教室に降り注ぐ。
「キャァァァァァァァ!」と、複数の女子の金切り声が響いた。
彼女の手を握っていた芳賀君は、血が出た瞬間に「げっ」と短い声を上げながら手を離し、何歩か飛び退いて机にぶつかった。転びそうになるのを、そのぶつかった机に寄りかかって何とか支えている。
驚いたのは芳賀君だけではない。私を含めて、クラス全員が身動き出来ずに固まる。
みんなが彼女を見ていて、そして教室に出現した赤があんまりにも鮮やかすぎて、だから目の広い範囲に彼女の血が焼き付いた。私以外にも血なんて見慣れている人は沢山いたのに。
手首から血を流しながら彼女はその場に蹲る。
「ああ、やっぱりい」
等と、呟いていた。やっぱり、やっぱり……。
そしてさっと顔を上げ、晴美を見た。酷く意外なことに、彼女は今にも泣き出しそうな、か弱い女の子らしい顔をしていた。
顔を上げたところで、やっぱり以外は何も言わない。何度か他の事を言おうと、魚の様に口をぱくぱくさせたが、どうしても「やっぱり」の先は出ないらしい。
晴美にあれだけのことをやらかしておいて、このはっきりしない態度。イライラする。
「言いたいことがあるならきっちり言いなさいよ!」
私が叫ぶと、彼女はついに泣き出した。まるでずっと堪えていたかのように泣きながら、意味の判らない叫びを繰り返す。
私たちが唖然としている間に、彼女は教室から逃げ出していった。
後に点々と赤い血が残っている。
吹き出した瞬間があまりに壮絶で、私たちの目には彼女の血が勢いよく飛び散ったように見えていたが、後から見るとそれほど大量に吹き出したわけでもない。
でも、薄皮一枚を切った程度の血でも無かった。
「お、おれが切ったんじゃねーよ」
「判ってるわ。見えてたから」
「見えてたって、千里?」
「私、視力良いから。元々手首が傷だらけだった。暴れたから傷口が開いたのよ」
「そういえば、手紙にリスカの写真入ってた」
晴美がか細い声で言った。リスカ、リストカット。手首の動脈を刃物で切り開く自殺法。でも大抵の場合は実際に死ぬ勇気も絶望もない少女が自己傷害に陶酔するための簡単な方法。
私はそんなの嫌いだ。生きるのか死ぬのか、どちらか片方をきちんと選ばなきゃ。
「前からあった傷だったのよ。だから、芳賀君が悪いんじゃないわ」
「そう、だよな」
「そうよ」
私は本当に腹立たしかった。晴美を追いつめたり、みんなに迷惑をかけたり、生き物を平気で傷つけたり。それは憎むべきことじゃないの? 許しちゃいけないことじゃないの?
「千里、あのさ……」
「何?」
「あんま、乱暴なことしないでね」
「どうして」
「だってさぁ」
「一応、あの子がやったのって最大で鴉殺しただけじゃん」
「不法侵入と住居破壊、軽犯罪よ。それに晴美を傷つけたわ」
「でも千里が考えてるような仕返しはいらないよ」
「私が考えてるようなこと?」
「うん。判るよ」
チャイムが鳴った。昼休みが終わる直前の予鈴だ。校内でざわめく人間の流れが変わる。
「かばうの?」
「そうじゃなくって。逆、千里が暴走しそうで心配なの」
晴美が真っ直ぐ私を見た。私がどんな状態になってもいつも一緒にいた晴美だから、どのくらい私のことを知っているのかは判っている。
でも私は、だからこそ許せない。
「あれ?」教室の入り口に現れたのは、風浦さんだった。「どうしたの、血が落ちてるよ」
昼休みが終わるから、授業のために教室に戻ってくる生徒で教室に人が増え始める。全員で協力して、とはなったけれど、それぞれ用事を抱えている生徒が数人いるのは当然だ。
最初に戻ってきたのが風浦さんだった。何の用事が有ったのかは判らない。彼女がクラスの集まりから突然姿を消すのは、事情が無くとも間々あることだけど。
「掃除した方がいいんじゃない? きっと、先生が嫌がるよ」
次の時間、五時間目は現代国語。
「次、絶望先生だもんね。絶っ対嫌がりそう。面倒はごめんだー! って」
