蛍来い

 漫画とかアニメみたいに、心が躍るだけなら良かった。そんな考えを抱いた瞬間で、私の見る世界は全部が反転してしまった。 その瞬間は、蛍が飛び交う川面を眺めていた。千里が浴衣の袖を振っている。太鼓の音が遠くで聞こえた。今日はお祭りの日で、私たちはみんなで遊びに来た。みんな、はクラスの女子と、先生。いつもの事。何かの偶然で、先生たちとはぐれてしまった。それもいつもの事。別に、常に団体行動を取らなきゃいけないって決まりがあるわけじゃないし。
 だから私が急に寂しくなった瞬間は、いつも通りの普通の感覚の中で生まれた。
 千里が川面を眺めている。小さな蛍を追いながら、浴衣の袖が揺れた。
 蛍の命には毒があって、発光するのは食べると良くないぞと警告するためらしい。小学生ぐらいの頃に読んだ、ロマンチックな少女漫画に載っていた。
「今日はスコップはいらないよ」
 と、家を出る前に少し言い争いをした。今日、私たちは一緒に千里の家で浴衣の着付けをしてから来た。
「だって、何があるかわからないじゃない」
「何かあっても、今日はお祭りだけでいいじゃん」
「だめよ。いつ何時も、油断はできないわ」
 千里が変に警戒しているのは、一昨日、散々追いかけ回しながら逃がした(と思われる)相手がいるからだ。
「あなたが、危ないって言ってるのよ」
「大丈夫だって」
 私が頑なにいらないと言い続けたら、千里は諦めてくれた。千里は一直線な性格なので、一つのものしか見えなくなってしまって暴走してしまうことが多いけど、普通の時は結構私の言うことは聞いてくれる。
 私が危ないだって。心配してくれてるらしい。ちょっと嬉しく思ったけど、それよりも千里が凶器を持って目を光らせていることが嫌になったのかもしれない。
 心の躍る危険な遊びは、物語の中だけでいい。千里や他のみんなと楽しく普通に遊んでいるから、物語の危険を楽しめるんじゃないかと思う。
 それは唐突に、川面の蛍を追う千里を見ながら、本当に何の脈絡もなくふっと心に湧いて出た気持ちだった。
 それまでは私も、選ばれた戦士みたいな気持ちで楽しく思っていた方だった。
「晴美、何考えてるの」
「なんでも」
 なんでもないこと。ごく普通に生きていくのが一番だな、って話だ。じゃなきゃ漫画もアニメも楽しめないよ。
「蛍って毒があるんだって」
「ふうん」
「ほ、ほ、ほたるこい、って歌あるじゃん。あれの甘い水っていうのは、農薬や洗剤で汚染されてない綺麗な水ってことなんだって」
「そうなの。漫画ででも読んだの?」
「うん」
「だから?」
「なんでもない」
 千里を蛍に当てはめてイメージしてみると、ちょっとかわいいと思った。
 蛍来い、蛍来い。今あなたのいる場所は、苦い水が流れてるから。

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