奈美の言う通りだ。
「誰か、雑巾とバケツ持ってきて」
「おう」
芳賀君が真っ先に動いた。授業開始まであと二分しかないけど、先生は遅刻してくることが多いから多分間に合うだろう。
私が彼女の殺害を決心したのは、六月二十二日六時間目糸色先生の現国の授業が終わってすぐの図書館での件のためだった。彼女が次第に行為をエスカレートさせて行ったのは前途の通りだが、最終的に――これが本当に最後になった――授業が終わるのを待ち伏せして教室に現れる様になり、晴美が教室を出た途端に、ほとんど襲いかかる様に抱きついてきた。
いや、抱きつく様に襲いかかってきた。晴美の首筋に唇を押し当てようとした、その顔は蝋の様に白く、また端から見てもはっきりと判る程乾燥して堅くなっていた。ここ数日で目に見えてやつれている。
そのくせ、晴美の手首を握った力は異常に強かった。
彼女を振り切って逃げ出した晴美の手首に、きちんとした人間の手形が残っている。晴美は何度もその痣をさすっている。痛いに決まっている。
「とりあえず逃げてきたはいいけどさ。鞄とか、教室置きっぱなしだよね」
あびるちゃんが小声で言った。基本的に静かな図書館なだけに、小声でないと響きそうな気がした。晴美の居場所がばれるかもしれない。もっともここは封鎖された小部屋だし、彼女がここには入ろうとしても止められるだろうけど。
「誰か取りに戻る?」
図書室の中にある、司書が作業するための小部屋に集まった面々を見る。集まったというか、流れで一緒に逃げ出してきた人だ。校内を逃げ回りながら、木野君が提案したのでここに逃げ込んだ。関係者立ち入り禁止の場所だから、一応は安心。
「俺行ってこようか。途中であいつに会っても、俺なら多分腕力じゃ負けないし」
「木野君はだめでしょ。図書委員いなくなったら、ここに私たちがいる言い訳が無くなるじゃない」
「あ、そうか」
「でも確かに、女子が出て行って襲われたら危険ね」
「かといって対抗できそうな千里が出て行ったら、晴美ちゃんがここにいるって知られる可能性があるしね」
こんな時に限って少人数。ここにいるのは、あびるちゃんに木野君、奈美とカエレ、それに私と晴美。奈美やカエレが行っても危険だし、だからといってずっとここに留まっていても仕方がない。
「どうしよう。晴美、とりあえず家に帰りたいよね」
「うん」痛々しい表情で頷いた。「ていうか、みんな家に帰りたいよね。ごめん、私のせいで」
「そんな、良いのに」
「この国じゃ、困った時はお互い様って言うんでしょ」
奈美とカエレがそう言ってくれて、晴美がありがとうと言い少し笑った。この間から、晴美が笑った顔をあまり見ていなかったから、少し嬉しい。
だけど私たちは本の匂いがする狭い部屋で行き詰まってしまう。
部屋は図書室の貸し出しカウンターの奥に作られており、入り口のドアには硝子が覗き窓のようにはめ込まれている。そこからカウンターごしに図書室の中が見えた。
図書館の中にはちらほらと人がいる。私の知っている生徒も何人か混ざっている。倫ちゃんが机に座って本を読んでいたし、大草さんと久藤君が棚に並んで何やら作業をしているのが見えた。その本棚は真新しく、二人はそこに蔵書を並べているらしい。
前もあそこには本棚があった筈。何で急に新しい本棚が入ったのだろう。
「あれ、どうしたの?」
「どれ?」
私が指差した窓の向こうを、木野君が覗き込んだ。
「あー、あれ、あそこにあった本棚、こないだ何でか知らないけど崩壊してたんだよ。だから新しいやつ入れたの」
「崩壊?」
「壊れてたんだよ。第一発見者は久藤なんだけどね、怪しいよなあ」
「どうして久藤君が怪しいの」
とあびるちゃん。
「いや、第一発見者が犯人って言うじゃん」
「推理小説じゃあるまいし」
「いやー、女子は知らないだろうけど、あいつ結構馬鹿力で」
「それは私も知ってるけど……あっ」
今、窓の外をあの女が横切った!
「どうしたの」
「あの子が来た」
「ウソ」
晴美が部屋の奥で体を振るわせた。当然、晴美は窓からは視覚になる所に座っているし、今の一瞬では彼女も私たちを見ていないだろう。
カエレが舌打ち。
「何故バレた?」
「単に居そうな場所、虱潰しにしてるんじゃない」
「それ、ありそう」
窓から見える彼女の背中は、図書室の本棚の間に消える。
「ここに隠れてたら、そのうち諦めてどっか行ってくれるよ」
「そうだと良いんだけど……」
「そんなに普通に上手くいくかしら」
そんな楽観的には見ていられない。それに、彼女がここを通り過ぎたからって、晴美を諦めるわけでもないだろうし。
何とかしないと。何かを、どうにかしないといけない。晴美のために。
全員が押し黙り、思案に沈んでいた時、急に扉が開いた。
「あれ? みんな、何やってるの?」
入ってきたのはさっきまで外で作業をしていた久藤君だった。
「久藤! お前、そのドア早く閉めろ!」
木野君が慌てて叫んだが、久藤君は両手に大量の図鑑サイズの本を抱えていて、どう頑張っても扉に手は出せない。と、思ったら、彼は両手の上に重ねて抱いていた本を僅かに移動させることで腕一本に持ち替え、開いた片手で難無く扉を閉めてしまった。なるほど、馬鹿力。
「ごめん、場所お借りしてます」
「いいよ、まだ先生来てないし。それよりどうしたの?」
「あれ? お前あの時いなかったっけ。ほら、先週水曜か金曜の昼休み」
「どっちだよ。水曜も金曜も昼休みは図書当番でいなかったけどさ」
「そっか、じゃあ久藤君は晴美ちゃんの話聞いてないんだね」
久藤君が頷いた所で、今度は扉をノックする音。大草さんが窓から覗いていた。
「久藤君、常月さんが呼んでる」
少しだけ開いた扉の隙間から大草さんがささやいた。そういえば、彼女も晴美の話は聞いていない気がする。だからあの子が図書室に入ってきたのに、得に気に留めていないみたい。
それにしても、久藤君と常月さん? なんだか変な組み合わせだ。
袴姿の彼女が大草さんの後ろから部屋の中の久藤君を睨んでいた。そもそも彼女が先生の背後でない場所にいるのが珍しい。その常月さんを振り返って視界に入れた久藤君も、ちょっと驚いた感じで眉間に皺を寄せた。
その顔で、「わかった」と短く答える。
手に持った大量の書物を部屋の片隅に置き、久藤君はさっさと部屋を出て行ってしまった。
「あ、晴美ちゃんの話は?」
「ごめん、後で」
引き留めようとした奈美の言葉を、何となく冷たく聴こえる単語で返した。
大草さんと久藤君、常月さんが部屋を出て行く。ドアの閉まり切る直前の細い隙間から、「この間はごめん」と久藤君が謝罪の言葉を口にしたのが聞こえた。
「行っちゃった」
「久藤君にも、協力してもらいたかったのに」
「いや、あいつは駄目だ」
「木野君ってまだ怒ってるの?」
「当たり前だっつーの。一生許さねえよ」
この間の加賀さんの事かしら。
「何の話?」
「カエレちゃんは居なかったんだっけ」
「あたしも何かわかんない」
「私も」
「あの時居たのって、私とあびるちゃんと、あと……誰だったっけ?」
「俺と加賀さんと久藤だろ」
「それは判ってるわよ」
あと一人居たような気がする。思い出そうとしても、記憶の中心が眩く光る空洞みたいになって上手くいかない。この感覚って、忘れてしまっただけの時。無くなった事実を頭の中でかき回すけれど、それで思い出せることは殆ど無い。
どうして忘れてしまったんだろう、すごくすっきりしない。
「ねえ、結局何の話なの?」
晴美が食いついてきた。照明を付けていないからはっきりはしないけど、顔色も戻ってるし、手首の痣も落ちついてきたみたいだ。どうでもいい話をしているのが、気晴らしになってるのかもしれない。
「久藤が最低最悪だって話」
「でも、私は助けてもらった」
あびるちゃんが低い声で呟いたので、木野君が少しバツの悪そうな顔をした。
「とにかくあいつは駄目だ。いつも一人で行動してるし。『討伐』に行く時はさ、そうじゃん。何か一人でやってるっぽいのにさ」
「というか、久藤君と一緒に『討伐』に行った事がないわね。この間の事件を除いて」
「まさか! 加賀さんと関係がある、とかじゃねーだろうな」
「違う。あれって私が強引に連れてきただけだから」
「ねぇ。だから、何の話なの?」
「ワタシにも判るように話しなよ」
言っていいのだろうか? 疑問に思ったのは、その事件から学校を休みがちになってしまった加賀さんのことを考えたからだ。
首に手形の痣が残ってしまったのだから、学校に顔を出せなかったのは当たり前だ。それにその手形が久藤君のものだとすると――これは私も自分で見たわけではないから、少し信じられなかったけど――学校に来ても、久藤君の影に怯えてしまっていたの
も、当たり前。思い出したくもないはず。
だからきっと、噂が広まると彼女を傷つけてしまう。
あびるちゃんや木野君も似た様なことを考えたに違いない。気まずい引きつり笑いで、口を噤んだ。
その柔い沈黙の中、壁に遮られた悲鳴が聞こえた。
「今のって」
全身、肌全てが毛羽だった。両目は世界全てを視界に入れようとせんばかりに見開かれ、ドアに開けられた窓の外を凝視する。
久藤君がカウンターを飛び越えて、本棚の間へ走って行ったのが見えた。
「大草さん!」
その場にいた誰かが、悲鳴に遅れを取って叫んだ。何が起こったのかなんて、ほんの少しでも逡巡したのが間違い。私は一人で扉を開けた。
図書貸し出しカウンターの外側に、常月さんが立ちつくしていた。
「何があったの!?」
振り向かない。それどころか、すぐに彼女までも走り出した。私も追う、そう、久藤君を追っているのだ。
一般の高等学校よりも変に広い図書室だけれど、走り回るのに充分な広さはない。目的地まで、何十秒もかかりはしない。
だけどその何十秒かの間に、また大草さんの悲鳴。そして何かが強かに打ち付けられる音、或いは何かが崩れ落ちる音。その後に続くバラバラと連続的に鳴る落下音は、きっと本が本棚から落ちる音だ。
図書室内では、さっきの悲鳴に呼応するように十重二十重の叫び声があちこちで上がっていた。
「大草さん!」
本の迷路を巡り、曲がった角に彼女らは居た。大草さんは手の甲から血を流しており、その彼女を庇うように久藤君が膝を着いて屈んでいる。傍らの本棚の一部が何かで殴りつけられたみたいな形に破壊されていた。
そして擦れ違う形で、本棚の通路の向こう側を制服姿の小柄な少女が走っていく。
久藤君が半ば立ち上がり、彼女を追って走り出そうとした時、
「私が行くから」
と私の前に居た常月さんが叫んだ。
なぜ彼女が? 驚いて立ちすくんだ私なんか目にもくれず、彼女は逃げていく女の背中を追って行く。瞬きする間にも、遠くへ。あの子があんなに足が速いなんて知らなかった。
そこまでが一瞬の出来事だったらしい。後に残された私たちは凍り付いたような気分だった。
勿論、凍り付いていたのもそう長い時間じゃない。
「久藤准」
静かに突き刺さる声が後ろから聞こえた。振り向くと、険しい顔をした倫ちゃんが立っていた。
「お前は追わんのか」
彼女はどうやら久藤君に問い掛けたらしい。そして彼女は険のある声でとんでもない事を言った。
「あれは、鬼だっただろう?」
鬼だって。目の前にある、大草さんの流したばかりの血と、彼女が以前に自ら流した血液、そして羽のない黒い鴉が全身から滴らせていた体液の色が、頭の中に勢いよく広がった。
ああ、彼女は鬼だったのか。妙に納得がいく。それと同時に、私は彼女の退治を世間から許可された。
「久藤君」と震えた声で囁いた大草さんが、久藤君の袖を引いた。
「何があった?」
後を追って走ってきたカエレが、私に言った。
「殺せるわ」
「ハァ?」
「あいつ、鬼だったのよ。だから殺せるわ」
そう、私は晴美のために彼女を何とかする方法を選択できる。
「成る程」カエレが頷き、小声で言った。「討伐、ね」
これは殺人なんかじゃなくって、世のため人のための正当な理由があるわけだし。
私たちは想い人の影を密やかに踏んだ少女の様に、ほくそ笑む。